中編
そういえばあれも夏の日だったはずだ。
惨めたらしい敗北感、人目のつかない薄暗い裏路地、肌身に伝わるアスファルトの冷たさ、地面で汚れる中学の制服、口内の切り傷と鉄の味――そういった記憶の背景に、セミの鳴く声がいつもあるから。
「お前さあ……」
俺のことを好き放題に殴ったり蹴飛ばしたりした男子――屈辱的なことに、俺の後輩にあたる奴だ――が、浜に打ちあげられたマグロみたいに横たわる俺の髪を無造作に掴み、頭を持ち上げる。極度に冷えきった奴の双眸が、俺の目を覗きこんだ。
こいつはきっと、ちっとも怒ってはいなかった。
ただ単純に、鬱陶しかっただけに違いない。
さながら、足元に擦り寄ってくる野良犬を反射的に蹴り飛ばすような、そんな感覚。
「なんなの、マジ? 気づかれないとでも思った? ここンとこ俺らのことつけ回してさ。キメエツラぶら下げてキョドキョドついてきやがって。テメエのやってることを客観的に理解することも出来ねえの? どんだけ頭ン中イカれてんの? なあ? おい? なんか言ったらどうなんだよ?」
欠片も感情が伺えない表情で発せられる奴の罵倒を、俺はただただ聞き流す。ともすれば、意味のない笑いすら漏れてしまいそうだった。
客観的に理解? 出来てるに決まってるだろう。こいつはあれだろうか、いつだって自分の感情を完璧に抑制できると本気で思っているのだろうか? 思えばこいつは、いかにもそんな感じの雰囲気を醸し出している奴だった。
俺はただ、信じられなかっただけだ、訳が分からなかっただけだ、受け入れ難かっただけだ。
だから、自分の目で確かめたかっただけだ。
そしたらもしかしたら、この現実がなにかの間違いであることが分かるかも知れなかったから。
たとえ頭の片隅で、そんなご都合主義なんてありえないことを分かっていても。
セミの声が、やたらバカみたいにうるさい。
しばらく俺のことを白眼視していた奴は、やがてどうでもよくなったように手を離し、もう一度だけ俺の横腹を蹴飛ばした。鈍く重たい痛みが駆け巡り、俺はそれを吐き出すように咳き込んだ。
「いいか、お前。今度俺たちの前にノコノコ出てきたら、今度はこんなもんじゃすまねえからな? 二度と学校に来られないような惨めな目に合わせてやる」
奴は俺につばを吐きかけると、「行こう」と言って、そばにいた女子の肩に腕を回した。女子はそれに黙って頷く。俺の方など見向きもしない。
「ま、待って……金、森……!」
その光景に耐えかねて反射的に荒げた声を出す。
奴はギラついた視線を向けて振り返り、毒々しい舌打ちとともに俺の方に歩み寄る。この日、奴が感情をむき出しにしているのを初めて見た。怖気づかずにいられない敵意。奴は俺の顔面、左頬の辺りを思いきり蹴りあげた。
歯が全部吹っ飛んで口内でシェイクするんじゃないかと思った。それほどの激痛が襲い、俺は悲鳴をあげながらのたうち回った。
「クソストーカーが、気安く俺の女を呼ぶんじゃねえ! 殺すぞ!」
俺はこの一撃で、今日の奴がいかに紳士的であったのかを否が応でも理解することになる。
この一撃に比べたら、これ以外の今日の暴行なんて、ただのお遊びに過ぎなかったのだ。先ほどまではどこか遠くから自分のバカさ加減を見ているような気分だった。だけどこの痛みが、俺を現実に引き戻す。
俺は、バカで、愚かな、クソストーカーだ。
耐え難い激痛に苛まれながら顔を上げると、女子が俺のことを侮蔑の視線で見下ろしているのに気づく。今日、一度もこちらを見ようとも――興味を欠片も示さなかった――俺の、幼なじみ。
見るな――見ないでくれ!
つけ回して、遠くからジロジロ見ていたのは自分の癖に、そう思わずにはいられない。
しかし彼女は、そんな俺のことを冷めた視線で見下ろすばかり。
そしてポツリと、吐き捨てるように、呟いた。
「気持ち悪い」
俺の幼なじみ――金森夏芽。
彼女が奴と付き合い始めておよそ一ヶ月目だった。
いくら俺だって毎度授業をサボるわけにいかない。
金曜日には軽音サークルだってあるので、星崎ちゃんのところに行ける日はどうしても限られる。
星崎ちゃんはいつも四時とか五時くらいには帰ってしまうので、要するに四時限目の授業に出る日は彼女のもとには遊びに行けない公算になる。
つまり、俺が彼女の元に遊びに行けるのは、平日の場合だと、二時限目まで(午前で終了)の火曜日、三時限目まで(二時半に終了)の水曜日、大学の授業自体を入れてない木曜日、の三日間だ。ちなみにサークル活動があるのは金曜日(この日の授業も四時限目までだ)。土曜日に授業は入れてない。さらに言えば、最初に会った日は(本来は四時限目まである日なのだが、サボっていたため)月曜日、二回目に会ったのは火曜日だ。
要するに、毎日遊びに行ける訳じゃないということを、その次の日に星崎ちゃんに伝えたのだが、彼女は気持ち、それに不満そうだった。
いや、それを直接口にした訳じゃなくて、
「……という訳なんだけど、いい?」
「…………」
「…………」
「…………」
「えっと、聞いてます?」
「…………」
「いや、そんな露骨にそっぽ向かなくてもいいんじゃないですかね、星崎ちゃん?」
「向いてない」
「っていう台詞を俺に背中を向けながら言われても説得力が欠片もないんですが?」
「知らない」
「そうは言われても、俺だって色々事情があるわけなんですよ。お兄ちゃん、万が一ダブったら親に半殺しにされちゃうわけで」
「死ねば楽になるのに」
「口が汚いよ!」
つーかそれ微妙にパロディだし。やっぱり絵を描くのが好きなだけあって、っていうか画風もマンガ絵っぽいだけあって、マンガとかも読むんだろうか。それにしても小学生の中学年くらいの女の子がよく麻雀漫画なんて読むなあ。
「……まあ、ぶっちゃけ、授業がある時以外は大体暇だし、時間があったら遊びに行くから、ね?」
「…………」
慎ましくコクリと頷いた星崎ちゃんが可愛かったので頭を撫でようと思って髪に触れたら、「集中できなくなる、やめて」と拒絶されてしまった。
まあそんなこんなで、大学帰りに星崎ちゃんの隣でのんびりと過ごすようになってから一ヶ月は経つ。
