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前編

 とにかくタバコが吸いたい。

 そんなかったるい気分で大学の校舎を後にする。ポケットに手を突っ込んでうつむき加減で歩く俺の背後で、三時限目の開始を告げるチャイムが鳴った。むろんサボりだが、だからなんだという感じだった。

 とにかくタバコが吸いたい。

 もともとサボるつもりではあったのだ。

 二時限目の講義が終わった後、喫煙所でタバコを吸ってから外に飯でも食いに行こうと思ったのだが、すでに喫煙所にはたくさんの生徒たちでごった返していて、その中に特に友人の姿もなかったので気まずくなり、そそくさと立ち去ったのだ。二時限目の講義がいつもより遅めに終わったのがいけなかった。

 手持ち無沙汰になり、かと言って食堂に一人で飯を食べる気分にもなれなかった。結局俺は便所でテキトーにスマホをいじった後、大学の校舎から立ち去る。三時限目が終わったらもう講義もないので、タバコを吸って飯でも食べたらやることもなくなるだろう。

 学校周辺は典型的な市街地だ。

 これからランチを迎える主婦たちや学生たちの群れがワラワラと行き来している。そろそろ秋口に入る頃だ。ついこの間までみんな半袖だったかと思えば、気がつけばシャツやらパーカーやらを羽織る人たちが増えている。なんだかみんな忙しなく、賑やかだった。

 とにかくタバコが吸いたい。

 やっぱり飯はコンビニで買って、その辺の公園で済ませてしまおう。

 そんな訳で俺は近くのコンビニに入って、おにぎり二つとホットスナック、ペットボトルのお茶を買う。

 で、後は公園に向かうだけなのだが、実のところ、俺はこの辺りに公園があるかどうかすら知らない。確かにこの辺は歩くには歩くのだが、特に立ち寄ることもない公園の存在なんていちいち意識していなかったのだ。

 それでもまあ探せばあるだろう。そんな思いで改めて辺りをうろついてみるのだが、これがなかなかどうして見つからない。

 この辺りは典型的な市街地。探せども探せども、辺りには飲食店やスーパー等の店、ビルやアパートと、無機質なビルや民家ばかり。たまに開けたところがあるかと思ったら、大体が駐車場という始末だ。スマホで時間を見て、俺が大学を出てからすでに三十分も経過していたことを知った。

 なんかタバコもだんだんどうでもよくなってきた。

 俺はため息をつき、ふと辺りを見渡す。

 なんていうことはない。

 いつもの十字路。

 いつもの通学路。

 しかし俺はふと、俺から見て左手の道に入ったことがないことに気がつく。そちら側は、機械的に民家とマンションが立ち並んでいるばかりで、特に面白みもなかったので立ち入ったことがないのだった。

 どうせすでに結構な時間をドブに捨てているのだ。たまにはこういうところをふらつくのも悪くはない。

 そんな訳で俺はくるりと身体を左手に向け、そちらの道を真っ直ぐに歩き始めた。

 すでに日は高くのぼっている。俺は正午過ぎくらいの日の光があんまり好きじゃない。むやみに眩しくて、そのくせ後は落ちていくばかりだということを思うと、虚無感を感じずにはいられないからだ。

 案の定、この通りはごく平凡な住宅地だった。行けども行けども民家民家民家ときどきマンションで、味気ない十字路が連続している。すれ違うのも主婦やら高齢者ばかり。

 この角を曲がって特になにもなかったら引き返そう。

 そんな思いで適当な十字路を左に曲がる。

 やっぱり普通の住宅地――と思った矢先、二つ先の十字路の左側の端っこに、大きめの空き地らしきものがあることに気がつく。

 俺はひかれるようにそちらに歩いていく。さっきまでの気だるさが嘘のように、足取りは軽かった。

 ドッチボールくらいなら問題なく出来そうな広さ。

 ブランコやジャングルジム、シーソーに砂場遊具。

 最低限の景観を保つように林立する常緑針葉樹。

 時間を持て余した人間が黄昏るのに最適なベンチ。

 公園だった。

 それも、完璧な公園だった。

 俺は早速ベンチに座って食事をとった。なんだかんだでお腹が空いていたので、食べ飽きているはずのおにぎりもホットスナックも美味しかった。

 腹が膨れて一息ついて、しばらくぼんやりと公園を眺める。平日のこの時間、公園の周辺を人や車が少しばかり通行するくらいで、公園内には俺しか人がいなかった。もう一時間か二時間くらい経ったら、学校帰りの小学生が遊びに来たり、散歩や買い物帰りの主婦が雑談でもしていくのだろうか。

 俺は思い出したようにタバコを取り出して吸い始めた。紫煙がモクモクと立ち上って空に溶けて消えていく。実にのどかで平和的で、そして孤独な時間だった。秋口の風が身体を撫でて、俺は思わず身を震わせた。薄着にしたのは失敗だった。

 しばらくぼんやりとスマホをいじり、しかしタバコを吸い終えて三十分も経った頃にはスマホでやることもなくなっていた。公園には、子ども連れの主婦が二組いて、子どもたちが砂場で遊んでいるのを尻目に、他愛のない世間話をしていた。

 このまま家に変えるか、それとも宛もなくこの辺りをふらつくかを考えていた、その時だった。

 なにやら、小さな女の子がパタパタ走ってきてるのは視界に入っていたのだ。両腕に、身の丈にあっていると思えない大きなスケッチブックを抱えているのも。

 しかしどうやらこちらに向かって来ているらしかったことを認識したのは、彼女が勢いよく俺のすぐ隣に座ってきた段になってのことだった。まさかこんな年端もない小さな女の子が、なんの躊躇もなく見ず知らずの男性(彼女くらいの年の女の子からしたら、俺みたいな「知らない大人おじさん」なんて普通に恐怖の対象だろうに)の隣に座ってくると思っていなかったのだ。

 しかもこの、すごい近くに座ってきている。俺があとほんの数センチずれれば、普通に接触してしまうくらいには。体温が微妙に伝わる距離感。この娘にパーソナルスペースという概念はないのだろうか。

 呆気に取られる俺を尻目に、この娘はせっせとリュックサックから筆箱を取り出すと、筆箱から鉛筆とカッターを取り出す。十分に鋭利に思える鉛筆の先端をカッターでさらに削り、一体なにが不満なのか、鉛筆を宙にかざして「むーっ……!」と唸りながら目を細めて、そこからちょちょっと鉛筆を削って、それでやっと満足したようにスケッチブックを広げてペンを動かし始めた。

 まあ、言うまでもないだろうが、この娘は絵を描きはじめたのだ。

 一方俺はまだどうしたものか考えあぐねていて(さっさと立ち去ればよかったのに)、まだその場で硬直していたのだが――その硬直はいつしか、困惑とはまったく別の意味を持ち始めていた。

 俺は、この娘の絵に見惚れていたのだ。

 俺は芸術についてはさっぱりだ。

 一応俺は文学部に身を置いてはいる。しかし、そもそも俺が文学部に来たのは女の子が多いからという実に平凡でくだらない理由だったのだ。

 いわゆる「文学」なんて呼ばれてるようなものを読んでみたものの、なにがいいんだかさっぱり分からない。面白いつまらない以前の問題で、そういった作品に限って結局なにが言いたいのかさっぱり分からないのだ。教授せんせいが講義で小難しい話をしているのを聴いてると、例外なく気持ちのいい眠りの世界へと飛んでいってしまう始末だった。

