第15節 女神の毒涙
これを誘拐だというのは気が引けるが、わたしはわたしの肉体を盗み出した。
ラニャがメアリに対して疑念をいだいた以上、こうするほかになかった。
暗闇の中、灰混じりの雨に身を浸しながら、わたしは車いすを押し続ける。
コートンは何を考えていたのだろうか。何もかもを明らかにしてしまうことが正しいなんて、正義を覚えたての青くさい理論だ。
まったくあのガキめ、余計なことをして。
いや……。わたしは嫉妬しているのかもしれない。
あるいは、おのれを恥じているのだ。
メアリがマクラを殺害したことをラニャに知らせることは、少なくとも今のわたしよりは潔い態度だといえる。
わたしは最初にマクラを刈り殺しておきながら、告白をしていない。
いや、感傷的になってしまうのは、あの子の告白に付き合い、たましいを疲弊させてしまったせいだろう。
そもそものところ、あるのかないのか分からない「わたしの罪」とやらをダシに、肉体とたましいの紐づけを切断し、マクラを殺すように仕向けたのはアマシマクの女神とやらだ。
「何がカミサマだ」
おまえの毒涙は、今日も大地を穢している。
コートン少年を探す意味合いも含めて、キリナラの森の杣小屋に身を寄せた。雨は相変わらず冷たかったが、灰は混じらなくなっていた。雲間からはときおり、丸い月も見えている。
今のわたしのすべきことは、早急にクララに還ることか、それができないならメアリの代わりの入れ物を見つけることだ。
ラニャに接近しても不自然ではない罪人を探さなければならない。
いや、この際、大した悪人でなくとも……。
どちらにせよ、メアリの肉体は捨てなければならないだろう。
常に何かの選択を強いられている気がする。
自身の肉体のために妹分の父を殺し、今度はその妹分のために少年から母を奪うことを考えている。
この島に来る切っ掛けでも、それを手繰る先にあった馬鹿らしい婚姻でも、常にわたしは選択を強いられてきていた。
神経が逆立つからか、ほとんど眠ることができなかった。
目覚めれば雨はやんでいた。
凝り固まった夜空を、遠くライチョウの声が不気味に叩いている。
日が昇る前に移動してしまいたい。
カニンガムに助けを求める手もあったが、それはわたしのプライドに障る。
だったら、行く場所は決まっている。
意を決し、ぐずぐずになった地面に車輪を転がし始めた。
グレンキオー蒸留所。
雨上がりの深夜だからか、侵入は難なくできた。
来たのはいいが、問題はここから先をどうするかだ。
スティーブやクレイミーが動くのを待つか。
しかし、起こると分かっている殺しに手をこまねくのは、わたしのドグマもよしとしない。
まずは手札を増やすべきだ。
絶賛砒素中毒中のウォルター・ウェストへの接触を試みる。
敷地内を抜け、ウェスト邸に向かう。
設備投資に余念がないのか、よほど儲かっているのか、立ち並ぶガス灯が道案内をしてくれている。
オレンジの霊魂の作る導に挟まれて歩く。まるで死の谷のようだ。
ウェスト邸は規模こそは立派な屋敷だが、年季の入ったレンガ屋根の木造で、農村部の豪族あたりが住んでいそうなものだった。
家の周りに金雀枝が植えられているが、手入れはされていないらしく、せっかく開花しているのに所々が枯れて金メッキが剥げたかのようになっている。
忍び込むにあたって、クララの位置取りをどうするか悩んでいると、蛇口がくっついた樽が設置されているのを見つけた。
少しくらい、いいだろう。今は素面にメリットを感じない。
おあつらえ向きに木製のジョッキまで備えつけられている。
注ぐと、泡立つ水音ではなく強いアルコールの臭気が立ち上った。
きっと、ウイスキー。グレンキオーだろう。
わたしはひと含みすると口の中で転がし……それを吐き出した。
不味い。繊細な酒が体調や口の中の具合で味に変化を起こすのは知っている。だが、それにしたってあまりにもひどい味がした。
「盗人のくせに、いい舌をしておるな」
