とっくに原作からは遠ざかっていました
「……お前は何を言っているんだ? そもそも私の婚約者は彼女ではない。あぁ、もういい。不愉快だ。今後は一切関わらないでくれ」
エウリス王国第一王子、ディアンに冷ややかな眼差しを向けられた挙句、そう言い捨てられ。
フィニカは内心で盛大に「えっ!? フラグミスった!?」と焦っていた。
「え、あ、あの、王子」
どうにか今の発言を無かったことにしようとして呼び止めても、ディアンは振り返る様子もないまま立ち去ってしまう。
「あ……」
ここで強引に追いすがったところで力尽くで振り払われてしまうだろう事は簡単に想像できた。
「一体どこで間違ったっていうの……!?」
困惑した様子で呟くフィニカのその疑問に答えてくれる人物は、残念な事にこの場にはいなかった。
フィニカには前世の記憶があった。
その前世で好きなイラストレーターが手掛けたゲームソフトに興味を持って、人生で初めての乙女ゲームに手を出した。パッケージからしてキラキラした雰囲気で店頭で買うのを少しばかり躊躇った記憶がある。
かといってダウンロード販売はなんとなくイヤだった。好きな絵師の美麗なイラストが描かれたパッケージを手元に置いておきたいと思ったからだ。とはいえ、それとこれとは別で店で買う時は勇気がいったのだが。
ゲームといえばパズルゲームや育成系のゆるふわな物を少しだけ遊んだくらいのゲーム初心者にとって、乙女ゲームは色んな意味で刺激が強かった。少女漫画を読んだ事はある。けれどもゲームは綺麗なイラストが常に目に入るし、更には音声がつくのだ。
漫画は絵と文字だけだが、ゲームには音声だけではない。その場面を盛り上げるような音楽もついてくる。美麗なイラストスチルだけではない、時にはアニメーションだってある。
結果として前世のフィニカは乙女ゲームにどっぷりとのめり込んだ。
それはさながら、今まで身体に悪いからと親からジャンクフードを禁止されていた人物が、成人して一人暮らしした途端枷が外れてしまったかの如く。
ゲームは別に逃げたりしないのに、睡眠時間を削って前世のフィニカは攻略対象全員のエンディングをコンプリートし、更にはそこから他の乙女ゲームに手をだしてを何度も繰り返した。
割といつでも睡眠不足がちであったが、乙女ゲームによるときめきバフで前世のフィニカは人生が常にハッピー状態だった。とはいえ、脳内に幸せ物質が生成されていたとしても、睡眠不足が解消されたわけではない。
転生したフィニカが推測するに前世の死因は溺死である。
多分風呂場で寝た。そして永眠。
一応手元にあったゲームがある程度攻略済んだ後だったからまだしも、そうじゃなければきっと色んな意味で未練になっていたかもしれない。
自分が転生したのが前世でプレイした乙女ゲームである、と気づいたのはゲームのシナリオが開始される少し前だった。
聖女として光魔法を扱える人物は限られている。フィニカはその数少ない光魔法を使うことができる人材だった。とはいえ、魔法が使えるとはいえ使いこなせるわけではない。
立派な聖女となるために、彼女は神殿での修行に明け暮れる事になった。
とはいえ、修行といってもそこまで過酷なものではない。フルマラソンを毎日課せられるでもないし、滝行をしなければいけないわけでもない。
瞑想だとか、あとは国の歴史だとかを学んだり、魔法の使い方を学んだり。
乙女ゲームの中で聖女候補として学んでいた時とそこまで変わらぬ緩さであった。
将来的に国のために働く事になっている聖女。
そんな彼女と将来国を背負う立場にある男性との交流。
そんな男性とやがては恋に落ちて……なんてゲームと同じ展開を途中までは進んでいた。何か大きな失敗をしたわけじゃない。順調なくらいだった。
ゲームの中で一番好きだったのは第一王子のディアンだった。
彼と結ばれる事ができたら。王族に嫁ぐのは大変そうだけど、聖女となれば肩書としてはまぁ、反対はされないはずだ。とはいえ、ディアンには幼い頃より決められた婚約者がいた。
ディアンは王子という立場から、将来王となる事が定められているのは言うまでもない。他に王位継承権を持つ者はいるけれど、彼らはディアンと比べればいささか頼りない。
将来国のために役立つだろう聖女候補たちにも目をかけて、そうして関わっていくうちに一人の聖女候補と恋に落ちるのだ。ゲームでは。