 それは文学に限った話じゃなく、映画は単純明快ハリウッドって感じじゃないとただただ苦痛でしかないし、音楽だって流行のもの以外は聴かない。俺は大学に入って、この世には、まったく理解に苦しむ類の映画や音楽が存在しているということを知った。

 もちろんそれは絵画であってもまったく例外ではなかったのだが……。

 そんな俺が初めて、芸術っぽいなにかに対して、「すげえ」と息を飲んだのだ。

 そんな風に、おにいさんだかおじさんなんだかよく分からない「大人」の男がすぐ横でガン見しているのに構うことなく、少女はひたすら筆を動かし続ける。

 絵自体は、この辺りの風景を描いたような、特に変わったところのない普通の絵だ。

 俺にとって幸い(?)だったのは、少女の絵が割とマンガ的だったことだろう。もし少女の絵が、典型的なゲイジュツゲイジュツしてる絵だったら、ただ単に「なんかまあすごく上手だなあ」というのんびりとした感想で終わっていたことだろう。

 いわゆるキャラ絵というか、萌え絵を連想させる絵なのだが、性的にギラギラしたそれじゃなくて、なんていうか、ものすごく自然なのだ。「写真でも撮ってろよ」と言いたくなってしまうようなムダに芸術っぽくて鼻につく感じのリアルさではなく、なんていうか、とても自然なリアルさなのだ。

 分かるだろうか? 伝わるだろうか?

 問答無用で身も蓋もない「現実」を押しつけてくる絵ではなくて、イメージを、夏には若い男女がひまわり畑を駆けまわり、冬には猫がコタツで丸くなる、そんな理想的な「風景」を写しとって、そこに少女の世界を描いてみせる、そんな絵なのだ。

 その世界の中で、子どもたちは楽しそうにはしゃいでいて、大人たちはそんな彼らを優しく見守っていて、そして犬や猫や鳥たちも一緒になって躍動していて、木々や草花もまた世界を彩っていた。

 きっと、その辺の美術館や画集、なんだったらイラスト投稿サイト辺りで探そうと思えば、こういう感じの、しかもこれ以上に上手い絵なんてあっさり見つかるのだろうと思う。

 けれども、淀みなく動く筆を動かす小さな手を見つめていると、彼女のぷっくりとした薄い赤色の唇から漏れる愉快そうな口笛を聴いていると、そして幸せそうに微笑むその可愛らしい横顔を見ていると――そしてこの絶妙な距離感から微かに感じる体温と、その心地のいい鼓動を感じていると。

 それは抱きしめたくなるくらいに愛おしい、唯一無二のなにかになるのだった。

 一時間程度のわずかな時間ですっかり危険思想に染まってしまった。

 少女は一息つくとパタリと閉じたスケッチブックをせっせとしまい、それから思いきりよく「んん~っ!」と伸びをする。程よい疲労と胸いっぱいの満足感が混交した、気持ちのいい表情。

「うまいじゃん」

 そして気がつけば俺は、そんな愛らしい横顔に向かって言葉をかけていた。

 少女がビクッ! と痙攣したように震えたのと、自分自身の行動を自覚したのはほぼ同時だった。

 少女は我が身を守るように両腕でギュッと抱きしめるようにすると、ブルブルと震えてその身を縮める。

「ぇ……えぅ……」

 心底怯えた様子の潤んだ瞳で上目遣いに見られながら、そんなか細い声を漏らして恐怖されている光景はどう考えてもヤバイ。今、この場には子連れの主婦がいるのだ。今はまだこちらに気づいている様子はなさそうだが、そのうち何かの拍子でこっちを見られたら、通報されてもまったくおかしくない。

「い、いやごめんね! 別に怪しい人じゃないんだ!」

 そして取り繕うように出てきたのが、この失言を絵に描いたような言葉だった。

 微かに後退りを始めてなにか言い出しそうになっている少女にさらにテンパった俺は、

「いや待って違うんだって違う違う! 俺、キミが絵を描くのを見てたんだよ!」

 気を抜けば大声になりそうになるのをグッとこらえて、主婦がこちらに気づかないように声を潜めつつも必死に主張する。最悪、少女が悲鳴をあげる事態だけは避けなければならない。しかし情けなく顔を歪めながら語気を荒らげるという俺の立ち振舞が、少女を冷静にするかどうかはとても疑問だった。

 しかし幸いにも少女は大声を出すことはなく、全身をピンッと硬直させたままその場を動くこともなかった。どちらにしても、子連れの主婦には悪印象しか与えない光景だろう。

「キミの描いてた絵、ホントすごく上手だったよ。おにいさん、そういうのサッパリだから、絵が上手いってだけですごいなあ、なんて思ったりしたんだよね」

 なんという猫なで声だろうか。知り合いにこんな口を利いた日にはおぞましすぎてネタにすらならない。

 しかしそんなおぞましい猫なで声とロボットダンスリスペクトなぎこちないボディランゲージもやらないよりはマシだったらしく、当初は凍りついてピクリとも動く気配のなかった少女も、少しずつプル、プルといった感じに膠着を解き始める。警戒されているのには変わりはないだろうが、少なくとも話くらいは聞いてもらえそうな雰囲気を出しつつある。

 しばらくそんな調子で気まずい沈黙を続けていた俺たちだったが、流石にこちらがなにかを言うべきだと思い直したその時、少女の方が「あ! あ、あの……」と尻すぼみな調子で口を開いた。

「どうして、おじさん、ここに座っているの……?」

 最初、なにを問われているかよく分からなかった。

 どうして俺がここに座っているのか。

 どうして。

 なにやら俺は理由を聞かれているらしい。

「どうしてって……」

「なんで、おじさん、ここに座ってるの?」

「いや、えっと……昼飯を食べるのと、タバコを吸うために?」

「なんで……なんで座ってるの?」

「えっ……と、っていうか、逆に聞くけど、なんでキミ、俺の隣に座ってきたの?」

「え? ……え?」

 それは、俺の言っていることがよく聞こえないとかそういう類の疑問符ではなくて。

 純粋に、俺の言っていることの意味がまるで分からないというような疑問符だった。

 なんとなく察していたが、俺はいよいよ、この少女が相当変わっていることを確信した。

 完全に応えに窮した俺は、先程までの焦燥感とはまた別の意味で焦り始める。

 小さな女の子に露骨に怯えられているという状況のまずさではなく、見ず知らずの人間相手の会話がまるで噛み合っていないことに対するテンパり。しかも情けないことに、相手は子どもであり、女の子だった。

 進退窮まった、という感じで呆然と少女のことを見つめる。少女の表情には相変わらず怯えの様子が見られるが、眉根の寄り方に困惑の色が見え始めている。その小さな頭の中に、一体どんな疑問が渦巻いているのか、俺には上手く把握できそうになかった。

「ここは、わたしの、場所……なんで、座る、わたしの場所……おじさん……わたしの、場所に……?」

 ポツリ、ポツリと呟かれる少女の言葉。

 わたしの場所。

 いまいち要領を得ないつぶやきの中で、繰り返されるこの言葉。

「要するに、ここで絵を描いてるのを邪魔されたくなかったの?」

 少女はなにか驚いたように目を見開き、それから考えこむように首をかしげて、黙りこんでしまった。

 このままじゃ話が進まない。

「いつもここで絵を描いてるのかな?」

「だって、わたしの場所だから」

「俺、キミの邪魔しちゃったのかな?」

「いや……ここ、わたしの場所……」

「じゃあ俺はここに座っちゃいけなかったのかな?」

「……そもそも、ここはわたしの場所、だから……」

「うーん……じゃあ例えば、お友達と一緒に描いたりとかはしないの?」

「!」

 少女はビクッと怯えたように身体を震わせた。

「…………」

 ――?

