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第32節 回心

 新月を過ぎても、わたしはまだ生きていた。


 皮肉なことに、シリアルキラーの件が片付いていないことと、フレデリックの地下室が忽然と姿を消したことへの違和感が、わたしをずっと地上に縛りつけていた。


 まどろむように日々を送るうちに、食事をある程度は食べられるようになった。

 これは故意に回復を狙ったものではない。

 ラニャとドロシアが、わたしが食事を吐き戻していると気づいたのだ。

 ドロシアは「もともと細いんだから痩せなくてもいいのに」と僻む程度だったが、ラニャはミントや潰したベリーを使ったポリッジを作ってくれた。

 動的に拒否することも難しいし、食事は流し込みやすく(実際、強引に流し込まれて降参した)、しかも食後はラニャのおしゃべりによって胃を意識する間もないときている。


 ラニャから聞こえてくる外の様子は、実物よりも美しく思えた。

 彼女は、わたしに景気の悪い話を聞かさないようにしているようだった。

 近所で仔犬が生まれたとか、誰それの子どもが無事に洗礼を受けたとか、島の外からどんな船が来たかとか。

 優しい少女の好むような話ばかりが、わたしの耳元に飾られた。


「タダで貰えちゃったんです。時計の会社って気前がいいんですね」


 ラニャが冊子式のカレンダーを見せた。

 カレンダーにはスイスの時計会社のロゴが入っている。

 アメリカとの市場競争を制するための宣伝に配っているのだろう。

 ジェイクが持っていた懐中時計もスイス製だったのを思い出す。


「そういえば、ジェイコブさんのことはどこかで聞いた?」

「戻ってないそうです。最近は、教会まで足を運んでくる患者さんも増えました」


 カレンダーを見つめる。

 ふと、とある日付に印がつけてあるのに気づき、これは何の日かと尋ねた。


「これは、次の満月です」

 ラニャは誰もいないのにあたりを注意深く見回すと、囁き声で言った。

「クレイミーお姉さま、次は三人でクララお姉さまに会いましょう。あの方なら、きっとあなたを元気づけてくれます」


 心臓を針でちくちくとやられるようだ。

 この子がクララを慕えば慕うほどつらい。

 だがそれに反して、見舞いを受けるうちに、ラニャを待ち望む気持ちが強くなるのも実感していた。


 死を望むことと生を拒むことは、似て異なるものなのだろうか。


 見舞いに訪れるのはラニャだけじゃない。

 シスター・クレイミーは人望が厚く、彼女の不調は修道院の内外にも心配され、他者との触れ合いにはわたしにとって、陰気を祓う力があった。

 行きつけの店や教会が仕事を委託する職人、かつて足繁く通っていた蒸留所の関係者などもやってきた。


 あの意地の悪いジェニーンまでもが、「おまえが抜けると忙しいんだよ、さっさと治しな」なんて宣うのには久々に頬が緩んだ。ヤツは目が潤んでやがった。どうした? 目に灰でも入ったか?


 シスターたちが別々に訪ねて来ては「一緒にお祈りをしましょう」だなんていうのは少々面倒くさかった。

 毎朝毎晩、繰り返し付き合ったものだから、まるでわたしが一番の信心者になった気がするくらいだ。


 わたし自身も実際、祈りを真面目に捧げるようになっていた。

 死者たちへの鎮魂、生者たちの安寧、友人たちの幸福。

 わたしは願い続けている。

 だが、おのれの罪を洗って欲しいということだけは、決して口にできなかった。

 磔刑(たっけい)に掛けられたような気分であっても、背負う十字架は誰かのためではないし、身から出た錆で造られていたのだから。


 わたしが死なせたクレイミーが慕われるほど、悪魔憑きとされたクララとの落差を痛感した。


 来客があると、たまに部屋が賑やかになった。

 ナイトテーブルにはカレンダーのほかに、クレイミーが寂しくないようにとフローラ謹製の双子の人形が座った。……双子。

 まあ、フローラなりの愛情だ。クレイミーがクララであることなんて、知る由もないのだから。


「シスター・クレイミー、あたしたちもやっぱり女ですから、花のひとつも置かなくっちゃね」


 アイリーンはそう言いながら、日当たりのいい窓の下に鉢植えを置いた。

 まだ芽も出てないようだったが、なんの花かと聞いても教えてくれなかった。

 別の日にも「これも試したいの」と言って、鉢植えを追加していった。

 今やベッドにいても土のにおいがするくらいだ。

 土のにおいは嫌いじゃないが、いつかとばっちりで逮捕されるかもしれない。


 退屈しのぎに貢献してくれたのはサラだ。

 彼女は新しく小説を手に入れることは諦めて、自分で書き始めたらしい。

 これを読まされているのだが……なかなかに趣があると評しておこう。

 内容は、主役の男が屈折した性癖の持ち主で、肉的な魅力に溢れた妻を持ちながらも愛情に不足を感じ、ギリシア彫像の石の男を相手に自慰に耽るというものだ。

 男は愉しむだけ愉しんでおいて、果てたあとに妻への強烈な罪の意識と悔恨の念を覚え、神と問答をする。


 一見、ただの変態趣味の小説に見えるが、物質的な世界においての二極の美のあいだをさまよい、絶頂と堕落という精神上での両極をも体験するという、実存的存在が本質と触れる過程が、じつによく描かれている作品だ。