実際途中までは本当に順調だった。
幼い頃に決められた婚約者よりも、国のためにと努力している聖女候補に惹かれ、けれども流石に聖女を側妃とするわけにもいかず。
どうするべきか悩んでいた所に、公的な関わり方しかしておらず、想いは秘めたままだったというのに婚約者が嫉妬で聖女候補へ嫌がらせをし始める事で、彼女は国を背負って立つに相応しくないと判断したディアンが婚約を解消して聖女候補と結ばれる。
ゲームでの第一王子ルートは大体そんな流れだった。
とてもありがちな展開である。良く言えば王道、と言えなくもないのだけれど正直手垢付きすぎて親の顔より見慣れた展開と言っても過言ではない。
エンディングでは誰のルートでも聖女となっているので、身分がどうこうとかはあまり気にしなくてもいいとは思う。
だからといって遊んでばかりいたら肝心な時に困るのもわかっていたから、日々の修行は真面目にやっていた。
他の攻略対象も魅力的ではあったけれど、誰彼構わず手当たり次第に関わるような余裕はなかったし、だからこそ最初から狙いは一人に定めていた。転生したなら逆ハーレムとか目指しちゃおっかな☆ みたいな間違いなくそれ死亡フラグだよ、みたいな事も考えたりはしていない。
大体将来王となる相手とその側近になるだろう相手とを同時に手玉にとるとか、無謀すぎる。
ディアンの性癖的に寝取られるの興奮する~! とかじゃない限り、一人の女を共有とかまずないと思っている。自分と対等な立場の相手であればまだしも、自分の部下と共有とか、最初からそういう性処理の相手ならまだしも、最愛の女性はないだろう。真っ当な性癖であれば。
下手に他の男にも言い寄っている、なんて言われてフラグが消えたら困るからこそ、フィニカは一途にディアンに狙いを絞っていたのに。
だがしかし間違いなく先程のやりとりで、彼のルートは閉ざされてしまった。
フィニカの知るゲームでのディアンの婚約者は、ヒルデガルドという令嬢であった。普段はヒルダと呼ばれていたと思う。彼女は自身の婚約者であるディアンが聖女候補とよく一緒にいるのを見て、嫉妬に駆られ聖女候補をあからさまでないにしろ、あの手この手を使い虐げてくるのだ。それはまさに悪役令嬢と言ってもいい。
ディアンはいずれ国の王となる。そこに国のためとはいえ聖女となった女がいるとなれば、ヒルダにしてみれば忌々しい羽虫が常に纏わりついているも同然なのかもしれなかった。
そこに愛がなかったとして、仕事上の付き合いであったとしても気に入らないとなればきっとヒルダはちくちくと周囲に知られない程度に嫌がらせをしてきたことだろう。
ヒルダの目的としては、聖女になる事を諦めてとっとと神殿から出ていけばいい、そう思っていたのかもしれない。とはいえ、聖女候補は他にもいる。全ての聖女候補を追い出しにかかりはしないと思うが、ヒルダのやる事は国の事を考えれば間違っている。
聖女としての力もない者が聖女を騙っているのであれば、追い出したとしても正当な理由になるけれど、個人で気に入らないからと追い出すような事は国に対して損失でしかない。そんな人物が王の隣に立てるかとなると、まぁ、多少の金メッキで誤魔化しができたとて、そう長くはもたないだろう。
ゲームのシナリオ通りに事が進んでいた。
ディアンとの仲も出会った当初と比べれば大分進展したと言える。それこそ、友人以上恋人未満といったところだろうか。
だからこそ、そろそろ悪役令嬢たるヒルダの嫌がらせがいつきたっておかしくはない状況だったのだ。
最近の調子はどうだ、とディアンに聞かれ、順調であるとこたえた。
けれども、少しばかり不穏な事があるのだ、とフィニカは表情をわずかに曇らせてイベントにあった会話を口に出した。
最近、王子の婚約者であるヒルデガルド様のあたりがキツイように思うのです。もしかしたら、私と王子の仲を疑っているのかもしれません。
そう、確かに口にした。
これだけなら別に、問題のないセリフのはずだった。
ヒルダ様に虐められているんです、なんてありもしない虐めを捏造したわけでもない。ただ、婚約者様と最近仲良くしていますか? と心配する風を装って、そうしてこちらは何も悪いことはしていませんよとばかりに王子の心の隙間に入り込むつもりであったのだ。