 そして彼女が思いつめた表情で俯き、膝の上で固く拳を握りしめたその時、俺は自分の質問に違和感を抱いて、そしてすぐにその意味に気がついた。

 今の時刻は二時を少し過ぎたくらい。彼女がこの公園にやってきたのはおよそ一時間前。

 今日は、言うまでもなく「平日」だ。

 友達。

 これは、それ以前の問題だ。

「ねえ、そういえばキミ」

「ここはわたしの場所だから」

 少女はあくまで小さな、だが張り詰めた声で言う。

「だから、わたしだけ、誰も、入ってこれないの」

 少女が小声で放つ断定は、その声色の幼さ故に不安定で重たく、心をざわつかせずにはいられなかった。

「なんで、おじさん、わたしの場所に座るの……?」

 何度も繰り返されているこの言葉は、しかし今度ははっきりと発せられた。

 わたしの場所。

 深刻な意味を持つ言葉に、俺は言葉を詰まらせる。

 不登校。

 つまりは、そういうことだろう。

 この娘にとって俺は、自分にとっての唯一の「居場所」に、突如としてやってきた意味不明な何者か、と言ったところだろうか。

 急激に空気が重たくなったような気がする。

 少女は俯き、ますます拳を強く握りしめる。俺はそんな彼女に向ける言葉が見つからず、黙ってその様子を見つめていることしか出来なかった。

 井戸端会議をしていた主婦たちはとっくにこっちの様子に気づいていて、だけど特になにを言うでもなく井戸端会議を続けている。小学校帰りと思しき男子の二人組がやってきて、ワイワイと騒ぎながらキャッチボールを始めた。彼らがやってきて大きな笑い声を上げた時、彼女はビクッと身体を震わせて、一度伏し目で彼らをチラッと見て、それからすぐに目を伏せた。

 心臓が不愉快な動悸を刻み始め、頭の中にモヤがかかって著しく思考がまとまらなくなり、考えれば考えるほど悲観的になる。

 何かを言うべきだとは思ったのだ。しかし思えば思うほどかけるべき言葉なんてなにも思い浮かばない自分自身の「底」に行き当たり、その事実がますます俺の心臓や頭を不快感が襲った。

 口の中がものすごく乾く。

 端的に言って、ここから逃げ出したかった。

 だから。

 俺がこんなことを口走ったのは、それはなんというか、苦し紛れだったのだ。

「えが」

 まあこんな感じで一度つっかえたのだが、それでもなんとか、言った。

「絵が、上手かったから、かな?」

 それを受けた少女はキョトンとした表情を向ける。

 ああかっこ悪い、ああ情けない。

 そんな思いがグルグルと頭の中を回りながらも、もはややけっぱちに言葉を続ける。

「ホントに、上手かった。すげえ、上手かった。俺とか全然絵のこと知らないけど、それでも、ちょっと感動しちゃった、くらいには上手かった……それだけ」

 なんなんだ、本当に俺は一体なにを言ってるんだ。相手は小学生の女の子だぞ。しかも不登校の。どれだけ情けないんだ、俺は。

 俺はとうとう耐え切れなくなって、「ごめん」と早口に言いながら立ち上がる。顔なんて見れる訳なくて、早足に立ち去ろうとした。

「まって!」

 それは声がかすれるくらいに切実な幼い叫び声だった。そんな叫び声にあって俺の足は立ち止まらずにはいられなかった。

 井戸端会議の主婦やキャッチボールの男子二人組もその声に反応したようだ。彼氏彼女らの視線が、一斉に少女に向けられる。

 俺が振り返ると、少女はなにかに怯えたような表情を浮かべて、しかしなにかを言いたげに口をモゴモゴと動かしていた。その動きは痛々しいくらいに拙くて、だけどそれ故に一生懸命そのものであったくらいだったが、やがて自分に向けられている視線の数々に気づくと、みるみると顔を赤らめて、今にも泣き出しそうな風に顔を歪めてしまった。

「ねえっ!」

 俺が衝動的に何か言おうとする前に、少女はベンチから立ち上がり、顔を伏せながら駆け足で去って行ってしまった。俺はそれを止めることが出来なかった。

 しばらくして、行き場を失った視線、とりわけ主婦たちの冷たい視線が、俺に容赦なく向けられる。男子二人も少しの間だけ俺のことを見ていたが、すぐに興味をなくしたように再びキャッチボールを始めた。

 だんだんと――さっき、心底怯えた様子で逃げ出した少女のことを止めることが出来なかったことも含め、情けなくて恥ずかしくなってきた俺は、主婦たちの視線から逃れるように公園から立ち去った。

 ああ情けないみっともない! もう当分、この辺りを歩けやしない!

 今日始めてここに来たくせに、普段はこの周辺なんて歩かないくせに、そんな思いが頭の中でグルグルと回りに回って、そんな思いから逃げ出そうと思えば思うほどますます逃げ足が速くなった。


 二週間。

 パッとしない大学生には、その程度の時間はすぐに流れてしまうものだ。この二週間でますます冷え込むようになり、コートを羽織って外出する日も増えた。

 退屈な教授の語る文学講義は頭をすり抜け、かと言ってサークル活動に力を入れている訳でもなく、バイトに至っては生まれてこの方経験すらしたことがない。親の仕送りで細々と暮らす、そんな暮らしだ。

 せいぜいがサークルで知り合った、友人のような何者かと時間つぶしに話をするくらい。それだって、大して面白い訳でもない。腹を割って話が出来るような友人なんて、大学には一人もいないのだ。

 昔は、こんなんじゃなかったはずだ。

 火曜日二時限目の近代文学講義の最中、講義を聞き流しながらぼんやりとそんなことを思う。考えるのも億劫なくせに、変に意識は冴えてしまった。

 俺だって昔はこんなんじゃなかったはずだ。

 人生で一番楽しかったのは俺が小学生だった時だ。その頃の俺には、本当に怖いものなんてなにもなかった。なにか楽しいことをやる時は必ず俺が中心で、それに子分のような連中がヨタヨタと集まって一緒になって遊んだのだ。

 それになにより、恋だってちゃんとしていたのだ。

 いや、客観的に見れば異論もありそうだが、やっぱり俺にとってあれは恋だったはずだ。

 金森夏芽。

 彼女は――小学校から高校まで一緒だった、だけど結局大学は別々になった彼女は今、なにをしているのだろうか。彼女は大学生にはなっている。なんだったら俺と彼女の志望校も被っていたくらいだったのだけれども、俺の方が落ちて、第二志望の大学に通うことに決めたのでバラバラになったのだ。

 俺はケータイを取り出すと、久々に彼女にメールでもしようかと指を動かす。

 しかし彼女のアドレスを入力したところで、今更なにを話せばいいかサッパリなことに気づいてしまう。

 本当に、今更何を話せと言うのか?


