第16節 サクリファイス
「コートン! スティーブ・ウェスト、貴様よくも!」
立ちどころに疲労感は消え、身体とたましいがしっかりと結ばれるのを感じると、大鎌のやいばが青くみずみずしく猛った。
「ち、違う! ぼくじゃない! ぼくは殺人鬼じゃない!」
スティーブは中腰にこちらと向き合った。
ノコギリのぎざぎざの刃が恋人を惜しむキスのような音を立てて少年の首から離れ、赤くねばついた糸を光らせた。
ほとんど切断されてしまった少年の頭部は、女たちに小生意気な愛を語ることなど知らぬように、ただ無垢に眠っている。
「なぜ殺した!」
「このガキが、生意気にぼくを強請ろうとしたんだ!」
クソ男は引きつった笑みを浮かべ、鋸でコートンの身体を一発叩くと、両手を上げて降参の姿勢になった。
「ああ、チクショウ! どうしてこのガキは砒素のことを知ってたんだ!? クレイミーのことまで! 彼女とはどういう関係なんだ!? チクショウ! なんで娼婦のガキのために、グレンキオーの栄光を邪魔されなくっちゃいけないんだ!?」
もう黙れ。激情のあまり首に狙いを澄ませる自信がなかった。
ギロチンどころか、製材所でまっぷたつにされる丸太のようにしてしまいそうだ。
こつん、硬い何かが落ちる音がした。
そちらを見ると、修道服姿の女が震えていた。
彼女の足元には茶色い小瓶が転がっている。
「シスター・クレイミーか!」
「シ、シスター・クララ! あなた、どうして!? ……それに」
修道女の眼球が揺れ、ほんの一瞬だけ床の残酷に焦点が結ばれ、きゅっと瞳孔がすぼまるのが見えた。
「コートン、さん……? スティーブ、あなたが……?」
「違うんだクレイミー! こいつが邪魔をして。だから、父さんに予定してたように、殺人鬼のせいにしてしまえばって!」
クレイミーはかぶりを振り、両手で口を覆うと、ぼろぼろと大粒の涙をこぼし始めた。
「クレイミー、手伝ってくれ。ぼくたちはまだ間に合う。この女も始末してしまおう! 父さんはどうした? ちゃんと薬は盛ったのか!?」
クレイミーは激しくベールを揺らした。
「そんな罪深いこと、私にはできません。最初から私はあなたと……」
「どうしてだ!? どうして!? その毒は誰に使うつもりだったんだ!?」
「あなたがこれ以上罪を重ねないようにって」
修道女はもう一度コートンに視線を注ぐと、しゃくりあげ、胃の中身をぶちまけた。
「心中する気だったか。やはりクレイミーに罪を犯す勇気はなかったんだな。貴様だけ刈り入れさせてもらうぞ、スティーブ・ウェスト!」
再度、鎌を振り上げる。衝撃。誰かが抱き着いてきた。
ぷん、とゲロのにおい。崩れ落ちたかと思ったクレイミーだ。
「やめてクララさん! あなたは本当にクララさんなの!? その燃える鎌は何? あなたは、マザー・ジェニーンのおっしゃる通り、悪魔なの!?」
「誰が悪魔だ! 悪魔はそこの男のことだろう!」
「違う! スティーブは悪魔じゃないわ! 仕方が、仕方がなかったのよ!」
クレイミーを振りほどけない。痩身からは想像もつかない強い力だ。
「……そうだ! ……そうだ! 仕方がなかったんだ!」
男が何か言っている。
「グレンキオーのためなんだ! しょうがないじゃないかああ!」
「クレイミー! こんなクズのために身を捧げるのはやめろ!」
「この人はしょうがない人かも知れない。けれど、ダメなのよ!」
「何がダメなんだ! こいつは人殺しだぞ! 父を毒殺しようとし、何の罪もないコートンのいのちを奪った!」
「だって! だって私は……!」
「スティーブの母親の死の責任が、修道院にあるからか!?」
「違う! でも、確かにその重みは背負ってあげた。彼の苦悩は聞いてあげた! 私たちは背負い合っていたのよ!」
「こいつは酒樽以外は何も背負っちゃいない!」
「そんなことは、ないわ……」
クレイミーが恋人を見る。
違うんだよお。なんでぼくばっかりい……。
「それでも、私は……」
この人を愛してしまったから。
力無き言葉反して、乙女の力は鋼鉄のごとくわたしを束縛し続ける。
「殺さなきゃ。なんでぼくが。チクショウ、上手く拾えない……!」
ヤツは血の池と同化したノコギリと戯れている。
握ろうとするたびコートンの血液が抵抗をして、ヤツの手の中から柄を逃がしてやっているようだ。
マヌケに繰り返されるそれは、男の自慰のようにも見えた。
一刻でも早く、このゴミムシを視界から消し去ってやりたい。
「お願い、クララさん。その鎌で彼を殺さないで。そんな恥ずかしいことは、私が、私がするから」
「わたしはこれを恥としない! これはわたしが穢れたたましいに救いをもたらすためにカミサマより与えられた力だ!」
揉み合っているうちに、わたしの肘先がクレイミーのみぞおちに触れたのを感じる。体重をかけて押すと、酸っぱい息とともにシスターは血の海の中へと倒れた。血が跳ねて、いまだに鋸ひとつ拾えないクズ男の顔にへばりつく。
まるでそれが熱湯だったかのように、スティーブは絶叫した。
ぼくは悪くないいい。
こんな家に生まれたせいだあああ。
グレンキオーさえなければ、ぼくは!
