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The Great Hope of the Universe  作者: 佐久謙一
第一章 ハローワールド
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1-1



 この指先から伝わる感触を、僕は決して忘れることは無いだろう。

 その冷たさは、触れた先からこちらの体温を吸い取っているかのような錯覚に陥らせた。このまま触れていると、やがて僕の指は体温を失い、腐り落ちてしまうのではないだろうか。そんな考えが頭に巡り、僕は思わず指を放した。

 決して手を離さないと、僕は言った。僕が君を守ると約束した。

 僕は意を決して、もう一度手を伸ばした。しかし、先程の指先の感触が脳裏に蘇り、もう一度触る事が出来なかった。

 僕は確かめるのが怖かったのだ。

 それがもはや妹ではなく、妹だった物体であることを。



 青臭いカビとアルコールの入り混じった臭いに顔をしかめながら、僕は目を開けた。鼻に付くアルコールの臭いを振り払うように、ゆっくりと身体を持ち上げる。

 敷きっぱなしの布団はシーツが黄色く変色しており、畳からはカビの臭いが湧き出ている。僕は臭気を吹き飛ばすように荒々しく鼻を鳴らしながら、壁にかけてある中学の制服を手に取った。この制服ともあと数ヶ月でお別れだと思うと清々する。

 早々に制服に着替え、部屋を出る。狭い廊下には大量のゴミ袋がずらりと並んでおり、その隙間を黒い虫が蠢いている。僕が大きめの足音で歩くと、虫たちは一目散にゴミ袋の影へと避難していった。

 キッチンに入るとテーブルに突っ伏している人物が目に入った。その手と足元には大量の一升瓶が転がっており、零れたビールが床一面に広がっていた。僕は極力彼女を視界に入れないようにしながら冷蔵庫を開けた。冷蔵庫の中にはまともな食材と呼べるものは一切なく、大量の菓子パンやコンビニ弁当、牛乳やジュース類が並んでいた。僕はその中から菓子パンと牛乳を手に取り、その場で袋を開けてパンにかじりついた。冷蔵庫に入れていたせいで固くなってしまったパンをしっかりと噛みしめながら牛乳で流し込んでいく。食事というよりは、ただ栄養を補給するための作業といった感じだった。

 背後で彼女が動く気配を感じ、僕は視線をそちらに向ける。彼女はのそのそとした動きで顔を上げ、うつろな目をこちらに向けていた。僕は無言のまま彼女を見つめ返しながら、最後の一切れを口に押し込んだ。もそもそとした咀嚼音が鳴り響く。その間、彼女は表情を変えることなく、小さな唸り声をあげ――やがて再び顔をテーブルに押し付け、動かなくなった。

 食事を終えた僕は、早歩きで玄関まで向かう。靴の中に虫が入り込んでいないかを入念に確かめ、素足のまま足を突っ込む。そして逃げるようにして家から飛び出した。

 外の空気を吸い込んだ瞬間、僕は何とも言えない解放感に包まれた。しかしその感覚は長くは続かない。制服と自身の身体に纏わりつく臭気が、否が応にも自分を現実に引き戻すのだ。



 半年前に妹が死んでから、僕達家族は壊れてしまった。

 母は毎日狂ったように酒を飲んでは大声で泣き叫ぶキッチンドランカーと化し、父はそんな母に愛想をつかし、家に帰ってこなくなった。幸い当分の生活費はあったので、コンビニで買いあさった食事で毎日をしのいでいる。

 母や父に対して思うことは何もない。おそらく僕自身も彼らと同じように壊れてしまったのだろう。家族と過ごした家がゴミと虫に溢れるに任せ、自分自身もゴミのように汚れていくのを当然のように受け入れていた。

 学校でも僕の変貌ぶりは不審に思われていた。何度も教師に質問され、クラスメイトから心配の声をかけられた。家族の不幸を知られていたおかげか、いじめのような扱いを受けることは無かった。何よりも他人を冷やかすのが好きな人間でも、極限の不幸を背負った相手とは、関わりたくないようだった。

