第1節 墓守と娘
この子のためなら、なんだってできそうだ。
これが母性というものなのだろうか。いや、父性というのが正しいのか?
どちらにせよ、わたしには縁遠いものだと思っていたがな。
かまどの前に立つ娘の背中を眺める。
石炭コンロから漏れる肉の脂とスパイスが、外から忍びこむ死のにおいと生娘の香りと入り混じって鼻腔を刺激してくる。
それと同時に、やもめ男と娘ふたりきりでは大き過ぎる銅鍋が哀愁を呼んだ。
「猟師さんから鹿肉を安く分けてもらえたの。野菜のほうは、また灰を被ったらしくって、買えなくって」
背を向けたまま父に語りかける娘。
彼女の若く細い肢体と、わたしの太くて曲がった指を見比べる。
地中海のルーツだろうか、彼女の首筋は、かすかに日差しのにおいを感じる肌色をしている。
対して、わたしの色は長年土に触れ過ぎて薄汚れただけのようだ。
この子を見ていると、自身の存在が不浄なものに思えてくる。
本当に穢れている人間は、浄化しなければならない人間は、この世には掃いて捨てるほどいるというのに。
だが、彼女が本当にこの父マクラ・グロッシに愛情を向けていたかどうか、いささか怪しくなってきている。
いくら野菜が手に入らなかったとはいえ、彼女が肉料理を仕度するはずがないからだ。
我が娘ラニャは、幼少期から父親の墓守の仕事を手伝っていた。
小さいながら人間の亡骸に触ったし、長いスコップだって握ったし、重たい墓石だって動かした。
手伝いの人夫が雇われることは稀だ。この島には貧乏人が多いし、人望のない死体には教会もカネを出し渋る。
そういうわけで、手続きが済んで埋葬されるころには、遺体がすでに腐っていることも珍しくない。
ラニャだけでなく、双子の姉のアニェや、彼女たちの母親も同じ境遇だったし、腐肉と隣り合わせの生活のせいで、一家そろって肉を口にしてこなかったと聞いている。
ならば、財布とにらめっこをしてまで連日用意される肉料理は、「ベッドに眠るクララ・ウェブスターのため」ということになるか。
あるいは、修道院から連れ戻した父親への当てつけなのかもしれない。
「今のうちにクララお姉さまを起こしてあげないと」
ラニャはひとりごとか断りか分からない声量でつぶやくと、今度は自身の香りだけを残してわたしのそばを横切っていった。
「手伝おうか」
野太くしゃがれたわたしの声が尋ねる。
「ありがとう、お父様。でも、クララお姉さまのお世話は私が引き受けたから」
ラニャは振り返りもせずに答えていた。
返事をしないでおく。
マクラは寡黙……というか、墓守らしく自己表現の出来ない男だ。
修道院で何度も聞かされた話では「お父様」ではなく「お父さん」だったはずだし、沈黙は無難な選択だろう。
ラニャが視界から消えると、目隠しや轡がほどかれるのを感じた。
手慣れてきたようだ。ほどく速度が速くなっている。
続いて、細い腕が腿の下や首に回されるのを感じる。
無論、太っているつもりはないが、彼女には重いはずだろう。
だが、ふらつく頻度も減っている。
寄付でこしらえた車いすの滑らかな気配が近づくにつれて、わたしのたましいは安堵すると同時に、増幅する知覚に快感にも似た感情を覚えた。
当のわたしのほうは、まだ慣れない。
車いすに乗せられた若く美しい女、クララ・ウェブスター。
黒いベールから流れるは金糸のような長い髪。
大理石とシルクの美点を兼ね備えた肌。
煮詰めたクラムベリーのごとしの甘酸っぱいくちびる。
それから、並べばビーナスも豚に見える芸術的な肉体が、夜色の修道服に隠されている。
あの肉体と「たましい」の距離が近くなればなるほど、欲しくなってしまう。
欲しいといっても、もともとわたしのものなのだが。
「クララお姉さま、ちゃんと食べないとダメですよ」
ラニャはテーブルに食事を並べると、両手を握りあわせて神へ感謝と祈りを捧げた。
それから、まだ湯気の立つ鹿肉の煮つけを手で割いて、クララのうっすらと開いた口へと近づけた。
押し込まれる肉片。
仔鹿でないのは減点だが、スパイスと愛情のおかげか味は悪くない。
だが、今のわたしにとっては「硬い」。