裏手からカンテラの灯りと共に、ぬっと男が姿を現した。
腰を曲げ、脚を震わせ、杖を突いた不自由さは、どこかマクラを思い出させる。
「あんたは……」
「ここのあるじだ。今のところはな。小娘がこんな谷の深くで酒泥棒か? 舌だけでなく、目も上等らしいな。その樽の中身だったら、なんぼでもくれてやるよ」
ジョッキのにおいをかぐが、アルコール臭のみ。
だが、口の中に残る余韻は、わたしの知る銘酒とは似ても似つかないえぐみのあるものだ。
「スティーブが毒を仕込んだのか」
「ほう、耳も知恵も回るか。せがれはわしの寝酒用の樽に毒を仕込みおった。おおかた、砒素か何かだろう。医者も言っておったし、今のわしのざまを見れば疑いようもない」
「砒素に目立った味やにおいはないはずだが」
「人は騙せてもウイスキーは誤魔化せんよ。ほんの少しの悪い成分が酒を殺す。わずかな煙や樽の木香が深みを生むのだから、当然だろう」
「なるほど。分かっていて飲んだのか?」
「まさか。最初は飯にでも混ぜていたんだろう。わしがヤツのあてがった医者とは別の医者を呼んだ日は、食事を作り直させていたとメイドから聞き出した」
「スティーブはまた別の手を使うだろう。ストリキニーネだ。シスター・クレイミーと相談していたと聞いている」
ウォルターは「ほう」と興味深そうに呟くと、近づいてきた。
カンテラが照らし出した男の顔は、老いや病を想起する挙動や口調よりも若かった。五十がらみといったところか。
だが、毒に侵され過ぎて浮かんだ死相は隠しきれなくなっている。
「あのキリスト教徒の女は、堕天使かデーモンというわけか。女神様のお膝元にいながら布教する罰当たりめ。たった一人の跡継ぎもたぶらかしおって」
言うもウォルターの口調には憎しみが含まれていないように思えた。
どころか、彼は短いしゃっくりを繰り返すように笑い始め、「魔の水よな」と言った。
「戯言だ。あの女がいようといまいと、スティーブはわしを殺していただろう。ヤツはグレンキオーに憑りつかれとる。わしが女神を敬うように、グレンキオーはヤツにとっての神なのだ」
スティーブが酒を語る姿を思い起こせば、さもありなんか。
「ところで小娘。おまえはただの盗人ではないのだろう?」
杖の先がこちらに向けられる。
彼の顔は不敵に笑っていた。
「夢を見た。火山の女神様のお告げだ。わしの願いを叶えるために、遣いをやってくれるとおっしゃっていた」
死を間近にした男の妄言か? あるいは本当に……。
どちらにせよ、正解だ。わたしはカミサマの使いっぱしりだ。
ここで土地のあるじの怒りを買う手はない。
わたしは背後に置いたままのクララを振り返ってみせた。
「車いすの娘? 修道女か……。だが、せがれの連れではないな」
「悪魔憑きの女の話を聞いたことはないか」
「さあな。若い連中とは慣れ合わんからな。灰ほども噂は流れ込んでこん」
わたしはクララの拘束をとくと、肩に手を掛けた。
クララの胸へと意識を集中し、硬いものをつかむ。
瞬間、青い炎がクララの胸からほとばしる。
「おお!? これは一体……」
驚くウォルター。わたしは大鎌の柄を胸から引きずり出し、冷えたたましいで鍛えられたやいばを生み出した。
「あんたの崇拝する女神、アマシマクのカミサマから与えられた力だ」
「なんということだ……!」
ウォルターは膝から崩れ落ちると、立ち上がったクララを見上げた。
拘束されたクララがそうするように、両手を固く握りあわせて。
「おお、女神様! わしはあなたを想ってグレンキオーを一滴一滴、こころを籠めて造ってきた! それをせがれは、毒によって穢そうとしておる! あなた様の名ではなく、別の神の名を乗せて世界に広めようとしておるのだ!」
深く刻まれたしわを伝い、涙がぼろぼろとこぼれている。
「女神様。やっとお目通りが叶った……。神よ。おお、神よ。まさに聖なるかな」
嗚咽交じりのウォルター。
両手をこちらへと突き上げ、恵みの雨を受けているといわんばかりだ。