基本的には彼女が絵を描いてるところに俺がノコノコやってきて、その隣で俺は絵を眺めるなり、スマホをイジるなり、彼女に話しかけたりする。彼女が反応するかどうかはその時次第だが、基本的に筆を止めてる時を見計らって話しかけているつもりだ。そして彼女が一区切りつけたところで、会話をする。ちなみに、彼女の前ではタバコを吸わないようにしている。
「足立くん、最近なんか声が明るくなったね」
そんな折、みなちゃんと電話をしていた時にそう言われたことがある。
「ん、そう? 割といつも通りのつもりなんだけど」
「そう? でもちょっと前と比べて、なんか声に張りがあるし、明るい話をするようになったなあって」
本当にいつも通り、なんら変わらない感じでみなちゃんと電話をしていたつもりだったけれども……みなちゃんは結構、鋭いところがある。みなちゃんの彼氏さんも、ウカウカ浮気なんて出来ないことだろう。
「ひょっとして足立くん、彼女でも出来た?」
「ぶふっ!」
でも流石にこれはちょっと面を食らって吹き出してしまった。
彼女……いや、絶対に彼女ではないのだが……。
「うっわ、マンガみたいに分かりやすい反応!」
「い、いや、彼女は出来てないんだけど?」
「けど?」
「そ、そんな大した話じゃねえよ……」
「ふーん……あー最近足立くんと話するの退屈だなあ……電話代もかさむししばらく電話控えよっかなー」
「それだけはー!」
結局俺は洗いざらい話をすることになった。
流石に公園で知り合った女の子が小学生くらいの女の子だということは伏せようとしたのだが、言い訳を考えてちょっと間を空けたら、「嘘つき足立くんとの電話マジ退屈だし切っちゃおっかなー」と瞬く間に釘を刺されたので観念して、結局百パーセント本当のことを話をすることになった。先述の通り彼女は鋭いところのある子だが、彼女に曰く「足立くんの場合は特に分かりやすい」のだそうだ。「それって単純ってこと?」って聞き返したら「違うとでも思ってるの?」と返ってきて、タジタジとなるばかりだった。
「ふーん……足立くんってロリコンだったんだ……」
「やめてくださいホントマジ違うんで。俺が好きなのはみなちゃん見たいなかわいい女の子なんで」
「へえ、それって私が小学生の女の子みたいにつるぺたでちっちゃな女の子だってことを言いたいって訳ですかねー流石ロリコン先生、いい仕事してますねー」
みなちゃんの意地の悪い追求に俺はただただ小さくなるしかなかった。電話越しからみなちゃんの「ひっひっひっ」なんて悪い笑い声が聞こえてくる。ああ、小学生の頃の純粋だった彼女が懐かしい……っていや、ロリコン的な意味じゃなくてですね。
「なるほどねえ……不登校の女の子かあ」
「そうなんだよな……なんていうか、絵に描いたような芸術家肌って奴? あれはまあそりゃあ小学生たちには馴染めないわって感じだよね」
小学校の教室なんてあんなの、動物園の檻の中と大して変わりはしない。そんな中にあって星崎ちゃんみたいな草食動物なんてあっという間に食べられてしまうのがオチだろう。ましてや彼女は、群れることが出来ないときている。
「……まあ、どうせボッチの足立くんは大学で暇を持て余してることでしょうし、いいんじゃないでしょうかね? そういう女の子の話し相手になってあげるのは。お互いの社会復帰のためにも」
「そこでなんでお互いのって言葉が出てくるのかについては敢えて触れないでおくけど、もちろんそれはそうするっていうか、そうしてるよ。あと俺はボッチじゃねえ。一応友達はいるわ。休日に一緒に遊びにいく友達がいないだけで」
「やめてよ足立くんホントそういうの哀れになる」
うっせえ、分かってて言ってんだ。
「でも、その女の子に変なことしたら、新幹線で飛んできてちんこもいじゃうからね?」
「そんなことするわけねえだろうが」
「あっはっは、まあヘタレ童貞の足立くんにはちょっとハードル高過ぎるよねー」
ちくしょう、本当にみなちゃんは毒舌家になってしまった……彼氏さんはきっとMなんだろうなあって思ってある時聞いてみたら、「うん、そうだよ。ヘタレでドジっ子属性持ちのメガネ標準装備な自称知的なスマートかっこ笑い系男子……でもそれが萌え萌えで可愛くてカッコいいんだよね、いやーん」とのこと。
「でも、思いの外早く出来てよかったね」
「なにが?」
「自分の足で歩いて、躓いて、膝を擦りむいて、そこで立ちあがること」
「…………」
「後はそこでちゃんとなにかを学ぶだけ……結構そのお年ごろの女の子って多感だよー? あんがい足立くんの人生に大事なことを、教えてくれるかもしれないね」
俺は思わず苦笑いをしてしまった。
別に星崎ちゃんをバカにしている訳でもないのだが、やっぱりちょっと、大げさに聞こえる。
「そんなんじゃ、ねえって」
「まっ、そんな悪いことにはならないと思うよ。ちゃんと向き合ってその子と付き合えればね……ふあぁ、なんか眠くなっちゃった。じゃ、今日はここまで……じゃ、ま、リア充爆発しろっと。じゃあねー」
「おう、おやすみ」
そして電話を切った俺は、ケータイを充電アダプタに突っ込んで、そのまま布団に横になった。
「リア充、ねえ……」
たとえ相手が小学生の女の子であっても、リア充はリア充なんだろうか。
本当に、苦笑いばっかりだ。
彼女に初めて会ったのは秋の初旬頃だったが、今ではすっかり冷たい北風が吹くようになっていた。
その間ずっと、星崎ちゃんは絵を描き続けている。例外は、あの二回目の時くらいだ。俺が公園に顔を出せば必ず絵を描いていて、そうでなくてもその日の分の作業を終えた彼女がボーっとしている。
こんな寒い季節、鉛筆を走らせる手なんてかじかみそうなものなのに、俺の見た限り彼女の手が寒さで淀んだことは一度もなかった。
ある日のこと、俺は今日の分の絵を描き終えた星崎ちゃんに聞いてみる。
「ほしちゃん」
俺は最近、彼女のことををそう呼ぶようになっていた。
「こんな寒い中で絵を描いてて手は冷えたりしないの?」
彼女はこちらの顔を仰ぎ見ると、不思議そうにコクリと小首を傾げた。恐らく問われている意味をよく理解出来なかったのだろう。俺はちょっと苦笑しつつ、
「いやほら、最近めっきり寒くなってきたじゃない? 冷たい風がビュービュー吹いてる中で絵を描いてて、よく手がかじかまないなあって」
「…………」
言われて初めて気がついたと言わんばかりに、彼女は視線を下に向けて考えこむ。