 僕はこの世から消えたかった。自分自身を捨ててしまいたかった。

 天国も地獄も必要ない。生まれ変わりたいとも思わない。テレビの電源を落とすように、ぷつんと自我を消滅させたかった。しかしそれを実行に移すには、まだ心のどこかで抵抗があった。

 気付けば、僕はふらふらとした足取りで当てもなく歩き回っていた。母親の事。お金の事。自分自身の事。考えれば考えるほど出口の見つからない思考の泥沼に沈んでいく。僕は大きくため息を吐きながら、不安な考えを消し飛ばすように頭を振った。

 その時、ふと視界の隅に映ったニュース映像が気になり、僕は足を止めた。そこにはショーウィンドウに大型のテレビが複数展示されており、アナウンサーが淡々とした様子で原稿を読み上げていた。

 その内容は、世界で起きている異変や、それに関する各国の声明などだった。正直言って、今の自分にはどうでもいい内容ばかりだった。しかし最後に発表されたニュース内容に、僕は思わず驚きの声を漏らした。

 それはあるワクチンを開発するために、世界各国で臨床試験のモニターを募集するというものだった。それによってもたらされる報奨金、そして年齢不問という文字を、僕は食い入るように見つめていた。

 ニュースキャスターが不愉快そうな顔で、危険、人体実験と発言していたが、その言葉はより一層、僕の興味を掻き立てた。

 僕は既に決心していた。ウィンドウに映る自分の口元が緩んでいるのが分かる。

 当然だ。

 やっと心置きなく自分を捨てられる場所を見つけたのだ。



 電車を何本か乗り継ぎ、僕は目的の会社まで向かった。学生のアポ無し訪問ということで門前払いをくらうのではと危惧していたが、特に詮索されることもなく、すんなりと入れてもらえた。必要書類として渡された紙には、名前と生年月日、志望理由、そして報奨金の振込先を記入する欄があった。僕は少し考えたのち、振込先を実家の住所、そして志望理由を『世界の希望の為』とだけ記した。

 書類を提出した後、僕は机と椅子が等間隔で並べられた教室のような部屋に案内された。まるで学校に戻ってきたような感覚に陥った僕は、自分の席である後ろから二番目の、窓際の席に座った。続々と志望者達が現れ、それぞれ席についていく。その間、僕はいつも学校でしているようにぼんやりと外の景色を眺めていた。

 気付くと説明会が終わっていた。会社の人間らしき人物が世界の異変やワクチンについての説明をしていたような気もしたが、そのほとんどを聞き流していた。別にそれで問題ないとも思う。知っていようと知っていまいと僕のやることは変わらない。

 その後、僕は研究所らしき部屋へと連れていかれた。周りには白衣に身を包んだ研究員らしき人物が何人もいた。その中のうち、一人の人物がこちらに歩み寄ってきた。齢三十ほどだろうか。マスクで顔半分は見えないが、透き通るような青い目が特徴的で、非常に聡明そうな雰囲気を持った女性だった。彼女は自分が僕の担当だと言った。

 彼女の指示で僕は服を脱がされ、何かの液体を頭から被せられた。そして彼女は僕をなだめるような声を何度もかけながら身体に注射針を刺していった。僕自身、彼女や彼女の行為に対して不安や恐怖は何も感じていなかった。むしろ、僕に対してまるで腫物を扱うかのように対応している彼女に、大丈夫ですよと声をかけてあげたい気分だった。

 強い眠気が襲ってくる。

 僕は両脇を抱えられるようにして、そっと寝かせられた。視線をさまよわせると、自分が棺桶のような一人用カプセルに入れられていることが確認できた。機械の駆動音が頭の裏で鳴り響き、カプセルの蓋がゆっくりと閉められていく。彼女が僕の顔を覗き込んでいる。重たい瞼を必死に持ち上げながら彼女を見つめ返す。

 彼女がマスクをずらしそっと微笑んだ。

「君は約束を果たしたよ」

 薄れ行く意識の中、彼女の言葉を聞いた僕は、何故か妹の事を思い出していた。



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