第20節 クライミー・クレイミー
ピーター・ゴアは正式に墓守として雇われることになってしまった。
いいのか、あれで。
ラニャは自宅を引き払い、次に住むピーターの入居を手伝いに行った。
ビグリーフの町のはずれの教会近く、日当たりの悪いじめじめした墓所のそばという最悪の立地だが、グロッシ家が長年暮らし、家族愛を育んだ場所だ。
わたしも作業を手伝いたかったが、別のお引越しのほうで立て込んでいためにそれは叶わなかった。
「本当に大丈夫?」
「はい。なんだか眠気が酷くって」
「朝は無理に起きなくてもいいからね」
「ううん、ちゃんとミサには出ます。でも……」
ベッドに横たわるラニャは、重そうなまぶたを落としながら、「起こしに来ていただけると嬉しいです」と言い残して眠りに落ちていった。
ピーターの引っ越しはフレデリックも協力していたが、休憩がてらに茶をしたところ、急にラニャの具合が悪くなった。
力仕事を多くやったところへ温かいお茶が効いたらしい。
ぼんやりしているうちに、ピーターとフレデリックが何やらモメ始め、ラニャとしては珍しく任務をほっぽリ出しての帰還をしたのだった。
心労も手伝っているのだろう。今度は家を失うのだ。
もともと「墓守のための家」だったために、いつか手放すのは決まっていたことだが。
寂しいだろうな。本来なら不気味なはずの窓から見える墓石の群れだって、墓守の娘を長く務めた彼女にとっては見慣れた風景で、今や家族たちも眠るゆりかごに映っていたはずだ。
そのうえ、戻ればもうひとつの引越しは終わっており、見習い時代の忌まわしい部屋が彼女を待ち受けているときたもんだ。
現在、クララが寝かされているベッドは、かつてアニェが寝ていた場所にある。
ベッドこそは新調されているが、木床は変色しており、あの子の血液を吸ったままなのを隠しきれていない。
「おやすみ、ラニャ」
わたしは苦労人の額を撫でると部屋をあとにした。
修道院の雑務――夕飯の片づけ――をしていると、シスター・アイリーンが甲高い悲鳴と共に厨房に飛び込んできた。
「シスター・クレイミー! 大変なの! 主教様が……!」
アイリーンはそこまで言うと昏倒した。
こいつは姉妹仲間の中でも、いちばん大袈裟な女だ。
昼寝から目覚めたらキリスト様がいただとか、庭が斜陽で眩しくなっているのを見て天国と勘違いするとかで、やたらと騒ぎ立てる。
彼女が敬虔な信者だから?
いいや、芥子の実やら麻の葉っぱやらの世話になっているだけだ。
どうせ今度もまぼろしだろう。
とはいえ、幻覚でなかったら困ったことになるかもしれない。
わたしは、鍋にくっついた残飯をこそぎ落とす役を積極的に買って出たドロシアにこの場を任せ、教会にある主教の部屋に向かった。
すると、開いたドアをまたいで上半身を廊下にはみ出したうつぶせの格好で主教ロバート・カニンガムが死んでいるのを見つけた。
ふむふむ、ローブの背中には小さな靴跡がたくさんついている。
死体に「誰に殺された?」と尋ねると、「あの小娘どもめ」と返事をくれた。
童女を追っかけまわす変質者を墓守に採用したことを、被害者たちに責め立てられまくった結果らしい。
メルチとバルタは相当粘ったらしく、マザーを振り切って教会を抜け出してまで主教の横にくっついて、彼が島の管理者としての仕事をするあいだも文句を垂れ続けていたんだとか。
どおりで今朝以降は修道院が平和だったわけだ。
平和といっても、ふたりがすっぽかしたせいで、わたしとカスプのふたりで引っ越し作業をする羽目になっていたのだがな。
部屋に戻ればまた連中の相手か。毎日が戦争になりそうだ。
と、考えていたのだが、残りの仕事を片付けて部屋に戻ると、突撃も和平交渉も不要になっていた。
