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第六話 病床

 ※二十七年前※


 九月十日、夕月奈の病名が判明した。敗血症はいけっしょうだった。敗血症とは、全身性炎症反応症候群(SIRS)と呼ばれる反応をともなう全身性感染で、主に体力低下を背景としている。早期に積極的な治療を開始しなければ、非常に重篤な状態におちいる可能性があった。その発見時期によって死亡率は一〇から九〇パーセントの広範囲に及ぶ。夕月奈は発病から約一週間が経過しているということだった。敗血症の主な徴候ちょうこうとして三十八度以上、または三十六度以下の熱があげられるが、夕月奈は後者だった。そのため、夕月奈とその周りの人々はその重要な徴候を見逃してしまい、発見が遅れたのだ。だが、それを責められるものは誰もいなかった。慎志にはその一週間という時間の持つ重みが、まだ理解できないでいた。夕月奈はすでに腹腔内ふくこうない感染を起こしていた。

「大丈夫よ、先生もきっと治るって」

「でも敗血症は重篤な病気なんだろ。何で今まで教えてくれなかったんだ」

 慎志は病名が判明してから十一日後の九月二十一日、夕月奈が敗血症で入院していることを知った。学校を欠席する夕月奈を心配して何度かメールしていたのだが、一向に返事が返って来ないので不安に思った慎志が担任に確認したところ(それは半ば強引だった)、敗血症で入院していることがわかったのだ。

「だって、心配かけたくなかったから」

「メールが返って来なかっただけでも心配だよ」

「でも、昔はメールしなくても大丈夫そうだったし」

「大丈夫そうって、そのときだって十分心配したよ。でも、今回はそれとはわけが違うだろ」

「そんなに怒らなくてもいいのに」

「でも、本当に大丈夫なのか?」

 夕月奈の左手には点滴が繋がれていた。

「大丈夫。痛いところもないし、熱もないし、インフルエンザの方がよっぽど辛いかな? あ、これ?」

 夕月奈は慎志の視線に気がついて、左手を持ち上げながら言った。

「ああ、点滴って結構不便なんだよ。二四時間ずっと付けっぱなしだから左手はあんまり動かしちゃいけないし、トイレ行くときなんかもこれを引いていかないといけないから、ベッドとかテーブルとかの脚に引っかかって大変なの」

 慎志はベッド横にあった洋服掛けのような形をした銀の点滴台を見つめる。

「入院中は何かすることあるのか」

「う~ん、勉強もしないし、テレビも見ないし、何してるかな? ボーっとして…、あ、読書とかしてるかな。そんなにたくさんは読んでないけど」

「じゃあ、今度何か持って来るよ」

「え、ほんと。うれしい!」

「じゃあ、そろそろいい時間だし帰るよ」

「ごめんね、学校の後なのに」

「いいよ、来たかったのは俺だから。でも、もう心配させんなよ」

「うん、わかった。ほんと、ありがとね」

「じゃ、お大事に」

 慎志はそう言って、夕月奈の入院する個室のドアをスライドさせて部屋を後にした。ドアを閉めるとき、慎志はもう一度夕月奈に手を振ってお別れをした。夕月奈もそれに笑って答えた。


 二日後の土曜日、慎志は部活の後、買い物を済ませて夕月奈の入院している病棟を訪れた。夕月奈はベッドに横になって眠っていた。慎志が夕月奈の寝顔を眺めていると、しばらくして夕月奈が目を覚ました。

