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第34節 逆月の降誕

 はじめの言葉(ロゴス)は、姉妹の叫びだった。


「ク、クララさんが立ったわ!?」


 フローラの悲鳴は天使の歌声のようでもあったが、目覚めを知らせる福音ではなく、終焉を告げるラッパとも取れた。

 わたしは車いすを弾き飛ばし、有象無象の群衆を無視し、脱獄者とその仲間の髪を背後からつかんで問うた。


「パンをこねた若い女がどうしたって?」

「な、なんだこのアマ……」


 髪をつかんだまま引き倒してやった。

 ラトクリフのほうの首からは小枝を折るような音が聞こえ、もう一匹の男は倒れながらも身体をひねって脱出し、わたしの足首をつかんだ。

 つかむ手首の中央に親指を沈みこませてやると男は情けない悲鳴を上げ、緩んだ隙に眉間につま先を突き刺してやると、男は仰向けに転がった。


「案内しろ」


 再び男の髪をつかんで膝立ちにさせる。

 隣りではラトクリフが口の端から泡を吹き、海老反りになって痙攣している。


 よせばいいのに、男はわたしの頬に薄汚い唾液を吐きかけた。


 ごきり、と岩同士が擦れるような音がして男が倒れる。

 顎をかっぴらき、なぜか目だけ笑わせながら、曲がってしまった首を直そうとしている男を放って、わたしは駆け出した。


「ラニャ……!」


 誰よりも早くに起き出して、恵まれない者のためにパンの仕込みをする細い肩を思い出す。

 跳ねっ返りの見習いたちのために、いい矯正方法はないかと聖書を繰りながらひとりごちる姿を思い出す。

 ベッドに伏したクララやクレイミーのために自分のことを後回しにし、全身全霊で温かなまなざしを捧げてくれたことを思い出す。


 貧民たちのうつろなまなこを通り過ぎ、直感を信じてスラムを走る。

 ルールに溶け込まない連中の中でも、とりわけ厄介な連中が占有する旧時代の市街地が落人集落だ。

 悪であることを恐れない瓦礫の王がふんぞり返る世界は、魔のはびこる時刻でなくともデンジャラスだ。


 もしも、もしも、わたしが間に合わなければ、それこそが悪魔だろう。


「ちょっと待ちなよ姉さん。ここから先は……って、すげえ上玉じゃねえか!」

「今日がシスターの奉仕日ってのは、本当だったんだな」


 ふたりの男が立ちふさがった。

 男の片割れをつかみ、顔面から建物の角に叩きつける。

 石柱の崩れた部分に男の頬が刺さり、両腕をだらりと垂らして引っ掛かった。

 わたしは血がぼたぼたと落ちる音を聞きながら、運のいいほうからもぎ取ったナイフを持ち主の首に突きつけた。

 案内しろとは言わなかったが、男はつまづきながら、わたしから逃げるように先導した。


 路地を曲がった途端に、飯時の酒場に迷い込んだかのような錯覚を受ける。

 下品な笑い声と、歓声。

 ここは(みち)の終わり、廃虚を背にしたどん詰まりだ。

 腐った馬小屋のような場所でゴミが焚き火に付され、その炎が不信心者たちの影を獣のように大きくゆらめかせていた。


「早く俺にも回してくれよ」

「まだ()れたばっかだろ。我慢できないなら、チビどもと遊んでろよ」

「そりゃ、約束が違うだろ。嬢ちゃんがせっかく身代わりになったんだしなあ?」


 闇が人間を照らしていた。薄汚れた男が五、六人。

 そのうちのふたりは少し離れたところに立っていて、あいだに見覚えのある修道女見習いがふたり、抱き合って座り込んでいた。

 まるでいけにえの祭壇に乗せられた羊だ。

 集まっている男どもは、物盗りを取り押さえるように何者かを押さえつけていて、そのうちの一人が何者かの片脚をかかえて腰をかくかくと忙しなく動かし、それに合わせて何者かの若い乳房が揺れているのが見えた。


「おい、誰か来たぞ……っ!」


 腰を動かしていた男は前かがみになって全身を震わせ、硬直した。

 男は長く息をつくと、立ち上がった。

 だらしなくなったモノが揺れる炎に照らされ、濡れたヘビのように光っていた。

 