この一ヶ月で改めて思ったことだが、やっぱり星崎ちゃんは会話が苦手というか、慣れていないようだった。まあ普通なら、小学生の女の子が一回りは年上の男性と話をすればそりゃあ緊張くらいするものなのだろうが、恐らく彼女の場合はそうではない。最近の彼女はてらいなく感情を表現してくれる。
「むー……」
なんて小動物的な唸り声をあげて、考えこむことに没頭している星崎ちゃん。
健気だなあ、と微笑ましく思っていたところ、ふと、ささやかなイタズラ心がふつふつと湧きあがる。
膝の上でふらふらとしている星崎ちゃんの小さな右手。俺はさり気ない動きでそーっと手を動かすと、イタズラっぽい笑顔とともに腕を一気に伸ばした。
「きゃっ!」
横合いから犬に吠えられたような表情でびっくりしている彼女を尻目に、俺は両手で包み込むように彼女の右手を握る。彼女の小さな右手は、繊細で華奢で、よく出来た氷細工のように冷たかった。
ちなみに今は公園には俺たち以外に誰もいないので人目は気にしないでOKだし、これ以上のことをするつもりも一切ないので倫理的にも(きっと)OKだ。
「え、えっと……?」
「なんだよめっちゃ冷えてんじゃん。俺が温めてやるよ、ほれほれほれー」
「え? え、え、えっ……?」
彼女の理解が追いついていないのをいいことに、俺は星崎ちゃんの手を温める――という名目で彼女の手を味わうようにニギニギとする。
あー……ちいさくてやわらかい……やっぱり女の子の手っていいものだよなーずっと握っていたいなー。
なんて思いながらニギニギとしていると、彼女がむくれた表情でこちらをじっと見つめていることに気がつく。それはそれで大変可愛らしいものの、経験上、この後が怖かったりするので俺は素直に手を放した。
「どう、手は温まった?」
「…………」
あちゃーっと俺は思う。
星崎ちゃんはむくれた表情のままでそっぽを向き、ご機嫌ナナメのご様子でこちらの言葉を無視する。
ちょっと調子に乗りすぎたか。
「あー……ごめん、流石に嫌だった?」
「…………」
彼女はこちらをチラリと見たものの、俺と目が合うとすぐに顔を伏せて、モジモジとし始めた。
「別に、嫌じゃ、ないけど……」
それはいかにも「照れてます」と言わんばかりのお淑やかな仕草に口調だった。
ほほう、要するに恥ずかしかっただけか。
「へえ、じゃあひょっとして良かった?」
「そ、そんなことない、もん」
「もっとやって欲しい?」
「べ、べべ、別にいい、し……」
「なんだよー、照れんなよー。そうだよなー寒いもんなーそりゃ手は冷たいよりは温かい方がいいに決まってるもんなー別に俺に手を握られるのが嫌なわけじゃないんだもんなー」
「うー……ウザい……」
「知ってまーす」
そんなやりとりをしながらしばらくじゃれつく。こんな無邪気なノリで誰かと話すのもこっちに来てから久々だったものだから、ついつい興が乗ってしまう。
結局すったもんだあった末、言いくるめることに成功した俺が、やっぱり恥じらっている様子の彼女の手をニギニギと握ることとなった。
はーっ、至福のひととき。
「でも、よくこんな冷たくなった手で絵なんて描けるよなあ……冷えた手で細かいところとか描けるの?」
「集中してるから……そういうの、全然気にしない」
「ふーん、それで絵のクオリテイ変わらないんだから大したもんだよなあ……」
実際スケッチブックに描かれてる絵は相変わらず上手だ。彼女は基本的にはここの風景をモチーフに絵を描くのだが、あくまでフレームを借りているだけで、そこに描かれるのは人間だったり動物だったり植物だったり機械だったりと割となんでもありの印象だ。時折遊具が全く別のもの(遊具ですらない時もある)になっていたりもする。しかしそれでも、不思議と「これしかない」と納得してしまうような、そんな魅力のある絵なのである。
「でもそれだけ集中できるってすごいよなあ。俺がほしちゃんくらいの頃なんて、宿題やってても一時間ももたなかったし」
「わたしも、宿題は、嫌い……」
「お、気が合うねえ。あれだよな、漢字の書き取りとかマジ意味分かんないよなあ。同じ漢字を十何回も書くとかもただのイジメ」
「宿題をやってきても、破かれたり、隠されて、先生に怒られた、から……」
星崎ちゃんからポツリと漏れた言葉に、俺は二の句が告げられなかった。
「でも、絵は、違うから……」
彼女は膝の上のスケッチブックに視線を落としながら言う。気持ち、語気を強めて。
「これは絶対に、誰にも破かれない、破かせない……だから、これは、わたしの場所……ここも、わたしの場所……わたしだけの……」
別に彼女が不登校の女の子だということを忘れている訳ではない。彼女がイジメを理由にこうなったのもなんとなく察しはついていた。彼女の言動からは、そういった痛々しい印象を受ける。
「だから、当たり前……わたしがここで、絵を描くのは当たり前……だってここは、わたしの場所だから」
だけどそれでもやっぱり、こうして彼女のそういう一面を垣間見てしまうと、やっぱりどうしても悲哀を感じずにはいられない。
本当に、これだけ魅力的な絵を描くいい子なのに、と俺は思う。だけど同時に、こうも思う。
これだけの絵が描けるようになるために、手のかじかみなんて気にもせず、つい先日までは隣に誰が座っていても気にもしなかった女の子。
一体、この年でこれだけの絵を描けるようになってしまった女の子の、そこに至るために費やした時間は――思いは、一体どれほどだったのだろうか、と。
文学部の俺は二十歳を超えた今になっても、文学作品の一つも理解できないでいるというのに。
俺はなにも言えなかったけれども、変わりに彼女の頭を撫でた。
当初は痛みのあった髪も、今ではすっかりまっすぐ流れるようになっていた。そういえばあのちょっとダボダボしていたパーカーも着てこなくなり、なんだか服装に気を使うようになっていたのが素人目にも分かった。一度、「なんか今日の服、かわいいね」と声をかけたら、返事もせずに顔をそむけて俯いた。きっとその顔は赤くなっていたに違いない。
「……お腹、減ったな」
実際ちょっとお腹の虫が鳴いていた。彼女の方も、絵を描いてる途中に、くぅ、とお腹を鳴らしていたのを見逃さなかった。彼女はちょっとだけ恥ずかしそうに、コクリと小さく頷いた。こういう時は、なにか美味しいものを食べるのが一番だ。
「なんか温かいものでも食べるか?」