おっと。ラニャがこちらを睨んだ。
うっかりマクラの口から漏らしてしまったのが、食事への不満と取られたか。
「ごめんなさい、お父様。野菜がどうしても高くって」
肉は野菜と煮込んだほうが柔らかくなると教えたのは当のわたしだ。
「気にするな。猟師の寄こしたのが年寄り鹿だったせいだ」
わたしは大きく肉を割くと、顎の奥で豪快に噛んでみせた。
「自分で仕度するものよりも百倍ウマい。さすが俺の自慢の娘だ」
ラニャは目を丸くして固まると、さっと頬を赤くした。
それから逃げるように視線を移し、「よかった、食べてる」と呟いた。
クララ・ウェブスターは車いすの上で眠ったまま、顎を小さく動かしている。
……あっちに含ませた肉の量と、こっちの肉の量が違う。
まさかクララの細くて美しい顎を、このデカくて噛み合わせの悪い顎と同じように動かすわけにはいくまい。
痛っ、マクラが舌を噛んだ。
この男の口は、歯の並びも数もユニーク過ぎるぞ。
ああ、あっちでは飲みくだす前に次の肉片が押し込まれた。
姉貴分への給餌も慣れてきたかと思ったが、微妙にヘタクソだな。
クララの世話をラニャに任せたのは主教の決定だし、わたしとしてもそれがベストだと考えていたが、過保護すぎるのと、世話を「される」にも意外とコツが要るというのは予想外だった。
最初はまるで死体を扱うがごとくのぞんざいさで、玉肌にあざやすり傷を作ったものだ。
わたしのほうがもっと上手くやれるのだが、クララの肉体に触れるどころか、近づく隙や口実も見当たらない。
このままでは、今日も口の中の切り傷を舐めながら仕事をする羽目になる。
なんにせよ、ラニャには早く出掛けてもらいたいのだが……。
と、そこに教会の鐘が鳴り響くのが聞こえた。
いやはや、カミサマというものは本当に見ておられるらしい。
「午後からは教会の手伝いなのだろう? あとは俺がやっておくから」
「いい。クララお姉さまのお世話は、修道院を離れているあいだの使命なの」
娘の声は突き放すようだ。
「クララお姉さまは、主教様も認めるほどに敬虔な信徒だったの。みんなからも人気で、天使の生まれ変わりだっていわれてたほどの人だったの」
殊勝な娘だ。姉貴分の身体は穢れた墓守の手には触らせない、ということか。
あるいは、男の手には任せられない、か。
だが、ラニャは最後のひと口をクララに押し込むと同時に、さっさと口元を拭ってやり、車いすを押して隣の部屋へと去っていってしまった。
まだ口の中に鹿肉が残ってるというのに、感覚が遠ざかってしまう。
しかも、寝かせるさいにクララの足をベッドの角にぶつけたし、結び直された目隠しや轡がいつもよりきつい。
本物の寝たきりだったら窒息死してるぞ。
「片づけも帰ってからします。お父様はお仕事までゆっくり休んでて」
慌ただしく出て行くラニャ。
小屋の中が静かになると、わたしは深々とため息をついた。
……さあ、久しぶりの独りきりの時間だ。
わたしはクララが眠る隣室へと右足を引きずりながら急いだ。
ベッド脇のスツールに腰を掛け、クララの轡をほどき、目隠しも緩めた。
それから、胸の上で結ばれた白い手の上に、武骨な手のひらを重ねる。
「やれやれ、少しはアニェを見習うかと思ったが、むしろそそっかしくなったんじゃないのか?」
透き通った美声。我ながら、愚痴ですらも讃美歌のようだと思う。
口の中に食べかけの肉片が残っていたとしても、だ。
わたしは両腕を縛りつけるベルトをマクラに外させ、みずからの手で目隠しを取り去ると、鹿肉を飲みくだして一度ため息をついた。
「まったく、わたしがなんの罪を犯したっていうのやら」
主教いわく、わたしの離魂は「ある罪」によるものだと、カミサマがおっしゃったらしい。
そこをカミサマの使徒となることと引き換えにたましいを地上に留めてもらい、なんとか完全な死を免れている。
だが、二重生活はなかなかの手間だ。
それに……。
ベッドの傍らには醜い墓守の男。口を半開きにして宙を見ている。
こうして「離れて」みると、マクラの顔色は死人のようだ。
死体に看病されているシスター?