けれど。
ディアン曰く、彼の婚約者はヒルダではないらしい。
そんなバカな。
では一体誰が婚約者だというのだ。
この国に令嬢はそりゃ沢山いるだろうけれど、王子の婚約者に、となればその数は大分限られてくる。
ヒルダの次に王子の婚約者に相応しい人物はでは一体誰だ? となってもフィニカはすぐに思い浮かばなかった。
いや、いるはずなのだ。
いなければ私に婚約者はいないと宣言していただろう。
そして、フィニカはその相手を知らず無関係のヒルダが婚約者だと決めつけた。一体何の根拠があって、となるのは当然だろう。
フィニカにしてみれば原作とも言えるゲームでの知識でディアンの婚約者がヒルダであると決め打っていたが、そんなことを知るはずもないディアンからすればいきなり無関係の令嬢を勝手に婚約者だと思われているのだ。一体どんな噂が流れればそうなるというのか。
自分の与り知らぬ場で、醜聞になるかもしれない噂が流れているのであれば、上手く対処しなければいつどこでそれらが足を引っ張ってくるかわかったものではない。
しかも、社交の場でそういう噂があるのならともかく、それを言ったのが神殿で聖女候補として修業に明け暮れるフィニカだ。世間での噂に疎いイメージのある神殿からそういう話が出た、という事は一体今、どこまでその噂が浸透しているのか……ディアンとしては何らかの事態が後手に回ってしまったと感じてもおかしくはない。
ヒルダの家かそれに属する派閥が婚約者を追い落としその立場を狙っている可能性も、ヒルダの家を陥れたい別の存在がやった可能性も、現時点ではどれも有り得て否定できる要素がない。
それを瞬時に考えて、だからこそディアンは早々に神殿を立ち去ったのだろう。
フィニカから更に詳しく話を聞こうとしなかったのは、彼女が敵陣営に属している可能性と、何も知らぬ間に利用されているなら、彼女からもたらされる情報が罠である可能性。どちらにしてもフィニカから有用な話が出たとしてもまずどれだけ信用できるか調べなければならない。
それら含めて考えれば、フィニカから話を聞くのは一度置いておいて、自分で調べた情報を集めて纏めた後でとなったのだろう。
その上で別に何の陰謀もなかった、となればディアンがまたフィニカの元へやってくるかもしれないが、陰謀も何もなかったのにそんな話をした時点で今度は別の疑いがかかってくる。
根拠も何もなく貴族間で余計な混乱を招くところであった事に変わりはない。
ある程度噂の種になるようなものがあったならまだしも、無から有害な噂をまき散らすのはいただけない。
どう考えてもフィニカにとってはよろしくない状況であった。
仮に。
全ての疑いが晴れて、フィニカが単純に間違えただけ、というオチがついたとしても。
恐らくディアンがもう今までのようにフィニカに親し気に接する事はないだろう。
立ち去った時のディアンの態度は、ゲームではフラグが折れたり攻略するにあたって致命的な選択肢ミスをした時のものであり、そうなればその後どれだけ頑張っても彼とのエンディングに辿り着く事はないのだ。
ここがいくらゲームそっくりな現実世界だとしても、ああなったディアンと何事もなく今までのような関係に戻れるか、とフィニカは考えてみたけれど。
どう頑張っても事態が好転する気はしなかった。
「一体どうして……もしかして、あたし以外に転生者がいてそいつが何かした……?」
そうとしか考えられない。
では、果たして一体誰が転生者なのか。
目指していた未来が断たれ、フィニカは思わず親指の爪を噛んでいた。自分が転生者である事を周囲に知られるような真似はしていない。もし自分以外に転生者がいたとして、フィニカもそうだと気付かれたら味方になってくれるならまだしも、敵対するとなったら厄介だと思ったからだ。
だからこそゲームでのフィニカのように今まで振舞ってきたのだから。
そうして今までのフィニカが関わってきた人物で怪しいと思える者はいなかった。
上手く隠しているか、それとも自分よりも過去の時代にいてやらかしたか……
考えられる可能性はいくつかあるけれど、困ったことに現時点でフィニカがそれを明らかにできるかとなれば……ほぼ絶望的であった。
――残念! 彼女の冒険は終わってしまった!!
