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第五話 最後の夏


 ※十六年前※


「この前は、ごめんなさい。疲れてて、つい…」

「いいよ、もうそのことは」

「怒ってないの?」

「ああ」

「あら、少しは成長したのね」

「何だよ、その言い方。僕が昔は心が狭かったみたいじゃないか」

「え? そうじゃないの?」

 そう言って由美は意地の悪い笑みを浮かべた。

「おまえ」

 慎志はそう言い返し、由美を部屋のベットに押し倒すと、二人は小学生の喧嘩のようにじゃれ合った。

「ねぇ、それで二人の関係は深まったのかしら?」

「そうだなぁ、今日は五月から話し始めればいいか?」

「うん。お願い」


 ※二十七年前※


 五月、二人はなかなか会う機会をつくれずにいた。互いに、四月の出来事を気にしていて、夕月奈ゆきなにとっては恥ずかしく、慎志にとっては何か申し訳ない事をしてしまったような気持ちのする出来事だった。学校でもしばらく目も合わせず、会話もしなかった。


 六月になり、慎志は思い切って家に誘うことにした。二人で相談した結果、DVDを見ることになった。

「きゃー、すごい雨」

 外は豪雨だった。二人で慎志の家に向かう途中、急に大雨が降り始めたのだ。二人が到着するまでせいぜい五分ほどだったが、それでも二人の服はぐっしょりと濡れていた。

「大丈夫か」

 慎志はそう言って風呂場から取ってきた新品のタオルで、夕月奈の髪を拭いてあげた。夕月奈は慎志の為すままに身を任せていた。

「大丈夫。それにしてもすごかったね」

「ああ、何で今日に限って大雨が降りだすかなぁ。最悪だよ」

 夕月奈は変に微笑んで、タオルの下から上目使いで慎志を見つめる。慎志の頬が自然と赤くなった。

「なんだよ」

「え~、ほんとは最悪なんて思ってないんでしょ」

「何が言いたいんだよ」

 夕月奈は何も言わず小さい体で慎志に抱きついてきた。

「どうしたんだよ、急に」

「この前は、ありがと」

「いいよ、別に」

 そう言って慎志は夕月奈のれた頭を撫でる。

「慎志君は大丈夫? 濡れてない?」

「ああ、大丈夫だよ」

 慎志は自分用にもう一枚用意していたタオルで頭を掻きながら言った。


「何借りて来たのー?」

 ビデオレンタル店の袋を見て夕月奈が言った。

「いろいろ借りてきたけど。どれがいい?」

「何でもいいよ」

 慎志は海外映画を選んだ。確か、夢の中に入り込み、情報を操作する話だったような。

 慎志はビデオを見ながらときどき夕月奈の頭を撫でた。夕月奈の頭はきれいな形をしていて、髪は見た目より太く、それでいてしなやかだった。慎志に頭を撫でられると、夕月奈はテレビ画面を見たまま頬を赤らめた。

 最終的に慎志の手は夕月奈と繋がれて落ち着いた。慎志が夕月奈と手を繋ごうとすると、夕月奈も積極的に手を繋ぎ返してきた。そのときも夕月奈はテレビ画面をじっと見ていて、ずっと恥ずかしそうにしていた。その仕草はとても可愛かった。そのとき、夕月奈の手は少し冷たかった。手、冷たいな、と慎志が言うと、冷え症なの、と夕月奈は答えた。それでも、その手には温度の枠を超えた、温もりが感じられた。慎志は手を握るだけでとてもドキドキした。その緊張と高揚は、映画を見ていることを忘れるほど激しいものだった。慎志は内心、手を握るだけでこんなにもドキドキするのか、と驚いていたが、必死にそれを表情に出すまいとしていた。そして、夕月奈にしても、随分緊張している様子だった。声が少し高くなっていた。


