第31節 もう充分
気がつくと、修道院のベッドの上にいた。
さっきまで見ていたはずの光景はすべて消えていた。
吐き気が込み上げ、釣り上げた魚のように胃が暴れる。
何も出ない。ただ口が苦く酸っぱいだけだ。
あれは、夢だったのだろうか。
「……っ!」
ずきりと脳天に痛みが走った。触れてみると頭には包帯が巻かれている。
頭全体が腫れ上がったようになって熱を持っており、包帯越しに触れた額のまんなかには、大きな切り傷のようなものがあった。
現実だ。何もかも。
フレデリック・スタッフの家の地下室に遺体が並べられていたのを見つけたのも、アニェの遺体を使ったオブジェに触れて思い出した光景も。
わたしの罪の正体は、あれだ。
今度は胃だけでなく、身体中の器官という器官が内容物を捻り出そうとした気がした。震えが始まり、汗やら涙やらが止まらない。
不快だったが、このまま溶けて消えてしまえるならいいと思った。
あの日の聖餐を思い出す。
数ヶ月前、火山信仰の信者が儀式のためにビグリーフの教会の地下室を借りた。
場所を貸し出してくれた礼として、儀式に使った食材を使った食事が振る舞われたのだ。
シスターの代表としてわたしが誘われたのは、外づらがよくて「聖女」なんて呼ばれていたからだ。
はっきり言って、わたしは乗り気じゃなかった。
アニェが殺されたばかりで、ラニャもまだ正気が怪しかったから。
儀礼的な会食をさっさと終えて、彼女のそばにいてやりたいと思っていた。
食事は……美味だった。
食べたことのない味の肉だった。
『思い出したのだね、おまえの罪を』
声だ。声が聞こえる。
反射的に周囲を見回すと、ここがクレイミーの部屋でも、クララの部屋でもなかったことに気づく。
この部屋は、病人を隔離するために使われる空き部屋だ。
懲罰室が埋まっているときには、その代用としても使われる。
『おまえは食べてしまったのさ。可愛い妹分を』
腕や脚を無数のザトウムシが這い上がってくるような感覚が走った。
この女の声、この頭に直接響く声は、火山の女神だ。
ヤツが言葉を切ってからも怖気は収まらず、腕を伝って背を這いまわり、膝をよじ登り腿を撫で繰り返された。
「わたしはこの罪を償うために、たましいを刈り集めていたのか」
『その通りだ』
「あれを食べたのは、わたしだけじゃなかった。カニンガムやジェニーン、それと当時の牧師もあの場にいたはずだ」
声が笑う。噛み殺したようなそれが、胸を内側から撫で擦り、思わず自身の身体を抱いた。
『共犯がいれば無罪とでも言いたいのか? だが、罪を思い出したのはおまえだけかもしれぬな。おまえは根っからのキリスト者ではないからな。彼らは人を喰らうことに抵抗がないどころか、普段から望んでいるのだろう?』
「何を言っている? 食人を望むなんて、気が違った人間だけだ」
『彼らはパンを肉に、ワインを血に見立てているではないか』
「奉る相手と一体化したいという願いの表れであって、食人とは違う」
『永遠のいのちと師の復活を願うのではなくか? 高慢でよこしまだ』
「聖書解釈は文字通りに捉えるとは限らない。比喩だ」
『区別がつかぬ。軽蔑はせぬよ。われもいにしえより人を喰らっていたゆえ』
「信仰問答はしたくない。それより、身体はいつになったら返してくれるんだ?」
女の声がまた笑う。心底バカにしたような音色。
今度は鳥肌よりも、脂汗を誘った。
『われにそのような力はない』
「貴様!」
跳ね起きベッドの上に立ち上がる。「騙していたのか!?」
『そもそも、肉体とたましいを切り離したのは、われではない。おまえ自身だ』
「何をバカなことを……」
女の声が割って入る。
『アニェの肉を喰らったのを知ったそのときに、おまえはみずからの肉体を拒絶した。われは離魂したおまえを捕らえ、うつしよに引き止め、抜け殻を操るすべを与えてやったのだ。貴様呼ばわりされる覚えはないぞ』
クソが。騙しやがって……。
仮にこいつの言う通りでも、利用されていたことは同じだ。
いや、もっと悪い。
