12 唾液味? それとも胃液味?
もはや、どれだけ走ったのかは分かりません。このトンネル、一体どこまで続いているのやら……。
「はひー、はひー……」
体力の限界を迎え、情けなくも遅れ始めた私を見かねて、リンネさんはようやく巨大スライムを仕留めてくれました。
グロッキーな私に対して、リンネさん息一つ上がっていません。化け物か、この人……。
「まあ冒険者ですから」
「私だって、幼い頃から野山を駆け回っていた方だというのに……」
狭いトンネルの中、壁を背にしてへたり込みます。
職業柄、逃げ足には自信があったのです。過信に過ぎないことが証明されてしまいました。体力的にも精神的にも、ボッコボコです。
「それにわたしの場合、栄養補給も滞りなく行えますし」
リンネさんは、ぺろりと舌で唇を拭います。
口端に残っていた橙色の欠片が舌先に絡め取られ、口の中へ。余韻を楽しむように舌の上で転がしてから、嚥下し、満足そうににっこりします。
「ずるい……」
私の方は喉を潤すことさえできません。水筒も食料も、きちんと持ってきていないのです。
準備不足もいいとこ。だって、こんなことになるとは思いもしませんでしたし。
冒険よりも戦闘に備えて準備をしたことが仇となりました。小物入れの中で転がる大量の"スライムの核"は、文字通りお荷物でしかありません。
「さて。こうなってしまった以上仕方ありません。先に進みましょう」
リンネさんは意気揚々とランタンを翳して、トンネルの先を指差します。私と違って、気力体力ともに充溢なようで。
早々に判断を下す迷いのない横顔は、まるで最初からこういう状況に陥ることを想定していたようにも見えます。
「先にも言いかけましたが、こうなることは予想していました」
「だったら、なんでそれをギルドに言わなかったの?」
「可能性の一つとして話は通しました。その上で今回の調査依頼が組まれたのです。不測の事態に対応できるよう、適する人材が最少人数でパーティーを組み、ことに当たろうと」
つまり、本来の流れとしては、この異常事態を発見した時点で、私は用済み。そこから先は"捕食者を喰らう者"ことリンネさん一人で行う、特殊な臨機応変型クエストであったと。
現在において、私完全にお荷物……。
「それならそれで、ちゃんと事前に言っといてよ……。私、何の準備もしてないんだけど?」
ついには、手を引いて引っ張り起こしてもらう始末です。
ものの見事に巻き込んでくれたお陰様とはいえ、やや申し訳なく……。しかし、疲弊した身体は言うことを聞いてくれません。
新調した上衣の袖で浮き出る汗を拭い、軽い口渇を訴え始めた唇を舐めます。
満足な装備もなしに初めての洞窟探索だなんて、冒険者人生ハードモードが過ぎる……。
「お腹は空くし、喉だって渇くし。行方不明者を見つけるどころか、遭難者が一名追加される展開待ったなしじゃない」
「食料と水をご所望ですか。ならば」
「え、何か当てがあるの?」
それは助かる! と期待を込めて顔をほころばせた矢先のこと。
澄んだ色をした瞳がすぐ近くにありました。
「失礼」
細い指で顎を掬われ、柔らかな唇を押し当てられます。
「―――んぐっ?」
何事かと驚くよりも早く、どろりとした感触が口内に侵入し、一気に満たしました。
堪らずごくりと飲み込むと、濃密なゼリー状の液体が何の抵抗感もなく喉奥を滑り落ち、胃の中に収まります。
「ん……っ、こほ、けほ。……な、何なの、いきなり」
三十秒ほどの熱い接吻を経て、ようやく解放されます。
私、初めてなのに……。
「一体何を流し込んで?」
聞かずとも、何となく答えが予想できました。
「先程捕食したスライムです」
ああ、やっぱりぃ……。
「ご心配なく。アルル様の臓腑が溶け落ちるようなことはありませんから」
「え。そうなの?」
目を白黒させて、慌てて隅っこで嘔吐く私。
その背を優しくさすりながら、リンネさんはどこか得意げに言い張ります。
「わたしの消化器官はとても優秀なので」
「どういう理屈だ……」
「スライムの酸力は核から離れた時点で霧散します。今しがた、あなた様に流し込んだ体液は食料として安全です」
いろんな言葉が迷子です。
「そういえば、中和する効果があるんだっけ。えっと。つまり、リンネさんは一度捕食したスライムを無毒化して吐き出したということ? ……え、リンネさんはれっきとした人間なの?」
「見ての通りです」
見た目から判断してはいけない存在が、目の前で澄ましていました。
女神に仕える神官が、スライムを好んで捕食し、自在に吐き出すとか……。不敬もいいとこ。
もうそろそろついていけなくなりそうです。
「いや、そもそもスライムを食料にするって考え方がもはや末期」
「口渇も空腹も一度に解決したでしょう?」
「それはそうだけど」
それらを欲したのは私とはいえ、欲を言えばもう少し何とかならないものかと。
ビジュアル的に、深層心理的に、受け入れがたいものがあります。
まだあのドロッとした感触が口内にへばりついており、先程まで空っぽだった胃にはずっしりとした重みを感じます。
何となくの不快感に口をもごもごさせ、頬の内側や歯列の間に舌を這わせます。
「お味の方はいかがでしょう?」
「何だろう、不思議な感触……。それにほんのり甘くて……。なにこれ、リンネさんの唾液味? それとも胃液味?」
「スライム本来の味です」
これは意外、美味でした。
鼻から抜けるような薄い甘味がほんのり広がり、私好みと言えなくもありません。いつだったか、リオンさんがおごってくれた、粉寒天を溶かして固めた和菓子に似ているかも。
「スライムの味は生息する環境によって変わります。一概に言えませんが、肉食スライムは基本美味しいです。この先もスライムが豊富そうですし、これで食料と水の問題は解決ですね」
「解決としてしまっていいのかな……」
甚だ疑問ですが、さておきとしましょう。
喉とお腹が満たされ、少々心に余裕が出てきました。こうなってはもう仕方ありません、諦めましょういろいろを。
「おや、腹を括りましたか」
「どうせこのまま引き返したところで、今度はトンネルの調査を依頼されるのがオチだし」
引き返せないところまで来てしまったのなら、先々の不安はもはや無用の長物。行けるところまで行ってみましょうか。
「その意気です。さあさ、共に美味なるスライムを探す冒険の旅へ」
「そろそろいい加減にしときなさいよ?」
「失礼、場を和ませようと思いまして」
「純粋な食欲でしょうに」
私たちは、トンネルの奥に向かって進み始めました。