と聞いたところ、またコクリと頷いたので、俺は近くのコンビニで焼き芋を買ってきた。
「これなら手も温まるし、一石二鳥だな」
あえて選んできた大きめの芋を半分に割って渡しながら冗談めかして言う。手渡した時に、星崎ちゃんが熱がって大げさにお手玉をしたので声を出して笑ったら、彼女はちょっと非難するような目で見てきた。
彼女の夕飯のことも考えて量は敢えて少なめにしているのだが、それでも彼女にはちょっと重いようで、小さな口で啄むように食べる芋はなかなか減らない。
それでもホクホクと言わせながら芋を食べる姿はいじらしくて、時折見せる多幸感に満ちた笑顔は、ちょっとたとえようもない程に、可愛かった。
「……おいしい」
「そうだな」
たったのそれだけの会話なのに、これ以上なにもつけたすものがないくらいに幸せだった。
俺はそれが嬉しくて、思わず彼女の頭を撫でた。
「おーう愛しの愛娘ー! 美味しそうなものを食べてて羨ましいねー!」
ベンチのちょうど対角線上。
公園の入口から、いかにも「お水」といった感じの女性が手を振りながらやって来たのはその時だった。
幸いにもイジメに発展することはなかったが、それから金森とは目も合わせられなくなった。
つい一ヶ月ちょっと前までは、まるで日常系マンガのように何気のない、だけどだからこそこれ以上なく楽しい日常を過ごしていたというのに、今となっては超えようのない壁が隔たったかのように、絶望的な距離が出来上がってしまった。
ストーカーとその被害者――ああ、目眩がする。
もし次に、その壁を乗り越えようとしたら、今度こそ俺は例の彼氏に徹底的に追い詰められ、二度と学校に通えなくなるようなメに合わされるのだろう。
中学生に上がって、ただのクソガキだった俺も性欲が芽生えたおかげで、ますますしょうもないクソガキに格上げされていた。
まあお互い自分たちが男と女であることを自覚するようになってからも(まあ、金森とみなちゃんは元々その辺を意識していた感じだったが)、なんとなくズルズルと今まで通りつるんだままだった。
なにをするにもなんとなく一緒で、なんとなくケンカして、なんとなく一緒に笑って、そしてその一緒の女の子は結構カワイイ女の子で。
だから漠然と、なにかしらのきっかけでどっちかが(恐らくは俺の方から)告白をして、それで恋人同士になるものだと思っていたのだ。明確に恋心を意識していたわけではなくて、ただ「なんとなく」そう思っていたという感覚。そして、きっと向こうもそう思っているに違いないという感覚。
欺瞞だった――取り返しがつかない愚かさだった。
ある日の放課後、最近あいつと一緒にいる時間が減ったなと思っていたら、金森が俺以外の男と二人きりでいつもの帰り道を歩いていた。
「いや、なんか告られちゃったから、取りあえず付き合うことにしたのよ」
意味が分からなかったので翌日の放課後に問い詰めたら、当たり前のようにそんな応えが返ってきた。
「取りあえずって……なんで? そいつ知らなかった奴なのか?」
「うん。私の後輩くん。知らない奴だったけど、けっこうカッコよかったし、いい人そうだったから、取りあえず付きあってみることにしたの。もしかしたら物凄く好きになれるかもしれないから」
「いや、お前、それちょっと軽すぎないか?」
「ん?」
「だってこういうの、ちゃんとお互いのことを知って、お互いいい感じになって、改めて付きあおうかって形で初めて恋人同士になるものじゃないのかよ?」
「…………」
「なんだよ、知らない奴だったけどって? お前そんなよく知らない奴の彼氏になろうなんてなんで思えんの? 怖くないの? 単純に身体目的とかだとかそういうこと思わないの? なあ、俺別に怒ってるわけじゃなくて、お前のことが心配で」
「……あんたさ、なに勝手に決めつけてんの?」
必死に語る俺に対して返ってきた冷たい言葉。
思わぬ敵意に驚いた俺が振り仰ぐと、そこには、まるで大人の事情に拙い理想論を滔々と述べる青臭いガキに向けるような視線をこちらに向ける金森がいた。
「あんた、一回でもちゃんと恋愛したことあんの? 別に、あんた童貞? とは聞かないから、誰かと付きあったことは? なんかさっきから黙って聞いてればマンガの読みすぎみたいなこと言ってるけど、わざわざ呼び止めてまでなに眠たいこと言ってんのよ? いいじゃん、取りあえずで。一体なにが悪いっていうのよ? 別に嫌いになったら別れればいいだけの話じゃん。逆になにも知らない人でも、取りあえずいい人そうに見える人が好意を示してくれたら、まあ取りあえずお友達からってなってもおかしいことでもなんでもないでしょ? で、そのお友達で過ごしてみて、悪くないと思ったから付き合い始めた。ねえ、なにかおかしいこと言ってる、私?」
おかしくない。理屈の上ではまったくもってなに一つおかしくはない。
だけどそうじゃない、そうじゃなくて……。
「もういい? 悪いけどこれからカラオケでデートしてくるから。じゃあね」
なにも言えないでいる俺を置いていくように、金森はクルリと俺に背を向けて去っていった。
取り残された俺はしばらく何も考えられないで、それから納得の出来ない思いばかりが雪崩のように一気に押し寄せてきた。
ストーカーをやらかしてボコられて、三ヶ月。
休日に友人たちとラウンドワンで遊んでいたところで、金森が彼氏と腕を組んではしゃいで、ゲームコーナーのUFOキャチャーで遊ぶ金森を目撃する。
ただしその彼氏は以前俺のことをリンチにした奴ではない。全く知らない、チャラチャラした奴だった。
気がつけば俺は、友人たちが止めるのも聞かずに、「おい、お前……!」と声を荒げて向かっていた。金森は振り向くなり露骨に不快な表情になり、隣の男は威嚇のような「あ?」という声をあげて睨み据えた。
「お前、なにやってんだよ! お前そいつ、誰なんだよ! まさか、彼氏っつーんじゃねーだろうな!」
有線のJ―POPやゲームの筐体から流れるBGMが響き渡っているにも関わらず、辺りはそんなものなどなにもないかのように静まり返ったように思えた。
「……だったら? アンタには関係ないでしょ?」
横の男が「はあ? なにお前?」と凄むのを無表情で止めた金森が、全く感情のこもらない声で言う。
「なんだと……?」
