ドブネズミたちに捧げる歌4
やっとクエットサルミンに帰ってきました
■2227/04/14 18:04
昨日の遅れを取り戻すように、今日は随分と距離を稼げた。
それでも進みは遅々としており、クエットサルミンへの到着は明々後日になるだろう。
「無理して食べなくてもいいと思うけど……」
「いや、私は覚悟を決めた」
「そんな覚悟なんていることかな」
ベルナディットの言葉に、ファイエットが首を横に振った。たしかに初めて食べる虫なんかは少し覚悟がいる。可食部が少なく美味しくないわりに、毒を持つものが多いのだ。クエットサルミンの兄貴たちはそこらに飛んでいる虫を取っ捕まえてはおやつのように食べているが、真似をしようと思ったことは一度もない。
レオノーレの前にはぶつ切りにされたネズミの肉。ベルナディットたちは面倒で丸焼きのまま噛り付いたのだが、どうしても姿が残っていると駄目だというのでぶつ切りにしてみた。
私は覚悟を決めた、今日は君たちと同じものを食べようと思う!と胸を張って言うので、ヘビではなくネズミを捕獲したのだ。
そしていま、レオノーレの目の前に美味しそうに焼けた肉が鎮座している。
「……食べるぞ」
「そんな死地に赴くみたいな顔しなくても、死なないよ」
「だ、黙ってくれ」
はいはい、ごめんなさいね、と呟いてマスクのフィルターを差し替えた。焚火に古いフィルターを投げ入れると、分厚いフィルターが一瞬で黒く染まりぐるぐるっと縮こまった。
ナイフに突き刺した一口大の肉が、恐る恐るレオノーレの口の中に運ばれていく。
「ん………ん?」
「死ななかったでしょー?」
「…うん……意外と……なんていうか、旨いな」
ネズミは美味しいんだよー、とアディーが嬉しそうに笑った。うちの末っ子は今日も可愛い。
ネズミの肉は旨い。フォーマーなら誰だって知っている。ファームから強奪した肉とまではいかないが、臭みもなく旨味もある。少し硬いのが玉に瑕だが、野営時のご馳走なのだ。
水場が近く土があるところならカエルも美味である。ベルナディットとしては一番手にカエル、次点でネズミ。
「明日はヘビいってみるー?」
「……旨いのか?」
「人による」
ヘビは臭い。食べるところが多く、皮も利用できることから重宝はするが、味での評価は出来ない。
今度はためらいなくネズミ肉を口に運んだレオノーレが、ふむ、と頷いた。言葉に北の訛りがあるのはローマンベルグ人ということで納得できるが、ときおり爺臭い動きをすることに関しては納得しがたい。
美人なのに勿体ないとすら思う。
「憧れてはいたんだ」
「なにに?ネズミに?」
「なわけあるか。外の世界だ」
ファイエットの発言に突っ込んだ後、またネズミを食べる。あれだけ嫌がっていたくせに、味を知ったら嫌悪感も失せたらしい。害獣だって旨いものは旨い。
少し昔話をしよう、と姿勢を正したレオノーレにつられ、ベルナディットももぞもぞとお尻の位置を調節した。
「いまでこそローマンベルグの警察隊にいるが、私はもともとサイエンスコロニーの生まれで、祖父と母はどちらも優秀な研究者だった。しかし、八年前におこった実験中の事故でふたり揃って命を落とした。私が十三歳のときだったかな」
「え、レオノーレってまだ二十一歳なの?」
「ファイエットとそんな変わらないじゃん」
ファイエットはベルナディットの三つ上、現在二十歳である。すらっとしたレオノーレ、その横に座るリトルドラゴン。いろいろな格差に悲しくなってくる。
「ナーディ、その目やめて。泣きそう」
「大丈夫、ファイエットはこれから成長期がくるんだよー」
「うるっせぇ!一番年下のくせにニョキニョキ背だけ成長しやがって!」
脂で汚れたナイフを拭きながら、レオノーレがふふっと笑った。いつの間にかネズミは完食されていた。
アディーとじゃれあうファイエットは、やはりどこからどうみても大人の女性には見えない。