『勢いがなくなったな。われは知らぬが、おまえにはもともと、おのれの肉体を拒絶する覚えがあったのではないか? それともうひとつ、騙してなどおらん。おまえが元の肉体に戻るためには罪の清算が必要なのは同じだ。アニェが死んでいる以上、おまえ自身がおまえを赦さねばならぬのだからな』
屈辱が骨を焼いていたが、言い返せなかった。
ベッドの上に座り込む。ヤツの言う通りだ。
『おまえにはもう少し働いてもらわねばな、クララ・ウェブスター』
この大罪に償いなど、存在するように思えない。
わたしは言った。断る。淀みなき拒絶だった。
『……おまえが望もうと、望まなかろうと。共犯者がいることを忘れるなよ』
身体から不快感が去っていく。
帰ってくれ。わたしはもう、いい。
……。
どのくらいの時間が経ったろうか、部屋の外でがちゃがちゃと何かを弄る音に気がついた。
鍵か。この部屋には、ご丁寧に施錠がしてあったらしい。
入ってきたのはロバート・カニンガム主教だった。
「目覚めたか。クララよ、何があったのだ?」
彼がいうには、わたしは岬の下の浜で気を失って倒れていたらしい。
「引き潮だったからよかったものの。もう少し発見が遅れていたら波にさらわれていたぞ。発見してくれたフレデリックに感謝するんだな」
……フレデリックか。
「カニンガム、わたしは今回の件から降りる」
「は? 何を急に」
「元の身体に戻らなくていい。罪人の刈り入れも、もうしない」
カニンガムは何か言おうと口を開きかけたがやめ、その代わりに両腕を振り上げ、やっぱり何もしないで下ろし、部屋の中を右へ左へと早足で往復し始めた。
「だが、伝えるべきことは伝えておく。アマシマクを騒がせ続けていた連続殺人犯はフレデリック・スタッフだ」
靴が木床を叩く音が止まる。
「彼がか? 根拠は?」
「フレデリックの家には地下室がある。そこに被害者たちの遺体があった」
「本当か?」
「遺体はオブジェに加工されていた。まるで地獄かアイリーンの妄想だ」
主教は顎を撫でながら考え込んでいる。
「あと、ピーター・ゴアも共犯の可能性がある。あんたの勘が当たったかもな」
少女の頭のことで無駄足を踏まされた一件から、順を追って解説してやった。
話を聞くカニンガムは、下くちびるを噛み、だらりと垂らした手を握ったり開いたりを繰り返していた。
きっと彼の脳内では、各機関との連絡や今後の始末の手順が組み立てられているのだろう。
「事情は分かった。警察に調べさせよう」
「それと、ジェイコブ・ペンドルトンにもこの話を知らせてやってくれ」
「ペンドルトン氏に?」
「あいつは友人を殺されているし、少女の件でも怒っていた。わたしにも協力してくれていたんだ。阿片売りの情報を垂れ込んでくれたのも彼だ。フレデリックが生きているうちに、話をする機会を設けてやってくれ。わたしはここで降りる」
カニンガムはしばらくこちらを見つめていたが、「分かった」と言って退室していった。鍵は掛け直さなかったようだ。
殺人鬼が捕まれば、殺された人々も僅かながら浮かばれるだろう。
わたしはもう、誰も殺さないし、誰の身体も借りない。このクレイミーで最後だ。
事件が片付いたら、借りていたものはすべて返そうと思う。
決して脱ぐことのできない茨の冠だけをいだいて、わたしは去ろう。
ここでもすきま風か、がたがたと鳴る窓が歯のあいだから何事か囁くようにしている。それは、囚人たちの恨みごとのように、哀歌のように聞こえた。
わたしは罪の子守歌を聞きながら、泥のように眠った。
夢は見なかった。
悪夢が苛まなかったのは幸運だが、わたしを逃避させてくれもしない。
何度か、ラニャが部屋を訪ねてきた。わたしは寝ているふりをした。
シスターたちも様子を見に来たが、不調の主張と生返事で追い払った。
そうやって、わたしはただの土くれとなって過ごした。
食事は摂れなかった。食べても吐き戻してしまう。
クララのほうも、これまでは食事時は意識してラニャを手伝っていたが、それもやめてしまった。