 ――久しぶり? 元気にしてた?(^^)


 ――オレイマすげーヒマなんだけど、そっちなにしてるトコ(・・?


 ――たまには一緒に飯でも食べない? オレおごるからさ(^_-)-☆


 我ながら、バカなんじゃないかと思う。

 ホント、むしろ昔は、あいつと話してる時が一番楽しかったくらいだったのにな。

 自虐的な笑みが口元に浮かび、まるで埋め方の分からない虚無感が胸の内に広がっていった。結局残りの時間は無理矢理にでも眠って過ごすことにして、嫌味なくらいに開いた瞼を無理やり押し込めるように閉じて、机の上に突っ伏した。


 俺が始めて金森夏芽と知り合ったのは、俺が四年生の時だ。そのとき俺は、駄菓子屋「鯖威張る」で友人たちと駄弁っていた。夏休み直前、梅雨が明けて本格的に日差しが強くなり、ガリガリ君をいっとう美味しく感じる、そんな時節だった。

 いつも通りに友人たちと駄弁っていたところに、突然友人のぶーちん(本名は忘れてししまった。確か……中村とかいったか)が、「だーちゃん(ちなみに、俺の名前は足立卓あだちすぐると言う。この場合、足立からとって、だーちゃん)助けちくりいぃ!」と泣きついてきたのだ。ぶーちんなんてアダ名をつけられていることからもお察しの通り、ただでさえ肥えた身体に見合った顔面を、涙で濡らした上にクシャクシャに歪めて一直線でこっちに駆け寄ってきたのだ。

 そこで俺はそいつの向こう脛を蹴飛ばし黙らせ(ようとしたのだが、実際に蹴飛ばしたら「あひいいぃん!」なんて気色悪い声を挙げて転がりだしたので、踏みつけたところでやっと黙った。友人たちは毎度毎度の茶番劇に爆笑だった)、「一体どうしたってんだよこの豚野郎?」と問いただしたところで、女子一人を引き連れた金森がドカドカやってきたのだ。

 金森の背後に隠れるようにしてオロオロとしている女子を尻目に、当の金森は仁王立ちに屹立し、力強くこちらを睥睨した。

「ちょっとそこのあんた!」

 俺たちが呆気に取られているところを、金森が出し抜けに俺のことをビシッ! っと指差す。

 俺が思わず「はあ?」なんて声を漏らすと、「あんたに決まってんでしょ、このうすらとんかち! 脳みそ入ってないんじゃないの?」と返ってきて、俺はすぐさまカチンと来た。

「いきなりなんだよ! ケンカ売ってんのか!」

「売ったんじゃないわよ! 買ってやったのよ脳なしチンパンジー!」

 意味が分からず、二の句を告げられないでいたところを、金森が後ろにいた女の子のことを指して、

「あんた昨日、みなちゃんにブスって言って泣かせたそうじゃない! みなちゃん昨日顔を真っ赤にして大泣きしてたんだから!」

 最初は意味不明だったが、それからすぐにそんなこともあったような気がしてきた。

 確か前日、まさにこの駄菓子屋の前で今日みたいに駄弁っていたところ、遠くからチラチラ見てくる女子がいたものだから、「なんだよこのブス!」と叫んで(ついでに俺の友人たちも一緒になって笑って)、そしたらその女子が顔を真っ赤にして走り去った、みたいなことがあったような気がする。

「この子ね、せっかくあんたに話があって勇気を出して来たってのに、そのあんたに酷いことを言われたもんだからすっごい傷ついてんの! どう落とし前つけんのよ、このとーへんぼく!」

 意味不明な言いがかりにしか聞こえなかった俺は、

「はあ? だからなんだってんだ! そんくらいでガタガタ言ってんじゃねーよバーカ!」

 と言い返した。

「そんくらいってなによ! 女の子にとってはとんでもなく酷い言葉なんだから!」

「だからそれがなんだってんだ! ブスにブスって言ってなにが悪いんだよ! 遠くからこっちを見てくる女なんてブスでキメエに決まってんだろがバーカ!」

 売り言葉に買い言葉だった。

 実際、みなちゃんはブサイクでもなんでもない。むしろどちらかと言えば可愛い女の子の部類に入るくらいだ。要するに、この頃の俺は「男女」のなんたるかを分かっていないクソガキだったということだ。

 いやまあ、それは今も一緒か。

 俺が先の言葉を投げつけた途端、金森はスッと、吊り上げていた眉を静かに下ろす。

 瞬く間に、この場が凍りついた。

 その時、友人の一人だったモテキ(茂木)が「あっちゃあ」と小声で呟いていたのをなんとなく覚えている。俺の友人たちの中で一番ませていて、一番女子に人気がある奴だった。

 その表情のまま、金森はこちらにツカツカと歩み寄る。後ろにいた女子が制止の声を挙げたが無視した。

 立ち尽くすばかりの俺たちを尻目に、彼女は俺の目の前までやってきた。さっきまでのように怒りを前面に押し出す訳でなく、ただ静かにこちらの目を見据える鋭い視線に、俺は息が詰まる程の威圧されていた。

 当時の金森は男勝りで、お世辞にも女の子らしい女の子ではなかったのだが、それでも顔立ちは整っていたし、吊り上がった目元はむしろ意志の強さを象徴してるようだった。

 要するに、金森もまたキレイな女の子で、そんな女の子に本気で怒りと軽蔑の視線を向けられるのは、実に恐ろしいことなのだった。

 それでも俺が「な、なんだよ」と震えた声を出した瞬間、俺の左頬に鋭い痛みが走った。平手打ち。虚を突かれた俺は、その場に尻もちをついてしまった。

 アスファルトに尻もちをついた衝撃が鈍く伝わった瞬間、氷水のような汗が溢れ出る。

「分かるっ!?」

 口を開きかけたところで一喝されて、俺は猫が逆毛を立てるように震え上がる。

「そのアホ面じゃあどうせ分かってないんでしょうけどね、みなちゃんは、こんなのよりも何十倍も何百倍も心が痛かったんだから!」

 尻もちをついた姿勢で見上げる金森の立ち姿は大いなる迫力に満ち満ちていて、こんなものの前でうかつに口を開いた日には世にも恐ろしい災厄が俺をめちゃめちゃにしてしまう気がして俺はただ固まることしか出来なかった。

「も、もういいよう……」

 この状況を見かねたと思しきみなちゃんが、背後からオズオズと金森に声をかける。

「わたしもう気にしてないし、足立くん可哀想だよ」

 その言葉に振り返っていた金森が、なにも言わずにこちらに向き直した時に突きつけてきた視線は、冷淡な、汚らしいものに向けるような、それだった。

「同情されてやんの。ホントバッカみたい。あんたがバカにした女の子に庇われてどんな気分? キンタマ腐ってんじゃないの?」

 一層、鋭い冷気がこの場に張り詰める。俺の頭が真っ白になり、鈍くて痺れるような感覚に支配された。

 しばらくその感覚に溺れていた俺の頭に、急激に血の気が昇った。

 俺はにわかに立ち上がると、金森の胸ぐらを左手で思いきり掴んだ。俺の友人たちは一斉に息を飲み、みなちゃんが「ヒッ!」っと短い悲鳴をあげた。

「てめえ、あんま調子ノッてんじゃねえぞこのアマ! ぶっ殺されてえかっ!」

「あんたがそうしたきゃそうすりゃいいんじゃない? そんなダサイこと言ってないで」

 かつてないほどの怒気を乗せている俺に、まるで表情も態度も変えない金森。

 バカにされた気分になった俺は、右手を振り上げて力一杯ぶん殴ってやろうとする。しかし、金森の頬に放たれるはずの右の手の平は頭の上辺りで硬直した。

 金森の鋭い眼光が、俺の眼を射抜いたから。

 硬直する右腕はその力み故に鈍く痛み、ダラダラと流れて止まらない汗が顔面をみっともないくらいに濡らして、その汗が目に入ってショボショボと目を痛めるのがどうしようもなく情けなかった。