「んん~。えっ、誰っ」

「俺だよ」

 夕月奈は目をこすって慎志を見た。

「ちょっと、ビックリするじゃない。メールくらいしなさいよ」

「夕月奈に言われたくないよ」

 慎志は意地悪に笑ってそう言った。

「もう、またそんな事言って。…寝顔見た?」

「見た」

「見られた~! もう、最悪! 慎志君のバカ!」

 夕月奈は本当に恥ずかしそうに頬を淡いピンク色に染めた。

「良いだろー、別に。彼氏なんだし」

「彼氏でもしていい事と、しちゃきけない事があるでしょ。もう、サイテー」

「そうそう。いろいろ、持ってきたぜ」

 慎志は夕月奈の言葉を受け流して言った。

「なに?」

「じゃじゃ~ん!」

 子供にするようにそう言って、慎志は紙袋からクマのぬいぐるみを取り出した。とある大型テーマパークのマスコットキャラクターだった。夕月奈は驚いた様子でそのクマを手に取った。

「え! うれしい!」

「ほら、こんなのもあるぞ」

 そう言って慎志は同じ紙袋から、毒味のある緑色をしたカエルのぬいぐるみを取り出した。

「何これ、気持ち悪~い!」

 夕月奈はスライムのようにウニョウニョしたカエルを手の中でもてあそぶ。

「何これ、はじめて見た!」

「おもしろいだろ?」

「うん! でもやっぱり気持ち悪いかな」

 夕月奈は楽しそうに言った。

「まだあるぞ~」

 そう言って慎志は胡瓜きゅうりのように細長いぬいぐるみを取り出した。

「何これ?」

 夕月奈は不思議そうに首を傾げた。

「俺にもよくわかんないんだけど、ウサギの毛でできてるんだって。めずらしいだろ?」

「ほんとだ! ふさふさ~」

 夕月奈はそのわけのわからないぬいぐるみを撫でまわす。

「ほらほら、友だちが来たよー」

 夕月奈は慎志がプレゼントしたぬいぐるみを、ベッド横のテーブルに置いた自分のぬいぐるみに紹介する。

「これ、くれるの?」

「ああ、もちろん」

「やった。みんな、ずっと一緒にいれるって!」

 夕月奈はうれしそうに数の増えたぬいぐるみを順番に動かしていく。

「あ、そういや他も持ってきたんだ」

「他?」

 鞄の中をあさる慎志の姿を覗き込んで夕月奈が言った。

「ほら」

 慎志はある本を手渡す。

「『はてしない物語』?」

「読んでみろよ。少しは暇が潰せるだろ」

「すごーい、挿絵がいっぱい! ファンタジーの本?」

「そうだよ」

「え~、慎志君、ファンタジーの本なんか読むんだー」

「なんだよ、俺が読んだら悪いか?」

 慎志は苦い顔をして言った。

「ははは、慎志君おもしろい!」

「からかうなよな」

「ありがと。大切にするね!」

 夕月奈の笑顔は、病床にいることを感じさせないほど眩しかった。


「最近、どうなんだ、調子は」

「ん?」

「体調だよ」

「ああ、まあ普通かな? 先生はすぐには治らないから何事も辛抱強くだ、なんて言ってた」

「そうか、どれくらいかかりそうなんだ?」

「う~ん、はっきりとは教えてもらってないんだけど、一年もかからないと思うよ」

「そうか、それならいいんだけど」

 慎志は言葉をいったん区切って続けた。

「受験はどうするんだ?」

「やっぱり、留年かな。単位取れないと思うから」

「そうだな。まあ留年生なんてよく見かけるから、一人だけ遅れた、なんて思うなよ」

「大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」

「友達は来てくれてるのか?」

「うん、来てくれてるよ。あ、そういえばそこの冷蔵庫にプリンとかシュークリームとか入ってるから勝手に食べていいよ。愛梨たちがたくさん持って来るから、一人じゃ食べ切れないんだ」