そんな事を口に出さなかっただけ、レティは自重した方だと思う。
たまたまその場に居合わせてしまって、気まずくなって咄嗟に隠れたとはいえまさか彼女も転生者だったなんて。全然気づかなかった。
レティもまた聖女候補の一人であった。けれどもフィニカと違うのは、彼女は紛う事なくモブであるという部分である。レティもまた前世でこの世界が舞台の乙女ゲームをプレイした事があった。ハマっていたという程ではないけれど、それなりに楽しんで遊んでいた記憶はある。
そんな乙女ゲームの世界に転生したという事もあって最初はテンションが上がったりもした。
主人公であるフィニカが結ばれなかったその他の攻略対象とかなら、上手い事くっつくこともできるのではないか? そんな風にちらっと思ったりもした。
だがしかし、レティは知っている。この世界、フィニカやレティが知っている原作と比べると早々にストーリーが破綻してしまった事を。
レティはフィニカより少し前にこの神殿に聖女候補として連れてこられた。とはいえ、光魔法の才能というか潜在能力は低く、だからこそモブであると理解したわけだ。
けれども全く使えないわけではない。聖女は無理でも光魔法は希少なので就職先はそれなりにある。
神殿に王子だとかその他の貴族といった攻略対象が訪れるのは、聖女となる者を見定めるのもそうだが、それ以外の聖女になれなかった候補たちを場合によっては自分たちの派閥や家に取り込む目的もあっての事である。
聖女になれずとも光魔法を使う事ができた。そんな候補たちの子もまた、光魔法を扱える可能性はゼロではない。次の代は無理でも何代か先に先祖返りのように光魔法を使うことができる者が生まれないとも限らないのだ。
それもあってフィニカ以外の候補たちもそれなりに攻略対象者たちや、ゲームではモブ扱いだったそれ以外の貴族たちともそこそこ顔見知りである。
フィニカは能力的にも今のところ有力な聖女候補であるからこそ、攻略対象者たち注目の的であった。実際王子だって足繁く通っていたし。今のうちからそれなりに顔を合わせておいて、将来的に聖女となった時に仕事上のやりとりをスムーズに、なんて思惑もあったのかもしれない。
とはいえ、つい先程フィニカは知らなかったとはいえフラグクラッシュしてしまったので、もう王子と添い遂げる事はないだろう。
このままいけば誰とも結ばれないけど聖女になって国のために働くノーマルエンドが待っているはずだ。
ゲームと違って現実なので、王子との和解ルートがあるかもしれないし、ノーマルエンドのその先にもしかしたら誰かと結婚できる未来もあるかもしれないが、王子との仲が修復されたとしても仕事上のパートナーが関の山かもしれない。王子だっていずれは王となり国を治めなければならない。そうなれば世継ぎが必要になるし、であれば結婚は早い方がいい。遅くにできた子とか、教育して一人前になって王位を譲る頃には下手をすると余生をのんびり過ごす事もできなくなりそうだし。
ともあれフィニカは知らなかった。この世界がレティたちの知る原作と早々に異なってしまった事を。ある意味でスキャンダラスな出来事だったから、ディアンの口から語られる事はまずないだろうし、攻略対象である者たちの口から語られる事もなかっただろう。下手なことを言って、王家の不興を買う必要はないわけだし。
レティがそれを知ったのは、ゲームに出てきたかもわからないくらいモブな貴族からであった。
ちなみに彼も転生者である。
レティの知る限り自分を入れて転生者は三人であった。今しがたフィニカもそうだと知ったので、現在は四名である。
レティ、フィニカ、モブ貴族。そして――ディアンの叔父であるブライアンである。
ブライアンはこの世界が辿るはずだった物語をぶち壊した元凶でもあった。