「で?事故でお爺ちゃんとお母さんが死んじゃって、どうしたの?」
「……ずいぶんとあっさりしているな」
身内が死ぬことなど珍しくもない。三人だって、とっくに親なんて失っている。ベルナディットが生まれたとき、父親はすでにいなかった。まだどこかで生きているのかもしれないが。いや、おそらく生きているだろう。ベルナディットが生まれたことなど知らずに、のうのうと。
「私もその事故で大けがをして……それを助けてくれたのが、医者である叔父さんだった」
「医者と外の世界って関係ある?」
「あるんだ。大冒険家なんだよ、その叔父さん」
レフ叔父さん、とレオノーレは呼んだ。
レフ・トーキンという男は、もとは東の地にあるシャポンランドの生まれだそうだ。優秀な研究者であったレオノーレの祖父に憧れて、彼は一万キロもの距離を踏破したのだという。
平地であれば驚きはしない。ローマンベルグからここまでやってきたレオノーレだって四千キロ以上を移動しているのだ。
シャポンランドから、というのがすごい話なのだ。
「大山脈を超えてきたってこと?」
「そうだ、すごいだろう?シャポンランドの目の前には“死の砂漠”と呼ばれる広大な砂漠が広がっていて、その先に待っているのは標高六千メートルを超す雪山、大山脈だ。レフ叔父さんは、その砂漠と雪山を冒険してきたんだ」
大コロニー『サマーカット』と『ネオモスコール』はこの大陸の中央、ちょうど南北に位置している。そして、大陸の東部にも『シャポンランド』と『ノーベルベンジン』が南北に座しているという。
しかし、大陸西部で生きるベルナディットたちにとって、シャポンランドとノーベルベンジンは謎多き大コロニーであった。
旧時代にユーラシア大陸と呼ばれたこの大陸には、東部だけ切り取るように大きな山脈が横たわっている。大陸の南から北まで連なる長大なそれは『大山脈』と呼ばれ、それを生身で越えてきた人間などそうはいない。
標高六千メートルを超す雪山は氷の世界で、木々はすべて凍り付き、平地には存在しない野生動物が闊歩しているという。シャポンランドやノーベルベンジンに向かい、生きて帰ってきた者なんて聞いたことがなかった。
大山脈を超えた向こう側にも人類が生きている。シャポンランドやノーベルベンジンという名のコロニーがある。そんなことくらいしか、西の人間たちは知らないのだ。
「幼いころからレフ叔父さんに聞かせてもらう冒険の話が好きで、私もいつか……なんて思っていたときもあったが」
想像以上だったな、とレオノーレはまた笑った。うまく視線の合わない瞳のなかに、オレンジ色が揺らめいた。
生きていく上で必要な“食べる”ことさえ必死だったベルナディットに、憧れることなどあっただろうか。豊かなサマーカットのネオや、フォーマーでありながらファームの食料にありつけるバラダースの人々を羨ましく思うことは何度もあった。
でも、レオノーレが語る“憧れ”とは、どこか違うような気もする。ベルナディットのそれは、もっと必死なものだ。優しく目を細めて語るそれとは、きっと何かが大きく違うのだ。
ベルナディットには少し、レオノーレの細められた目は眩しかった。
■2227/04/17 06:46
『あー、帰ってきたって感じがする』
『潮の匂いだぁー!」
バラダース付近から西に向かって四日目。インカムの声に耳を傾けながら、左側の景色を眺める。荒れた地には砂ぼこりが舞い、その向こう側に青い海のラインが見え隠れしていた。
バラダースもクエットサルミンも沿岸の街である。そのくせ景色も匂いも随分と違う。潮と砂の匂いで満ちるクエットサルミンと違い、バラダースはいつも鉄と油の匂いがする。
クエットサルミンとバラダースの海には、旧時代の文明が沈んでいる。遠めに見れば青く美しい海も、近づくとその表面に浮く黒い油がよく見えた。バラダースの海にはその油がとくに多いのだ。