「それじゃあ遠慮なく」

 慎志は冷蔵庫を開けると遠慮なく“なめらかプリン”と書かれたプリンと、その横に無造作に置かれたプラスチック製の小さなスプーンとを一緒に取った。

「それなら、安心だな」

 慎志は濃厚なプリンをゆっくり頬張りながら言った。

「うん。いろいろおしゃべりもしてるし」

「なら、よかった」

「最近学校はどうなの? やっぱり退屈?」

「まあ、結果が出ないから、ちょっとね。周りも勉強してるし」

「そうかあ。でも、私たちの学校は進学校だし、慎志君も心配しなくてもいい大学行けるって」

「いいって言ってるだろ、その話は」

「でも、私も心配してるんだよ」

「…わかった、頑張るよ」

「うん、私の分も頑張ってよね」

「そんな事言うなよ。不吉だろ」

「え? あ、ほんとだ。変な意味になっちゃった」

「まあ、元気そうでなによりだよ。しっかり休んで早く治せよ。そしたら、またいろんなところに連れてってやるからな」

「うん。頑張る!」

 夕月奈は終始うれしそうにしていた。しかし、目の下にできたくまを慎志は見逃さなかった。空は暗い青に塗り潰されていた。

 それから慎志は二日置き程度に、夕月奈のお見舞いに行った。少しずつ衰弱していくのがわかったが、夕月奈の前ではいつも明るく振舞っていた。


 十月十八日、夕月奈の病状が急に悪化した。慎志が見舞いに行ったときは常に腹痛を訴えていた。ちょっと痛いんだよね、とお腹をさすることもあれば、聞くに堪えない声でもだえることもあった。点滴は左腕だけでなく、鼻にも追加されていた。体も痩せ細っていて、頬はこけていた。きれいな形の胸も、いつしかその面影を失ってしまっていた。慎志は夕月奈のことが心配で、遂に学校を休んで一日中、夕月奈に付きっきりで看病するようになった。


「あんまり、無理しないでくださいね。今、受験生にとって大切な時期だから」

「大丈夫です」

「そう…。そういえば私もそんな時期があったのよ」

 夕月奈の母が重たい口を開けて言った。

 慎志はうつむいたままに何も言わない。

「大学生の頃かしら。私も彼氏がいて、あ、それは今の夫じゃないんだけどね、その人が結核になってしまって、その頃は一応医療の技術が戦後よりはまだマシな方だったんだけれど、それでも生きられるかは五分五分です、って言われたの。そのときは、本当に心配で心配で、他に何をやっても手が付かなかったわ。それに、相手の親が私と彼氏が合うことに好意的ではなかったから、とても会うのが不自由だったの。それでも、何とかして会うようにはしていたわね。彼氏にしてみれば、もう病気のせいで私に会いたいとも思ってなかったんでしょうけど、この私が会いたいと思うんだからいいでしょ、って自分自身に言い聞かせて、いつも会いに行っていたわ。ほんと、相手の親が好意的だったらどんなにいいだろうな、とずっと思ってたけどね。彼氏は無事に病気を完治して、私がずっと会いに来ていたこと、それがどんなに大変だったのかということ、彼氏の親のまったく口うるさいこと、そんな何もかもを話してしまうとね、それは君が勝手にしたことだろ、なんて言われるのかなぁ、って不安に思ってたんだけど、私の彼氏、思わぬことに必死に謝ってきたわ。それは本当にすまないことをしてしまった、ってね。今まで真面に謝ったこともない人だったのよ、あの人は。私は不意を突かれて慌ててあなたのせいじゃないわ、って言ったんだけど、一向に謝るのを止めないのよ。病気になってよかったわね、って言ったら随分苦い顔をしてたわ。あの頃はほんとに幸せだった」

 慎志は俯いたままだった。

「あら、ごめんなさい。そんなつもりではなかったんだけれど。まあ、自分の身体はしっかり大切にしなさいね。夕月奈が元気になっても、あなたが体を壊してたら元も子もないじゃない、ね?」

 慎志は小さくはい、と答えた。

「それじゃあ、私もう帰るわね。ほんと、いつもありがとね。夕月奈もきっと喜んでるわ」

 夕月奈の母はたおやかに手を振って部屋を出て行った。慎志は小さく会釈してそれに答えた。慎志は夕月奈の母が去った後、ただ茫然ぼうぜんとやつれてしまった夕月奈の寝顔を眺めていた。