 二人は映画を二作見終わってしまうと、慎志の部屋に移った。ベッドに並んで座って様々なことを話し合った。夕月奈がのどが渇いた、と言うので、慎志は一階に下り、冷蔵庫の中を調べると、折悪おりあしくコンビニで売っているようなドリンクが二本だけ、それも種類の異なったものしか残っていなかった。二階へ持って上がると、二人はじゃんけんをし、勝った慎志が好きな方を選んだ。しばらくして、夕月奈がちょっとちょうだい、と言って慎志の飲みさしのカフェオレを手から奪い取った。慎志が何か言ってしまう前に、夕月奈はそのストローに口をつけてしまっていて、恥ずかしくなった慎志は結局何も言えなかった。

「ありがと」

 そう言って夕月奈は慎志に目を見られないよう気にしながら、ベッド前のテーブルにカフェオレを返した。

「お前のも飲ませろよ」

 慎志も思い切ってそう言ってみた。そして、夕月奈の返事を待つ前にテーブルの上のミルクティーを取って飲んだ。そのとき、一瞬だったのだが夕月奈は慎志と目を合わせてしまい、ひどく困惑していた。慎志にはそんな仕草や何もかもがとても可愛らしく見えた。


 もうその頃には、時計の針は午後六時半を指していた。

「今日もおしまいか」

 慎志は虚空を見て言った。

「おしまいか」

 夕月奈はすでに身支度を始めていた。それを見ていた慎志も部屋の片づけを始めることにした。

「ねぇ、夏休みプール行こうよ」

 夕月奈がやけに楽しそうに言ってきたので、慎志もいいよ、と返した。

「あーあ、早く夏休みにならないかな」

「なんで、そんなに楽しそうなんだよ」

「え~、だって慎志君とはじめての夏休みだよ! 早くいろんなことしたいな」

「そうだな。早く来ないかなぁ」

「もう、雨止んだかな?」

「たぶん止んでるんじゃないかな」

 慎志の言った通り雨は止んでいたが、空にはまだ厚い雲が覆っていた。それでも二人の気持ちは晴れやかだった。


 ※十六年前※


「それで、夏休みはどうだったの?」

 由美が弾んだ声で聞いた。

「待てよ、これから話すから」

「え~、じゃあ早く~」

「なら口挟むなよ。集中力が途切れるだろ」

「え~、慎志君のいじわる~」

 慎志は由美の言葉を無視して、続きを話し始めた。


 ※二十七年前※


 とうとう夏休みがやってきた。陽射しが容赦なく照りつけ、足元のコンクリートがひどく熱くなっている。慎志はそのコンクリートの上を熱っ、熱っ、と言葉をこぼしながら、プールサイドの休憩所で待つ夕月奈に飲み物を持って走った。慎志はプラスチック製のテーブルにそれらを置き、自分も同じくプラスチック製のイスに腰を下ろした。

「ありがとー」

「いやぁ、熱かった」

 夕月奈は慎志の姿を見てやさしく微笑んだ。

「それにしても、人が多いね」

「まあ、ここ人気だからなぁ」

 二人は県外の、全国でも有名な大型プール施設に来ていた。せっかくプールに行くのだから、と慎志が提案した場所だった。

「ほんとによかったの? 私は別に地元のプールでもよかったのに」

「いいんだよ。俺も一度来てみたかったし」

 その解答は、半分は正解でもう半分ははずれだったが、慎志にとってはこの際どうでもいいことだった。

「どうだ? 楽しいだろ」

「うん。とっても楽しい」

 夕月奈は真夏の太陽にも負けぬ、まぶしい笑顔で答える。

「次はあのウォータースライダー行かないか?」

「いいよ」

 慎志は久しぶりに無邪気にはしゃいでいた。それは、十年ぶりに、心許せる人がそばにいてくれたからに違いなかった。


 二人は太陽の光に熱せられた鉄板の階段を熱っ、熱っ、と言葉を溢しながら駆け上り、遂にそのビルの十階とも言える高さの最上階に辿たどり着いた。そのウォータースライダーは、浮き輪のようになった前後二人乗りのボートに乗り、一気にその高さを滑り下りるものだった。案内係の指示を受けたあと、二人は話し合って夕月奈は前の席に、慎志は後ろの席に座ることにした。