死体を使って親子ごっこの人形遊び?
おかしくなって、わたしはくっくと笑う。
笑ってはいけないな。
この墓守の男を、あの子の父親をこのクララが殺したのは紛れもない事実だ。
たましいが剥がれた原因は知らないが、少なくとも今のわたしには罪がある。
もっとも、殺害はカミサマより賜った使命だったし、肉体を質に出している以上、わたしに選択権などなかったのだが。
わたしは両手を握り合わせ、墓守のグロッシ一家のため……とりわけ、ラニャのために祈りを捧げた。
ああ、ラニャ。可哀想な子。
共に育った双子のアニェは殺された。
見つかったのは頭部だけで、首から下はいまだに行方不明だ。
そのうえ、母は肺病で他界。
トドメと言わんばかりに、姉のように慕っていた修道院の聖女クララも悪魔に憑かれ、手足を縛られ教会から追い出されてしまった。
薄幸な少女は立派なシスターを目指して日夜、励んでいたというのに、神の御許より引き離され、「気狂いクララ」の世話をさせられる羽目に……。
主よ、この穢れなき処女に幸福と安寧を与えたまえ。
十字を切っていると、ベッドのそばで大きなものが落ちる音がした。
油断するとすぐにこれだ。倒れた肉体で起き上がり、スツールに座り直す。
至近距離でも、ひとつのたましいでふたつの肉体を同時に操作するのは難しいか。
まったく、早く使命を果たし、元の肉体を取り戻したい。
一体どうしてこんなことに。
カミサマは、何ゆえにわたしの罪過を明らかにしてくださらないのか。
くっく。わたしだって、それなりに憐れな娘だと思わないか?
だが、退屈しのぎには悪くないし、カラダとたましいが離れてしまう迷惑事にだって利点がある。
墓守のたくましい腕を組み、横たえられたシスターを眺める。
祈りの形のままベルトで留められた両手首は彫刻のよう。
悪魔の代弁をすると謗られ、噛まされた布に浮かぶ唾液の染み。
その悪魔が目覚めぬようにと巻かれた目隠し。
縛られているわたしも美しい。
これぞ幸運だ。
自分で自分をじかに愛でられる者は、ほかにはいないだろう?
わたしはわたしの手の甲を太い親指で撫でて感触を楽しみ、脂ぎって醜い鼻が触れないように気をつけながら、首から立ち上る芳醇な香りを吸い込んだ。
自分の肉体からこんなにも素晴らしい香りがするのを知ったのは、他者に棲みつくようになったおかげだ。
見てくれが美しいのは、この世に生まれてから当然のこととして受け入れてきたが、においまで素敵だったとは盲点だったな。
首元だけでなく、吐息だって甘いし、髪のにおいを吸い込めば今の自分が男だということを自覚させられるほどだし、耳のうしろからだって……。
いや、くさいな。洗ってない犬のにおいがする。
いくら面倒見がいいからといって、ラニャに何もかもを任せるのはよくない。
わたしは周囲に誰の気配もないことを確かめると、クララの肉体を隠す修道服に手を掛けた。
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