「おいおい、もう終わったのかよ!?」

「溢れるほど出しやがって! あとのもんのことをも考えてくれよーっ!」

 別の男どもが爆笑している。


「しかたねえんだよ。あれ見ろよ。あれを」

 男はわたしを指差しながら、力尽きたばかりの陰茎を反りあがらせた。

「あいつを見た途端、イッちまったんだよ」


 男どもは訓練された兵隊のように同時に首をこちらに向け、立ち上がり、感嘆の声を上げた。



 わたしは後ずさっていた。



 クソどもの熱くどろどろとしたものが怖かったわけでもなければ、間に合わなかったふがいなさから逃げ出したかったからでもない。


 犯されていた少女もまた、こちらを見たからだ。


 目と目が合った瞬間、彼女の瞳の中に光が見えた。

 気を失ってくれるか、いっそその目が深淵を映して壊れていてくれたほうがよかったなどと思った。

 彼女の目はわたしを放さない。放してくれない。

 磔にされたように、わたしは動けない。

 満面の笑みを浮かべた男どもが何かを叫び、付近に潜んでいた穢れた人間どもも這い出て来て、わたしに注目の矢を浴びせたのを感じる。


 どこかで鐘の音が聞こえた。

 かあん、かあん。響く。


 途端に、おのれの浮ついたたましいが肉体に杭打たれたのを知った。


 槍を尖らせた男たちが、わたしを求め、こちらに手を伸ばしてくるのが見える。


 身体の中で荘厳なパイプオルガンが狂い弾きされている気がした。

 体内で暴れる音を引き離すために、わたしは修道服の胸をみずから破き、胸をかきむしった。

 左乳房の奥へと潜り込んだわたしの手が、硬い何かをつかむ。

 肋骨をへし折るように、脊柱を引きずり出すよう、一本の長い柄が現れた。


 我先にと群がろうとしていた罪人たちが、一斉に動きを止めた。

 彼らの目に浮かんでいたのは驚愕と困惑、それから恐怖。弱者のそれだ。

 だが、わたしは敵を愛さないし、迫害する者のためには祈らない。


「ただ死をもたらすためにわたしが来たと思うなよ……!」


 大鎌をひと振り。

 燃えるやいばが最初の男の身体をすり抜け、同時にわたしの肉壺にも蜜が溜まり始める。

 崩れ落ちた男から抜け出たたましいを見据え、もうひと振り。


 鎌の抜けたそこに、光は残らなかった。


 死神だ。悪魔だ。誰かが言った。

 石を投げる者があり、わたしはその石をかわしたついでに、ひと薙ぎで三人の男を刈り入れてやり、ふた薙ぎ目でみっつのたましいを灰燼に帰した。

 熱く吐息が漏れる。

 薙ぐたびに、滅するたびに、炎の矢によって充血したまたぐらが脈打つのを感じる。


 罪であり罰だった。この間も、ラニャはずっとわたしを見つめていた。

 上体を起こし、体液で汚された頬に髪を貼り付けて、つい今しがた生まれて初めて世界を見たかのような顔をして、クララ・ウェブスターを見つめていた。


 武器を取り、打って出た者。立ちすくむ者。逃げる者。

 わたしはそのすべてを刈り、這い出たたましいをわたしの地獄(ゲヘナ)で焼き滅ぼす。

 まるで狂想曲(カプリッチオ)。差し出されずとも右を討ち、左を討ち、そのたびにわたしは絶頂を迎え、見つめ続ける少女に辱められる。

 その視線は、わたしの胸を罪深き槍で繰り返し刺し貫くようだった。


 すべてを刈り終え、あたり一面に籾殻(もみがら)となった肉どもが転がった。


 わたしは()っている。たましいを失っても、器はまだ死していないことを。


 まだ足りない。


 わたしはその場にある肉体すべてとつながり、鎌の柄で地面を突いた。


 ぐにゃぐにゃと起き上がる男たち。


 わたしは言った。「くたばれ」


 彼らはおのおのナイフや瓦礫、お互いの肉体を使って自害を始める。

 血がしぶき恵まぬ雨となり、地面にいのちなき海が広がっていく。

 たましい不在でも痛みは知るのか、肉人形どもは目玉をえぐられた牛のように唸り、鉈を叩きつけられた豚のように叫んでいた。


 彼らが滅び終えたのち、赤き海には逆さの三日月が浮かんでいた。

 燃えるような静寂だった。

