第36節 沐浴
ひとけのない風呂場には、わたしたちだけだ。
温かで温泉の注ぐ音色の響く空間は、どこか母の胎中を思い出させた。
最初こそは身を固くしたり、取り留めのないことを口にし続けていたラニャだったが、今は声を殺しているようだった。
わたしは彼女を腿を伝って流れる湯が本来の色に戻るのを見届けると、彼女の中から立ち去った。
それから、洋ナシの名を冠する琥珀色の石を濡らして手のひらで擦る。
「あっ、石鹸。禁止されてるのに」
「構いやしないさ」
「私にやらせてください」
互いの指がすべらかに絡み、石鹸を奪い取られてしまう。
泡立てるために押し当てたラニャの手のひらには、聖痕のような火傷の痕が残っていた。
「宝石みたいに綺麗……。これも、ロンドンで作られてるんですか?」
「アイルワースに工場がある。これの工場だけがテムズ沿いで唯一、清潔だ」
きめ細やかな泡は砒素や鉛とは無縁で、万病に効くと謳われている。
商売文句だと鼻で笑っていたが、今は彼女を救うことを信じて。
わたしは少女の身体を洗い清める。
彼女が眠れるクララを拭うように、わたしがクレイミーの身体にさせたように。
「これだけたくさんの泡があったら、人が入ってきても身体を隠せますね」
「男が入ってきたら鉄拳をお見舞いしてやろう」
「それより、この泡を入り口に敷いておくとか」
わたしは「いいアイディアだ」と言って、妹分の髪に取りかかる。
背後から抱くように、あるいは彼女の顔を見ないで済むように。
「でも、今はきっと誰も戻って来られませんね」
「みんなクレイミーのことで大慌てだろうな」
返事ののち、わたしの貝のように口を閉じた。
反して彼女は「クレイミーお姉さまだったのは、いつからですか?」と尋ねた。
脳裏をかすめる少年の生首を泡で覆い隠し、「蒸留所の件からだ」と答える。
「コートンはいい子でした」
彼女が振り返れないように、頭を押さえて髪の根元を洗う。
泡を吹き飛ばすような調子で「結婚はしたくないけど!」と軽口が聞こえた。
わたしも「足が短いからな」と応じる。
「あれも聞いていらしたんですか?」
「シスターたちが訪ねて来たときだったか? メアリやマクラだったころのことも、ちゃんと聞いてたんだ」
今度はラニャが口を利かなくなった。
髪の泡を手桶で流してやると、湯に驚いたのか彼女の身体が少し跳ねた。
違う。しゃくりあげたのだ。
嗚咽交じりに聞こえる呟き。よかった、よかったよ、と。
背中から抱きしめるのをためらう隙に、彼女はこちらを向いて座り直してしまった。
「神様を疑っていたんです。私は何もかもに見放されてしまったんだって」
瞳が射抜くような視線を投げかけてくる。
わたしは視線を合わせないように、泡のかたまりがうなじからこぼれて若い乳房を滑り落ちるのを見つめた。
「クララお姉さま、私を見てください」
すっと、身をかがめて視界に入ってくるラニャの顔。
右に顔を背けると回り込まれ、左に背けてもついてこられた。
「お姉さま!」「す、すまない」
ラニャは口元を緩めながら怒っている。
「わたしは間に合わなかった。おまえのことを、もっとちゃんと見てやりたかった。わたしも、神がおまえを見放したんじゃないかと思っていた」
「何ものも私を見放してはいません。むしろ、こうしてクララお姉さまが戻って来てくれたからこそ、もう一度、神様を信じることができ……」
ラニャは言い終えないうちに吹き出した。
「ど、どうしたんだ?」
「あはは! ほ、本当は、なんとなく気づいていたんです」
「気づいていた?」
「だ、だって、クレイミーお姉さま、ヘンでしたから。いくら恋人が死んじゃったからって、あれじゃまるっきり、クララお姉さま!」
風呂場を嬌声が跳ねまわり、彼女の周りに小さなシャボンが飛んだ。
「そんなにヘタクソだったか? そんなに笑うことはないだろう」
わたしの頬が熱を帯びる。それでも彼女はやめない。
「だ、だって! お姉さまが一度戻られた夜があったでしょう? でも、急に倒れられて、落書きしようとしたら、慌ててクレイミーお姉さまが走ってきて! 雷が鳴ってクララお姉さまが倒れられた夜もクレイミーお姉さまが来たけど、私の持ってたお酒のボトル、とっても恨めしそうに見てたし!」
大きなシャボンが弾けた。
「しかもあれ、私がメアリーさんから取り上げたやつ! もしかしてずっと、あのボトルのこと探してました?」
「ま、まあな……」
「お姉さま、お酒大好きでしたもんね。夜中に修道院を抜け出して酒場に行くくらい! だから、ずっと探してたんだ! ずっと、ずっと!」