 きっと殴ろうと思えば殴れるし、取っ組み合いのケンカになったら絶対に俺は勝てるに違いなかった。

 だけどそれをしてしまったが最後。俺はきっと世界で一番軽蔑される人間になってしまうのだ。きっと金森はいくら俺が殴っても、一切殴り返すことなく、ただただこの鋭い視線を向け続けるのだ。

 つまり俺は、どうあがいても金森には勝てない。そしてヘタレのように罵倒され侮蔑されるだけなのだ。

「……は? あんた泣いてんの?」

 泣いてねえよ、汗かいてるだけだよ。

 そう言い返そうとしてもそんなことは出来るわけがない。何故なら俺は実際にめちゃくちゃ情けなく涙を流していて、鼻水だってズビズバと出ているものだから、そんなことを言おうとした日にはブタのような鼻声を出すという醜態を晒すことになるからだ。

「なに? なんにも言い返せないの? 人には酷いこと言っといて、自分が言われたらそうやって泣くとか、信じられないんだけど」

 呆れたようにそう言って、しばらく嗚咽する俺のことを眺めていた金森だったが、「付き合ってらんない。いこいこ」と、憐れむように俺のことを見ていたみなちゃんの手を引いてどこかに行ってしまった。

 セミの鳴き声ばかりがうるさい駄菓子屋の前。その後も泣き止むことがなかった俺のことを、俺の友人たちはただオロオロと見ていることしか出来なかった。


「……っつーことがあったの、覚えてる?」

「あははっ、あれは結構強烈だったよねえ」

 夜。布団に腰掛けて通話する俺の言葉に、相手は受話器越しに苦笑する。穏やかに高い笑い声が、俺の耳を心地よくくすぐった。

 電話相手の南美香ことみなちゃんは、俺の唯一の女友達だ。

 彼女とは現在も月に一度か二度程度はこうして連絡を取り合っていて、俺の不毛な愚痴にも付き合ってくれる。彼女は現在関西の大学に通っているため、一年に一度か二度ほど会えればいい方で、既に結婚を考えている彼氏さんがいるが、帰郷した折には食事くらいには付き合ってくれる。

「まあ今更なんだけどさ、なんかゴメンな、あの時。俺マジでクソガキだったからあんなんなっちまって」

「もうとっくの昔に過ぎたことだから全然いいよー。むしろ逆にこっちがなんだか悪いことしてるみたいだったし……なっちゃんってホント、あの頃からあんな子だったからねえ」

 不器用で、自分の思いを適切に表現できない、色んな人を傷つけずにはいられない子――自分の心の強さを上手に表現出来ない子。

 金森はお世辞にも友達は多くなかったはずだ。

 昔も――今も。

 同性の友人は、特に。

「でも私、そんななっちゃんのことが結構好きだったんだよ。口は悪いし、中学くらいからは捻くれちゃったけど、それでも根っこはかなり純粋なんだよ……」

 その純粋さに、誰より彼女自身がついていけなくなっちゃったんだろうねえ。

 苦笑しながらポツリと語るみなちゃんは、どこか寂しそうでもあった。

「でも、始めて会った時にあんなことになったのに、なっちゃんと足立くんが仲良くなるなんて思ってもいなかったなあ……私、実は結構妬いてたんだよ?」

「あー……まあ、若気の至りって奴かねえ。恐れ知らずだったんだよ、あの頃の俺は」

「でも、あの頃の足立くんはよく笑ってた気がするな。言い方が悪いかも知れないけど、あの頃の足立くんは、やっぱり輝いてたよ」

 なんてったって私が惚れちゃったくらいだもん。

 冗談めかして笑うみなちゃんに、俺は苦笑する。

 そう、あの出来事をきっかけになんと俺は、金森と交流を持つようになったのだ。

 最初の一週間くらいは目を合わせるのも怖かったくらいだったのだが、曲がりなりにもガキ大将をやっていた手前、女子一人にビビるわけにもいかなかったのだ。というかそれ以前に、このまま引き下がったら自分のことを許せなくなりそうだった。

 そんな訳で俺は放課後、二人の前にズカズカやってきて、開口一番、「あの時は本当に悪かった! ごめん!」と深く頭を下げたのだった。それこそ金森辺りは「はあ? あの時ってどの時のことお?」とか「あんな無様に泣きじゃくっといて今度は頭まで下げちゃうの? ホント情けない奴」といった具合に憎たらしい嫌味を言ってきたものだったが、それでも最後には「まっ、今後はもっと女の子の気持ちとか考えなさいよね」なんて言って(そしてボソッと、「だいたい、私もちょっと大人気なかったし」と気まずそうに呟いた……らしい)許してくれたものだった。ちなみにみなちゃんは、「あの、むしろこっちがごめんなさいでした」と逆に申し訳なさそうにうなだれたのだった。

 それから俺と金森は、ケンカ友達になった。

 片や分不相応に調子に乗った威張りたがりでバカ丸出しのガキ大将、片や怖いもの知らずで負けず嫌いな男勝りのおてんば娘。そんな小学生二人が一緒の空間にいて、ケンカをしないでいるほうが難しい。

 ある時はテストの点で張り合い(五分五分の戦いだった記憶はある)、またある時は特撮ヒーローに対する見解の相違でぶつかり合い(イケメンヒーローにばかり視線がいく金森のミーハーぶりにブチ切れたりしたものだ)、かと思えば何気なく眺めていた年上の女子への視線が嫌らしいと難癖をつけてきたのに俺が猛反発した(この時の金森はいつも以上に感情的に怒りまくり、俺が謝るまで口を効いてくれなかったものだ)。

 そんな彼女にまあ苛ついてはいた。いたけれども、それでもなんだかんだで一緒にいて、ときおりその場のテンションで絶交したりされたりしたものだが、俺は(そして恐らくは金森も)本気で絶交しようと思ったことは一度もなかった。一度、にやけ顔のモテキに「お前らホント見てて楽しいぜ」と言われたものだ。

 一度、俺が風邪をひいて休んだ時、家が反対方向だったにも関わらずわざわざプリントを届けにきたものだった。金森は眉をハの字にして、「バカの癖に風邪ひいてんじゃないわよ、バカ」と、そっぽを向いて顔を赤らめながらボソッと呟く。しかし俺はそんな金森に「なに顔赤くしてんだよ? お前も風邪か?」と能天気に声をかけて、そこから烈火のごとくブチ切れた金森とまた大喧嘩になった。一緒に来てたみなちゃんがいつものようにオタオタとして、だけどその後の帰り際に金森がプンスカと玄関に向かったところで、「そういうニブチンな足立くんも私、嫌いじゃないから」と照れくさそうに早口に言ってそそくさと立ち去った。

