第一話 出会い
※現在※
「最近飲み過ぎじゃないですか」
「いいんだよ、どうせそんな長い命じゃない」
「何かご病気でも?」
慎志は鼻で笑った。
この店も開店から早二十五年が経つそうだ。開店当初、話題となっていて、マスターが精を出して手に入れたというラッシュ・ワーカーの絵画も、今ではすっかり色褪せてしまっていた。しかしその衰微した光景が、時の移ろいを鮮やかに映し出し、この店に古風な趣を与えている。照明は多少ほこりを被っていそうなものだが、丁寧に拭き取られていた。それでは、この部屋を淡く照らす橙赤色のくすんだ光は、どうやってつくられているのだろうか。
「モスコー・ミュールを」
「かしこまりました」
ガラス越しにヘッドライトの光が通り過ぎていく。店外では台風の余波で大雨が降り続いている。バンカーが道路に溜まった水を押し流してしぶきを上げる。
「人生っていったい何なんだろうな」
慎志はガラス窓に視線を移した。
「どう思うよ?」
「修行と例えられることはよくありますが」
「修行、か…」
「モスコー・ミュールです」
「ありがとう」
慎志は銅のマグカップにひとくち口をつけた。
※十六年前※
「それでその子とはいつ出会ったの?」
「高二の時だったかな」
「一目惚れかしら」
「まあ、今思えばそうだったかもな」
由美はビッグアップルを口に運びながら正面の絵画に見とれている。あのラッシュ・ワーカーの絵画だ。
「自己紹介の時だったと思う。その頃は友達もそう多くなくて、受験勉強も忙しくなる頃だったし、あんまり女子に気を向ける余裕もなかったから。自己紹介の時だって、当時は別段気にも留めなかった」
「あら、冷たい人」
「仕方がないだろ。そんなに頭がいい方ではなかったんだから。人一倍、勉強時間が必要だったんだよ」
※二十七年前※
「うわぁー」
「どうした、慎志。勝手に萎びてんじゃねぇよ」
「受験勉強し過ぎて、もうやる気残ってねぇ」
「俺の前でそんな格好見せんなよ。俺だって疲れ切ってんだから」
慎志は深くため息をついた。
「わかったよ。まあ何にせよ奇遇だったな」
「同じクラスになるなんてな」
「同じ学校に合格したことがだよ」
「そりゃ当然だろ。同程度の平凡な頭持ってんだから」
「あーあ、もっと頭が良かったらこんな苦労しなくて済んだのになぁ」
「そうだな」
「まあ、不幸中の幸いだよ。友哉と同じクラスになれたのは」
「お前、友達少ないもんな」
「うるせぇよ。主体的につくらないだけだ」
「はいはい」
担任の教員から入学に当たっての資料が配布され、一時間目が終わった。二時間目、ただ形式をなぞるだけの入学式を終えると、三、四時間目には各教科から授業進行の手数と持ち物の説明がされた。初日から授業がないだけ幸いだ。
「いいやついたか?」
「は?」
「タイプだよ。女子の」
「興味ねぇよ」
「あー、渚か」
「んっ!」
慎志は焼き飯を口に含んだまま思い切りむせ返る。
「てめぇ、誰から聞いたんだよ」
「えー? だれだったっけなぁ」
「千春か?」
「当たり」
「まったく、友哉は抜け目ねぇな。また高校生活で面倒が増えるぜ」
「んー? 渚は小崎南高に行ったんじゃなかったっけ」
「その話はいいよ」
「今度、会うか?」
「は? 馬鹿言うなよ。なんて言って会うんだよ」
「慎志君が渚ちゃんのこと好きって言うから一度会ってあげて、って」
慎志は友哉の言葉に、再び大きくむせ返る。
「ちょっ、絶対そんなことすんなよ」
「え? どうしよっかなー。結構おもしろい企画だと思ったんだけどなぁ」
「てめぇ」
「はいはい、冗談だって」
「ところで慎志は何部に入るつもり?」
友哉が水筒のお茶に口をつけながら言った。
「んー? どうすっかなー。どうせ友達つくる気もないし、帰宅部でもいいと思ってるんだけどな」
「文芸部に入れば? お前読書好きだろ」
「文芸部は自分で書かなきゃなんねぇんだよ。めんどくせぇ」
「へぇー。それくらいお前ならどうってことないだろ。こう見えて結構忍耐強い方だし」
「こう見えて、って失礼だな」
「悪ぃ。まあ、渚が文芸部に入るって聞いたからよ。あいつも同じ趣味のやつ見つけて、楽しくやってくれてたらうれしいなぁ」
「お前、渚の親でもないのに、何様のつもりだよ」
「え? 友哉様w」
二人は互いの顔を見合わせて笑った。
「まあ、渚と同じ学校なら少しは考えてたよ」
「そうかもな」
五時間目の到来を告げる予鈴が、窮屈な教室で小刻みに響いた。
「まあ、仕方ねぇよ。俺らの頭が冴えなかっただけだ」
「そうやって諦めてばっかいると、人生楽しくねぇぞ」