無理矢理にベッドを三つ押し込んで作ったひとつながりの大きな寝床に、穏やかな寝息がみっつ。
メルチ、バルタ、カスプの順で転がっているが、やはりメルチは領土侵略が著しいようだ。
わたしはクレイミーらしく丁寧にシーツを直してやる。
末っ子の寝床を整えていると、指先を軽くつかまれた。視線が合う。
ラニャにしてやったのと同じように撫で、「今日はお疲れ様」と労うと、カスプは満足そうに口元を緩めてまぶたを下ろした。
こうしておとなしく眠る姿を見ていると、こいつらはやはり、世話の焼ける可愛い子どもなんだなと実感できる。
貴族だったなら、まだ女家庭教師の世話になっている年齢だしな。
彼女たちの出身地のテューレは、ビグリーフよりもさらに田舎だ。
誰もが野良仕事をしなくてはならない農村において、三つ子で、しかも女ばかりを産むなんて、普通なら天罰を疑うか、法の目を掻いくぐって間引くなどするはずだろう。
それが、この年齢まで生き抜いたのだから、両親の愛は相当のものだったはずだ。教会と反目してまで双子を育てたマリアとマクラ以上かもしれない。
そんな両親を目の前で島の女神に釜茹でにされたわけだから、多少の素行不良は多めに見てやりたくも思う。
灰の中から拾ったいのちだ。意地汚くとも幸せをつかんで欲しい。
こいつらの調教は、クレイミーよりもクララのほうがきっと上手にできる。
わたしがこんな状況なのが、少しだけ申し訳なくなった。
「申し訳ない、か」
クレイミーのナイトテーブルの引き出しを開ける。日記だ。
ランプの灯りをぎりぎりまで絞り、聖書を立てて灯りが子どもたちを煩わせないようにしてからページをめくった。
「おや、フランス語か」
なんとなく、彼女のルーツが垣間見えた。わたしはおまえを知りたい。
クレイミーの日記には、愛や恋についての疑問が赤裸々に書かれていた。
彼女がスティーブと関わるようになったのは割と最近で、きっかけは、テューレの教会が焼けてできなくなった火山信仰の行事をこっちの地下室でおこなったさいに、ウォルターが牧師に噛みついた事件らしい。
父の付き添いで来ていたスティーブがなだめ、売り言葉に買い言葉をした牧師をクレイミーとドロシアが押さえたさい、クレイミーが押し倒されて軽いケガを負ったらしい。
その際に手を差し伸べてくれたのがスティーブだった……ということだ。
安っぽい劇に思えるが、ずっと修道院で姉妹に頼られ、外では施す側だった
彼女には、劇は劇でも劇薬だったようだ。
これを境に愛や恋、自身の淫らな考えについて考える記述が増えている。
淫らといっても、クレイミーの場合は「つないだ手の体温について」が限度だったようだが。
新たに受け入れた三姉妹の成長に対する懸念や愛情も書き記されている。
それには、自分も将来は子どもを持つことになるのだろうかと、期待と不安の入り混じった感想も付随していた。
例のドイツ人形は、彼女が「シスター・クレイミー」の名を得る前からの私物らしく、あれを赤子に見立ててあやしてみてしまった、などという小恥ずかしい告白の一文も見つかった。
それでも、婚前交渉は極限になるまでは拒否していたのだから、やはり堅物のクレイミーはおのれの教義を裏切らずに生きていたといえる。
スティーブにというよりは、恋に恋をしているようにも思えるが、あの男が地金をさらしてあんなことにならず、わたしももしクララのままだったとしたら、きっと茶化しながらもクレイミーの恋愛を応援しただろうな。
クララで彼を刈り入れた感触が、クレイミーの手で蘇る気がした。
大鎌の重さだけじゃなく、刈り入れに付随する絶頂の余韻までもがリフレインする。
これは少々、罪深過ぎやしないか?