 本当によくまあ、ガキの頃の話を覚えてるものだ。

 今なら素直にそう思えるけれども、それだけ本当に楽しかったのだ。

 楽しすぎて、眩しすぎる、無邪気な日々。

 本当に、シニカルな苦笑いばかり出てくる。

「……ちょっと辛口なこと言っていい?」

 そんな苦笑いを受けてか、みなちゃんは遠慮がちな口調で尋ねる。

「あー……うん、いいよ?」

「ホントに?」

「大丈夫だ、問題ない」

「そのネタ古いよ。もっと最先端を生きなよ。そんなんだからニワカ扱いされちゃうんだよ?」

 みなちゃんがオタク文化を微妙に知ってるのは、彼氏さんの影響らしい。

「まあ冗談はさておき……足立くんって正直、頭悪いと思う」

「ガハッ」

 実にストレートな言葉だ。

 ストレート過ぎて死ねば楽になれる気がしてくる。

「でも、私はそれが足立くんらしさだと思うよ」

「なに? ひょっとして俺諭されてる? 婉曲的に俺の救いのなさを諭されてるわけ?」

「っていう風に言葉の表面だけ捉えて勝手に踊っちゃう辺りがねえ……」

 みなちゃん、ホントに毒舌になったと思う。

 しかもそれを穏やかなスマートさに包んで発してくるものだから、実に死にたくなる。

「でも、バカって実際、そんなに言うほど悪いことでもなんでもないんだよ」

「とうとうストレートにバカって言われた、俺……」

「だって普通にバカだし。でも繰り返すけど、それって決して悪いことじゃないんだよ」

「えー……バカの俺にはみなちゃんの言ってること分かんねーよ。だってバカよりも頭がいいほうがいいに決まってんだろ?」

「そうでもないよー? むしろなまじ頭がいいよりは、いっそバカの方がいいもんだよ」

 理屈っぽい根暗より、なにも考えてないバカのほうが案外幸せに生きられるでしょ?

 と、またまたサラッと毒舌を漏らすみなちゃん。

「それはね、いい意味でのバカって、基本的には素直だからなんだよ」

「素直、ねえ……」

「うん、素直」とみなちゃん。「バカはバカだから取りあえず行動して、でもバカだから大体失敗しちゃうの。でもね、みんな、行動する人には優しかったりするから、そこにいい人がやってきて、そんなバカのことを助けてあげようとするの。で、自分のことをバカだって認めてるバカだったら、その教えを素直に聞けて、それでまあ、大体最後には上手くいって、そこで始めてバカはちゃんとストンと物事を学べるの。愚者は経験から学ぶなんていうけど、学ばないよりは、学ぶほうがよっぽどいいに決まってるんだから」

 多分、俺は今、正論を言われてる。

 実際のところ俺はバカで、だから俺はみんなのようには物事を上手く円滑に進めることが出来ない。

 みなちゃんが言うに、そこに「いい人」がやってきて、俺みたいな奴のことを助けてくれるらしいのだ。

 だけど、ついぞ、現在進行形で失敗し続けている俺のことを助けてくれるような「いい人」とやらが訪ねてくれた試しなどはない。

「……うん、そうだね。多分今、足立くんはちょっとイラッとしたと思う」

 乾いた笑いを返した俺に、みなちゃんは分かっていたかのように言う。その声色には、金森のことを語っていた時に漏らした寂しそうな調子も含まれていた。

「足立くんは、色んな事を考えたんだと思う。考えて考えて、考えるのが面倒くさくなったんだと思う。だけどね、足立くん。実際に、幸せに生きるために考えなきゃいけないことって、本当に少ないんだよ」

 昔の足立くんはそれをちゃんと分かってた。

 無意識に。バカらしく。

 やっぱり、褒められてるようには、慰められてるようには、どうしても思えない。

 どうしても、俺が、こんな俺だから、色んなことが上手くいかないようにしか思えない。

「だから、今の足立くんに私から言えるのは、二つのこと。たったの二つの、今の足立くんにはとても難しくて、だけどいつか必ず取り戻せる二つのこと」

 自分らしく生きること。

 相手の自分らしさを受け入れること。

「それだけで、足立くんは素敵な男の子になれるよ」

 ああ、確かにとても難しい。

 何故なら俺は自分のことが大嫌いで、だからこそ自分らしくなんて生きたくないからだ。

 だって、そしたら、自分はどんな惨めな自分を曝け出さなければならないのか。

「……みなちゃん」

「なに?」

「俺って、変わらなきゃいけないのかな?」

 小さく、悲しそうなため息が、受話器越しに漏れるのが微かに聞こえた。

「……残念だけど、そう思ってるうちは、足立くんは誰のことも愛せないよ」

 女の子のことも――自分のことも。

「人はね、変わろうと思って変わるんじゃないの。自分らしく生きてたらより良い自分になるものなの」

「…………」

「分からない、かな?」

「分かんねえ。さっぱり、分かんねえよ」

「……うん、分かる必要はないよ」

 そう言って笑うみなちゃんの声にはしかし、後ろ暗い響きは感じられなかった。

「言葉だけで分かるのは頭のいい人。足立くんは、頭の悪い人。自分の足で歩いて、躓いて、膝を擦りむかないと分からない、でもそこでちゃんと分かる人」

 慰められていることくらいは流石に分かる。だけどやっぱり、どうしてもよく分からない。

 歩けども歩けども、俺は躓かない歩き方を学べないし、膝の擦りむきの痛みが怖くて仕方がないのだ。

 俺は重たいため息を一つついた。

「……取りあえず、もう寝るわ」

「そうだね」

 みなちゃんが気が抜けたような声を漏らす。

「こんな日は、早く寝るに限るよ」

「寝る子は育つって言うしな」

「二十一歳児の足立くんに必要なのは、考え過ぎないことと、そのための適度な睡眠」

「それとみなちゃんのおっぱい」

「やっぱり足立くんはバカだよね」

 ハハハっと俺たちは大いに笑いあった。

 実に平和的な笑い声だった。

「おやすみ」

「うん、おやすみ」

 俺は電話を切った。

 この後布団に入ったら、割とすぐに眠りにつけた。


 今日も今日とてかったるい講義が終わる。

 今日は二時限目、午前中で講義は終わりだ。

 俺は早々に大学を後にして、近くのマックでベーコンレタスバーガーのセットを食べた。スマホのアプリにクーポンがあったのだ。

 流石に大学の近くということもあって、俺と同じ大学の生徒たちもバラバラとやってくる。各々、自由気ままに食事をしながら楽しそうにだべっている。

 そんな中にあって俺は一人、喫煙席の隅っこでもそもそと食事をとる。チラッとテーブル席の方を見ると、俺のサークルの(知り合いに近い)友人がいたが、そいつの彼女と、俺の知らないカップルが高笑いしている姿を見とめて、俺はソっと視線を逸らした。薄汚い部屋の片隅でコソコソといかがわしい本を読んでいるような、そんな矮小な羞恥心が湧いてくる。