今すぐにでも金森に殴りかかりたくて仕方がなかったが、血反吐を吐く思いでグッと堪える。
「っつーか言っとくけど、アンタをボコった後輩とは別れたから。向こうが勝手に振ったのよ。別に好きな女が出来たとか言い出して」
アタシよりオッパイがデカくて、エッチが上手そうな三年生の先輩に告られて、コロッと心が変わっちゃったんじゃない? 金森はつまらない芸人のギャグへの愛想のような声で笑う。
「それで」と、彼女はそんな声をあげた笑顔のままで、隣の男と腕を組んだ。
「私のことを慰めてくれたこいつと、付き合うことにしたの。あんな奴より、楽しいことをいっぱい知ってて、エッチも上手な、キョウちゃんとね」
いかにも「私はこれでいい」と自分に言い聞かせてるような笑顔の金森と、それに欠片も気づかずに勝ち誇った表情で腕をカッチリと組む彼氏。
目眩が――吐き気がした。
「じゃ、そういうわけだから」
「おい待て――ふざけんなっ!」
そのまま逃げるように去ろうとする金森の腕を、俺は全力で掴む。本当に、ふざけんじゃねえって気持ちが込み上げて、そのままゲロとして体外に吐き出されそうだった。
「いい加減にしろよテメエ! 本気でこれでいいと思ってんのか! それじゃあただのあばずれ……!」
しかしそこまで吐き出して言葉が止まる。
何故なら、金森の目を覗いてしまったから。
大事なものを全部なくしてしまったような、そんな空っぽの目を。
腕を掴んだまま立ち尽くしている俺に、彼氏が「おいテメエ!」と殴りかかってきたけれども、それをかわす気力はなかった。俺は地面に転がり、そのまま起き上がることなく、頬への痛みとともに横たわる。
彼氏は俺に唾を吐きかけると、世にもおぞましいドヤ顔を浮かべて、「行こうぜ、なっちゃん」なんて言いながら肩に手をかけてどこかに消えてしまった。
有線とゲームの筐体がうるさいくらいに響いてるはずなのに、俺の耳には全く欠片も響かない。
「お、おい、お前、なにやってんだよ……?」
いつまで経っても起き上がらない俺の見かねたのだろう。友人たちが曖昧な表情で俺に手を差し伸べる。
それで俺はやっと起き上がったけれども、足に力は入らず、現実がどうしようもなく遠かった。ふと、俺の目が、UFOキャッチャーのガラスに映った自分自身の目と合う。
ああ、なんということだろうか。
俺も、さっきのあいつと、同じ目をしていた。
俺も金森も、どっちも平等に――空っぽだ。
「おいおい、大丈夫かよ、足立?」
心配してくれる友人の声。人としてちゃんと応えなくてはいけない声。
――なあ、俺は今、一体どこにいるんだ?
だけど俺は、そんな声など無視して、そう問いたくて問いたくてたまらなかった。そうしなければもう二度と自分の言葉でなにかを語れなくなる気すらした。
だけど、結局、俺は愛想笑いを浮かべて、「ああ、悪いな」とだけ応えた。そう応えた俺はその日、その一言を最後に一言も喋れなかった。
俺はきっとこの日、迷子になってしまったのだ。
自分の言葉が、相手の思いが、探しても、探しても、決して見つかることのない、そんな場所に。
「あー……一応、知らない人には気をつけなさいって何度も何度も教えてたはずなんだけどなあ……」
そして俺は今、その派手めな女性、星崎ちゃんの母親、星崎さんと一緒に、公園のベンチに腰掛けてタバコを吸っている。
俺が震える手でタバコに火をつけようとしたら、当たり前のように火のついたライターが目の前にあって、「お近づきの印って奴?」と屈託なく笑った。
ただでさえ女性に免疫のない俺が、いきなりこんな刺激の強い女性と二人きりにされて、それはもう心臓がバクバク言いまくっていて、そんな俺に彼女は、
「もー、別にとって食いやしないから大丈夫よー。私これでも一応、月に百万程度なら普通に稼げる接客のプロなのよ? 食った年を経験でカバー出来るだけの経験値は持ってるんだからー」
なんて言って笑いかけてきたが、そんなこと言われても緊張感しか湧いてこない。こちとらキャバクラになんて行ったことないのだ。行く度胸もない。
まあ彼女としても無理に緊張感をほぐすつもりもないのだろう。彼女は苦笑しながらも、タバコの灰を携帯灰皿に落とした。
女子小学生の頭を撫でているところに突然声をかけられたものだからちょっとしたパニックになって、先の台詞の中に「愛娘」という単語があったのと、星崎ちゃんがポツリと「お母さん、な、なんで」と呟いたものだから、いよいよもの凄いパニックになった。
多分、俺、殺されても文句が言えない。
「ごめんねー、ついつい暇だったから来ちゃったんだー。にしても焼き芋かーいいなーお母さんも食べたいよー。でもあんまり食べ過ぎちゃうと夕飯食べられなくなっちゃうからほどほどにしときなさいよ? あんたただでさえ食細いんだからさー背も伸びないおっぱいも大きくならない挙句の果てにはぽっちゃりだけはしちゃうなんて女の子になったらお母さん泣いちゃうからねー……で、そこにいるアンタは彼氏?」
あわ、あわわ、っていう心境のところに突然水を向けられたものだから俺は「え? ひゃ、ひゃい?」なんてクソマヌケな声をあげてしまう。母親と思しきお水な女性はなにかを推しはかるような視線を無遠慮に向けてきている。しかし、俺がなにかを言う前に、星崎ちゃんの方が顔を真っ赤にしながら首を横にブンブンと思いきり何度も振った。
「あっはっはっ! そうかそうか彼氏さんなんだねーへー何よあんたもいい男を掴まえたもんじゃない!」
どう考えても皮肉だろう。豪快に笑いながら俺のことをジロジロと眺める。敵意では辛うじてないが、冷笑的な感じは大いに見受けられた。
「で、双葉。ちょーと悪いけど、お母さん、この彼氏さんと二人っきりでお話がしたいから、先に帰っててくれる? あっ、先に話しとくけど、夕飯は作ってあるのを温めてね。ごめんねー、来週辺り休み取れそうだから、その時に二人で動物園行こっか? 双葉見たがってたよね、上野動物園のパンダ」
隣に座る俺のことは見向きもせず、真っ直ぐに星崎ちゃんの下へと歩み寄ると、気持ちのいい笑顔とともに彼女の頭を撫でながら言い聞かせた。その姿は、本当に文句のつけようもない程に母親らしかった。
星崎ちゃんはチラッと心配そうにこちらを見つめたが、すぐコクリと頷くと、スケッチブックを抱えて公園からトコトコ走り去っていった。その後ろ姿に、彼女は「車には気をつけなさいよー!」と声をかけた。
