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第四話 はじめての涙


 ※二十七年前※


 二月、学校はバレンタインデーの話題で、どこか高揚したムードに包まれていた。背の低い男子は女子にからかわれたりして、いい様にもてはやされている。また、女子にしても友チョコの話で盛り上がってはいるのだが、また少し違ったところで心なしか熱を帯びているように見えた。そんな雑踏に埋もれて、慎志は優越感なのか安心感なのか覚束無おぼつかない感傷に陶酔とうすいしながら、ました顔をしていた。

 バレンタインデー当日、昼休みまでに数人のクラスメイトが慎志にチョコをプレゼントしにきた。だいたいは肝試しをしたときや、後日一緒にカラオケに行ったりしたときの顔ぶれだった。昼休みに夕月奈はチョコを渡してきた。実を言うと慎志は同じクラスなのだからと、休み時間中友達と楽しそうに話している彼女の姿を見て、少しいじらしく思っていた。今か今かと心待ちにしていたのが(本人は必死に隠そうとしていたのだが)夕月奈にも伝わってしまったのか、そわそわし過ぎだよ、と笑われてしまった。チョコは大きめの茶封筒のような材質の、質素な袋に入っていた。慎志はとても恥ずかしく顔が赤くなりかけたが、冷静さを取り戻してありがとう、と返した。放課後また一人、残り物だから、と言ってクッキーを手渡してきた。

 文学部では義理チョコをいくつかもらった。文芸部ではバレンタインデーに義理チョコを渡すのが風習になっていて、女子もそんなイベントをそれなりに楽しんでいた。慎志は部員が多いところは大変だなぁ、と思ったが、全ての部活がそうでないことを思い出し自己解決してしまった。去年告白された女子からはもうチョコは貰えなかった。彼女が先輩にチョコを渡している姿を複雑な気持ちで眺めながら、慎志は少し寂しくなった。慎志は目の前の無地紙に、今の自分を投影して言葉にしてみたのだが、部員にバレてはいけないと思い直し急いで掻き消した。

 学校からの帰り道、慎志は中学三年の頃、千春から貰ったマカロンのことを思い出していた。彼女はお菓子作りがとても上手だった。その評判は以前にも聞いていたが、いざバレンタインデーに貰ったマカロンを食べてみると、本当に感激するほどに美味しかった。あの感動は忘れられない。


『チョコ、美味しかったよ』

『ほんと! うれしい! 慎志君のは特別に作ったんだよ』

 言葉通り慎志の貰ったチョコは特別だった。大きさは店頭で売っているか、それ以上のサイズで、大きくハートを形作っていた。味は慎志がこれまで貰ったものとは比べ物にならないくらい美味しかった。彼女であるが故、そう言えるんじゃないの? と訊かれればそれまでだが、その先入観を差し引いても、今まで慎志が食べてきた中で一番美味しいと胸を張ってそう言うことができた。たとえ千春から貰ったマカロンと比較しても、その私見は変わらなかっただろう。しかし、そのとき慎志はそのマカロンの記憶の一切を不覚にも消失しており、一年後再びバレンタインデーが訪れるまで思い出すことはなかった。それほどまで、慎志は夕月奈のチョコに陶然とうぜんいしれていた。

『すごく、美味しいよ。お店のみたいというか、お店のより美味しいかも!』

『ありがとー。じゃあ、そろそろ寝るね』

『うん。おやすみ』

『おやすみ』

 慎志は二日かけてじっくりその味を噛みしめて食べ切った。手作りチョコと言うのはよくパサパサと乾燥しがちだが、夕月奈のつくったそのザッハトルテは、驚くくらいしっとりとしていた。後日、慎志は一つ写メを撮っておけばよかった、と深く後悔することになる。来年また撮ればいいか、とも思ったのだが、さすがに今年のようなサイズは無いだろうなと思いがっかりした。空き箱だけが慎志の部屋にずっと口惜しそうに残されることとなった。


 三月、ホワイトデーも過ぎてしまうと春休みが始まった。二人は慎志の家で春休みを一緒に過ごした。夕月奈は部活のエースとして相変わらず多忙の日々を送っていたから会える日は限られていて、そのことを慎志はひどく残念に思った。心ではわがままな自分を叱責していたが、どうしても体(脳みそと言うべきだろうか)が言うことを聞かず、落ち着かない日々を送っていた。それでも時間をつくって一緒の時間を過ごすと、そんな不満はどこか遠くへ飛んでいってしまった。