バラダースの海には黄金の文明が眠る、というこの周辺で生きるフォーマーたちの間で有名な伝説がある。旧時代にあったドバイという国が沈んでいるのだという。ローマンベルグ方面、西の海には『ヨーロッパ』。サマーカット方面、南の海には『ドバイ』。シャポンランド方面、東の海には『日本』。
鉄やコンクリートの塊を、コロニーの皆は「ガラクタ」と呼ぶ。ベルナディットにとってそのガラクタは「宝の山」だ。ジョセフィーヌだって、インカムだって、三人で揃いの装備だって、全部全部、このガラクタから生まれたのだ。
クエットサルミンやバラダースの周辺は、旧時代には“後進国”だった。これだけの宝を抱えていてなお“後進国”なのだ。
海の底に沈むという“先進国”には、いったいどれだけの黄金が眠っているのだろう。それを考えると、ベルナディットの心臓は小さな音を立てる。
油と毒素にまみれた海に飛び込む勇気はない。それでも、もしできることならば海の底に眠る文明を掘り出してみたい。
「見えたよー!」
砂ぼこりの陰から現れた外壁が徐々に大きくなっていく。クエットサルミンが誇る製塩所も見えてきた。十年前までは塩田を利用して製塩を行っていたが、現在はEE機関を使用してかん水を採取する方法にシフトしている。
いまはもう使われていない塩田は広大な墓場だ。
ゲートに向かってジョセフィーヌを進めていく。ぴったりと閉じたゲートの前で一度エンジンを切り、パネルに左腕のチップをかざす。ぴぴっと小さな音がして、ゆっくりと扉が開き始めた。
パネルの下に設置されたレバーを引きながら、コロニー内との通信が繋がるのを待つ。
「意外と技術は進んでいるんだな」
「とはいっても、力づくでこじ開ければ結構簡単に開いちゃうんだけどね」
「ファイエットが馬鹿力なだけでしょ」
ゲートは開いているが、このまま進むわけにはいかない。ベルナディットたちは大きな荷物を抱えているのである。なにも言わずにネオをコロニーに連れ込むことはできなかった。
『おっすー、お帰り』
「ただいま、ジモン」
『おぅ、ナーディか!どうした?』
通信に出たのは兄貴分のジモンである。手先が器用な楽しい兄ちゃんの声は、スピーカー越しに聞いても明るく聞こえる。ファイエットにしてもアディーにしても、外の世界で防護マスクを手放せないフォーマーたちは、声で感情を示すのが上手い。
「厄介ごと連れてきちゃった。代表呼んできて」
『厄介ごとォ?なんだ、アレか、ネオの男と恋に落ちたとか?』
「そんなとこ。ゲートで待ってるから早めによろしく」
は?おいマジか!というジモンの声が聞こえていたが、面倒なので通信を切った。今頃慌てているだろうジモンの姿を想像して、思わずマスクの中で笑った。
「ナーディ、本当にジモンのこと好きだねぇ」
「うん。クリストハルトも好きだよ」
「お兄ちゃんはついでかぁ」
アディーの兄、クリストハルトはジモンの親友である。長身で、髪や瞳の色がアディーの色彩とそっくりなくせに、中身は何一つ似ていない。声が大きくて怒るとすぐに手が出る。昔からファイエットと喧嘩しては小火騒ぎを起こしてきた。
クリストハルトとジモン、ふたり揃うとうるさくてかなわない、というのがクエットサルミンの総意だ。殴り合いの喧嘩はしょっちゅうで、そのくせお互いに親友だと公言している。
アディーと兄貴衆の話をしていたら、視界の端でレオノーレがそわそわとしているのが見えた。お人好しの代表のことだから放り出されることはないだろうが、喜んで歓迎されることもないだろう。
ベルナディットたち以上に、ネオに強い恨みを抱いている者は多い。過去に危害を加えたのがレオノーレではないと知っていても、感情と事実は別なのだ。そう多くはないが、大コロニー時代の記憶がある大人や老人もいる。そういった者ほど個人ではなく“ネオ”という人種への嫌悪が強い。
「先に言っておくけど、クエットサルミンのひとたちはあたしたち以上に優しくないと思うよ」