友哉との楽しい会話も、そう長くは続かなかった。夏休みを過ぎると、ほとんど話すこともなくなった。いつの間にか友哉はクラスの中心人物になっていった。そして、学校祭が、より友哉の資質をクラスメイトに見せつけることとなった。友哉はたちまちクラス一の人気者になった。
「あれあれあれ? だれなのその子~」
「かっ、関係ねぇだろ」
「ナギサちゃん? って言ってたわよね。可愛らしい名前ね~。地元の子?」
「違ぇよ」
「違わないでしょ。よくあなた作品のモチーフにしてるじゃない」
先輩が突如に介入してきた。
「ちょっ!」
「え、もしかして、あの子~!」
「そうに決まってるわよ」
「きゃ~、ロマンチストね、慎志君ったら」
「容易く下の名前で呼ぶなよ」
「あら、女の子にその口の聞き方はないんじゃない?」
「先輩も揃っていじめないでくださいよ」
「ほんと可愛いわね。キュンキュンしちゃう」
「ズルいですよ、先輩だからって」
「慎志も大変だな」
「島先輩も何とか言ってくださいよ」
「うーん、あ! そうそう、これがナギサ、ちゃん?」
島先輩は胸ポケットから一枚の写真を取り出して、立川の机にのせる。
「え? 写真? 島君どこで手に入れたの?」
「ちょっと!」
慎志は急いで一人の少女が映された写真を鞄にしまった。
「ちょっと、慎志君~。少しぐらい見せてくれてもいいでしょ~」
「そうよ、慎志君。男のくせに心が狭いと嫌われるわよ」
「もうこれ以上、いじめないでください! しかも、なんで島先輩まで写真持ってたりするんですか?」
「え? なんでかなぁ。忘れちゃった」
「いい加減にしてくださいよ。もう文化祭まで時間がないんですから。作業に戻ります」
「おもしろくないな~」
「あ、そうだ! ちょっと島君いい? 相談があるんだけど…」
「もちろん」
「え~、私も入れてください!」
思い煩うこともなくなり、作業にも集中できるようになった。しかし、立川の心の中には少しばかりの空白と、深い孤独が広がっていた。
友哉が友達として去ってしまってから、慎志の居場所は文芸部しか残されてはいなかった。慎志は人付き合いが得意な方ではなかったし、どことなく近寄りがたい壁をつくっていた。文芸部はそんな立川を心よく受け入れてくれたのだが、文芸部という居場所も友哉の去った空白を満足に埋めてはくれなかった。
高校一年の学校祭は何事もなく終わった。文芸部員で作る文芸誌は期限までに無事に完成し、高一対抗のクラス展示も結果はいいものでなかったにしろ、クラスがまとまる良いきっかけとなった。しかし、立川に思い出があるとするならそれはクラス展示の部品を作りながら一人のクラスメイトと好きな文学作品を適当に語り合ったことぐらいだ。そして、学校祭以降その男子と特別親密にかかわり合うこともなかった。体育祭の記憶は回想を許さぬ間に、いつしか心の中から消え去ってしまっていた。
再び退屈な授業詰めの毎日がはじまり、退屈な日常が一層陰鬱なものへと変わっていった。慎志にとって授業は、作品制作の構想を練るためだけの味気ない時間の浪費でしかなかった。部活動の時間も、すでに慎志の周りでは必要以上の会話は生まれなくなっていた。
十一月にちょっとした事件があった。慎志にとっては、あまりに些細な出来事だった。
「あの」
「どうした、あんまり長く外にいるとお前も寒いだろ」
慎志は十一月の日暮れも早まってきたある日、同じ文学部の女子に駐輪場で引き留められていた。語尾をやたら延ばしたがるあいつだ。
「…あのさ」
しばしの沈黙が訪れる。
「私、慎志君のことが好きです」
「ちょっ、えっ、待ってくれよ」
相手は長い髪を落としてうつむいたまま、慎志と目を合わせない。慎志は突然のことに頭を掻きむしった。
「少し、考えさせてくれ」
「…うん」
「また返事するから」
「わかった。…今日は急に引き留めてごめんね」
「いや。お前も気を付けて帰れよ」
※十六年前※
「それでどうしたの? 慎二君は」
「そりゃ断ったよ」
「えー、残念ね」
「何が残念だよ。正当な判断だって」
「相手の子、君の小説の中の人、気にしたんじゃないの?」
「何でわかるんだよ。女の考えることってだいたい似たよんなもんなんだな」
「誰でも考えるわよ」
「俺は言われるまで気が付かなかったけどな」
※二十七年前※
「やっぱりナギサさんのこと想ってるの?」
「は? 違ぇよ。浮ついた気持ちでいい加減な返事がしたくなかっただけだ。悪いとは思ってるけど、そこは理解してくれ」
「そうなんだ。変なこと言ってごめんね」
「変なことじゃねぇよ」
「……」
「…悪かっ…」
「これからも変わらず仲良くしてね」
「ああ、もちろん」
