19 止めときましょうよ、それ
書き物を用意することは簡単でした。言えばミノタウロスが何でも持ってきてくれます。
これまでひたすらご機嫌取りに徹していたせいか、彼は深く追求することなく、各種道具を取り揃えてくれました。
すっかり元気になったお姫様は、「うまくいったようね」としたり顔です。
「もしかしたらそこまで考えが回らないのかも」
リンネさん曰く、脳まで筋肉でできているらしいので。
「ふふ」
お姫様もつられて微笑みを見せます。
憑きものがとれたように晴々と、とは行きませんが、その眼差しからはすべてを受け入れ、前に進もうとする意思が感じられました。
「手紙と一緒にこれを渡しておくわね」
お姫様は、左手の薬指に嵌めていた銀色の指輪を私に見せます。
「王家の家紋が入っているから、これさえあればあたしの遣いだってお父様たちに伝わる。たとえ化け物を身籠っていても、あなたが殺されることはないはずよ。多分だけどね」
「それはどうも」
「お礼を言うのはあたしよ。アルル、あなたのことを誤解していたわ。あなたは気高い魂を持った、あたしの命の恩人……」
不意に手紙を書いていた手が止まり、言葉も途中で消えてしまいます。
「どうかした?」
「本当にこれでいいのかしら……。だって、あなたを犠牲にして……あたしは……」
「止めときましょうよ、それ」
それ以上は野暮でした。
リンネさんの思惑ははっきりしませんが、優先事項は何も変わりません。
窮地に立たされた我々が、万難を排して真っ先に達成すべき目的は、王都に今の窮状を伝えること。であれば、これが最善手に違いありません。
怪物の仔を身籠ることこそが、この城から抜け出す唯一の方法なのです。
私であれ、
リンネさんであれ、
地下の村娘であれ、
誰かがその役を担い、実行する他ない。
覚悟はありました。なるようになれ、程度のものでしかありませんが。
お姫様も分かってくれたのでしょう。二、三度頭を振って憂いを払いのけ、手紙を最後まで書き終えます。
凛と面を上げ、それ以上臆することなく私に手紙を差し出しました。
「最後に一つだけ言わせて頂戴。アルル、本当にありが―――」
心から告げられる感謝の言葉は、しかし最後まで聞き取れませんでした。
突如、激烈な横やりが入ったのです。
「え……? きゃあああっ!」
扉をぶち破り、横合いからお姫様へと襲い掛かる、巨大な影。
お姫様をその身に喰らった襲撃者は、狩人が鬨の声を上げるかのように伸縮自在な身体を勢いよく伸び上がらせます。
スライムでした。
ただのスライムではありません。極彩色の煌めきを放つ、特大サイズの怪物です。
「ひぃぃ……っ」
粘着質な巨体に四肢を囚われ、お姫様が喉を引き攣らせます。空を揺蕩う無数の触手に頬を撫でられた途端、狂ったように暴れ出しました。
「いやあああっ! 何で、どうしてスライムがっ! 今日は、今日はないはずじゃっ! やめて! お願い放して! 放してええええっ!」
お姫様が叫びます。
響くは、聞く者の肝を凍てつかせる断末魔の絶叫。もはや体裁などあったものではありません。面に戦慄の形相を貼りつかせ、絶望に抗います。
そんな決死の抵抗をあざ笑うかのように、極彩スライムの身体が細やかに波打ちました。
「ひっ、あぁ……っ!」
ただそれだけでお姫様の華奢な身体はビクリと痙攣し、完全に動きを止められてしまいました。
見開かれた瞳には涙が溢れ、じんわりと恐怖に支配されていきます。己の理性が狂わされる絶望感は、何度味わおうと耐え難いものなのでしょう。
「やっ、服の中に入って来ないで! 来るなあああっ! ああっ、きゃあああ! いやだっ、スライムはもういやあああああぁぁぁ……っ」
ずぶずぶと底なし沼に沈んでいくように、お姫様は極彩スライムの巨体に取り込まれていきました。
そして、それだけでは済みません。
べちゃん、べちゃんという粘着質な足音共に、極彩スライムの一団が小さな部屋へ殺到し、次から次へとお姫様目掛けて飛びかかって行きます。
目を覆いたくなるような圧巻の光景でした。いろんな意味で。
「うわあ……」
出来上がっていくスライムの小山を前に、私はどうすることもできずに立ち尽くしてしまいました。
いやほんと、どうすればいいんだろこれ……。