第30節 死者の囁き
「助けてえ、助けてフレディ!」
フレディとは革職人のフレデリック・スタッフだろうか。
ピーターは誰もいない墓地なのに「どいてえ、どいてえ」と喚き、何かを払いながら走っている。
ヤツは鈍重そうな見かけに反して足が速い。
今のところは見失っていないが、すでにたっぷりと歩かされたクレイミーの足では取り逃がしてしまう恐れがある。
「待ちやが……待ちなさーい!」
わたしは体力を消耗するのを覚悟で、大きな声を出して追いかけた。
カニンガムが配置した監視役とやらがどこかにいるはずだ。
ところが、墓所を出ても町に入っても、誰も追跡に加わらない。
次第に、肺の中から鉄くさいにおいが込み上げてきて、地面が水の上の浮草のように頼りなくなり、とうとう立ち止まってしまう。
「おい、カニンガム。本当に監視させてたんだろうな……?」
一度立ち止まってしまうと、クレイミーの足は油の足りない歯車のようになり、ぎしぎし悲鳴を上げるばかりになってしまった。
無論、あの男はすでに視界から消えている。
ビグリーフのメインストリートは二〇〇メートル程度のケチくさいもので、レンガ造りとペンキの禿げた木造の家が入り乱れている。
噴火以前は港に負けず劣らず賑やかだったのだが、今や商店も軒先に商品を並べるのをやめてしまって廃村さながらだ。
人影もまばらで、船乗りの妻に飼われているだろう黒猫が悠々と闊歩している。家屋の中からは病か灰で喉を傷めたか、咳の音が漏れてくる。
町のはずれへと猫車を押す人たちの姿を見つけた。溜めておいた灰の山を「灰の穴」に捨てに行くのだろう。
彼らにピーターの行方を尋ねるも、首を振られるばかりで、「おや、汗だくですな。病気だといけない、うちに来て冷たいものをあがっていきなさい」だなんて髭を舐める男にも引っ掛かり、気勢を完全に削がれてしまった。
ピーターは友人のフレデリックをあてにして逃走している。
フレデリックがピーターに少女の頭を預けたのだし、ピーターは彼が留守なのを承知なんじゃないのか?
知らない、もしくは忘れていれば住まいを訪ねるだろうが……。
フレデリックの出掛け先も不明だ。
今ここから教会に戻って、ピーターのことをカニンガムに伝えるにしても、もうかなりの距離を走ってしまった。
つまるところ、今取れる一番手っ取り早い手段というのが、もう一度あの岬のクソ坂道を上ってフレデリックの家に行くことだ。
「め、面倒くせえ……」
もう少し聞き込んでダメなら行こう。
ちょうど、港のほうから果物を入れた籠をかかえて中年女性がやってきた。
「ああ、あの背の曲がったピーターかい? 彼なら友達のフレディのところへ行ったんじゃないかね。何やら慌ててたみたいだけど……」
有力情報どうもありがとう!
わたしは、魚くさい港をくたばりかかった熱病患者のように喘ぎながら進み、羽毛とフンだらけの坂を弾丸を受けた兵隊のように足を引きずってのぼり、やっとのことで岬のぼろ屋へと戻った。
……来た甲斐はあったようだ。
玄関のメモ書きのあった辺りに、黒い骨壺が置かれている。
ふたを外して中身を確認する。
死体の一部、というよりは蝋人形の頭のように見えた。
修復は完璧だった。
確かに、あのときにうっかりジェイクへの好意を漏らしてしまった少女の顔だ。
これで、母子そろって一足先に逝った家族の元へと向かうことができる。
わたしはそっと、少女を箱の中へと戻した。
古代エジプトでは、いずれたましいが肉体へ戻ってくると信じられていて、身分に関係なく遺体の保護処理が施されていたという。
わたしは刈り入れたたましいをカミサマに喰らわせてしまうが、首狩りの餌食となった彼女たちのたましいはどうなるのだろうか。
主の御許へと行けただろうか? せめて懲罰でなく、恩寵を受けていて欲しい。
ふと、ぼろ屋の扉が開いていることに気がつく。
開いているというよりは、壊されて半開きになってしまっている。
ピーターがやったのだろうか?