 世にも安っぽい食事を終えた俺は、タバコを吸い、スマホをイジる。およそ、十分。それが、俺の潰せる時間の全てだ。

「……孤独だなあ」

 俺は思わずそう呟いた。

 結局、それに尽きると思うのだ。

 一人は、嫌だ。

 いつだってそう思っているはずなのに、時間ばかりが過ぎていき、思いばかりが空回りする。

 孤独は、どうしようもなく心を壊していく。

 俺はそのことを、今もこうして、秒刻みで自覚せずにはいられないのだ。

 俺の脳裏に、あの少女のことが浮かんだのはそんな時だった。

 踊るように楽しそうなのに、

 晒されてるように怯えた、

 公園で独り絵を描く少女。

 孤独の重力なんて二十歳を超えた「大人」の身でも重たいのに、スケッチブックでさえ身に余るような「子ども」に耐えられるとは到底思えない。

 あの子は今日も、あの場所で一人、絵を描いているのだろうか。

 あの素敵な絵を。残酷なまでの孤独の中で。

 早足にマックを出た俺は、あの日以来一度も曲がらなかった十字路を曲がり、公園へと向かっていた。

 公園に近づけば近づくほど、心拍数があがり、身体が重くなっていくのを感じる。あの少女が恐怖と羞恥で顔を赤らめて走り去った後、その場にいた主婦たちに向けられた視線の冷たさが脳裏をよぎる。ひょっとしたらまだ俺のことを覚えているのではないか。そして当の少女は。普通に俺のことを忘れてそうでもある。覚えていたとして、あんな別れ方だったから俺の姿を見とめても怯え、拒絶するのではないのか。

 それでも俺は公園の前に着く。心が迷って、足取りが重くなっても、歩いている以上、着いてしまう。

 ベンチに座ってうたた寝をするおじいさん。

 長閑に世間話を楽しむおばあちゃん二人。

 犬の散歩の休憩にタバコを吸う中年の主婦。

 まだまだ暖かい秋口の太陽は登りきり、後は沈むだけ。風は、涼しいというより冷たかった。

 幸いにもあの時あの場所にいたと思しき人はいなかったが、敷地内に入るのははばかれて、木陰に隠れるように(まあ実際は隠れられていないのだろうが)、遠目に先日俺が座っていたベンチを見る。

 しかし、そこに少女の姿は見られない。

 変わりにいるのは、薄汚く、不機嫌に退屈を持て余したような表情の、退廃的な中年男性。

 一瞬、少女は来ていないのかと思った。しかし、そこから少し離れて、ジャングルジムの近く、俺はその少女を見つけてしまう。

 その姿は、さながら、不条理な世界に迷いこんでしまった臆病な子猫のようだった。

 心底怯えきった表情で、少女が以前座っていたベンチの方をチラチラと見ながら、挙動不審にウロウロとする。ベンチに中年男性が不機嫌に座っているのは前述の通り。彼女の抱える例のスケッチブックは相変わらず彼女の身の丈に合っていない。そして今の彼女にはとても重たそうで、持て余しているように思えた。

 先日は、俺が座るその横に平気で座ってきたというのに、そしてその場所こそがわたしの場所だと意固地に主張していたというのに。

 それがどういうわけか、今は捨てられた子犬のように無力で弱々しく思えた。

 先ほどから無気力に辺りをふらふらと眺めているだけのようだった男性が、ふっと視線を止める。

 視線の先にいるのは、あの少女。男性の、それも少女自身よりも遥かに大きく、粗暴で、汚らしい男性に見据えられた少女は、息を呑んで身体を硬直させる。

 ――…………。

 中年男性が、険のある表情でなにごとか口を開いたのは見えた。が、相当乱暴に言い捨てたのだろう、遠目に見ているこちらにまで声は届かなかった。

 しかし、ただでさえ怯えきった年端もいかない少女に、恐怖心を与えるには十分な所作だったろう。

 少女は口を開くことも立ち去ることも出来ず、猛獣に睨まれた小動物のようにその場に立ち尽くす。

 ただでさえ険のある男性の表情に、ますます不快感が募っていくのが目に見えて分かる。ただ単に舌打ち一つでなにも見なかったことにするのかもしれないし、もう一言苛立った言葉を言うのかもしれない。あるいは、口汚い悪罵を叩きつけるのかもしれない。

 普段なら、心の底に澱のような不快感を残しつつも、見なかったことにする光景だ。

 だけど、なぜだろう。

 なぜだか、俺にはそれがどうしても耐え難かった。

「あれっ! こんなところでなにしてんのー?」

 我ながら、めちゃくちゃ震えた声だった気がする。

 ともかく、俺は引きつった笑顔、ぎこちない手の振りとともに、名も知らない少女の元に駆け寄る。

 男性は胡散臭そうな視線を俺に向け、少女は俺のことを知ってか知らずか眉をハの字に曲げる。やばい、頭の中が真っ白になりそうだ。

「キミあれでしょ? あそこの山中さん家の娘さんでしょ? いやあすっかり大きくなっちゃって可愛らしいこと海千山千ですよ! でも病気がちだって話は聞いてたけど今日は外に出ても大丈夫な感じなの? いやあでも趣味で絵を描くっていうのは風のウワサみたいなノリで聞いてたけどそんな立派なスケッチブックを持ってるとはたまげたなあ。その中に描かれてる絵もユーのように可愛らしいことなのでしょうなあ!」

 男性も少女も「は?」みたいな顔で俺のことを見ているが、そんな顔をされても誰よりも俺自身がなにを言ってるのか分かってないのだから困ってしまう。

 俺はさらに言葉を続けようとするが、俺の国語力と胆力とコミュニケーション能力では、こんな状況下で一体どんな口を効けばいいのか欠片も思いつかなくて、引きつった笑顔ばかりが張りつく始末だった。

「……ンだよお前ら、ワケ分かンねえな……」

 胃痛がするほどに悩んだ末に平謝りをして逃げ出そうとしたその時、立ち上がった男性がボソッとボヤくなり、気だるそうにこの場から立ち去ってしまった。

 こうして二人残されて、気まずい沈黙が続く。強く冷たい風が音を立てて吹き抜けた。

「……と、取りあえず、座らない?」

「…………」

「いや、その場にじゃなくてさ」

 少女がこちらの顔色をうかがうようにしながらその場にしゃがみこんだので、俺は苦笑いをしながらベンチの方を指さすと、少女はオズオズとベンチに座った。「わたしの場所」とやらに座るはずの少女の姿は、地面の汚いところに恐る恐る腰掛けようとしているような、そんな怯えを抱いてるように見えた。

 少女はリュックサックから鉛筆とカッターナイフを取り出したものの、その動きはぎこちなく、というよりは身が入っておらず、素人目にも鉛筆が丸いままなのが分かった。

 少女はのろのろとスケッチブックを開く。以前に見た少女はそこから、迷いなく、多幸感に満たされた表情で踊るように鉛筆を動かしていたはずだ。しかし今の少女は鉛筆を宙に泳がせるばかりで、一向に筆を動かす気配がない。その表情は刻々と陰っていき、今にも泣きだしそうに眉を歪ませていた。