ラニャは諦めず、噛まずに流し込むだけで済むようにして与えてくれているようだ。
少し前までは、自分の肉体がそばにあることに安心感や喜びを覚えていたが、今はただ煩わしいだけだった。
満月の翌晩に話して以降、ラニャはわたしの肉体を意識的に「散歩」に連れ出すようになっていた。
日に当たったほうがいいという単純な理由だったが、当時のわたしとしては肉体の管理場所として最適な修道院から持ち出して欲しくないと思っていた。
だが、今となってはあの忌々しい肉体と、わたしの罪悪感を激しく刺激するラニャがそろって離れてくれるのはありがたく思えた。
死が忍び寄るのを感じていた。
もう何日も食べていない。
身体だけでなく、こころも憂鬱を窮めてやせ細るのを感じる。
皮肉なことに、死を実感するにつれて、わたしのたましいは本当にクレイミーの肉体と馴染んだように思える。
これこそが、彼女への贖いなのかもしれない。
ラニャは神を疑ってはいるものの、いい修道女になるだろう。
この島とカミサマの件も、カニンガムがなんとかしてくれる。
わたしは要らない。もう、用済みだ。
最期に、事件の片が付いたかだけ知りたいなと思った。
その時だった。
カニンガムがやってきた。
彼は眉毛を立て、眉間にしわを寄せて、何か怒っているふうだった。
「フレデリックの家からは何も出なかった。死体はおろか、おまえの言っていた地下室など、見つからなかった」
なんだって!?
声を上げて起き上がりたくとも、身体がとても重たくて叶わない。
「おまえが何を見てきたのは知らんが、とにかく何も見つからなかったのだ。フレデリックも尋問に掛けられたが、否認しておる」
カニンガムは続ける。「ただ……」
「おまえの言う通り、フレデリックは少女の頭部をピーターに託していたそうだ。だが、用事から帰ると家の玄関先に返されていたと」
「わたしは確かに見たんだ……」
「嘘を言っているとは思わんが、事実そうなのだ。それに、ピーターのやつも姿を消しておる。おまえに奇行を見られたせいかも知れぬが、わし個人としては疑いが濃くなった。それから、ジェイコブ・ペンドルトンだが……」
彼もまた、行方不明らしい。
葬儀や慰問のあたりまでは避難民キャンプに顔を出すこともあったが、ここ数日は姿が見えず、避難民や貧民たちが医療を求めて困っているという。
「おまえはあやつが怪しいといっておったな?」
「疑いは晴れたよ。あいつじゃない。親子の事件の時には、一緒にいたんだ」
「ピーターとの共犯説があるのなら? 否定できまい」
わたしは答えなかった。
共犯者、共犯者か。
おまえもアニェを食ったんだよ、カニンガム。
それに、ジェニーンもだ。
同席していたということは、ババアにも女神からの接触があったのだろうか。
何も聞いていない。
そもそも、カニンガムは聖餐以前から声を聴いていたし、特別なのか。
「一方でフレデリックの外出理由については裏が取れている。島外からの客とパブで取引をしていたようだ。彼は酒に強くないが、上客が相手だということで、念のために前の晩にピーターに依頼の品を託したとのことだ」
辻褄はあっているが、言葉に表せない違和感がある。
喉に魚の骨でも引っ掛かっているような。
だがもう、どうでもいい。
「同志クララよ、我々で真実を明らかにしようではないか? 無論、フレデリックも被疑者のままだぞ。我々でこの島を守るのだ」
カニンガムがわめきたてている。
こいつは、いつでもみんなの心配をしている。
真犯人の発見を誓い、火山の女神の機嫌取りのために、わたしに再度立ち上がるように、あれやこれやと発破を掛けている。
だが今のわたしは、アマシマク火山が大噴火したとしても動かないだろう。
「クララよ、聞いておるのか?」
もう、充分なんだ。
わたしは頭を枕に預けた。
そして目を閉じ、胸の前で祈り手を握り合わせる。
主よ、もう充分です。わたしのいのちを、取ってください。
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