「おのれのドグマにも背くか! このクララ・ウェブスターが、貴様のいのちを刈り入れてくれよう!」
鎌とひとつになったわたしの身体が、枝がしなるように伸びあがる。
「終えよ咎人! おのがためだけに撒く痴れ者よ!」
お願いだあ、くれいみいいい。ぼくを助けてくれえええ!
叫び反響。重ね合わせるように。
「コートン、どこ!? いるんでしょ!? あっちでメアリさんが倒れてるの!」
ラニャ!?
「お願い、出てきて! もう一度やり直そう。私、あなたたちを信じてみるから!」
構うな。急げ!
振り下ろす鎌。
ひゅっと空気の中を走り、ぷつりとたましいの緒が切れる感触が伝わる。
それは長い柄の中を駿馬のように駆け、わたしの肉体を突き抜け、またぐらを鷲掴みにした。
――パンを肉に、ワインを血に。
豪勢な食卓が眼前に広がった。
白いクロスの掛けられたテーブルには黄金の燭台の灯が揺れ、肉を彩るソースを照らしている。
わたしは銀のナイフとフォークで肉を切り分け、そっとくちびるの中へと押し込んだ。
ソースは上々。肉はもうひとつ。老鹿のような食感だ。いや、味は悪くないな。
少し乳臭い気もするが、舌を締め上げるような旨味があとから追ってくる。
惜しむらくは、饗宴に同席するのがこいつらだということだ。
どろりとした赤ワインだかソースだかで口元を汚し、食器の作法も知らずに手づかみだ。
料理もわたしのとは別のものらしく、肉の過熱も足りていないように思えた。
どこか梨の形に似た肉へと乱暴に指が伸び……。
べちゃり。少年の血をはねさせて罪人が倒れた。
わたしも膝から崩れ、鎌を取り落として腿のあいだに手を差し入れ押さえた。
そうしてでも、胎の少し下を起点に全身が二度、三度と跳ねてしまう。
知人を殺された怨みや、神に仕えし処女を裏切った罪が快感を強くしたか、これまでの誰を刈り入れたときよりも激しい、まるでたましいを剥ぎ取らんとするかのようなエクスタシーが襲っていた。
「ぼくを、逃がしてくれ……。グレンキオーを、広めなくちゃいけないんだ……」
「あ?」
霧散する快楽。入れ替わりに嘔気。
顔を上げると、覆いかぶさった修道女をどける外道の姿があった。
「わ、わたしは……」
眼前。黒布に覆われた修道女の背中から、光り輝く炎が抜け出てくる。
まさに聖なる炎だった。クレイミーのたましいは無限の白に輝き、赤銅色の蒸留器たちをも一色に染め上げた。
「クレイミー、おまえは、こんなヤツをかばって? こんなクズなんかと、心中しようとしたのか?」
白きたましいが、ふるると震えた。
わたしが彼を糾弾するのを咎めるかのように。
いつだったか、イタズラをして修道院を騒がせたのを叱りつけるかのように。
わたしは彼女のたましいから、変わらぬ愛を感じた。
彼女はもうひと震えすると、みずからが持参した毒の小瓶へと吸い込まれるようにして消えていった。
「クレイミー、起きてくれえ。今の光は、なんだったんだあ……」
ねえ、クレイミー、クレイミー。
スティーブは母親を求めるガキのように女を揺さぶり続けている。
「こっちで悲鳴が聞こえた!」
ラニャの声だ。
息を呑むと、肺いっぱいに血の香りが充満してむせた。
この惨状は、隠しおおせやしないだろう。
世界はまた……わたしはまた、あの子を傷つけるというのか。
ふっと視界がぶれ、波が引くようにクララの肉体から感覚が消えていくのを感じる。
タイム・リミットだ。
わたしはクレイミーに意識を集中し、血の海に手を突き、腕を突っ張って起き上がった。
冷えて膜になりかかったコートンの血が、頬をずるりと滑り落ちるのを感じる。
「ああ、クレイミー!? よかった。よかったあ……」
などと半べそで宣う男の胸倉をつかみ、立たせる。
こぶしを握り固め、鉄拳を青年の鼻っ面に叩きこんだ。
「びげっ!? どうして、クレイミー? あああーっ! あああーっ!」
ゴミが泣き喚いている。クレイミーのこぶしが痛む。
断罪としては正しくも生ぬるいのに、わたしはなぜだか、おのれのドグマに背いた気がした。
ああ……。蒸留棟にいくつもの足音が入ってくる。
少女の悲鳴を聞かないように。絶望を見ないように。
わたしはクレイミーにまぶたを閉じさせ、血塗れの手で両耳を覆った。
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