7 魔神王の影
「そう思っていたのですが、しかし……」
両手を組み、女神様へ感謝の祈りを捧げていたリンネさん。
不意に声のトーンが沈みます。
「何か問題でも?」
「実はここ最近、ギルド本部からの召集を受けて王都グランセルに赴いていたのです」
「へえ」
そういうこともあるようです。
冒険者ギルドは、たいていどの街にも設置されおり、その街に住む冒険者の職業斡旋所として機能しています。
ただまあ、当たり前の話として、難易度の高いクエストには有能な人材を抜擢したいわけです。
ギルドが二つ名のシステムを採用しているのも、この辺りが理由でしょう。彼女のように名乗りを上げれば、それだけ別の街から声がかかる機会も増えるのです。
さておき、ベテランに位置づけられる第二級冒険者をわざわざ招集したということは、王都でそれだけ大きな事件があったという証左。
確か同じようなことを、オリビアさんからも聞いていた気がします。
「ひょっとしてお姫様誘拐の?」
「おや、ご存知でしたか。まさにそれです」
リンネさんは然りと頷き、事の発端を語り始めます。それは、お姫様の婚前祝いのパレードで起こりました。
王都から出立し、各地を巡る巡業が始まろうとしていた、その矢先のこと。怪物からの奇襲を受け、お姫様はあっという間に攫われてしまったのだとか。
「当然、護衛の兵士や腕利きの冒険者も護衛にあたっていました。数日かけて街道を行く顔見せのパレードですから。賊の襲撃を予期して、護りは固めていたそうです」
「そんな状況で、一体どうやって攫われたと?」
「その瞬間を目撃したのは、兵士の中の一人でした。彼の者曰く『突然地面が割れ、そこから怪物が生まれ出でた』と」
「なんのこっちゃ」
「ええ、当然誰も取り合いません。国王の怒りを買った彼は、嘘吐きとして多大な責任を背負わされ、投獄されました。肝心の話を聞くこともできず、詳しい状況は分からずじまいです」
「ええっ?」
それはさすがにやり過ぎなのでは? というか、最悪な状況を悪化させて如何とするのやら。
呆れる私に同調するように、リンネさんは憂いの吐息を落とします。
「大切な一人娘を攫われ、国王は乱心に陥っているのでしょう。今回の件もそう。事件の整理ができていないうちから、三級以上の冒険者すべてに召集をかけ、王都へ集結させました。ろくに情報もない状態で、無意味な人海戦術を繰り出そうなど、愚策もいいとこ」
話を聞く限り、かなりの大騒ぎになっているようです。
「若い娘が怪物に攫われる案件は世に溢れるほどありますが、近頃王都付近で連続している誘拐事件は少々毛色が違うようでして。事件の背景には魔神王復活の予兆があると、もっぱらの噂でした」
「ま、魔神王?」
魔神王。
それは、世に数多犇めく怪物たちの頂点に君臨する最強の存在。
彼の者の力は海を割り、大地を砕くとか。古い古い、おとぎ話の中の登場人物です。
「実在しますよ、魔神王」
「嘘でしょ!?」
私が驚きの声を上げたのも、無理からぬことでした。
ほとんどの子供たちにとって、魔神王という存在は絵空事。戒めのために言い聞かせる物語の中のやられ役なのです。
私も幼い頃に読み聞かされました。『悪いことばかりしていると、魔神王の手先にされて、馬車馬のようにこき使われるぞ』と。
盗賊がどの面下げて語るのやらって感じです。
「それって、本物を見た人がいるっていうの?」
「さあ。古い文献に記録があるくらいで」
「……なんだ、結局荒唐無稽な世迷いごとか」
びっくりさせないでよ、と肩を竦めて見せます。
大人びた雰囲気のせいか、彼女が真剣な顔をすると、妙に説得力が宿ってしまって困りものです。
「確かに姿を見たという人間はいないでしょう。しかし、魔神王を打ち倒すことが冒険者の最大の使命であることに変わりはありません」
「そういえばそんな話もあった気が……」