 

 夕月奈は時々激しい嘔吐に襲われた。痩せ細った体を激しく上下させる姿は、見るに堪えない光景だった。でも、その頃の慎志にとってはどうでもよい事だった。慎志は夕月奈の背中をさすったりしながら、もう長い間理髪されていない髪が汚れないように配慮した。その髪は油でぎっとりとしていた。時には素早くゴミ箱を口元に差し出し、震える身体を支えた。十一月になると、夕月奈はもう自分では体を動かすことができなくなっていて、嘔吐の後、慎志は夕月奈の口元をきれいに拭いてあげた。

 嘔吐と同じように下痢も悲惨なものだった。はじめの頃、ちょっとごめん、としょっちゅうトイレに向かっていたものだが、時と共に、トイレに長い間こもるようになった。そのときの腹痛を訴えるあえぎ声は、到底聞いておける類のものではなかった。自分の彼氏ともあれば、自分の悲惨な現状を見られたくないと思うものだろうが、二人は互いに心から信頼し合い、弱さも醜さも、そのすべてを曝け出していた。そして、慎志は夕月奈のもとを片時も離れなかった。

 慎志は看護師に、酷い状態ですから外でお待ちになりませんか、とよく聞かれたものだが、慎志はその度に丁重に断った。それは決して格好付けたものではなく、一方で正しい事とも言い切れなかった。それでも、慎志は夕月奈のそばに寄り添い続けた。


 十月の最終日には慎志にとってあまりよくないことがあった。学校をずっと欠席していたことが遂にバレてしまったのだ。

「あんた、学校にも行かないで何してるの!」

「ふざけるのも、ほどほどにしろ! 誰の稼いだ金で勉強させてもらってると思ってるんだ! それにこんな大事な時期に限って!」

 慎志は唇を噛み締める。

「理由はわかったけど、仕方のない事でしょ。これはあんたの人生なんだし、だいたいまだ高校生じゃない」

 慎志の目の色が変わる。

「高校生だったらいけないのか! 何が仕方のないことだ! 人が死ぬことがそんなにどうでもいいことなのかよ! 何でそんな軽薄なことが言えんだよ! てめぇらに、俺の何がわかる!」

 怒りが爆発した。しかし、彼の父はそんな事では微動だにしなかった。

「お前、なに生意気なことをっ! そんなもん戯れ言だ! 高校生ごときで舐めやがって。てめぇみたいなクズは大人しく勉強だけしとけばいいんだよ!」

 そう言って父は慎志を思い切り突き飛ばした。ぶつかった慎志の重みで、木製のドアは意図も容易く大破した。

「はぁ? クズはてめぇの方だろうがよ! 他人の人生なんかどうだっていいなら、俺のことなんか気にしないでさっさと捨てちまえよ! このゴミが!」

 立ち上がりながら言い放つ。

「また、生意気な! 誰に向かって口聞いてんだてめぇ」

 そう言って屈強な男は彼を全力で蹴飛ばした。慎志は床に強く叩き付けられ、家が大きく揺れた。

「お父さん、やめて」

 母の悲痛な叫び声をもろともせず、父は息子の体を容赦なく蹴り続けた。慎志は鈍いうめき声を上げ、じっと身体を丸めていたが、このまま負けているつもりはなかった。慎志はその頑強な男の足を力ずくで抱きかかえ、そのまま後ろへ投げ飛ばした。勢いで豪然ごうぜんたる巨体は大きく後ろにのけ反り、無防備な体制のまま崩れ落ちた。男は後頭部をフローリングの床で強打した。慎志は反撃を止めなかった。傷付いた体をもたげると、精一杯男の顔を踏み潰した。男の顔からは赤黒い鼻血が流れ出ていた。しかし、屈強な男も負けてはいなかった。男は轟然ごうぜんたる雄叫おたけびを上げると、その男からすれば貧弱な足を掴み、立ち上がり、ハンマー投げのようにして家の支柱目掛けて慎志を投げ飛ばした。彼は背中から支柱に叩き付けられ、背骨が鈍い音を立てて軋んだ。

