第二話 遠くで
※二十七年前※
七月、翌日の実力テストの勉強のため、四時間目のテストのあと食堂で腹ごしらえを終えた慎志は自習室で勉強を始めた。慎志は得意分野を先に終わらせるタイプだった。とにかく苦手分野はやる気がしない、というのがその理由であったが、それ以上に慎志は自分の才能の限界を感じていた。
しばらくして不意に須藤がやってきた。慎志は高校一年の時から自習室を利用しているのでわかるが、須藤が自習室にやってくるのはおそらくこのときがはじめてだった。不意に目を合わせてはいけない、と机に広げたワークに視線を落とすが、それは杞憂だった。須藤は慎志の存在になど目も向けずにお目当ての友達を見つけると、足早にそのグループの輪に入っていった。
「ねぇ、この問題教えて」
「ん? ああこれはたぶん…」
「わぁ、すごい! むっちゃわかりやすいんだけど!」
「え! 何ですかそれ! 愛梨ちゃんだけズルいです!」
「だめよ~。夕月奈さんは私だけのものなんだ・か・ら!」
「なんでですか! 説明してください!」
「説明が必要とでも!」
「まあ、まあ、二人とも。ひかるにも教えてあげるから」
「ほんとですか! へへ~ん、夕月奈さんはもう私のものです!」
「なんですと~!」
「ほら、そこ少し静かにしなさい」
「は~い」
慎志はそんな須藤たちの会話を聞きながら、なぜか切ない気持ちになった。そして、勉強に集中させて欲しいと願う一方で、ずっとこんな会話を聞いていたいという気持ちにもなった。
「ね~、ね~、ひかるったら」
「さっき先生に怒られたじゃないですか!」
「え~、だって暇なんだもん」
「暇、って勉強しなさい!」
「え~、だって疲れたよー」
「じゃあ、静かに寝てなさい!」
「むー。ねえ、ねえ」
「ちょっ、そこっ」
「え? もしかして夕月奈さんって脇腹弱い人ですかー?」
「いやっ、別にそんなっ」
「こちょこちょこちょこちょ」
「ちょっ、やめっ、てっ、ひゃあっ」
「あー、愛梨ちゃんだけズルいです。私も!」
「ちょっと、二人して、やめてっ、ひゃあっ」
「ちょっと、そこ。またうるさくなってますよ。次やったら帰ってもらいますからね」
「ぶー」
「また見つかっちゃいました」
「はあはあ、助かった」
それから、三人の会話はめっきり聞こえなくなった。それでも、慎志が再び集中力を取り戻すことはなかった。
四時半を過ぎた頃に、自習室を騒がせた三人はそそくさと帰っていった。そして教室を出るとき、須藤がその姿を眺めていた慎志と目を合わせることもなかった。慎志には夏風がやけによそよそしく感じられた。
六時になり、最終下校時刻を迎える自習室に残っていた生徒は四人だけだった。慎志は素早く身支度を整えると、今日もひとり夕陽の沈む方角へ帰っていった。
それ以降、須藤が自習室に姿を現すことはなかった。あの日から数日間、慎志はもしや、と思い空虚な期待を膨らまし続けていたが、その度その膨らんだ期待はもともと穴の開いた出来損ないの風船のように音もなく萎んでいった。梅雨に入り湿った空気が一層慎志の心の曇りを浮き彫りにした。
八月、蝉の騒々しい鳴き声に埋もれながら、退屈な補習の毎日が続いている。あと三日でそんな補習ともおさらば、と言いたいところだが、また二週間もすれば、そんな退屈な日々も再びやってきてしまう。これ以上、成績の上がる見込みのない自分にとって、補習の為す意味はいったいどこにあるというのだろうか。
「ちょっといいか」
「ん?」
「土曜に韮崎の家で肝試しするんだ。来ないか?」
「いいのか。俺みたいなので」
「お前だからだよ」
「でもなあ」
「遠慮すんなって」
「まあ、そこまで言うなら」
「おう。じゃあ決定な。また時間とか細かいことはメールするわ」
「りょー」
「じゃあな」
「ああ、バスケ頑張れよ」
「お前もな」
お前だからだよ。随分意味深な言葉だが、自分が期待するような話でもないだろう。須藤もこの肝試しに参加することは小耳に挟んでいた。別に盗み聞きしたわけではないが、友達の少ない慎志にとって休み時間というものは、周りが思うよりずっと退屈なものなのだ。それでも肝試しに誘われたことは、立川にとって幸福なことだった。
土曜日、蒸し暑く妙に晴れた日だった。集合時刻は午後六時だったが、慎志にとってそれまでの時間はとても長く感じられた。あの退屈な授業で終礼のチャイムを待つときよりも、ずっと。
