第七話 エピローグ
※現在※
「それがちょうど、僕が二十六で由美が二十七の時の話だ」
慎志は長い話を一度区切って、ギムレットを頼んだ。マスターがそれを持ってやってくると、慎志は再び話を始めた。
「その年、僕はどうにかして電子機器メーカーの職員に転職することができた。本当に、死にもの狂いだったよ。でも、これで何とか希望を失わずに済んだ。その後も俺は、自分で言うのもなんだけど、それなりに直向きに頑張って結構良いところに昇格することができた。
そして、その頃、長女が誕生した。あの時はほんとにうれしかったよ。子供が生まれるということはこんなにうれしいものなのか! ってね。あんまり子供が欲しいと思う方ではなかったから、すごく不思議な気持ちだった。二年後、長男も誕生して本当に幸せな日々が続いた。遊園地に遊びに行って、遠くまで旅行して、毎日保育園に送り迎えして。そりゃ、楽しい事ばかりじゃなかったよ。でも、苦しい日々も含めたその全てが、何よりも大切でかけがえのない一日一日だった。
でも、幸せはそう長くは続かなかった。子供が高校生になった頃、僕は由美と、子供の進学の事で喧嘩になった。本当に些細なものだったのに、僕はつよがりを捨て切れずに、また人生を棒に振ってしまった。遂に何もかも失ってしまった。
それから独り身になった僕はまたときどき夕月奈のことを思い出すようになった。夕月奈との幸せな日々のこと、ときどき喧嘩していつも僕が先に折れて二人して笑ったこと、そして夕月奈との最後の四か月のこと。そのことが思い出されてはまた消え、思い出されてはまた消え…。その打ち寄せる潮が引くとき、たいてい僕は由美と家族のことを思い出した。あの頃は本当に辛かったよ。でも、誰も責めることはできなかったし、責めるあてもなかった。それこそギリギリだったと思うよ。そして、そのギリギリから再び身をもたげることは、今の今までひと時としてなかった」
もううんざりだよ、と一言溢して、慎志はギムレットを啜った。
「ときどき、旅行雑誌を広げることがあるんだ。夕月奈との旅行のためなのか、家族との旅行のためなのか、それは自分でもわからないけど…」
慎志は一気にギムレットを飲み干してしまうと、ふらつく体を制しながら店を出た。マスターに向けて言った、ありがとう、という言葉が慎志の最後の言葉になった。
慎志はコンビニのビニール傘を広げながらタクシーを下りた。しかし、さっきまで降り続いていた大雨はすっかり止んでしまっていて、空には雲一つ無かった。無数の星々が光り輝いていた。慎志は一度開いた傘を無造作に畳んでしまうと、空を見上げることなくマンションの階段を登り、自分の家のドアを開いた。
慎志は部屋に戻ると電気をつけて、家にあったインスタントラーメンをつくった。もう何も、味と言える味はしなかった。慎志はちゃぶ台のような低いテーブルの上で、写真立てに入った二つの写真をじっと眺めていた。由美の映る家族との写真と、夕月奈の元気な頃の写真だ。
その二つの写真を眺めていると、様々な記憶が思い出された。楽しい思い出ばかりではなかったが、どれも大切な思い出だった。しかし、記憶の回想と共にどこか体が気怠い感情に支配され始めた。
しばらく慎志はそれを見比べたまま動かなかった。と思うと、不意に立ち上がり、その二つの写真を思い切り壁に投げ付けて、粉々に壊してしまった。慎志は大粒の涙を流していた。慎志は悲しくなかった。哀しくもなかった。ただ無意識に涙がこぼれ落ちるのだ。慎志には、その涙の意味がわからなかった。
慎志がただひとつ言えることは、その涙が“悲しみ”からきたものでなければ、“哀しみ”からきたものでもない、ということだった。それは、この二つの“かなしみ”とは、また別の、まったく異なったところから流されたものだった。そして、慎志はその言いようのない“何か”の名前を知らなかった。
慎志は粉々になったガラスの中から、一枚の写真を拾い上げた。夕月奈の写真だった。その写真は今では二つに引き裂かれてしまっていた。慎志はその二つになった破片を、震える手で必死に繋ぎ合わせようとしていた。
「俺にはお前しかいなかったんだよ」
慎志は涙を流し続けた。言葉では言い表すことのできない“何か”に立川は肩を震わせて泣き続けた。その“何か”が押し出そうとする涙を、立川はどうしてもこらえることができなかった。震える二つの破片の中で、夕月奈は元気いっぱいに笑っていた。太陽の陽射しの下で、夕月奈の頬が赤く染まっていた。
慎志は独り、テーブルを挟んでテレビの前に座っていた。テーブルの上には旅行雑誌が、とあるページを広げられて置かれていた。それは目次のページだった。赤と青の項垂れた線が、いくつも書き残されている。強烈な異臭を放つ煙が充満する部屋で、慎志はずっとそのページを見つめ続けていた。無数の星たちが彼を嗤っていた。