 慎志の眼が狂気に光った。

「おいおい、DVかよ」

「なら、てめぇもDV決定だなぁ。あーあ、てめぇの女もまったく惨めなもんだな!」

「はぁ? いつ俺がてめぇの真似なんかするって言った! ぜってぇてめぇみたいなクズにはならねえからな」

「遺伝子で何もかも決まってんだよ! お前はもうクズだ! 諦めろ、バカ息子が!」

「はぁ、てめぇに決められる筋合いはねぇよ! さっさとくたばれ!」

 二人は再びぶつかり合った。互いに掴みかかり、長くその均衡が保たれた。先にその均衡を破ったのは父だった。男は再び轟然たるうなり声を上げ、慎志を横に押し倒した。そして慎志の頬をあざで真っ青になるまで蹴り続けた。その戦火で慎志の奥歯が何本か折れ、鼻と口の両方から血が噴き出した。母はもう何も言わなかった。ただ呆然と口を開けてその光景を見ていた。

 父の攻勢が途絶えると、慎志は近くのテーブルの脚に無我夢中でしがみつき、のろのろと立ち上がった。

「ははは、こんなイカれた家なんか、出ってってやるよ」

「ああ出て行けよ。こんなドブネズミ育てた覚えはねぇからな!」

 慎志は悪あがきに、テーブルの上にあった皿を思い切り男に投げ付けた。血の付いた皿は、それを払いのける男の腕の前に粉々に砕け散ってしまったが、十分に慎志を逃がす役割を果たした。慎志はふらつく体を必死に支えながら、執念しゅうねんでその場を立ち去った。慎志の完敗だった。


 それからも慎志は夕月奈の待つ病院に通い続けた。学校にも行かず、家にも帰らず、ずっと夕月奈のそばにいた。でも、夕月奈が慎志の傷ついた体を、痣だらけの顔を、心配することはなかった。なぜなら、その頃には夕月奈は何もしゃべらなくなり、その瞳もどこかを見ているようでどこも見てはいなかった。体も自分ではもう動かせなかった。排尿も食事もすべて周りの人間がやった。食事はすでに、腹に取り付けられた管から行われていた。症状が悪化してから、ずっとこのような状態が続いていた。

 その頃には、夕月奈の母が慎志に話しかけることもなくなっていた。二人の間には、もう話すことが残されていなかった。慎志は、きっとこの母親の苦しみは自分とは比べようもなく辛いものなんだろうな、と思って少し悲しかった。いつかその記憶を忘れてしまえる慎志は、どれだけ苦しんでもこの母親の苦しみには勝てないのだ。しかし、慎志は夕月奈の事を忘れてしまうつもりはなかった。その記憶がどれだけ悲惨で残酷で救いの無いものであっても。

 面会時間が終わってしまうと、慎志はひとり夜の街を歩いた。何をするともなく、毎日同じような順路でその街を歩き終えてしまうと、いつも同じ公園で一夜を過ごした。そこのベンチには屋根があったので、多少の雨風ならしのぐことができた。それでも、十一月の夜は凍えるような寒さで、ボロボロになったジャンパーはとんと役に立たなかった。普通ならそこで家に帰りたいと思うものなのだろうが、慎志はそんな自分のことについて何とも思わなかった。

 ときどき襲ってくる空腹もあまり気にならなかった。お金は十分にあったので食事を買うことはできたが、もはや買う気力も、食べる気力も、慎志には残されていなかった。いつしか慎志の頬は夕月奈のようにすっかり痩せこけてしまっていた。