自宅を出て、自転車を扱ぎ出してからも、慎志の胸の鼓動は鳴り止まなかった。今までに、これほどまで慎志の心を奮い立たせることがあっただろうか。夕陽はまだ高度を保ったまま、そんな立川の姿をやさしく見守っていた。
「ちょっと慎志君」
「え?」
「手伝って」
「はいはい」
「人気もんだな」
「違ぇよ」
いつの間にか下の名前で呼ばれるようになってしまったことを俯瞰しながら、立川は韮崎と何人かの女子が待つキッチンへ足早に向かった。須藤はというと、友達とつるんで二階で何やら騒がしく遊んでいた。
「ちょっとこれ切ってくれる? あと、これも。これも。あと、これもね」
「多いな」
「男が泣き事言わない!」
「はいはい」
「こう見えて慎志君料理得意なのよ」
「へ~」
「へ~」
「こう見えて、ってなんだよ」
「こう見えて、はこう見えてよ」
「知ってる知ってるー。調理実習の時すごかったよー」
「へ~」
「へ~」
赤城とは同じ班になったことが何度かあった。物静かだと思っていたのだが、何かと物知りで興味深い話をいくつか聞かせてくれた。
「さて、完成かしら」
「すご~い」
「すご~い」
「なかなか上出来じゃない?」
「そうね。これも慎志君のおかげよ」
「いや、女子には敵わないよ」
「当り前よ」
「あたりまえ~」
「あたりまえ~」
「ちょっとそこの男子~。運ぶの手伝ってくれる?」
「おう」
「はーい」
一つのテーブルを囲んで楽しげな夕食会が終わると、肝試しの抽選が始まった。
「はーい、じゃあ三人一組ね。ここから、くじ取って回してー」
慎志は木下と赤城と一緒に行動することになった。
肝試しはポイント制で競われるもので、それぞれ異なったポイントが書かれた立札を集めていくものだった。各チームでコースが振り分けられている。
「ちょっと、何あれ」
須藤が隣で建物を指差す。
「屋敷かな? 地図にはあの建物の位置に目印が付いてるんだけど」
「入れってことか」
「あの二人、とんでもないことするのね」
「ああ、韮崎と琉か。まあ、大丈夫だって。俺がついてる」
「ありがと。それなら安心だね」
二人は屋敷の中を一通り詮索した。十ポイントの立札が一枚見つかったが、それ以外はどれも冴えないポイントばかりだった。
「きゃあっ」
「どうした?」
「コウモリ!」
「うわっ、いったい何匹いるんだ」
「ちょっと、早くここから出ようよ」
須藤はそう言って立川の腕を引き寄せる。立川も須藤の手のひらに自分の手のひらをそっと添えた。
「どうした?」
「ドアが、開かないの」
「ちょっと貸せ」
そう言って立川は、中世ヨーロッパの装飾が施されたドアを激しく揺り動かした。
「ダメだ」
「どうするの?」
「どうするって…」
「いやっ、何!」
須藤の驚いた声を受けて、慎志は彼女の視線の先を見る。そこでは、寝室だろうか、出入り口と正反対の位置のドアがバタンバタンと、何かを打ち付けるような大きな音を立てて小刻みに揺れていた。
「誰かいるのか」
「ちょっと、どうするの!」
須藤はそう言って慎志の大きな手を強く握り締めた。表情は恐怖で歪んでいる。慎志はそんな須藤の不安を拭い去るように強く抱き寄せた。
「大丈夫だ、じっとしてろ」
慎志はそう言い残し、抱き寄せた腕を解くと、すり抜けるようにしてその問題のドアに走り寄った。
「待って! ダメ!」
「慎志君どうしたの? 道はこっちよ」
「えっ? あ、悪ぃ。…方向音痴がバレちゃったな」
「違うでしょ。何か考えことしてたんじゃない?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「慎志君、杏仁豆腐好き?」
「杏仁豆腐…。ああ、そういや最近、口にしてねぇな」
「じゃあまた今度、私が作ってあげる! こう見えて杏仁豆腐作るのは得意なんだよ」
「楽しみにしておくよ。そういや、赤城は杏仁豆腐が大好物だったな」
「えっ? 何で知ってるの?」
「自己紹介のとき、言ってたじゃないか」
「自己紹介?」
「慎志君って、聞いてないフリして、ちゃんと人の話聞いてるのね」
木下が悪い事でも企むような笑顔をみせる。
「別に聞いてないフリなんか」
「そんなこと言って。自己紹介のとき、ずっと窓の外見てたじゃない」
「それは…」
「慎志君は、空好きなの?」
赤城が顔を覗き込むようにして聞いてきた。
「好きって言うほどじゃ」