「……わかっている」
ひとつ頷いて、死ぬよりいい、と呟いた。
なんとなく、それを聞いてなんとなく、レオノーレの肩をこぶしで軽く叩いた。クエットサルミンの人間がよくやるように、頑張れと言うように。
死ぬよりいい。生きているなら負けじゃない。灰色のなかで渦巻くオレンジに、なんでこの人ネオなのかなぁ、なんてそんなことを思ってしまったことを心の底に隠した。
「ナァァァディィィィ!」
「うわ、うるさ」
「ナーディ!ナーディ!どこだ俺のナーディをたぶらかしたクソ男は!ぶん殴ってやる!」
バイクの排気音が聞こえたと思ったら、ジモンがすでに目の間にいた。転がされた小型のバイクの横で、なぜか代表までゲートの前に転がっていた。
後ろに代表を乗せたままバイクを転がしたのだろうか。危ない。
「ただいま、ジモン」
「おう、お帰り!で、どいつだ!殺してやる!」
「殺さなくていいよ……代表起き上がらないけど大丈夫?生きてる?」
ジモンが改造を重ねた小型バイクは、雑に転がした程度で壊れたりしない。速度よりもなによりも、とにかく壊れないこと。頑丈さと燃費の改良にかけては、ジモンの右に出るものはない。
バイクは壊れないかもしれないが、残念ながら人間は壊れる。転んだだけで骨が折れるのが人間だ。バイクは大丈夫でも、代表は大丈夫じゃない。
「いつまで寝てんだよ、クソ親父」
「ジモンくん、痛い。ボロ雑巾みたいに扱われて、お父さんは心が痛い」
「うるせぇ早く起きろ。ナーディが男にたぶらかされたんだぞ、俺のナーディが!」
ナーディが男の子を連れてきたことより、それがネオだってことのほうが問題なんだよジモンくん。そう言いながら立ち上がった代表が、ぱんぱんと服の土を払う。擦りむいたらしく、膝のあたりから薄っすらと赤い血が滲んでいた。
ジモンの身体の頑丈さは代表の父親譲りであることは間違いない。ジモンの母は下の子の出産の際に亡くなった。生まれたばかりだった女の子は初めから息をしておらず、結局泣くことはなく母親と共に逝った。もし生きていれば、ベルナディットと同じ歳だ。
「あれは……ベルナディットの恋人か?」
「ないない、違うから。ただの幼馴染」
「しかし、すごいな。あれもベルナディットの三輪バイクと同じようなエンジンを積んでいるのだろう?フォーマーでありながらサイエンスコロニーの技術者以上だ」
肯定すればいいのか、否定すればいいのか分からなかった。大コロニーやサイエンスコロニーとの交流がないクエットサルミンには、サイエンスコロニーの恩恵は受けられない。彼らがどのような技術を持ち、どのような研究をしているのか、ベルナディットはあまり知らないのだ。
ただひとつ言えることがあるとすれば、もしもフォーマーたちがサイエンスコロニーを凌駕するほどの技術や知識を持っていたのなら、今のような格差はなかっただろう。同じフォーマーを殺して、食料を奪い合うような生活にはならなかったはずだ。
「ラオさん、ただいま帰りました」
「うん、お帰りなさい、ファイエット。二人も、お帰り。で、えーと、その子かな?」
「女かよ!それともなんだ、女みたいな顔した男なのかお前!」
ファイエットがジモンの頭を思い切りぶん殴った。辺りに響く良い音とうずくまるジモン。うるさいジモンが悪いが、いつもの光景である。
「事情は本人から……だけど、あたしたちに危害を加える人ではないです」
「レオノーレ、貧弱だからね。襲ってきても返り討ちに出来る」
「ヘビの皮も剥げないしねぇ」
苦い顔したレオノーレが目をそらした瞬間。誰もが予想していなかった。人間があんなに簡単に空を飛ぶなんて。
「貧弱野郎にナーディは渡さァァァァァん!」
レオノーレが宙を舞った。
■2227/04/17 07:34