「ここの問題わかるか?」

「こうするんだよ」

「ああ、じゃあこうするんだな」

「そうそう」

「できた。本当に夕月奈の説明はわかりやすいな」

「説明なんかしてないよ。考え方の問題」

「それにしても、君が学校一の秀才だったとはね、思いもしなかった」

「そうでもないよ。いつも一番が取れるわけじゃないし」

「三桁台の俺には理解し難いよ。ほんとに羨ましい」

「そう? 勉強だけがすべてじゃないと思うけど」

「まあな。でも、頭がいいから、そんなことが言えるんだよ」

 慎志の言葉には少しだけ皮肉が込められていた。慎志は学校一の秀才でなければ、学校一の道徳者でもないのだ。

「そうね、慎志君のいっつも言ってる通り、遺伝子がよかっただけだよ」

 夕月奈が呆れ声で言う。

「夕月奈には欠点は無いのかよ」

「そりゃ、たくさんあるよ」

「どんな?」

「絵はそんなに描けないし、バドミントンも他校には強い子がたくさんいるし、それに慎志君みたいに小説なんて全然書けないよ」

 絵に関しても、部活での力量にしても、少なくとも慎志よりは上だった。それは慎志に飛び切り才能が無かったからであり、夕月奈に何一つ欠点が無かったからでもあった。

「皮肉ってんのか? 何も経験も興味もなしに、俺よりうまく小説が書けるなら怖ろしいよ。まあ、一か月もすれば追い抜かされるんだろうけど」

 慎志は摩耗まもうした床に吐き捨てるように言った。その言葉には怒りやうらやみ、憂い、焦り、様々な感情が入り乱れていて、慎志にもどう表現していいものかわからなかった。夕月奈はその言葉を聞いて、うつむいたまま何も返さなかった。二人は再び自分の課題に取りかかった。

 その日、窓の外は豪雨が降り続いていた。帰り際、夕月奈が慎志に言った。

「今度、私の試合見に来ない? 高校最後の試合だし、見に来て欲しいんだ」

「いいよ。いつ頃?」

「四月の下旬、くらいかな? また、日にちがわかったら言うよ」

「うん、わかった。それじゃあね」

 慎志は豪雨の中、後ろを振り返ることなくいつものように曲がり角に消えていった。


 四月になり、夕月奈のバドミントンの大会の日がやってきた。夕月奈はエントリーが朝早いらしく先に会場に到着していて、慎志は一人電車を乗り継ぎ、やっとのことで試合会場に到着した。一時間近くかかったから、自分よりももっと朝早くから出発して大変だっただろうと思うと少し夕月奈のことが心配になった。

 十時頃、大会は始まった。夕月奈のチームはBコートの四試合目だったので午後一時頃、ようやく始まりの笛がコートに響いた。その日は団体戦で二複一単の試合形式だった。初戦、ダブルスで夕月奈のチームは幸先よく勝利を収めることができた。見る限り、格下の相手のようだ。二試合目のシングルス戦、こちらの人選は夕月奈だったが、慎志の見解を裏切るように苦戦する試合となった。まさか、先程の二人は捨て駒とでも言うのだろうか。されば三試合目も十分に勝ちを狙える二人を選んできていることだろう。夕月奈には暗黙のうちに勝利が言いつけられていた。

 夕月奈は苦戦するも、じりじりと相手を追い詰めていった。球技中最速の初速を誇るシャトルが目まぐるしく左右した。慎志がシャトルを見失うことは少なくなかった。夕月奈はそのセンスを最大限発揮し、相手のどれだけ早く重い攻撃も拾った。その頭の良さを存分に生かし、緩急を巧みに使い分けた。それでも、得点を奪い取ることは容易でなかった。なぜなら、相手も夕月奈と同じように、どれだけ早く重い攻撃にも耐え、緩急を巧妙に使い分けていたからである。その場にいた誰もが、その試合に釘付けになった。

 苦戦を強いられた試合も遂に最後の時を迎えた。夕月奈の放ったシャトルの先が相手コートを打ったのだ。夕月奈の勝利だった。慎志は夕月奈の勝因をはっきり言い当てることができる。それは、どれだけ必死だったのか、という点だ。実力は全く互角だったと言ってもよい。相手におごりがあったわけでもなければ、どちらかが先に冷静さを欠いたわけでもない。しかし、必死さが、まるで違ったのだ。どれだけ必死にシャトルを拾い、打ち込み、気持ちを込めたのか。それがただ一つの夕月奈の勝因であり、相手の敗因であった。