爆笑娘はわたしの濡れた肩をぺちぺちと叩き、わたしの胸へと額を預ける。
身体がつながれば気持ちも伝播したか、わたしの頬も少しだけ緩んだ。
「ずっと、ずっと……」
震えがぴたりと止まる。
「そばにいてくれたんですね」
抱きしめられた。強く。わたしは石像になってしまったかのように動けない。
「……どうして抱き返してくれないんですか?」
「わ、わたしは……」
「私のお父さんのこと、気にしてらっしゃるんですか?」
「当たり前だろう。本当にすまない」
抱擁が痛いくらいになる。
「悪魔の仕業です。本物の悪魔の。どちらにしても、たましいを食べてしまう気だったんでしょう。お姉さまがやらなくても。……でも、お姉さまを使った!」
憤怒が籠っていた。そうだろう。彼女の言う通りだ。
「利用されたにしても、罪がある」
「罰は受けていらっしゃります。キリスト様が人の罪を十字架にして背負ってくれたと考えるかたはいますが、悪魔のぶんまで背負ったという者はいません」
罪の十字架そのものが悪魔という解釈もある。
そう言い掛けて飲み込む。わたしには、まだ、もっと大きな罪があるんだ。
「あのとき、メルチが来る前に言いかけていたこと。お話になってください」
わたしはあまりにも裸だった。
アニェの肉を食らわされたことを口にしようとすると、身体中の穴という穴がぎゅっと塞がってしまうのを感じた。
「アニェに関係のあることですか?」
正しきロゴスが石のこころを刺し貫く。
わたしは嗚咽を漏らし、支えきれなくなり胸の中の少女に押し倒された。
「まさか、お姉さまがアニェを……」
砕け散るように叫ぶ。「違う!」
「わたしは知らなかったんだ。ただ、招かれただけだった。あの場にはカニンガムもジェニーンもいた。それから……フレデリックも!」
「フレデリックって、革細工の?」
「そうだ。思い出した。あいつも両親が火山崇拝だったから、年に一度、父親の命日に教会の地下室を借りていた。その儀式にアニェを使って……!」
「使って、使ってどうしたんですか? アニェは、お姉ちゃんはどうなったの?」
「アニェは……」
わたしは、もっとも深きの罪の告白をした。
覆いかぶさったままのラニャは言葉を発さず、彼女から落ちる水滴だけが、わたしの頬やくちびるを鼓動のように生温かく叩いていた。
わたしの胃の上あたりに、温かなたなごころが置かれる。
「もう、いません。アニェはもういませんよ。罪は過ぎ去ったんです」
「食っちまったんだ、わたしは。パンやぶどう酒のように食ったのさ。罪はずっとここにある」
「でしたら、血となり肉となったのでしょう。アニェはあなたのためにここにいるんです」
ラニャの手のひらがわたしの肌の上を滑り、心臓の上に置かれた。
風呂場は熱かったはずなのに、わたしの肉体はすっかり冷えていた。
ラニャが肢体を絡ませ、限りなく密着し、ゆっくりと体温を取り戻させた。
「あなたがあなたを赦さないのなら、私も私を赦しません」
「おまえに罪はない」
わたしは繰り返す。あるはずがない。
「お姉さまが私に罪がないとおっしゃるのなら、私たちは嘘つきということになります。真理はなく、私たちの愛も虚構です。イエス様は真理こそが私たちを自由にするとおっしゃられました。罪とは神の栄光に達しないことです。達さぬということは、今も目指しやまぬということです」
投げ出されたままのわたしの手に指が絡む。
「ただ、私と共に道を行ってください」
見つめ合った。わたしの前に彼女がいて、彼女の前にわたしがいる。
わたしは握り返し、誓う。
たとい、栄光を恥に、さいわいをわざわいに変えようとも。
身を放すと、ラニャはまっかな顔をしていた。
「それっぽいかと思ってやってたけど、無理! 恥ずかし過ぎるよお!」
彼女はわたしの上からどき、忙しなく石鹸を泡立て始めた。
「今度は私がお姉さまを洗う番です」
「わたしはいいよ」
「お姉さまがよくても私がしたいんです」
「仕方ないな……」
髪の中にラニャの指が入ってくる。
髪を任せながら、わたしは自身の腕をこすってみる。垢は出ない。
「ところでお姉さま」
「なんだ?」
「うちのお姉ちゃん、どんな味がしました?」
なんて質問だ。吹き出しながらも答える。「……なかなか旨かったよ」
ラニャは「ズルい!」と言い、わたしの肩に甘く噛みついた。
やめろと笑いつつも、わたしも仕返してやる。
風呂を出るころには、わたしたちはすっかりのぼせ上ってしまっていた。
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