クエットサルミンは人口二千人ほどの小さな街である。そのほとんどはフォーマーであり、このクエットサルミンで生まれた。中には大コロニーからの移動を経験した者もいるが、あまり長生きできないフォーマーである。数はさほど多くない。
クエットサルミンからもっとも近い大コロニーはサマーカットだが、クエットサルミンの起源はローマンベルグである。自らを迫害したネオから逃げるように、四千キロもの距離を、当時たったの二百名足らずで歩いてきたのだという。
たびたび小競り合いを繰り返してきたネオとフォーマーであるが、それに耐えきれなくなったローマンベルグのフォーマーたちが決起してコロニーを離脱した。EO器官不全を起こしやすいフォーマーにとって、それは命がけの革命だったと言える。今から四十七年前、【ローマンベルグ事変】と呼ばれる事件である。
ローマンベルグ事変を機に、ブレムやサマーカット、ネオモスコールでも次々とフォーマーたちが離脱していった。ネオとフォーマーが生きる道を違えてから、いまだ五十年も経っていない。
ぎりぎりのところで自給自足を続けているクエットサルミンだが、塩分濃度の高い土壌は作物が育たず、汚染された海では海産物を望めない。唯一盛んな塩業すら、塩湖が近いサマーカットとは取引にならない。
「外周ぐるっと約二十四キロ、ジョセフィーヌだったら一時間かからないで一周できるくらい小さなコロニーだよ」
興味深そうに周囲を眺めているレオノーレを連れて、クエットサルミンの中心部に向かう。先ほどジモンに投げられたためか、やたらとくたびれて見える。怪我はないが、頬が土で汚れていた。
人口が少ないせいでほとんどの人間が顔見知りである。ただ、人口が少ないため人もそんなに歩いていない。
外周約二十四キロは、塩業などの工業地帯を省いた計算である。海側、南部の土地は塩業を含む工業地帯に費やされ、人間の生活圏は北上しながら発展している。
「ところで、これはどこに向かっているんだ……」
「お風呂だよー」
「……風呂」
ベルナディットたち四人、ジモン、代表のラオ、先ほど合流したアディー兄であるクリストハルト。七人でぞろぞろと連れ立って歩いていた。
遠征から戻ってきたら風呂に入る。いつの頃からか三人の間で習慣化されている、ある意味で一大行事であった。
貴重な水操作要員であるアディーは、もともとクエットサルミンの生活用水施設で働くことを期待されていたのだが、いまではファイエットと連れ立ってお風呂屋さんを営んでいる。
何人も浸かれるような大きな浴場ではなく、人がひとりぎりぎり浸かれるほどの小さな風呂。これが案外評判がよく、風呂屋を開けているあいだはひっきりなしに人が訪れてくる。
ベルナディットたちが入浴をしているあいだに今後の対応を考える、などと男衆は言っていたが、相伴にあずかろうという魂胆が丸見えであった。
「風呂屋があるのか?」
「あたしとアディーがやってるの」
「風呂屋を営んでいるのか!?」
大きな声を出したレオノーレに、ファイエットが迷惑そうな顔をした。レオノーレの驚く基準がわからないのは今に始まったことではない。
「……意外と平和なことを生業にしているんだな……」
「………悪い?」
「悪いとは言ってない。ベルナディットも風呂屋か?」
むすっとした顔をしたままファイエットが足を速めた。幼いころからリトルドラゴンと呼ばれるお転婆娘のファイエットは、穏やかに風呂屋をやっていることをからかうと機嫌を損ねる。ベルナディットとしても風呂用の水を蒸発させないかときおり不安になるが、なんだかんだ上手くやっていることは間違いない。
「私は機械屋さん」
「そのままだな」
「まぁね。それくらいしか出来ることないし」
前を歩いていたファイエットが足を止め、小さな建物を見上げる。旧時代に建てられたものを改装したコンクリート製の建造物。クエットサルミンに限らず、大コロニーなどの建物も旧時代の建造物を利用したものが多い。大コロニーに至っては、大災害の名残で居住区は地下に群生している。