 前の席に座った夕月奈の背中に慎志はしばらく見とれていた。トップスの黄色の結び目は左右のバランスがとれていて、輪の大きさも絶妙だった。背中のなめらかなくぼみが漠然ばくぜんと女性らしさを明確化し、自然なくびれが慎志を魅了した。慎志が夕月奈の後ろ姿に見とれていると、不意に夕月奈は振り返って緊張するなぁ、と言って微笑んだ。泣くなよ、と慎志がからかってみせると、夕月奈は泣かないもんっ、と無邪気に返した。

 ウォータースライダーは驚くほどのスピードを出した。定かではないが、生身ですべるウォータースライダーよりずっと風を切る心地がし、浮き輪状のボートのせいか、その分空中に飛び出したような感覚がした。何回かレールからボートごと投げ出されそうにもなり、その度二人は歓声を上げた。長い長いウォータースライダーは、幾度も蛇行だこうし、時には旋回せんかいし、二人を楽しませた。滑り落ちる間、二人が笑顔を絶やすことはなかった。

 着水も素晴らしいものだった。水上ジェットコースのように大きく水しぶきを巻き上げ、レールを外れてもなお、サーフボードのように水上を滑り続けた。慎志にとってそれはまったく体験したことのない感覚であったし、夕月奈にしてもそうに違いなかった。ボートが沈没ちんぼつして水の中に投げ出された二人は、底に足をつけると二人向き合って笑った。慎志は多少水を鼻に受けていたが、そんなことは慎志にとって問題ではなかった。

 その後、二人は通称“流れるプール”を悠然ゆうぜんただよった。ときに夕月奈は慎志に背中から抱き付き、慎志は持ち前の潜水の技術を披露した。二人は疲れて泳げなくなってしまうまで、じゃれ合い笑い合った。慎志の心はこれまでになく幸福感に満たされ、過去の辛い日々も孤独な時間も全て忘れ去ることができた。ありのままの自分をさらけ出し、そして夕月奈を心から大切に想っていた。

 二人にとって、今日は夢のような一日で、決して忘れることのできないものとなった。


 八月初旬、二人は地元の花火大会に来ていた。その大会は、県内でも有数の大きな花火大会だった。

「人がたくさんいるね」

 屋台で手に入れたかき氷を美味しそうに頬張りながら夕月奈が言った。ふわふわの氷の山はいちご色に染められていた。

「なんか、いっつもそんなこと言ってないか?」

 慎志が笑って言う。

「そう?」

「まあ、にぎやかで良いこった」

 慎志の手にあるかき氷はハワイアンブルーに染められている。

「あっ、花火上がったよ」

 川の上空を指差して夕月奈が言った。赤と青の花火が華やかに上がる。

「あー、私これ欲しー」

「はいはい、今行くよ」

 どんな人混みにもまれても、慎志は迷わず夕月奈だけを見つめていた。


 花火が本格的に上がり始め、二人は近くの原っぱに座ってゆっくり観覧することにした。色とりどりの花を咲かせるもの、ヒョロヒョロヒョローと甲高い音を響かせるもの、瞬く星のように眩しくきらめくもの、下に長く尾を引いていくもの、紫陽花のようにいくつもの小振りな花を一度に咲かせるもの、本当に様々な花火が二人の瞳に広がっていった。時折、二人は恋人の表情もその瞳に映した。どの表情もとても楽しそうで、幸せに満ちあふれていた。

 花火がすべて上がり終えると、二人も腰を起こして雑踏ざっとうの中を帰っていった。その間、二人の手は固く結ばれていて、幸せが尽きることはなかった。心なしか会話も弾んだ。夕月奈の髪を揺らす生温い風は、幸せに満ち溢れた夏の終わりを音もなく告げていた。


 ※十六年前※


「ほんと、慎志君はその夕月奈ちゃんのことが好きだったのね」

「ああ、本当に幸せな日々だった」

 それ以上、二人は言葉を交わさなかった。その代わり、熱く抱き合った。立川はのどを詰まらせながら泣いていた。慎志は眠りに落ちるそのときまで、涙を流し続けた。


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