本来ならばヒルダはゲーム通りにディアンと婚約をするはずだった。
ゲームでは確かヒルダが五歳の時に婚約が決まったはずだ。だがしかし、そうはならなかった。
何故か。
それはブライアンがロリコンで、よりにもよって幼いヒルダに劣情を抱きイエスロリショタノータッチ精神を発揮できず襲い掛かったからである。
幸い、と言っていいかは謎だが、レイプされたりはしていなかった。していたら流石に今頃ブライアンは毒杯あたりで処分されていたに違いない。
だがしかし、人の少ない場所へ連れ出して、ブライアンはヒルダの頬にキスをしたりぺろぺろしたりしていたわけだ。
犬ならヒルダもくすぐったいわ、なんて言ってきゃあきゃあしていた事だろう。
だがしかしブライアンは成人男性である。父親でもない男からいきなり鼻息荒く頬とはいえキスをされて、そのままぺろぺろされた幼いヒルダの恐怖心や如何に。
五歳児とはいえヒルダは礼儀をきっちり躾けられた令嬢であった。だからこそ、最初は泣き喚くなんてみっともないとかはしたないとか思っていたようなのだが、流石に幼子の心に恐怖が過ぎた。ヒルダ、渾身のギャン泣きである。それもあって早急に救出されたけれど、ヒルダの心にはそれはもう深い傷ができてしまったのだ。
そして、困ったことに。
ブライアンとディアンの容姿はそこはかとなく似ていた。
まぁ血縁なのだから似ている部分があっても何もおかしくはない。
けれども、あまりにも恐ろしい思いをしたからか、ブライアンの名を聞くだけでも涙目になりその場から逃げ出そうとするヒルダは、見た目が似ているディアンに対しても壮絶なレベルで拒絶反応を示した。
ディアンは何も悪くないけれど、ブライアンを思い起こさせるその容姿はヒルダにとって致命的であった。正直突然視界に入ってきたゴキブリの方がまだマシな反応である。
ゴキブリ以上に拒絶反応をされてしまい、流石にこれではディアンとの婚約など無理な話だった。
時間が経って解決できそうな感じではなかったのだ。むしろディアンが成長するとますますブライアンに容姿が近づいてしまうのは容易に想像できてしまった。そうなればヒルダとディアンを結婚させたとして、果たして跡継ぎが生まれるか……間違いなくヒルダにとってはトラウマにしかならない。最悪自死すら有り得た。
やらかしたのが王家の人間であった事、非がどう見てもヒルダにありはしなかった事。
ブライアンは離宮に閉じ込めて社会と隔絶し、世話は老婆と鍛えられた兵士たちだけ。幼女との接触を生涯禁じられたブライアンは今もまだ生きているが、離宮の中で廃人のようになっていると耳にしている。
正直さっさと処分したいという思いがあるとは思うが、王家からすればこんなんでも血縁である事。そしていざ処刑をするとなれば、秘密裏にできるはずもない。何をしたのかを公表しなければならない。そうなれば、ヒルダの心の傷を更に深くするだけだ。
何も言わずに処刑します、というのは下手をすればどんな勘繰りを受けてもおかしくはない。ブライアンの社会的な生命と直接的な命が終わるだけならまだしも、彼の罪を暴くとなればヒルダが好奇の目に晒されてしまう。成長し年頃になってなお、過去の傷を穿り返される可能性があるとなればあまりにも不憫すぎる。
ブライアンやそれに近しい容姿の者と関わらなければ、ヒルダは普通の令嬢である。しかし、未だに克服しきれていない過去のトラウマに触れるような事があれば、彼女はパニックを引き起こしてしまう。
成長した今でもそうなのだ。社交の場に出るにしても、何かあった時にすぐさまフォローに回れる人物がいなければ色々と危険であった。
ブライアンが転生者であるというのは、一時的に彼の世話係をしていたモブ貴族からの情報である。
転生というのを理解していないこの世界の者たちからすれば、ブライアンは頭のおかしい気狂いである。