やれやれ、わたしは「女神の使者」と言ったはずなんだがな。
「我が妻マイラはおろかにも、聖書を肌身離さず持ち歩いておりました。それゆえ、スティーブと引き換えに死ななくてはならなかった。修道院の長などあてにしたせいで! ああ、マイラが生きているうちに御姿を示していただければ……」
「修道院の長? ジェニーンか?」
「そうです。スティーブを取り上げたのはあの鬼女でして。わしも、息子がどんな女を愛そうがそれは自由だと思っておりました。ですが、好いた相手が修道女で、しかもあのマイラの仇に心酔しているなど……」
ジェニーンがウォルターの妻を殺した? わけではないだろうな。
ババアの肩を持つわけじゃないが、誰が取り上げようと、産褥に寄りつく死神を完全に退けることは不可能だ。たとえあのクソババアであっても、わたしであっても同じだ。
「女神様。お願いがございます。わしの息子をたぶらかした修道女に……」
鎌の炎が揺らいだ。面倒なことを頼まれる気がする。
スティーブはすでにウォルターに毒を盛っているが、クレイミーは直接的に犯罪に関与していない。
それを抜きにしたって……。
「その尊き御姿を示し、改宗を促して欲しいのです」
予想よりは穏便な願いが来たが……。
「不可能だ。わたしが依り代にしているこの肉体、クララ・ウェブスターは、シスター・クレイミーと祈りを共にした女だ」
拒絶にウォルターが唸る。「でしたら……」
「殺してください」
だろうな。
「スティーブのヤツめを。その鎌で断罪を! ギロチンのごとく!」
「……あんたは、自分の息子を斬れというのか」
「はい。女のほうを斬ろうとも、せがれは聖書の言葉を添えてボトルを送り出すのをやめんでしょう。彼は決して敬虔なキリスト教徒ではございません。ですが、グレンキオーを広めるためなら手段を選ばないはずです」
ウォルターが咳き込んだ。横殴りに拭った頬に、赤く擦れた跡。
「わしは、もはや長くはないでしょう。女神の涙を毒で穢すくらいなら、グレンキオーの歴史はここで終わりにします」
彼は続ける。
「わしとマイラが造り上げ、スティーブが愛したあの味のままで……」
銘酒を失うのは惜しいことだ。
だが、わたしの教義がウォルターの覚悟と触れ合うのを感じた。
「スティーブはどこにいる?」
「蒸留棟かと。さっき、物音がしたと思ったら出て行くのが見えたのです。ほかにも誰かいるようでした。どうせあの修道女でしょう。深夜に逢い引きをしているのを何度か見ていましたから」
クララの足取りが重いのは、たましいの疲労のせいだけじゃないだろう。
相続のための親殺しを企んだ男のたましいが穢れていることは、誰も疑わないことのはずだ。
だがわたしの脳裏には、刈り取ったたましいがまたも美しい光を湛えているビジョンがはっきりと浮かんでいた。
スティーブ・ウェスト。それにクレイミー。
なんとか、話し合いで解決できないだろうか。
わたしの持つ超常の力と美貌があれば、聖書を使わずともグレンキオーの名を世界に轟かせることだって、できるんじゃないだろうか。
あるいは、ウェブスター家の名を使い……。
わたしは大鎌を引きずるようにしながら、巨大なアランビックの並ぶ棟へと足を踏み入れた。
ふいに、ここに相応しくない異臭が鼻を衝いた。
男の荒い息づかいが聞こえる。
リズミカルに。どこか水っぽい音も交えて。
それを拍子に、前後運動をするシルエット。
ぎこぎこ……。ぎこぎこ……。
女神の涙誕生の場で、血まみれの男が何かをしている。
男がこちらを見た。短く息を呑む。
張り付いた笑みに、あのきざったらしさは見当たらない。
彼の握るノコギリは仕事を終えんとするところだった。
赤き山と谷の仕事先では、身体と頭を繋ぐわずかな皮と神経が、蜘蛛の巣のように張っているのが見えた。
血の池の中。
スティーブ・ウォルターが少年の首を切断していた。
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