告白されたときと同じように駐輪場で待ち合わせた二人は、短い会話を終わらせてしまうとそれぞれの道を帰っていった。陽はすでに地平線の下に隠されてしまっていた。残ったのは僅かな光と、枯葉の腐敗した匂いだけだった。
季節に沿うように衰弱していく人生を感じながら高校一年の一年間を過ごした立川は、勉強もどこか精が出ず、家でもベットに寝転がりボーっとしがちな毎日を送るようになっていた。春休みが過ぎ、やがて春がやって来て、世間はその浮かれた陽気に身を浸しているというのに、慎志の心にくぐもった気怠い大きな塊はその場から腰を起こそうとはしなかった。
四月、高校二年の、また変わり映えのしない退屈な一年間が始まった。慎志は文系を選択しクラスにはたくさんの女子がいたが、慎志にとってどれも同じような顔をした、似たような声のするただの赤の他人に過ぎなかった。
「三組から来ました、赤城優子です。好きな食べ物は杏仁豆腐です。よろしくお願いします」
「木下愛梨です。趣味は絵を描くことで、料理も偶にします。あんまり勉強が得意な方ではないので、授業中困ってたりしたらやさしく声をかけてあげてください」
「バスケ部、小原琉。よろしく」
「佐間ひかるです! 方向音痴です! 一年間仲良くしてください!」
「須藤夕月奈、バドミントン部です。趣味はあんまよくわかんないけど、おしゃべりは好きかな。一年間よろしく」
「韮崎裕美で~す! 女バスです! 琉君が実はすっごいリーダーシップあること女バスでは有名だよ!」
「ちょっ、おまっ」
「いろいろ迷惑かけるかもしれないけど、みんなよろしくね!」
「ただじゃ済まさねぇからな」
「へへ~ん」
「ほんとに自由だな」
隣に座っていた仙田という名の男が言った。
本当にその通りだよ。本当に自由で、いい加減なクラスだ。
いつの頃だったか、慎志は一人のクラスメイトの存在を意識し始めていた。背丈は人並みだが存在感があり、いつも仲良しグループの中心人物だった。雰囲気は明るく、性格はサバサバしているように思えた。声が特徴的なのだが、どう表現していいのか立川の持ち合せた語彙力(それは相当数あるものだった)では、どうしても表現し切れなかった。そして、何よりも笑顔がとても素敵だった。
五月になり、慎志は授業中も休み時間も、その須藤夕月奈の姿を眺めていた。彼女の髪は艶のある漆塗りされたような黒髪で、少しウェーブの掛かったセミロングだった。授業中、慎志は教師の話も上の空に、その後ろ姿を眺めてウェーブの掛かり方を観察し、その匂いを想像し、その髪の毛を撫でる自分の姿を想い描いた。その度、ひどく申し訳ないことをしてしまったような気持ちになり、胸が苦しくなった。しかし、再び授業に集中することなど慎志には到底できなかった。
休み時間は誰にも見つからぬように注意しながら、その張りのある、それでいてどこか臆病な声を遠くで聞いていた。その中で彼女は何度も大きな笑い声を上げたし、それは決して下品なものではなかった。この頃から、慎志の人生が再びその華やかさを取り戻すことになった。
六月になった。五月の下旬に席替えがあり、慎志は偶然か必然か、須藤と隣の席になった。一番後ろの席だった。あまり多く話はしなかったが、それでも立川の心は充足感に満ち、快い温もりに包まれた。そして六月の中旬に実力テストがあり、その結果が返ってきた。
「テストどうだった?」
「俺か?」
「うん」
「まあまあかな。実力以上ではないし、実力以下でもない。もう少し実力があれば満足できるんだけど、もともと頭のいい方ではなかったから、あんまおもしろくないな」
「まあ、勉強をおもしろいって言う人の方がおかしいんじゃない?」
「須藤はどうだった?」
「慎志君とおんなじカンジ」
「実力として妥当?」
「うん」
「そうかぁ。なんでこうも勉強ってのはおもしろくねぇかなぁ」
「まあ、勉強だけじゃないよ」
そこで須藤は会話を絶ち切った。慎志もそれ以上、話を続けようとはしなかった。
※十六年前※
「それから二人は仲良くなったのかしら」
「よくわからないな」
「どうして?」
「これといったきっかけがなかったんだ。夕月奈と僕との間には」
「そう。でもそれってロマンチックね。 結ばれるべくして結ばれたってことじゃない」
「そんなんじゃないよ、別に」
「そう?」
「ああ」
慎志はそう言って、グラスに六分の一残されたウォッカ・アイスバーグを飲み干した。
「今日はここまでだ。明日も仕事があるから」
「どうせ古びた書物を棚に並べるだけでしょ」
「それが大事なんだよ」
「ふーん」
「朝が早いんだ。続きはまた今度話してやるよ」
「今度っていつになるのかしら」
「今度は今度だよ」
「またメールしていい?」
「もちろん」
「じゃあ、また」
「ああ、気をつけて」