 ぱちり、ラニャが波紋のようなまばたきをした。


「おかえりなさい。クララお姉さま」


 彼女は罪で塗りつぶされた世界の中でひざまずき、わたしに向かって祈りの姿勢をしていた。

 病の子を想い教会に通う父よりも、母の墓に花を添える娘よりも、遥かに深く敬虔な瞳をしていた。


 逃げなくては。背を向けなくては。そう思った。


 すると彼女は祈り手をほどき、おもむろに両腕を差し出してきた。

 急かすこともなく、言葉に頼ることもなく、門のように開かれていた。


「怖いんだ」

 無意識に口にしていた。


 わたしにとっては、愛するということよりも、愛されるということのほうが難しい。

 それは、見てくれや地位、財産を好いた欲しがり屋の愛を押し付けられることではなく、与えることを徳とした慈愛を受けることでもなく、ただそこにある朽ちぬ愛(アガペ)に身をゆだねるということだ。


「大丈夫ですよ」


 ラニャの言葉にわたしは首を振る。


「私の身に起こったことをお姉さまが罪に思うことはありません。でも、あの子たちのせいでもない。彼女たちを助けるために好きでやったんです」


 バルタとカスプが手を取り合い立ち尽くしている。飾られた人形のようだった。


「それでもおまえは……」

「前向きに考えましょう。同じような目に遭ったかたの気持ちも、分かりました」


 わたしは掻き消すように叫ぶ。「それは前向きなんかじゃない!」


「いいえ。私の前にはあなたがいます」

 ラニャは続ける。

「あなたの前には誰がいますか」


 愛も変わらずただ開かれた胸を前に、わたしは崩れ落ちるほかなかった。

 助けられなかった少女の胸に抱かれ、涙にむせび、自分は咎人であり死神であり悪魔であると告白せざるをえなかった。


「わたしの前に降り立ったあなたは天使のようでした。罪を刈り取る姿は、まるで()える翼を持つ天使のよう……」


 彼女の励ましがわたしの背を撫ぜる。

 ひと撫でごとに、身体に染みついた罪が浄化され、たましいまで溶かされるような気がした。


「わたしは、おまえの父親を殺したんだぞ……」


 信じていないのか、意味を理解していないのか、わたしを撫ぜる手の調子には寸分の狂いも生じない。

 ラニャはただ、「大丈夫」と口にした。


 父殺しの告白を皮切りに、わたしは洗いざらいを吐き出した。

 おのれの肉体欲しさにカミサマを騙る者に手を貸した罪と、それに付随する、他者の肉体を借りた罪やあまたの殺戮の罪を。


 温かな愛の助けがなければ、告白の一言一句がたましいを引き裂いてしまうところだった。


 こんなこと、ラニャだって聞きたくなかっただろう。

 それでも撫ぜる手は止まらない。わたしの舌もやめてくれない。

 わたしは一枚一枚丁寧に剥がされ、丸裸にされていく。


 ラニャの指が、最後の果実に届きそうになった。


 あの聖餐が浮かび上がる。

 異教の儀式の直会(なおらい)に供された、双子の片割れのステーキ。


 わたしはアニェを……。



「きゃはははは!」



 ふいに、下手なバイオリンを想起させる笑い声が飛び込んできた。


「もうダメ、我慢できない。サーカスのライオンと調教師を見てるみたいだよ!」


 頭上だ。

 声のほうを見ると、建物の上から幼い少女がこちらを見下ろしていた。

 彼女は趣味の悪い貴族の娘が着るような、たくさんのレースとフリルをつけた漆黒のドレスを身にまとっている。

 屋根にヒールの足音を響かせ、童女が飛んだ。

 落ちると思ったが、羽か木の葉のようにゆっくりと降りてきた。

 そしてしぶきを上げることもなく、波をひとつ起こすだけで血の池に着地した。


 わたしはその顔に見覚えがあった。


「おまえは、メルチ?」

「初めまして。それとも、お久しぶりっていうべき? クララお姉ちゃん」


 そう言って髪を払って笑うヤツの背中には、コウモリの羽根のようなものくっついていた。


***

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