「おい、ピーター、いるのか? フレデリック?」
返事はない。
屋内からは、何かの薬草のようなにおいと、獣の骨や血のようなにおいが混じったものが漂ってきている。
足を踏み入れると、臭気は濃くなり、思わず袖で口元を覆った。
風が扉を大きく開け、屋内へと光が差し込むと、不意に目の前に熊が現れた。
「……剥製か」
熊の頭部の壁飾りだ。その下には、処理された革のロールや、膠だろうか、濁った樹皮のようなもののチップの詰まった壺があり、すくうためのスコップが突き刺してある。
人の気配はない。
墓地の家よりもすきま風が酷く、常に誰かが囁いているかのようだ。
わたしは囁きにいざなわれるように、二歩目を踏み出した。
テーブルの上には面白いカップが並べてある。
角を削って作ったものだ。
角笛のようなカップは金属のスタンドで倒れないように固定されている。
大昔にバイキングがこれで蜂蜜酒を飲んだという話があったな。
飲み物は、注ぐ容器によってその味を変えるともいう。
個人的には薄いガラスのものの口当たりが好みだ。
フレデリックは皮いじりだけでなく、こういった細工物も得意らしい。
商品として仕度をしているのか、カップはたくさん並べてあるし、骨の矢じりなんて今日日珍しい物も作っているようだ。
生活の場と仕事の場の区別がないらしく、寝室も同じ悪臭で満たされている。 壁には道具を掛けるラックがあり、大小のナイフやハサミ、食事用のフォークを大きくしたような道具や鋭いピック、毛のそろったハケが提げられている。
本物の職人という存在は興味深い。
職にたましいを捧げる者も、固有の教義を持ち、大切にするものだろう。
ふたの見当たらない妙な木箱を見つけた。
持ち上げてみようとすると、ふたは上に乗っかってるタイプではなく、下箱の全体を覆うように被さっていることに気づく。
気密性が高いようで、ふたを持ち上げようとすると空気が吸い付く手応えを感じた。
箱を開けた途端、わたしはえづいた。
明らかな腐敗臭だ。心臓が高鳴り、全身の毛が逆立ち始める。
箱の中身を確認すると、そこには地獄があった。
白い脂のようなもの――縮んだ皺が示すのは脳味噌――がぐちゃぐちゃになって溜まっており、その池には異常に膨れ上がった目玉がひとつ浮いていた。
もうひとつの目玉は潰れており、死んだカエルの腹のようになっている。
一瞬、くだんの殺人鬼を連想したが、なんのことはない。
玄関でわたしに待たされている少女の中に納まっていたものだろう。
内容物を除いておかないと腐ってしまうからな。
地獄の釜に封をすると、テーブルに瓶が置いてあるのを見つけた。
じゃらじゃらと音がする。黄ばんだ白い小石のような物体がたっぷり。歯だ。
よく見ると、ほかにも革のストラップや何かの薄い膜のようなもの、化粧道具が整頓されるのを待っていることに気づく。
顧客の要望に応えるために、急いで仕事をしたのだろう。
惨殺された少女の頭を相手にしていて、フレデリックは何を思っただろう。
獣の剥製をこしらえたり、皮を剥いだりするときと、人のそれとは異なるだろうか。
純粋に興味が沸いた。機会があれば直接聞いてみたい。
瓶を置き、職人の仕事場をあとにすることにする。
「うおっ!?」
かかとが急に沈み込んだかと思うと、後頭部に痛みが走り、目の前を星がちらついた。
「痛てて……」
どうやら床が抜けて転び、ベッドに後頭部を打ち付けたらしい。
衝撃で部屋の物を壊したりしていないか確認するも、特にやらかしてはないようだ。
外もあれだけぼろぼろだったし、床が腐るのも仕方がないだろうが……。
「ま、知らんぷりするか」
開き直って帰ろうとすると、靴先が何かを蹴った。
「板?」
床板は抜けたのではなく、釘打ちが不充分で外れたらしい。
ラニャがグレンキオーを隠した手口を思い出す。
元に戻そうと屈むと、部屋の臭気が濃くなり、慣れかかった鼻を強く衝いた。
さらに、床の隙間から何かが覗いてるのを目に留める。
……はしごだ。
外れた板の前後数枚も、同じように釘打ちがされていない。
どけてみると四角く黒い空間がぽっかりと口を開けた。
マッチを擦り、穴の奥を検める。
はしごは長く、四方は頑丈で白い岩がむき出しになっており底が知れない。
石造りの城や砦の秘密の通路という風体で、冒険心がくすぐられる。
穴に向かって耳を澄ませるが、流れてくるのは風の音だけだ。
すきま風が奏でるものよりも低く、囁きというよりは唸り声に聞こえる。
はしごは腐ってはいないから、家主がこの穴の存在に気づいていないということはないだろう。
大して悩むこともなく、わたしははしごを降り始めていた。
穴の底から、誰かに呼ばれているような気がした。
身体が穴にすっぽりと収まると、空気が生温かくなる。
体感で人間三人分ほど下りると、靴の裏が堅い地面に当たった。
臭気に変化がないことを確認しつつ、再度マッチを擦る。
手元の炎がぼんやりと空間を照らし出した瞬間、わたしははらわたを握りしめられたような声を出していた。
人が立っていた。
それも異形の。
首が無く、胴体が開かれており、中が空洞で、その底にロウソクを乗せた皿が置かれていた。
蝋人形? いや、違う……。本物の人間のもののように思える。
近づくと、隣にももう一体、今度は牝鹿の頭をした女性がいた。
彼女は右手に牡鹿の角を持っていて、それを掲げている。
全裸で乳首は屹立し、陰部のあたりには笑ってしまうほど毛が密集していた。
触れてみると乳房は固く、陰毛はどうやらシカの毛のようだった。
腿から下も同様に毛皮が張り付けてあるようで、半獣半人といった様相だ。
これはなんなんだ?