 慎志は夕月奈のそれほどまで必死な姿をはじめて見た。才能があるから故、いつも澄ました表情を見ては羨んでいた。もちろん部活でもきっと澄ましているのだろう、とそうずっと思っていたのだ。いや、もしかしたら、慎志の知らないところで勉強も必死にしていたのかもしれない。慎志には夕月奈のどの姿が本当なのか間違いなのかわからなくなってしまった。それでも、慎志はその一喜一憂する試合に引き込まれ、夕月奈の姿に見とれた。

 三試合目は、こちらが容易に三セットを勝ち取り、またもや慎志の予想を裏切る形となってしまった。しかし、夕月奈がその難しい試合を勝ち切ったことは、少なからずチームにいい効果を与えたようだった。

 次の相手は夕月奈のチームにとって格下だった。夕月奈は休憩の意味も含めて三試合目のダブルスに出場した。夕月奈は消化試合を難無く勝利した。

 三つ目の相手は準準決勝ともあり強豪チームだった。夕月奈のチームは呆気なく負けてしまった。夕月奈もまるで人が変わったように相手に翻弄ほんろうされ、才能を出し切った、出し切れなかったの問題でなく、何の理解も対応もできないうちに打ちのめされてしまったようだった。相手のプレースタイルは乱雑で、夕月奈のフォームの精巧さには足元にも及ばない。それなのに、何も対抗できず振り回されるだけの夕月奈の姿はあまりにみじめで、到底見ておけるものではなかった。これが夕月奈の言っていた“他校の強い子”の真の姿とでもいうのだろうか。慎志には何が何だかわからなくなっていた。


「こんなところにいたの?」

 夕月奈が体育館二階にいた慎志を見つけて駆け寄ってきた。小さめのユニフォームが体にフィットして、きれいな形の胸を強調する。肩には薄いピンクのタオルをかけていた。

「恥ずかしいところ見せちゃった」

 そう言って、夕月奈は本当に恥ずかしいそうな顔をした。

「あんなのは、何か可笑しいよ。夕月奈の方が何倍もうまいのに。だって、相手のフォームなんてグチャグチャじゃないか」

 その言葉にはどこにぶつけていいのかわからない怒りが込められていた。

「仕方ないよ。勝てなきゃ負けだもん」

「ううん…。俺からは何も言ってやれないよ。勝負事をやってきたわけじゃないから」

 夕月奈は何も返さなかった。一階で行われている他校の試合を眺めながら、慎志の言葉を待っていた。

「でも、よく頑張ったじゃないか。な?」

 慎志は夕月奈の頭を多少乱暴にでた。そうすると、夕月奈は感極まったのか、涙を流し始めた。慎志はそんな夕月奈を抱き寄せて離さなかった。しばらく夕月奈は声もなく泣き続けた。二人にとって大衆がどう彼らを思い、眺めたのかは考えるには値しない。大衆もその雰囲気を感じ取ったのか、誰一人その間に踏み込もうとする者はいなかった。二人の世界だけ、時間が止まっているように見えた。


 しばらくして、夕月奈は泣き止むと、震える声で(それでも本人は明るい声が出せるようにと笑っていた)ありがとう、と言って一階のチームメイトのもとへ帰っていった。慎志は呆然ぼうぜんと向かいの壁を眺めていた。夕月奈が涙を流す姿を見たのはそれがはじめてだった。しかし、はじめてなのに、どこか懐かしい気持ちがした。胸の辺りで、まだほのかに夕月奈の匂いが残っていた。


 ※十六年前※


「寝たのかよ。人に質問しておいて、いい御身分だな」

 慎志のカウンター席の隣で由美はぐっすり眠っていた。しかし、表情から察するに、それは心地良い眠りではないようだった。

「仕事が大変な時期なのかもな。いちいち、そんな忙しい時期に時間をつくってくれなくてもいいのに」

 慎志は子供扱いされたような気持ちになり少し腹を立てたが、しばらくしてどうでもよくなると、マスターにひとことよろしく、と言い残して、二人分の勘定を払い終えて帰宅した。


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