せめてもと思い、クララとしてクレイミーに謝罪と祈りを捧げる。
事故とはいえ、彼女のことは殺したくなかった。
これが何かの償いになるかといえば、そうじゃないかもしれない。
わたしは「自分はシスター・クレイミーである」と強く思い込み、クレイミーとしてスティーブのために祈るのをこころみた。
本当のクレイミーなら涙のひとつも流しただろうが、わたしには泣けなかった。
これまでのクララ・ウェブスターの涙は、すべて自分のために流されていた。
おぎゃあと生まれて流した涙と、兄や社交界の連中から受けた辱めへの悔し涙と、離婚訴訟で勝利を勝ち取ったときの嬉し涙だ。
嬉し涙のときは、生まれて初めてこころの底から神に感謝をした。
ガキの頃は神なんているはずがないと、どこかで思っていた。
本当に見ていらっしゃるのなら、あんなカス連中が地上にのさばるはずがないし、ロンドンの裏通りのような惨状がほっとかれるはずがない。
それに、わたしがここまでひん曲がって育つはずもないだろうしな。
ようやく神が味方をしてくれて勝訴を得たものの、瑕なしコブなしのままだとまたどこかに嫁がされる。
神を信じれるようになったついで、といったら聞こえは悪いが、辺境の修道院に出家するきっかけとしては充分だった。
アマシマク修道院に来てからは楽しくやらせてもらった。
修道女には訳ありも多い。姉妹たちの奥底に隠された悲しみや屈辱を垣間見るたびに、わたしは友情を感じていた。
もちろん、連中をからかうのも面白かったし、奉仕活動の気分のよさも知れてよかったと思っている。
施す対象の貧者にしても、汚れた貴族連中のようなうしろ向きの生きぎたなさとは違う、獣の眼光と同類の輝きを湛えたヤツも多く、好感が持てた。
使徒としての職務も好きだ。
逝去の立ち合いですら真剣に向き合えた。死を目前とした者は、祈りを唱えているうちに後悔や死への忌避を口にすることをやめ、最後は安らぎと共に逝く。
くたばるなら、わたしも前向きの前のめりがいい。
産婆として手伝いに出向くのも、緊張感と達成感があって好きだ。
鎮魂歌で終わることも多いイベントではあるが、そこには確かに人が生きているという実感がある。
わたしの背後で寝息を立てている連中も、迷惑を怖がって修道院に閉じ込めてしまうよりは、実地で叩いたほうがよく伸び、鍛えられるんじゃないかと思う。
億劫だが、カニンガムやジェニーンに提案してみよう。
わたしも、少しだけクレイミーの性格をクララに寄せてしまおうか。
恋人を失ったショックは、人を変えるのに充分なはずだ。
ため息をつく。
今述べた想いに嘘偽りはない。
それなのに、善人ぶって誰かの幸福を願うたびに、酷いうしろめたさを感じる。
繰り返すが、クレイミーは殺したくなかった。事故だ。
メアリだって、今から振り返ると、マクラを撃たなければ違う道が模索できたかもしれないなんて考えてしまう。
そして、そのマクラ・グロッシ。
彼を断罪した理由は、単なる着服横領。
ただ、アマシマクのカミサマとやらに命じられたから。
あのときのわたしはまだ、自身の肉体から生えた鎌に混乱していたし、その一回こっきりで身体を返してもらえるものだと信じていた。
わたしには選択の余地がなかった。
……言い訳だ。罪は罪。わたしはマクラを斬った。殺した。自分の意志で。
母と姉を失って間もないラニャから、最後の肉親を奪った。
そしてそこから逆さまの生命の樹を描き、多くのたましいを刈り入れ続けた。
カミサマのいうことが本当ならば、わたしにはもっと大きな罪があり、それを忘れているらしい。
これが本当にわたしの贖罪? 新たな罪の道ではないのか。
くちびるが渇き、舌で潤す。
クララ・ウェブスターにセンチメンタルは似合わない。
公爵の鼻っ面にこぶしを沈めるのがこのわたしだ。
今は、今はできることをしよう。
このたましいを刈り入れる力も、せめて罰されるべき相手に向けたい。
ジェイコブだかピーターだか知らんが、殺人者と分かれば即、斬る。
三姉妹も叩き直してやろう。あの顔面脳味噌ババアも分からせる。
肉体を取り戻すついでに、カニンガムも過労から救ってやるのも悪くない。
ヤツにはまだ胡散臭さを感じるが、共犯者としてのシンパシーも強くなった。
……。
ふたたび瞑目。手を握り合わせ、額にくっつけ祈る。
「ラニャ、すまない」
クレイミーの口で出した言葉は、クララの音色だった。
ぽたりと、日記の上に雫がひとつ落ちる。
借り物の涙ということになるが、今はこれで許して欲しい。
わたしは日記を閉じ、ランプの灯りを消した。
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