「今度、星空も一緒に見ようよ。今日あいにく曇りだったからさ」
「そういえばそうね。昼間はあんなに晴れてたっていうのにねー」
「まあ、雨が降らないだけよかったよ」
「そうね」
「そうだね」
「おお、慎志じゃんか」
「立札は集まった?」
後方から自転車を扱いできた琉と韮崎が言う。
「まあな」
「ほら、見て見てー」
「どれどれ。おおー、なかなかイイカンジだな」
「そうでしょ」
「恐怖のイベントみたいのはないのかしら」
「さあ、どうでしょうね~」
「ポイントが高いほど見つかりにくいところに隠してあるから、しっかり探すんだぞ」
「探すんだぞー」
「は~い」
「わかったよ。じゃあな」
「おう」
自転車を横並びで扱いできた二人組は、そそくさとその場を去っていった。
「二人とも仲いいわね~」
「どっちが先に告白したんだっけ?」
「そりゃ、琉君からに決まってるじゃない!」
「韮崎さんが羨ましいわ~」
「こら。慎志君の前でそんな事言わないの!」
「ごめんなさぁーい」
「ねぇ、今度こっちじゃないかしら」
「すっごい木々が生い茂ってるわ」
「大丈夫よ。慎志君もいることだし!」
「勝手に俺をあてにするなよな」
ピーヒョロロロロー、バサッバサッ、キーキー。
「ひゃあっ、なに!」
「大丈夫か!」
「やっかいだなー、こんなに虫がいちゃ」
「え? 蜘蛛っ!? いやー!!」
「あ! あれ見て!」
慎志は木下の指差す先を見る。
「ったく、木の上に立札吊るすなよ」
「きっと高得点に違いない! 慎志君、出番よ!」
「いも虫っ!? いやー!!」
「本当に取るんですか?」
「当り前じゃない。ほらほら急いで!」
「わかったから、そんなに押さないでくださいよ」
立川はそう言って、茂みを掻き分け、年寄りの木を登った。お目当ての立札は見た目以上に高いところに吊るされていて、骨が折れる作業だったがなんとか取ってくることができた。
「おつかれー」
「いやいや、ほんともううんざりですよ」
「ほら、十ポイントじゃない! やったわ、これで私たちも!」
そう言って木下は不適な笑みを浮かべた。
「かめ虫っ!? いやー!!」
「見て! そろそろ茂みも終わるわよ」
三人はその声に合わせて前方に視線を向けた。木々の梢の隙間から黒い空が覗いて見えた。
「いやー、助かったー」
「すごい発狂ぶりだったな」
「仕方ないじゃない。虫苦手なんだもん」
「ははは」
木下は地図を広げた後、まっすぐ前方を指差す。
「見て! 橋よ」
「こんなところに川があったのか」
「すっごーい! 結構深いわね」
「えっ! ここを渡るの? 怖ーい!」
「大丈夫よ、優子。慎志君がつかまってもいいぞ、って!」
「いや、言ってないよ?」
「慎志くーん!」
「ちょっ、やめろよ。危ないだろ」
「えっ!?」
「えっ!?」
「えっ!?」
「やばいぞこれ!」
「何? 橋が傾いて!」
「落ちちゃうよー!」
「わー!!」
「わー!!」
「わー!!」
バサッ。
「はあ、はあ、はあ。…夢、か」
九月四日金曜日午前五時、今日から三日間学校祭が予定されている。今日から疲労する毎日だというのに悪い夢を見た、と立川は思った。
肝試しは結局須藤のチームが一位という結果で終わった。一位のチームは賞品として高級? バイキングのチケットが与えられた。慎志のチームはというと残念ながら五位の結果に終わったが、木下も赤城も存分に楽しんだようだった。慎志が思うような、肝試しに持って来いの恐怖体験は用意されておらず、愉快で間の抜けた山道探検に終わった。その日、十時あたりから手持ち花火をしたあと、集まったメンバーは渡り鳥のように決まりよく解散していった。慎志が直接須藤と話すことはなかったが、須藤と一緒にいられた、と思うだけで慎志は満足だった。夏の思い出は大いに有意義で、そしてとても短かった。
学校祭一日目、高二ステージが催された。高二ステージとは、高校第二学年が体育館のステージで劇をしたり、ダンスをしたりして、思い思いのストーリーを描くものだ。二年三組はとあるアニメのパロディと、最近流行った洋楽に合わせたダンスをコラボした劇をした。琉が主人公である魔術師役を務め、須藤がヒロインである姫を演じた。はじめ須藤は姫役を嫌がっていたが、クラスメイトに推され、最終的に本人の納得の上で作品づくりが進められた。その他のクラスメイトは、思い思いに自分に課せられた役柄を演じ切り、笑いあり、涙あり? の劇は、審査員の評価がどうであれ大成功に終わった。しかし、わかめ役を演じた立川だけは、少し冴えない気持ちを抱えることになった。