 サラにコラディーニやベルニーニの彫刻を見せたら、この小説をルネッサンスかぶれもキルケゴールも白旗を揚げる大作に昇華させるに違いない。


 あとは……バルタとカスプが喧しくてかなわない。

 もともとクレイミーを慕っていたのもあって、頻繁に部屋を訪ねてくる。

 せっかく相部屋になったのがほぼ解消状態なのが気に入らず、ベッドをなんとかこの部屋に持ってこようとしたり、深夜にベッドに潜り込んで部屋を留守にして、また行方不明だと周囲を慌てさせたり、とにかく騒ぎを起こした。

 メルチのような悪意ある行動とは違うぶん、あまり強く言えなかったし、わたしもこいつらの頭はたまに撫でてやるようにした。


「ねえねえ、クレイミーお姉さま、一緒に外へお出掛けしましょう」

 バルタがせがむ。カスプも口には出さないが、シーツの下のわたしの手を取って引っぱっている。


「まだ調子が悪いの、ごめんなさいね」

「えーっ、やだあ。メルチもいなくなってすっごく退屈なんだもん」

「あの子は、まだ帰らないのね」

「そーだよー。きっと、どっかで野垂れ死んでるのよ」

「言い過ぎよ。ご両親がどんな思いであなたたちを生かしてくれたのか、決して忘れてはいけません」


 たしなめるも今日のバルタは手ごわく、「出掛けよう」の一点張りだ。


「ふたりともいないと思ったら、またここに来てたのね!」

 閉め切られていなかった扉が開くと、ラニャが現れた。


「げっ、うるさいのが来た!」「お姉さま、外に逃げよ」

 ぐいぐいと手を引っぱられる。

 お目付け役が来たことだし、ようやく解放してもらえるだろう。


「ふたりとも、今日はクレイミーお姉さまを休ませてあげて」

「やだ!」「お姉さまと遊ぶ!」

「今日だけ。明日は、一緒にお出掛けができるから」


 えっ?

 わたしと小娘ふたりは、そろってラニャの顔を見た。


「明日はテューレに行く日でしょう? それに、ビグリーフからも親方さんたちが新しく家を建てる手伝いに来てくれるらしいの。だから、私たちは午前はテューレに行ってお祈りをして、午後からは避難民のみんなのために炊き出し。あなたたちも、知り合いと会いたいでしょう?」


 しつこく握られていたクレイミーの手が解放される。


「あたしたちだけ、いつもお留守番なのに、どうして?」

「あなたたちも、そろそろ向き合わなきゃいけない時期だって、マザーが」


 小娘たちはふたりでぶつぶつ言い合ったが、「分かった」と返事をした。

 それから、ラニャがほかのシスターたちの手伝いを言いつけると、ようやく部屋が静かになった。


「明日は教会も修道院もみんな出払ってしまうんです。クララお姉さまも連れて行きます。クレイミーお姉さまも、是非」


 ラニャが、にこりと笑顔を向けた。

 勘弁してくれ。わたしは独りきりになれるなら、そっちを選ぶ。

 顔を背けるも、手が優しく包まれた。

 柔らかな体温が近くなり、草原のざわめきのような言葉が耳へと触れる。


「人前に出るのがつらいですか? 大丈夫です。私が一緒にいますから」


 鼻の奥が、つんとなる。

 ラニャは身を離し、「クレイミーお姉さまも、向き合いましょう。一緒に」と笑う。


 わたしは返事ができず、視線をシーツの上へと落とした。


 わたしはおまえの双子の姉を食ったんだぞ。

 真実を知れば、おまえはわたしを見放す。必ず、絶対にだ。

 クレイミーへの慈愛だって、きっと男に襲われたか何かと思っているのだろうが、実際にそういうことが自分の身に降りかかれば、おまえの天使の羽のようなこころだって悪魔に売り渡すに違いないんだ。


 むしろ、そうであってくれ。おまえは、わたしには眩し過ぎる。


「昔の偉い王様もいってましたよ。幸せというのは、神様から与えられた短い日々の中、よく食べて飲んで、太陽の下で寝っ転がって……ええと? 働いて? そうしたら、ビールが旨いって……あれ?」


 首をかしげる若き修道女。励ましにコヘレトを持ってくるのは達者だが、後半部分はクララが適当ぶっこいて改変したものになってしまっている。


「と、とにかく。私の大好きな人ならこう言うと思うんです」


 またも笑い掛ける妹分。

 けれども今度は苦笑まじりに。


「とりあえず、前を向いてろって」


 そして、わたしは観念した。どうやらまだ、楽にはなれそうにないようだ。


***

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