「さて、やりますか!」
「掃除ー!」
今回の遠征は十日を要した。遠征後の風呂はいつも掃除から始まる。脱衣所、洗い場、浴槽、ベルナディットの小さな工房、そして三人の居住域。
マスクを外し、重たいジャンバーを脱ぎ、ブーツを投げ捨てる。
「あー!帰ってきたぁ!ただいま!お兄ちゃん、これよろしく」
「あ、おい!アディー!」
「あたしのもよろしくー!」
ファイエットとアディーの荷物を持たされたクリストハルトの腕に、ベルナディットも無言でマスクとジャンバーを重ねた。
浴室に駆けていった二人のぎゃあぎゃあ騒ぐ声が聞こえた。大量の水がばしゃばしゃと跳ねる音、ファイエットの怒る声、アディーの笑い声。
「なにやってんだ、あいつら」
「おい、ジモンも半分持てよ」
「お前が任されたんだろうが。責任もって荷物持ちやってろ」
ひとつ伸びをすると、自分の身体から砂ぼこりの匂いがした。いまからこの汚れを落とすのだ。うん、帰ってきた。
さて、と振り返ってレオノーレの手首を掴むと、細い手首がびくりと震えた。グレーの瞳をのぞき込んで笑う。
「レオノーレもやるよ!」
「え、いや、私は、っておい!やめろ引っ張るな!」
灰色のコートを剥ぎ取って、浴室へと引っ張る。踏ん張って抵抗する足に土がついているのを見て、先ほどの光景を思い出した。
人間は空を飛べる。そう、地に足をつけて動かないのなら、宙に浮かしてしまえば良い。人間は空を飛べるのだ。
全身にEOを巡らせて力をこめる。レオノーレの脇腹を掴むと、ワァ!とかギャア!とか悲鳴が聞こえたが、知らん。
「やめ、やめろ!ベルナディット!ベルナディットー!」
レオノーレがまた、宙を舞った。
Tips
大山脈:大陸を東西で分断する山脈。南北に連なる山々は、高いところで標高六千メートルにもなる。足を踏み入れて戻ってきた者は少なく、大山脈の向こう側に存在する二つの大コロニーは幻のコロニーとまで呼ばれている。
死の砂漠:大陸南東部に存在する大コロニー『シャポンランド』の目の前に広がるという移動性砂漠。四十万平方キロメートルもの面積を誇り、日々その姿を変えているという。強い風と広大な砂地は、一歩足を踏み入れると途端に方向感覚を奪い去る。遺跡に残る旧時代の資料から、この死の砂漠は旧時代から存在していたのではないかと言われている。
ノーベルベンジン:大陸北東部に存在する大コロニー。噂ではローマンベルグ以上の面積を有している。謎多きコロニーであるが、ときおりノーベルベンジンから流れてきた人間がネオモスコールやローマンベルグに流れ着くという。
シャポンランド:大陸南東部に存在する大コロニー。噂ではネオモスコールより離脱した研究者がまとめ上げたコロニーだと言われている。大山脈と死の砂漠の向こう側にある、ノーベルベンジンよりも謎多き地。
黄金の文明が眠る海:大陸の東部に『日本』、大陸の西部に『ヨーロッパ』、大陸の南部に『ドバイ』。それぞれに旧時代に華やかな発展を遂げた国が沈んでいる。噂では『ヨーロッパ』は国ではなく、いくつかの国を包括した地域の名称だという。ローマンベルグやブレムに住む人々の祖先は、このヨーロッパから避難してきた人々とも言われている
クエットサルミン:大陸南西部に位置する小さなフォーマーズコロニー。外周およそ二十四キロメートル、歩いても五時間はかからずに一周できてしまう。海側に位置する南部には工業地帯が広がり、塩業や芋・ハーブなどの栽培、紡績、生活用水の管理などが細々と行われている。居住区などは北に向けて広がりを見せており、ここ二、三年はベルナディットたちのような第七世代の者たちが活躍している。塩業は唯一盛んであり、コロニーの前に広がる広大な塩田はクエットサルミンの大きな特徴であった。しかし、十年前に起きた事件以来、塩田は使用せずEE機関を使用した製塩に切り替えた。