呆気に取られていた俺だったが、彼女はすぐさま俺の方に向き直り、ニッコリと威嚇のような笑顔と共に、俺の隣にドカッと座り、そして俺の目を真っ直ぐに見て一言、こう言った。
「で、小学四年生の私の娘がそーんなに魅力的だったわけ? 双葉の彼氏のお兄さん?」
糸屋の女は目で殺す、なんて言葉をどこかで聞いたけれども、俺は今、別の意味で殺されそうだった。
「いやねえ、私もあの子には悪いことしてると思ってんのよ、実際……」
バツの悪さを誤魔化すような苦笑いを浮かべながら、彼女はタバコの灰を携帯灰皿に落とす。
実際、話してみたら普通にいい母親だった。
あれからテンパりながらも事情を説明したところ、最初は半信半疑だったものの、まあ実際に手は出されていなかったり、当の星崎ちゃんが悪く思っていなかったり、周囲の人間もそんなに怪しいことはしていなかったと証言した、等の状況証拠があったことから、最終的には「まあ、そういうことにしときますか」と、サッパリとした笑顔で言った。
「あの子、あんなんだから学校に馴染めないで不登校になっちゃってさー。で、友達とかもいなかったから、双葉の話し相手になってくれてること自体はまあ、ありがたいと言えばありがたいのよね」
「はあ……」
「でもやっぱこういうご時世だからさ、どうしてもまずは人を疑ってかからなくちゃならないってなわけですよ。それが見ず知らずの男性だったらなおさらね。いや、本当はもっと近い年の子の方がいいのよ? っていうかもしそういうのがいるんだったら、あんたじゃなくてそいつにこういうのお願いするんだけど、いないものはしょうがないからねえ……」
星崎さんはちょっと悲しそうに笑いながら言う。
それで実際のところはどうなのかと、わざわざ仕事の前の合間を縫って様子を見に来たという訳だ。
いかにもお水という感じの、彼女の派手めな容姿。しかし、まだまだ若そうに見えるのに、その目尻には隠し切れない隈が覗いていた。
「……そーんなに見つめちゃってえ。ひょっとして私に惚れちゃった? 養ってくれる? 双葉ともども」
星崎ちゃんの母親が混じりけのない笑顔でそんなことを言うものだから、俺はちょっと困った顔で苦笑いするのが精一杯だった。
「それにしても、やっぱり噂にはなってたんですね」
「あったりまえじゃない! いくらなんだってそこまで世間は冷たくないわよ。実際ちょっと危なかったのよ、アンタ? この話をしてくれた人の中には、本気で警察への連絡を勧めた人だっていたんだから」
ぐあっ!
まあそりゃあそうなんだろうとは思ってはいたけれども、やっぱり面と向かって言われるとショックも一際大きくもなる。
そりゃ俺だって、第三者の立場だったら、間違いなく不信の視線は向けていただろうとは思う。
「すいません……」
「別に謝んなくってもいいんだけどさあ。実際、謝らなきゃいけないことはしてないんでしょ?」
冗談めかした、だけど笑うに笑えない雰囲気を醸し出しながらの問いかけに、俺は強ばった表情でコクコクと頷くばかりだった。
「だーから、そんな緊張しなくったっていいってば! さっきも言ったじゃん? ありがたいにはありがたいのよ、あんたのやってくれたことは」
だからあたしもそう言う人たちを説得したんだから、と俺の背中をバシバシ叩きながら彼女は笑った。男勝りな威力にむせ返った咳をして、「なによアンタ、ゴボウみたいにひ弱ねえ」とまたクツクツと笑った。
「実際、最近の双葉、すっごい明るくなったのよ? 家で寝っ転がりながら嬉しそうに足をバタつかせてスケッチブックを見返したり、自分の格好を意識して鏡とか服とか気にするようになったり」
なに? 最近いいことでもあったの? って聞いたらおっきな声で「うん!」って応えたりしたんだから、と星崎さんは心の底から嬉しそうに言う。
「そういうのを知ってたから、取りあえずは様子を見よっかなって気にはなったわけ。で、実際に様子を見てみたら、いかにも無害そうな男と双葉が、まるで年の離れた兄妹みたいに楽しそうに話をしてたと」
そういう意味じゃ、感謝してもしきれないのは確かなのよ、と母親は言った。
母親からしてみれば、俺なんて素性の知れない男性のはずだ。そんな人間を相手に腹を割って話をしてくれている。本当に娘のことが心配だったんだなあ、というのが真っ直ぐに伝わってきた。
たーだーし、と星崎さんは俺の目を見据えて言う。表情こそ笑っているがその目は欠片も笑っていない。
「あんたを、完全に信用したってわけじゃないから」
そして一気に血の気を失ったような気分になった。
彼女の瞳には、明確な怒りが込めれていたから。
「つーかそんなの出来るわけない。あったりまえでしょ? あんただってチンコついてる人間よね? それこそ今の世の中、チンコを持て余したクソバカがどういう穴にぶち込みたがるか分かったもんじゃないわよ。それがたとえ、初潮も迎えてないような年端もいかないかわいい女の子――私の娘だったとしてもね」
だから。
星崎さんは俺の胸ぐらを思いきり掴む。
殺意。それも、美しい女性の殺意。
ぶつけられている感情の濃度に心がついていけなくなって、現実が地平線の彼方ほどに遠くなった。
「私の娘になんかクソ下らないことやらかしてみろ? 地の果てまで追いかけてでもあんたをぶち殺してやる。司法なんかに裁かせないわよ? 私がこの手で、絶対、ゼッタイに、死んだほうがマシなメに合わせた上で殺してやる。言っとくけどね、あんた程度のヘタレだったら今すぐにだってぶっ殺せんのよ? おあつらえ向きに、笑っちゃうくらいあからさまな急所を、チンコと一緒に二つもぶら下げてんだからさあ?」
彼女の視線は俺の双眸を貫き、彼女の右手は俺の胸ぐらを掴み、ヒールを履いた彼女の右足は俺の足を踏み、彼女の左手は俺の睾丸を掴んでいた。
気を抜けば、一瞬で失神してしまいそうだった。
――だったけれども。
だからこそ……それほどの怒りを――星崎ちゃんへの嘘偽りのない愛を感じたからこそ。
感情が、臓腑の奥からふつふつと沸き上がる。
星崎ちゃんの絵を描く姿、とつとつとした喋り方、頭を撫でられて赤らめた顔、焼き芋を美味しそうに食べる姿――スケッチブックに落とした涙。
「そんなに、自分の娘が可愛いなら……」