フレデリックは一体、ここで何をしている?
体内のロウソクを借り周囲を照らしてみると、この空間は広く、この首無しと鹿人間以外にも多くの仲間がいることが分かった。
ワルプルギスの夜が訪れたかのごとく、何体もの人影が立ち並んでいる。
首が無いことと、無数の縫い目があること以外は完全な男が立っており、その手にはボトルとグラスが握られて、酒を注ごうとしている姿勢だった。
不気味なことにペニスは万年勃起にされており、そこには布巾が引っ掛けられている。
その向かいには、椅子に座る首無しの全裸男。
こちらの手足は痩せて皺が深くなっており、ほとんど骨のような干からびた手には、見覚えのある酒瓶が握られていた。
「グレンキオーか……」
わたしはバカだ。ようやく、つながった。
「これは、ウォルター・ウェストだ」
耳を澄ませて頭上の気配を探る。足音やはしごを降りてくる気配は無し。
心拍数が跳ね上がり、足元がおぼつかなくなり、よろめいて背後の人形にぶつかる。
さっきの酒とグラスの男……。
「ハロルド・マグレガー……!」
ここにあるのは、殺人鬼に持ち去られたはずの被害者の首から下だ。
加工された屍たちが、この狭い空間に犇めきあっている。
フレデリック・スタッフ! ヤツがシリアルキラーの正体か!
喘ぐように息を吸うと、「この空気に含まれるもの」を想起して胃がじりじりと痛んだ。
ロウソクを取り落としかけて指先に火傷をおいつつ、揺らぐ光の中に「三人組」を発見する。
首無し全裸の人間たち。
成人男性が一名、成人女性が一名、そして、少女がひとり。
背後に回り込んで照らせば、少女の背中に大きく変色した痕が見つかった。
ジェイコブは火傷を治療したと話していたな……。
なんの冒涜か、少女の股のあいだからは木の棒が二本突き出ていた。
腹が立ってそれを引き抜くと、黒い液体が臭気と共に床にさっと広がり、わたしの脳を引っ掻き回して涙と鼻水を引きずり出し、胃の中のものまでぶちまけさせた。
母親のほうにも、同じように「栓」がしてあった。
身体に触れてみると、ほかと比べてまだ弾力が残されているのが分かった。
彼女たちはまだ、「完成」していないんだ。
一家の遺体はほかよりも細工が少なく、ただ並べられている。
ウォルターやハロルドでは彼らを表すシーンが再現されていた。
鹿頭の女性にも思い当たることがある。被害者の中には娼婦もいた。
彼女は、鹿の角で作ったおもちゃで客のケツメドを愉しませるサービスができるとの評判だった女だ。
ほかの遺体もかつての生業を示すようで、手に斧を持たされたり、頭の代わりに船の舵の模型が取り付けてあったり、膨らんだ乳房に無数の縫い針と裁断バサミが突き刺さっていたりした。
遺体は不完全なものもいくつかあり、四肢のどれかが欠けていたり、肉が消えて骨が覗いているものもある。
「こいつはひょっとして、ジェイクの友人の?」
一体だけ、服を着た遺体があった。
金の刺繍入りのジャケットに身を包み、右手は手袋にステッキ、左手は手袋を脱いで握った状態で、指にはそれなりの指輪がいくつかはまっている。
頭にはボウラー・ハットがかぶされていたが、当然、本来の頭部はなく、首の切り口から伸びる支柱に引っ掛けらており、顔の無い幽霊のようになっていた。
とにかく、ジェイクに知らせないと……。
……クララお姉さま……
誰かが呼んだ。
「ラニャ? おまえなのか?」
耳をすませば、風の音。
……クララお姉さま……
ラニャが呼んでいる。向こうだ。
わたしは、死者たちのあいだを進んだ。
……どうして、どうして私を……
ふと、足を止める。これは、ラニャの声じゃない。
胸が大きく上下し、肺もしぼんだり膨らんだりしているのに、息が苦しい。
氷を切るときに浴びるしぶきのように冷たい汗が、全身にばっと湧き上がる。
……クララお姉さま……ラニャ……
……痛いよ……苦しいよ……
そしてわたしは、少女と出会った。
顔の無い裸体。頭の代わりには骨製の十字架が逆さまに差し込まれており、それがシスターのベールを被っていた。
少女は祈りのポーズを取ってたたずんでいる。
