後悔
「林檎を食べましょう!」
唐突に包丁と林檎を取り出した熊に驚いて、思わず万年筆を取り落す。
「商売道具なのだから大事にしなさいな」
どの口が言うか、と口を尖らせて抗議する私の目線諸共、「まあまあどうでもいいじゃありませんか」と話を叩き切って、熊は林檎をしょりしょりと剥き始めた。
納得出来ない心を無理矢理宥め、万年筆を拾って執筆に戻る。
ある文庫本を超える作品を書かなければならない。全長三メートルの猛獣を相手にしている暇などない。
しかしどうしたことか。集中を切らしたせいか、掴みかけていた良いフレーズを忘却の彼方へ弾き飛ばしてしまった。
歯軋りしながら視線を上げると、件の文庫本が視界を埋める。
題名は『帽子』。熊が兎を模した林檎を差し出して、のほほんと笑った。
「僕の本でも読んでリフレッシュしましょうよ!」
タチの悪い善意だと、彼の差し出した林檎を齧る。
熊も食べるかもと思い当たったが、視界の外側からバキャリという湿った破砕音が聴こえたため一つ残らず食べる事にした。
そのまま私が三切れ、熊が三つの林檎を食べ終わった時、熊が林檎を手の甲に乗せて問うた。
「何に見えます?」
林檎だ。だが、熊が聞いているのはそんな事ではない。彼が聞きたい答えは詩的な言葉なのだろう。
私は、心臓に見える、と答えた。
真紅に輝く、噛み付くと汁を迸らせるその様が、なんとなく心臓に見えた。
熊は心臓、心臓と反芻すると、自論を展開した。
「僕には後悔に見えるんです。幸福だの愛だのと、そんな赤々とした花言葉に塗れながらたった一つ、この林檎には後悔という花言葉がある。コントラストで、それだけがくっきりと見えるんです」
成る程、と熊から手渡された林檎を見つめ、思う。
私は彼に嫉妬しているが、友になった事を後悔するだろうか。
————無いな。
鼻で笑って、私は林檎を握り潰した。