「……調子が悪いならさ」

 三十分経って、耐えかねた俺は声をかける。

 俺はきっと、少女を哀れんでいた。

「無理して描くことはないんじゃない?」

 スケッチブックに、一滴の涙がポツリと落ちた。

 少女はうつむき、苦しそうにえずきながら、ポタ、ポタ、ポタと、大粒の涙を落としていく。

 怯えていた……そして、恐らく、少女はその事実を、心の底から悲しんでいた。

「ここは、わたしの場所、なのに……なのに……」

 少女の言葉は、小さくて、拙くて、だけど、胸が苦しくなるほどに、悲壮だった。

「なんだか、そうじゃない、気がして、それが、怖くて……おじさんが、来てから、そんな気が、ずっとしてて、なくなっちゃうようで、怖くて、怖くて……」

「……ひょっとして、俺のせい?」

 あの日、俺が少女の場所にいたから。

 そのことを少女に認識させてしまったから。

 少女は自らの言葉を後悔するように首を思いきり横に振る。何回も振る。

「わかんない……わかんない、けど、でも、おじさんが悪いわけじゃなくて、でも……ここが、ここだけが、わたしの場所、だから、なくなっちゃったら、もう、どうしたらいいか、わからなくて……でも、どうしらたいいかも、わからないで、わからないで、わからないから、どうしようもなく、怖くて……もう、なんにもわかんない…………わかんないよお……」

 少女は言葉を切ると、スケッチブックに顔をうずめて、慎ましく、しかし思いきり泣いた。

 俺はふと、金森夏芽のことを思い出していた。

 小学生の時、みなちゃんのことをからかっていた上級生がいた事を知った彼女が彼らの元に飛んでいき、いつもの悪辣な言葉をぶつけたら殴られて、逃げ出したところをたまたま目撃した俺が追いかけて、近くの公園で一人泣きに泣いていたところを、俺が、少し戸惑った末に、頭を撫でながら抱きしめた時のことを。

 いつもの威勢など欠片もなく弱々しく泣く姿に、抱きしめた身体の小ささに、金森もまた一人の女の子なんだと理解したような気がした日。

 俺は自分のやろうとしていることを恐れるように震えた、自分の右手を見る。俺が、言ってしまえば出会って二日目に過ぎない、見知らぬ「おじさん」ごときが、少女の「孤独」の奥底に踏み込んでいいのかと。

 ――足立くんは、頭の悪い人。自分の足で歩いて、躓いて、膝を擦りむかないと分からない、でもそこでちゃんと分かる人。

 …………。

 俺は、少女の頭にそっと触れて、ぎこちなく撫でた。少女の髪は少し傷んでて、だけど不思議と、撫で心地は良かった。まるで恐る恐る口にした始めて見る果物の甘さが、口の中に広がっていくようだった。

「俺、バカだから、キミの言ってることの半分も分かってないと思うけど」

 だから俺は、そんな少女に感謝するように、俺の言葉を述べた。

 自然と頭の中に浮かんだ言葉を、そのまま伝えた。

「ここだって、どこだって、キミの場所なんだと思うよ……俺、絵のことよく分からないけど、だけど、きっと、キミは、そういう娘だし、そういう絵を描く娘だと思う、そんな気がする」

 だから怯える必要なんてないし、泣くこともない。

 キミは、なにも怖がることなんてないんだ。

 だってキミには、そのスケッチブックの中に、あるがままの、あるべき姿を好きなように描ける、素晴らしいギフトがあるんだから。

 それは、それは、すごく誇らしいことなんだ。

 さながら神様から祝福を受けたかのように。

 少女はますます強く嗚咽して、身体の中に溜まっていたものを吐き出すように涙を落とす。

 気がつけば、犬の散歩をしていた主婦も、世間話をしていたおばあちゃん二人もいなくなって、ベンチに眠るおじいさんだけが残されていた。

 俺は少女が泣き止むまで、ずっと頭を撫でていた。


 大体十分くらいで少女は泣き止んだ。

 俺はカバンからハンカチを取り出して少女に渡し、顔を拭わせた。少女はそのまま鼻もかんだので、俺は苦笑しつつ「それ、あげるよ」と言った。

 それから一時間くらい、お互いに無言のままボーっとベンチに座っていた。その間に、ベンチで寝ていたおじいさんは「ふぉぉおああぁ……!」という間抜けで大きなあくびをして帰っていった。俺と少女は顔を見合わせて、笑った。いや、端からみたらちゃんと笑顔になったのは俺だけだったのだろうが、俺からみたら少女の口元は確かに、三日月型に歪んでいた。

 普段の俺なら見知らぬ人と二人きりで、ましてや小さな女の子と一緒にいるなんてとても耐えられないのだろうけれども、俺は――きっと褒められたことではないのだろうが――心地良ささえ感じていた。

「……帰る」

「そうだな」

 立ち上がらなポツリと呟いた少女に、俺は応える。たったこれだけのやり取りで、多分調子にも乗っていたのだろうけれども、呼吸があったような気がした。

 少女はその場に立ち止まったまま、なにかモジモジするようにこちらをチラチラと見ていた。

「……ねえ」

 なんだか恥ずかしくなって来たところで、少女がオズオズと口火を切る。

「また、来てくれる?」

 俺にはこれ以上なく嬉しかった言葉だった。

 しかし俺は素直じゃないことに、あえて意地悪な笑顔を返した。

「キミの場所に、俺が入ってきていいの?」

 少女は数秒間だけ思案するように視線を右上に動かして、だけどそれから一度だけ思いきり頷いて、

「わかんない!」

 ズッコケそうになった俺に、だけど少女はすぐ、

「わかんないけど、とにかく来て!」

 なんというか、この娘らしいなと思った。

 俺はニッコリと笑顔になって、

「いいぜ、ヒマな時にな」

 大学屈指の暇人である俺がちょっとだけ、くだらない所で意地を張ってそう応えた。

 今度こそ、少女は確かに嬉しそうに笑った気がした。だけどすぐに顔を赤くして俯かせると、俺に背を向けてトコトコと走りだした。

「あっ、ちょっと待って!」

 そんな少女に俺は、咄嗟に声をかける。

 その言葉に公園の真ん中で立ち止まった少女は、なんだか恐る恐るという感じで振り向いた。

「キミ、名前なんていうの?」

 俺はその姿にちょっとだけおかしみを感じながら、少女に問いかけた。割と大事なことであるはずなのに、なんとなくタイミングを逃していたのだ。

 少女はしばらく意図を測りかねたように俺のことを凝視していたが、やがて大きな声で返事をした。

「ほしざき、ふたば!」

 星崎双葉。

 率直に、カワイイ名前だと思った。

「ちなみに、俺は足立卓な!」

 少女――星崎ちゃんはコクリと頷いた。

「そんで、今度からおじさんじゃなくて、お兄さんと呼ぶこと! あるいはお兄ちゃんでも可!」

 俺は冗談めかしてそういうと、また彼女は頷き、

「分かった、足立お兄ちゃん!」

 それから星崎ちゃんはニコッと微笑む。

 思わぬ反応に虚を突かれてリアクションに窮した俺だったが、彼女はクルッと背を向け、駆け足で公園を去っていった。

 俺はしばらく呆然としていたが、やがて自分の危険思想ぶりに苦笑いをしながら、タバコを取り出した。

 足立お兄ちゃん。

「冗談だったんだけど、言ってみるもんだなあ……」 タバコの煙を吐き出しながら、ポツリと呟いた。

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