 いつからだろうか、慎志の頭の中には夕月奈の事しか残っていなかった。悲痛な響きで喘ぐ声、腹痛に歪める顔、死んだように天井を見上げて動かない瞳、そして笑顔で微笑み返す姿は脳裏で目まぐるしく入れ替わり、慎志の脳を容赦なく深い渾沌こんとんに陥れた。

 目覚めの悪い朝を迎え、硬い地面から身を起こすと節々が傷んだ。慎志は何時間も茫然と座って、葉が落ちてすっかり禿げてしまった木々を眺めていた。

 面会時間が訪れると、慎志は朦朧もうろうとした意識を抱えて夕月奈に会いに行った。ドアを開けるとひどい臭いがした。その臭いは日に日に激しくなった。部屋では慎志のプレゼントしたぬいぐるみと、夕月奈のぬいぐるみが無造作に積み上げられ、足が天井を向き、頭が尻に押し潰され、顔が壁やテーブルに押し付けられていた。慎志のもうひとつのプレゼントはしおりを最後のページに挟んで閉じられていて、表紙を隠すようにテーブルに置かれていた。しかし、その最後のページに挟まれたしおりは、夕月奈がその本を読み切った、ということを示すには不十分だった。もしかしたら、慎志が読み終えて挟んだままになったしおりが、一度も動かされることなくとどまっていたのかもしれない。 

 その頃にはもう、慎志は自分が何のためにこんなことをしているのかわからなくなっていた。本当に夕月奈のことが好きなのかどうかも、実際のところ確信が持てなくなっていた。それでも、慎志はいつか必ず訪れるであろうその日まで、夕月奈に会い続けた。


 そして遂に“いつか訪れるであろうその日”はやってきた。

 十二月三十日午後十時半、街を放浪ほうろうしていた慎志のもとに一通のメールが送られてきた。夕月奈の携帯を使った、夕月奈の母からのメールだった。

『夕月奈が息を引き取りました。慎志君も最後に一度、会ってやってください』

 慎志から全ての気力と希望と、そして生きる意味が失われた瞬間だった。慎志は絶望の中で朦朧とした意識に体をふらつかせながら、それでも足を引きずって夕月奈の待つ病院に向かった。五分ほどで目的の部屋に辿り着いた。

 夕月奈はそこでいつものようにベッドに横になっていた。違うのは目を開けているか、閉じているかの違いだけだ。慎志はそう思いたかった。しかし、彼女はもう息をしていなかった。

 動かない体の上で、しぼんだ胸が慎志を不思議と悲しませた。なぜ悲しかったかはわからないが、その光景は、夕月奈はもう戻ってこないのだ、ということを寡黙かもくに示していた。

 慎志は夕月奈の母親と一目合わせると、そのまま本を閉じるようにバタンと泣き崩れた。いや、正確に言えば慎志は涙を流していなかった。どうしてかわからないが、どう悲しんでも涙が出て来ないのだ。泣けないのだ! こんなに悲しんでいるのに! 慎志はわけがわからなかった。自分は夕月奈が死んでも何も思わないのか! それほどまでに、つまらない存在だったのか!

 だが、少しずつ慎志にも自分の気持ちがわかり始めてきた。慎志が抱えたその感情は虚無きょむだった。そして、その中ではじめて生まれる“哀しみ”だった。慎志はその漆黒の闇で疼く哀しみの中で、ただひたすらに沈黙を守り続けた。もう慎志にできることは何も残されていなかった。


 ※十六年前※


「後日、僕は大人しく家に帰ったよ。母は涙を流して迎えてくれたし、父はもう俺と顔を合わせることはなかった。でも、そんなこと、俺にはどうでもよかった。新学期が始まって、僕はちゃんと学校にも行ったよ。そこで、過去問を解き続けた。酷い点だったよ。それに、その頃、僕はずっと死んだ眼をしてたんだってよ。同じクラスになった韮崎が教えてくれたんだけどな、もうその頃の記憶はほとんど覚えてない。ずっと夕月奈のこと、夕月奈との幸せな日々、夕月奈の苦しそうな表情、そういうことしか考えられなかったから。