しかし、肩から下……二の腕は骸骨のそれで、肉が削ぎ落ちており、腕の隙間から見えるはずの乳房もえぐられて消えていた。
わたしはまるで商人が品物を検めるように、貴族が宝飾品を堪能するように、彼女を検める。
もしもこれが別人のものだと分かれば、あの子が生き返る気がしたのだ。
少し浮いた肋骨の凹凸に指を這わせると、わたしの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
アニェの下腹部はくり抜かれ、黒い布のようなものを詰めこまれて妊婦のように膨れ上がっている。
布を引き抜くと、中からぼろぼろと、何かが大量に床にこぼれた。
大量のドライソーセージに見えた。
いくつかには、団子やクルミのようなものがくっついているのもある。
これは、動物の陰茎だ。
それに埋もれるようにして、小さなマリア像が顔を覗かせていた。
あの子の腹部の中に、何かが残っていることに気づく。
大きなトカゲの干物のようなものが下腹部の底に頭を突っ込んでいた。
それはひとりでに股から抜けて床に落ちて転がった。
猿のようなものと目が合う。
わたしにはそれがなんなのか、見当もつかない。
アニェのお腹の中に、そんなものがいたはずがないのだから。
笑い声だ、笑い声が聞こえる。
狂気を孕んだ、不愉快な笑い声!
「誰だ!?」
振り向くも闇。また笑い声。視界が縦に揺さぶられている。
誰が、わたしを揺さぶっている?
わたしだ。わたしが笑って揺れていたんだ。
よろめき、そばにあったテーブルに寄りかかる。
正気だ、正気を保てクララ・ウェブスター。
あの子が死んだことは、殺されたことはずっと前に分かっていた話じゃないか。
証拠を見つけた。あとは裁くだけだ。
ジェイクとカニンガムに知らせろ。
クソが。あの子を穢しやがって!
たましいを刈り取り、女神に食い千切らせたあと、ヤツの抜け殻を使って……。
使って、なんだ? 復讐でもするのか? それとも懺悔でもさせるか?
「ふざけるな!」
寄りかかっていたテーブルを加減なく叩く。
ところが、それはどうやら樽だったらしく、破裂音と共にふたが跳ねた。
つん、と鼻の奥が渇くような刺激臭。
新たな感覚に総毛立ち、毛という毛が猫の髭のようになった。
落ち着け、このにおいは知っている。
わたしは樽の中を見た。
ただの塩漬け肉じゃないか。
胃の中のものをすべて吐き散らかすと、樽の中へと飛び込んだ嘔吐物が跳ねて、わたしの額、頬、それからくちびるへと当たった。
もう一度吐き、呼吸をして塩気を感じて吐き、吐き、吐き、それから吐き、胃がばきりと音を立てると、何も出なくなった。
……クララお姉さま……
またアニェの声だ。
おまえはもういない、いないんだよ。
守ってやれなくて、すまなかった。
「……?」
振り向くと、そこにアニェのオブジェは無く、代わりに石壁と部屋を照らす壁掛け燭台があった。
はっとして正面を向き直すと、樽のふちに掛けていたはずのわたしの両手は、白いテーブルクロスの上でナイフとフォークを握っていた。
そのあいだには、うまそうなにくのすてーきだ。
クララは言った。なぜ今、これを思い出す!?
ふいに、額が何度も硬いものに叩き付けられたように痛み、頭蓋骨が揺れる。
クララの手が貴族仕込みの優雅な手つきで肉を切り分け、口へと運んだ。
いやだ、食べたくない!
わたしはそれを、食べたくない!
……叩きつける。叩きつける。叩きつける。
「わたしはたべていない! しらなかったんだ!」
わたしの声だ。
「たべていたのはあいつらもおなじだ!」
わたしはクララ・ウェブスター。クララ・ウェブスターだ。
あいつらは? あいつらって、誰だ?
『クララお姉さま、アニェがこんなになってしまいました』
今度はラニャの声だった。
それを聞いた途端、かっこーんと何かが弾けるような、割れるような音が闇の中で響き、世界のすべてを白へと染め上げた。
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