声は、震え上がっていた。母親の眼光に鋭さが増したが、俺はそれでも続ける。
普段の俺だったら即座に引き下がるのに、それでも出来るだけ大きな声を絞り出すように、言葉を紡ぐ。
「なんでもっと、構ってあげないんですか……?」
彼女の目が一瞬見開かれたように思えた。
そしてすぐに、胸ぐらを掴む右手の力が強くなる。
「知ったような――!」
「星崎ちゃんは、泣いてたんだ……!」
今度ははっきりと驚きに目を見開いた。
続ける。言葉を続ける。絞りだすように。
「この場所に、知らない男性が座ってて、その場所で絵が描けないっていうだけで、怖いって言って、わたしの場所がなくなるって言って、泣いたんだ……!」
――自分の足で歩いて、躓いて、膝を擦りむかないと分からない、でもそこでちゃんと分かる人。
「……あなたは、分かってないんだ」
孤独の重力。
そんな絶望的なものに押しつぶされそうで、逃げ場をスケッチブック、そこに描かれる小さな公園の、ベンチの片隅から眺める世界に求めた彼女だから。
不毛な人間関係ばかり転がっている大学と、それを作り出しているかのような無機質な市街地の中で孤独の重力に押しつぶされそうになっている俺だから。
だから、そんな星崎ちゃんが描く絵はとてもすごくて、その凄さの正体の片鱗に触れる度に悲しい気持ちになって、だからそんな星崎ちゃんの笑っている顔が見たいから、頭を撫でて、焼き芋を買ってきた。
きっとこの人だって、それを、俺以上の愛情を込めやったに違いない。絶対にそうに違いない。
でも、それでも、星崎ちゃんを救ってあげられないことに――そのことを嘆きあうような、この怒りが、この怒りを生み出すなにかが、腹が立って、腹が立って、仕方がなかった。
だから、俺は言葉を発する。
怖くても、痛くても、これを言わなくちゃ、俺は膝を擦りむくことすら出来ないから。
「星崎ちゃんの絵は、本当にスゴイってことを。だって、星崎ちゃんは、どうしようもなく一人ぼっちだから……その寂しさが、あんな風に、スケッチブックの中に顕れるくらいには、星崎ちゃんには、彼女自身の感情の居場所が、どこにもないんだ……!」
ああ、俺は、よりにもよって彼女の母親になんてことを言っているのだろうか。そんなこと、分かってるに決まってるだろう。赤の他人に分かるようなことが、母親に分からないなんてあり得ないのだ。
だけど母親の怒りの中に宿る哀しみを垣間見てしまった俺は、どうしても言わずにはいられなかった。
どこかで誰かが、言わなければならないことのような気がしたから。
なんで、なんで、誰も、母親でさえも、星崎ちゃんのことを、救ってあげられないんだ……!
彼女は、激情に激情を重ねた――だけどとても苦しそうな表情で、俺のことを睨めつける。多分本当に、この人は俺のことを殺せるんだろうなと、確信する。それをする実力も、資格も、彼女にはある。
だけどやがて、一つため息をつくと、彼女は手を離し、足をどけた。にわかに開放された俺は、思わず嘔吐するように身を屈めてゲホゲホと咳き込んだ。こんな季節なのに、油汗が大量に流れて止まらなかった。
「……悪かったよ、ごめんね」
それと、ありがとう
私の娘を、こんなにも心配してくれて。
星崎さんはポツリと言って、背中を撫でてくれた。
情けないことに、少し泣きそうになっていた。
星崎ちゃんの母親、星崎良子さんが彼女を産んだのは二十歳の頃だったそうだ。
厳格な両親に反発する形で、高校を卒業すると同時に家を飛び出した彼女は、当初はファミレスのウェイトレスとして働いていたものの、その時に声をかけてきたミュージシャン(「自称、だけどね。なんかヤマトとかって名乗ってたけど」と苦笑しながら星崎さん)の男性と恋仲になったものの、彼女が妊娠を告げた途端に逃げ出してしまったそうだ。
「いやー、万が一ぬけぬけとメジャーデビューとかでもしでかしてたらライブに乗り込んで刺してやろうとでも思ってたんだけどさー、名前なんて聞かない聞かない。どーせ口からでまかせのおバカフリーターとかだったんだろうけどさー。当時の私はそんなおバカの言うことに目をキラキラさせながら信じこんでたんだからホンットお互いさんよねー」
タハハッ、と苦笑いをする星崎さん。
「それからもうてんやわんやしちゃって大変でさー。ただでさえ感情の整理がついてなかったのに、金もなければ風当たりも強い。双葉を養っていこうにもウェイトレスだけじゃ首も回らないし、再就職しようにも学歴もなければ職歴も資格も後ろ盾もないと来たら、そりゃあもうお水くらいしか思いつかなかったわけですよ。流石に身体を売るのは嫌だったし」
まっ、最終手段くらいには考えてたけどねー、と笑えないことをカラカラと笑う星崎さん。
「でもね」と、星崎さんは言う。「双葉を産んだことを、後悔したことは一度もないよ。私なんてなんにもない人間の代名詞みたいな奴だけどさー、双葉がいたから、生きてる意味を見いだせてるっていうのは、まあ月並みだけど、やっぱりあるよ。ぶっちゃけ、双葉が死んだら私も死ぬ、くらいの気持ちなのよ」
まあ殺されたってんなら、そいつを殺してから死ぬんだけどねー、なんてまたしても笑えないことをカラカラと笑う。
「だから、双葉を悲しませることだけは本当はしたくないのよ。家にいる時は極力双葉に構ってるし、欲しいものはまあ大体のものは買ってあげてる。ご飯だってちゃんと全部手作り。勉強だって、下手な家庭教師よりよっぽどちゃんと教えてるはずよ。双葉は別に勉強が嫌いってわけじゃなかったし、私もこれでも結構勉強した方だから、小学校の教科書に載ってるようなことを教えることくらいなら出来んのよ。キャバ嬢はバカじゃ長く勤まんないって薄々分かってたからさ」
おかげさまで、最初はめっちゃ苦労したけど、二年目にはナンバー1ホステスよ、とちょっと誇らしそうに星崎さんは笑った。
「矛盾してるってのは分かってんのよ。ホントに双葉のことが心配なら昼の仕事をするべきだってのも分かってる。実際何度も考えた。若い頃は特にね。実はお店自体も何回か変えてるし。でもやっぱり私って、人と話するの好きなのよ。たとえ将来苦労するって分かってても、この仕事が好きだったから、死ぬ気で努力して、稼いで、金ためて、若い頃より稼げなくなっても経験則でカバーして、美容にだって若いころ以上に気を使って、しがみついて……なんとか、私と双葉が食いっぱぐれない程度には、頑張ってる。つもり、じゃない。頑張ってる。胸を張ってそう言える」