この話だってレティはモブ貴族が自分と同じ転生者であるとわかったからこそ話してくれたのだ。そうでなければ知る事などなかっただろう。
王子の周辺、またそれなりの地位にいて当時の事を知っている者たちは大っぴらに口にするはずもない。
ヒルダの家にとっても、王家にとってもこの話題は禁忌であった。
ちなみに、ディアンはヒルダの事を少なからず想っていたようだ。しかしブライアンのせいでディアンはヒルダに拒絶されたのだ。ロリコン野郎のやらかしは、幼女の心にえげつないトラウマと、幼い王子の初恋を容赦なく踏みにじって、ついでに自分の人生もフィニッシュが確定しただけに終わった。誰も幸せになっていない。
そんなわけでディアンに婚約者の話はしない方がいいとモブ貴族から言われていたのだ。とはいえレティは王子とお話する機会などほとんどなかったのでそれ以外の話題も口にしていないのだが。
ちなみに現在ディアンの婚約者は別の令嬢であるのだが、そちらとの仲は可もなく不可もなくである。モブ貴族曰く、多分あれまだ初恋を上手く消化できてないやつだ、との事。
自分が原因で振られるならともかく、そうじゃないのであれば確かにそう簡単に納得できないのかもしれない。
初恋の傷をえぐられたようなもの、と思えば、つい先程フィニカが婚約者をヒルダだと思い込んだ話題は不味すぎた。しかも直接的に言ってはいないけれどフィニカは暗にヒルダに嫌われているかもしれない、と匂わせていた。流石に虐められているとは言ってなかったけれど、もしあの場で自作自演でやらかしていたらきっとフィニカの命はなかったのではなかろうか。例え、聖女になれる可能性が一番高い人であったとしても。
一応モブ貴族もフィニカに接触しておいた方がいいだろうか、と思っていたらしいが、いかんせん彼女は攻略対象者などにはそれなりに応対していたけれど、モブ相手にはそこまで親しく接したりはしなかった。それもあって、彼はフィニカと関わる機会がなかったのである。もし知っていたら、ヘマをせず、上手い事できたかもしれない、とはいえ今更だった。
何が悪かったのかをぶちぶちと独り言ちながら、フィニカが立ち去っていく。レティに気付かないまま。気付かれても困るのでむしろ気付かないまま立ち去ってくれるのは有難かった。
王子との未来がほぼ断たれたようなものだし、そうなるとフィニカは果たしてどのような行動に移るだろうか。聖女なんてならないわ、と言うにしてもやりたくないからやりません、というわけにもいかない。聖女には聖女の役目があるのだから。
フィニカの次に聖女になりそうな候補に押し付けて自分は国を出る、くらいすれば聖女になる未来を回避できるかもしれないけれど、その未来はあまりにも先行きが不透明だ。
前世の事を思い出すならば、それなりの身分が証明される聖女と身分もそれ以外もロクに保障されていない平民となら、どちらを選んだ方が生活に安心できるか。それくらいは理解できているだろう。
聖女である事をやめて他の国に行くにしても、道のりは決して楽なものではない。
レティは聖女候補の中でも下から数えた方が早い程度だから、フィニカが聖女やりたくないと言ったとしてもすぐに自分にお鉢が回ってくる事はないだろう。
けれども、他の聖女候補たちが次々辞退する、なんていう可能性もあり得る。
大した実力も無いのに聖女として、となるとどれだけ苦労するだろうか。
想像しただけでも面倒極まりない。
「よし、決めた」
愛人でもいいからモブ貴族に身請けしてもらおう。
同じ転生者という縁もある事だし、見捨てたりはしないはず。
最悪既成事実を作る事も厭わない。
そう、とても聖女が考えなさそうな事を思いながら。
レティもまたその場を立ち去ったのである。