いつだったか、リオンさんから説明を受けていました。ありきたりな伝統や慣習の類だと思って、聞き流してしまいましたけど。
「冒険者がそうであるように、魔神王へ対抗するための手段がいくつも考案され、今なお世に残されています。例えば、この街もその役割の一つです。王都から程ない距離に位置するここには、有事の際死守防衛ラインが引かれます」
それは、この国で一番栄えている都が何者かの手によって陥落するという、妄想話のような事態を想定して、作り出された取り決め。
水の街として見目麗しく栄えているアクアマリンですが、建前上は血の雨が降りそうな役割を持っている、と。
「引っ越しを検討した方が良さそう……」
「もちろん、すべては憶測に過ぎません。現に、いつまで経っても大した異変は起きないし、目新しいスライムはいないしで、退屈になって帰ってきてしまったのです」
「おいおい……」
呆れて突っ込みますが、どうやら本題はここからのようです。
「そうしてこの街をしばらく留守にしている間に、わたしの食事処が何者かによって潰されていたのです」
リンネさんは瞳を伏せ、憐憫の吐息をつきます。
「食事処? ああ、スライムの……ってまさか!」
「街中のスライムは脆弱な怪物です。一見どこにでもいるように見えて、実は限られた場所にしか生息しないのです。そのスポットのほとんどが、綺麗さっぱり掃除されていました」
背中を冷たい汗が伝います。もはや心当たりしかありませんでした。
そんな私の様子をつぶさに観察し、リンネさんはくすり、と怪しく口元を歪めます。
「ええ。ずっと探し回っていたのです、その界隈を賑わせている憎き掃除屋を。見つけたらどうしてくれようか……、と」
「そ、それで地下水道に?」
「その通り。ここなら時折水流に乗って新鮮なスライムが流れ着きますから。彼の者もきっと現れるに違いないと。そして、現れたわけです」
向けられる顔はにこやかなのに、目の奥が笑っていません。怨嗟の視線が突き刺さるようでした。
私はたじたじになりながら、意味がないと知りつつ、彼女からやや距離を取ります。
「そのう……。その掃除屋さんをそんなに恨んでいるの?」
「実はそうでもありません。スライムの集まるポイントを潰されたのには腹が立ちましたが、同時に興味も沸きました」
……おや? と首を傾げると、リンネさんは元の穏やかさを取り戻していました。
「人々が行き交う街中で怪物が繁殖するのにはそれなりの理由があるのです。悪い気の堪りやすい吹き溜まりとでもいうのでしょうか。弱いスライムはゴミや汚れを食べて生きるもの。彼らが繁殖できる環境はそう簡単になくなりません。それがきれいさっぱりと。それができる暇人は新米冒険者くらいですが、一日二日やったところで焼け石に水。それを毎日毎日繰り返していた変人は果たして何者だろう、と」
酷い言われようでした。
「ええ、きっとスライム好きに違いありません」
「はい?」
何故そんな結論に至るのか。
戸惑う私を置いてきぼりにして、リンネさんは独り熱く拳を握ります。
「来る日も来る日も、根気よくスライムだけを倒し続ける新人冒険者……。大変興味を抱きました。彼の者となら、スライムについて熱く語り合えるとに違いないと」
そして、屈託のないにっこりスマイルを浮かべて、
「あなた様にお会いするのを心待ちにしていましたよ、"異端なる掃除屋"」
「……申し訳ないです、こんなんで」
私は、半笑いを返すしかありません。
大いに期待を持たせてしまったようですが、蓋を開ければ、どこにでもいる小娘だったわけですから。
「いえいえ。良き友人と巡り合え、先行きがとても楽しみです」
おかしな期待を向けられても困る、と言外に告げてみますが、どうやら効果は望めません。
どうにも、妙な気に入られ方をしているようでした。