最初は派手な女性、なんていうか怖い印象すら抱いていた星崎さんだけれども。
たとえ目尻に隠しきれない隈があったとしても、キャスターを吸いながら、屈託なく笑う星崎さんの横顔は、かなり、かっこよかった。
「ごめんねー、てめーからプロって言っておいて一方的にこっちが話しちゃって。普段私は聞く側だからちょっと新鮮で……ってあれ、ひょっとしてマジで私に惚れちゃった?」
そんな横顔をまじまじと見つめる俺に気づいたのだろう。冗談めかしてそう言ってくる彼女に、俺はテンパッて「そ、そそそ、そんなんじゃないですお!」と情けない声をあげていた。おまけに噛んでるし。
「あっはっはっ! 照れんでいいぞドーテー坊や! これでも、こんなおばさんみたいな歳になっても言い寄ってくる男は結構いるくらいだからさー!」
「星崎さん、全然おばさんって感じしないです」
「嬉しいこと言ってくれるわねえ。今度ウチの店来たらサービスしてあげよっか。大宮のロイヤルジュエルっていう店なんだけど、安くしとくわよー?」
あっはっはっ! と笑う星崎さんに、俺は苦笑いだけを返す。仲良くしてる娘さんの母親がいるキャバクラに遊びにいく冴えない学生……ちょっと笑えない。
「私ねえ、実は双葉から、この場所にはあんまり来ないで欲しいって言われてんのよ」
星崎さんはタバコを携帯灰皿でもみ消しながら言う。わたしがここにきたら、お母さんのことばっかり描いちゃうからだってさ、と、ちょっと、いや、かなり寂しそうな表情を浮かべながら。
「……そりゃあ一日家に引きこもられるよりはまだマシなんだけどさ、あの子不登校なのよ? いや、別にいいのよ。私だって学校嫌いだったし、あの子には自分の好きなように生きて欲しいから。でもやっぱり、怖いのよ。怖いに決まってる。このまま行くと双葉、一体どんな子になっちゃうんだろうって」
あんた言ったわよね? 双葉の絵は本当にスゴイって、と星崎さんは言う。
「実は私ね、双葉の絵、一度も見たことがないのよ。だって、怖いから。ねだられたスケッチブックを買い与えたのは私のくせにね。もしスケッチブックを開いてさ、そこに描かれてるのが、この世への……」
いや、違うわね。そんなカッコいいもんじゃない、と、苦笑しながら首を振る。
「私への憎しみだったら、私、多分、耐えられないから。私が積み重ねてきたなにもかもが、否定されちゃうのが怖かったから……そんなの、子どもからしたら、知ったこっちゃないんだけどねえ……」
母親失格だ、私。
そう言って笑う星崎さんに、そんなこと絶対ないですって応えたら、彼女は何も言わずに首を横に振った。
俺は自分の言葉の軽さに恥ずかしくなる。
「だからさ」
と、星崎さんは言う。俺の目を真っ直ぐに見て。
「繰り返し言うけど、私はあなたのことは信用しない。絶対しない。だけど、今この時点で、私じゃ踏み込めない双葉の領域に踏み込めるのはあなたしかいない見たいだから、私はあなたにお願いする。どうか、双葉の話し相手になってあげてって。そして出来ることなら双葉の心を開いて欲しいって、
――お願い、双葉のことを、救ってあげて」
立ち上がり、膝に手を添えて、深く頭を下げる。
痛みに耐えるような表情で頭を下げる星崎さんを見て、俺は、確かに膝を擦りむいたんだな、と思った。
これが、痛みなんだろう。
俺がずっとずっと逃げてきた、胸が焼き切れる程の、人の心の温度。
「……俺って、そんな立派な人間じゃないですよ?」
「知ってる」
「そんな……」
冗談よ、と顔をあげてクツクツ笑う星崎さん。
「……でも、実際そうですよ。俺だって、大学に友達いないですし、彼女だって一度も出来たことなくて、普段はネガテイブなことばっかり考えてて、将来のことを考えるといつもいつも気分が重たくなって……」
「……本当に、大丈夫?」
「まあ大丈夫じゃないですよね」
と、思わず苦笑い。
でも、だから、だからこそ。
「そんなだから、孤独っていうのが、どれだけ絶望的なことかは、よく知ってるつもりです。こんなに苦しい思いに一人で耐えるには、星崎ちゃんは、あんまりにも幼すぎると思ってます」
だから、彼女がとても上手な絵を描いたら頭を撫でてあげたくなるし、彼女がとても悲しそうな表情をしたら甘いお菓子と一緒に慰めたくなる。
そうやって、少しずつ、お互いの心の距離を詰められたのならば。
それはきっと、とても素敵なことだと思う。
まるで、物語のように。
「救う、とは言いません。でも――彼女の心の重りを、成人男性程度の力強さで、肩代わりすることくらいなら出来るって、そう思ってます」
実際はそんなに大げさなことではないのだ。みんな多分、人間だったら、誰しもが普通にやれることだ。
だけどきっと、そういうのが星崎ちゃんに――そして俺には、とても、とても大切なことなんだと思う。
「……ぶっちゃけ心配。すっごい心配」
「ですよねー」
俺たちは二人、一緒に笑う。
まあ、そりゃそうだ。だけどきっと、今の時点ではそれでいいんだろう。星崎さんもおそらくそのことを分かっていて、だからこそ、その表情には暗いところが一切なかった。
「さて、おばさんはそろそろ仕事の時間だから、いかなくちゃっと」
そういえばもうそんな時間か。
時刻はもう、六時を少し過ぎている。
「まあ、あれね。最低限変なことはしないでね……本当に、お願いね」
「当たり前です。そのくらいは信用してくださいよ」
「無理」
そう言ってニッと星崎さんは笑う。
まあ、それでいいのかもしれない。
そんなことを言い出したら人間なんて誰も彼もが信用出来ないけれども、でも、それでも、人と人は関わりあって行くんだと思う。
それすらも怖がっていたらなんにも始まらなくて、だから星崎ちゃんと俺は、まずはそこから始めていかなくてはならないのだろう。
じゃ、そういうことで、お願いねー、と言い残して星崎さんは去っていった。後に残されたのは、俺一人と、芯まで身体を冷やす北風のみ。
帰ろう、と俺は思う。
少なくとも、孤独ではいられなくなった足取りは、今にも転んでしまいそうだったけれども、だけどそれでも、久しぶりに、地面の硬さを靴の底で感じられたような、そんな気はした。