二日目、慎志は琉に連れられて、仙田と三人で校内をぶらぶら歩き回った。二回ほど、須藤のグループともすれ違うことがあったが、彼女と視線を突き合わせることはなかった。須藤はいつもグループの中心で、降り注ぐ太陽の陽射しのように、明るい笑顔を振り撒いていた。
「琉、須藤のこと、どう思う?」
「なんだよ、いきなり」
「いや、須藤と琉ならお似合いかなって思っただけだよ。彼女いないんだろ?」
「バカな事言うなよ。俺にはあいつは荷が重た過ぎるよ」
「美人だもんな、あいつ」
仙田が抜け目なく鋭い横槍を入れてきた。
「お前、彼女いるのにそんな事言っていいのかよ」
「それとこれとは別だよ」
「何がそれとこれだよ」
「あいつ、コクられたりしないのか?」
慎志が聞いた。
「そりゃあ、あれだけ美人だったら一回はコクられたりしてんじゃねぇのか。それに、もう高二だし」
「そうか」
「まあ、彼氏がいるなんて聞かないから、もしかしたら結構フリまくってるかもな」
「怖えぇ、慎志も気をつけるんだぞ」
「なんで俺が」
「興味あんだろうがよ」
「別にねぇよ」
三日目、体育祭の日だ。慎志は運動神経が人並み以上にあるにもかかわらず、学校祭でこの日が一番嫌いだった。だいたい、強い陽射しを受けていると体が妙にだるいのだ。それに運動神経が一応あるといっても琉や仙田には足元にも及ばない。張り切って本気を出してもクラスの人気者になれるわけではなかったから、単純におもしろくなかった。
慎志は自分でも気づかない間に須藤の姿をその視界に捉えていた。女子のリレーが行われるようだ。須藤はこの競技で四番走者、ちょうど三年生の先輩にバトンパスする順番を走ることは事前に知っていた。しばらくして須藤の番がやってきた。慎志はクラスごとに設けられた集合場所で、何をするでもなくボーっと、その姿を追っていった。
須藤は驚くほど足が速かった。運動神経がいいことは以前、韮崎から聞かされていたが、バドミントン部とあって走る姿はあまりイメージして来なかった。そのためだろうか、その衝撃はとても大きかった。須藤の走る姿は美しかった。運動神経以上に、センスがある、と表現した方が妥当だろうと思えた。細身なボディラインが際立ち、足にほどよくついた筋肉が露わになった。日頃は決して見ることのない一面だった。慎志はその光景に目を奪われたまま、しばらく身じろぎひとつできなくなっていた。
※一六年前※
「慎志君ってスポーツ系の女の子が好きなの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど、須藤はすごく頭が良かったから、まさか運動神経まであんなにもいいだなんて想像できなかったんだ」
「単純ねー。世の中には、あなたの想像に及ばないくらい、怖ろしい女がうじゃうじゃいるんだから」
「弁えているよ。それにしても、すごい言われようだな。君の方がよっぽど怖ろしいよ」
「酷いこと言うのね、慎志君ったら」
「ごめんごめん、冗談だよ」
「全然、冗談に聞こえないんだけど」
「わかった、わかりました、降参ですって」
「ふふふ、やっぱり可愛い子ね」
「子供扱いしないでくださいよ。もう二十六なんですから」
「私から見たらまだまだ子供よ」
「ひとつ年が違うからって…」
「ちょっと、どさくさに紛れて女の年齢ばらさないでくれる?」
「ごめんなさい」
「いいわよ、許してあげる。これからは気をつけなさいよね」
慎志は、はーい、とだらしない返事をしてその場に項垂れた。
「そろそろいい時間かしら。いい話聞かせてもらったから、今日は私の奢りね」
「え、悪いって」
「いいのよ全然」
「いや、でも…。困ったな」
「んもう、そこまで言うなら次会うときは奢らせてよね。そのときは、お酒も控えてもらわなきゃ」
「お酒を控えるくらいなら自分…」
「男がつべこべ言わない! 今日は妥協してあげてるんだから、少しは大人しくしてなさいよね」
「あんまり親目線でものを言って欲しく――」
「じゃあ、私もう帰るから、とんと苦労してタクシー拾っときなさい」
「はいはい」
「じゃあまた今度」
「ああ、気をつけて帰れよ」
慎志はそう言って、タクシーに乗って去っていく由美の姿を見送った。