 センター試験の日もそうだった。頭から夕月奈が離れなかった。何度も、じゃまだ! って叫びそうになったよ。もう、これ以上僕に構わないでくれってね。でも、声は出なかった。もう、声が出なくなってしまうほど、その頃の僕はボロボロだった。

 センター試験で酷い点を採った僕は、それでも留年せず、低能で下品なやつらがたむろする市立の大学に入った。その頃親も、特に父親がほとんど金を出してくれなくなっていたから、必死にバイトして、それでも足りなくて、結局奨学金を貰うことにした。今でもまだ、返し続けているよ。まあ、僕の人生はきっとそういうのが一番似合ってるんだろうな。

 低能なやつらは本当にわずらわしかったよ。やたらうるいし、暴力はするし、その頃、僕は体力も弱っていたから、父と戦ったときのようにはいかなかった。何度もボコボコにされて、バカにされた。でも、それも慣れだった。慣れてくると、何もかもどうでもよくなってきて、あいつらのされるままになっていった。いつしか、あいつらも僕に飽きて絡むのをやめたよ。僕ももうその頃には感情という感情を内に押し殺して、我ながら自分自身のことが怖ろしくなったこともある。でもそんなことはどうでもよかった。本当にどうでもよかった。大学の四年間は悲惨なものだったし、それは少なからず夕月奈のせいでもあったと思う。

 何度も、夕月奈と出会ってしまわなければよかったのに、と思ったよ。でもその言葉を口にする度、すごく寂しい思いにられた。結局、その代償は計り知れなくても、俺には夕月奈しかいなかった。夕月奈のいない人生なんて考えられなかったんだ。その人生がどれだけ苦しく残酷で冷徹なものであったとしても、紛れもなくこれが僕の人生で、夕月奈との二人だけの人生なんだ。そう思い始めて、僕は少しずつ前に進み始めた。

 それからは、就職が待っていた。学歴がまるで無いも同然だったから、正規雇用をしてもらえる企業はほとんどなかった。でも、一年粘ってやっと雇ってくれるところを見つけた。それが、今働いてる古本屋さ」

 まるで奨学金が返せるような仕事じゃないよ、とつけ足して慎志は淡い照明に光る涙の跡を拭きながら笑って言った。

「そこで私と出会ったんだ」

 隣に座る由美がアブドィーグを片手に言った。

「何が言いたいんだい?」

 慎志は首を傾げて言った。

「ねぇ、私慎志君の力になりたいの。いろんな話を聞かせてもらって、でも慎志君はいろんな悩みとか苦しみとか抱えてて、それに…」

 長い沈黙が訪れた。先にその沈黙を打ち破ったのは慎志だった。

「結婚しよう」

「えっ」

 由美は不意を突かれてしばらく動けなかった。慎志の言った言葉を口にしようと思っていたのは、紛れもなく由美の方だったからだ。戸惑いを隠せない由美の気持ちを汲み取ったように、慎志が続けた。

「たくさん話を聞いてくれてありがとう」

「えっ、でも、そんな。聞きたいって言ったのは、私の方なのに…」

「僕の気持ちを少しでも楽にしてあげたいって、思ってたんだろ」

「えっ、そんな、そういうわけじゃ…」

 慎志はやさしく由美の頭を撫でた。

「少しだけど、前よりはずっと楽になったよ」

 慎志は微笑む。

「ありがとう」

 由美はしばらく何も声にできなかった。


「あのさ、で、結婚の話はどうなったのかな。そういえば、返事を聞いてないんだけど」

「えっ、あっ、はいっ。こちらこそ、よろしくお願いします!」

 由美は慌てた様子でそう答えた。


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