第四十一話 忠と孝
洛陽は燃えた。類焼ははじめおさえようもない程の勢いであった。
やがて降り注いだ恵みの雨により鎮火するまで、消火活動は間断なく続けられた。完全に使い物にならなくなった住宅は二千戸を数える。焼け跡からは逃げ遅れた人々の亡骸が無数に現れた。被害は大きい。我先に逃げ出そうと城外に人々は殺到し、それがためにさらなる負傷者も出た。火事場どろぼうも現れ、洛陽はその威風にそぐわぬ混乱に堕した。
混乱を収集するには軍の力を用いるほかなかった。現在洛陽に駐屯している兵力は執金吾の指揮権に服す一万と、董卓勢力下の一万八千である。消火活動、遺体の回収、避難民の誘導に避難宿舎の建設、炊き出し、そして治安活動――その全てが李岳指揮下により行われた。
二龍の放った火がために焼け野原となった区画は、間もなく夜露を凌ぐだけの簡単な仮設の宿で埋め尽くされた。家を失い行くあてのない者たちは身分の上下なく受け入れるようにしている。軍人たちが遠征先で野営するように家を建てたので粗末ではあるが、ないよりは遙かにましであり、日に二度の炊き出しで食事も保障した。費用は全て皇帝の私財からであった。家を失った住民たちからは感謝の声さえ上がっていた。
それでも損失は大きい。洛陽のかなりの面積は文字通り灰燼に帰し、天与の降雨がなければ被害はさらに大きくなっていただろう。家は焼け、命は散った。宮殿付近から城門に至る街路で火が燃えたのだ、被害者に身分の上下はなかった。やり場のない悲しみに覆われて、春の日差しを降り注ぐ晴天さえ人々は疎んだ。
その洛陽を包んだ悲劇と苦難、火炎と降雨の最前線に、李岳は常に立っていた。水を運び、人に声をかけ、指示し、決断し続けていたのであるが、とうとうその背中がぐらりと傾いで地面に倒れこんでしまったのは洛陽炎上から二晩目の夕暮れどきであった。発見した陳宮が、その身体に宿った何倍もの力で李岳を引きずり、助けを呼んだ。
遠い遠い記憶の果てに、似たような症状を自分が患ったという覚えが李岳にはある。辛く苦しい、と同時に懐かしいという感覚が彼を包んでいた。
インフルエンザだ――その声は咳にまみれてまともな発声にはならず、ひどい濁声としてズブズブと部屋に沈んだ。
(季節はずれだな……人の多いところに出入りするようになったからかな……生まれてこの方、ど田舎暮らしなんだ……耐性がなかったのかもしれない)
李岳の脳裏にはこの病への対処法がいくつも浮かんだ。だがこの世界にはタミフルどころか注射針すらなく、まともな飲み薬さえない。病は即、死に繋がるのだ。風邪をこじらせても、虫垂炎にかかっても人は死ぬ。
「ここで……死ぬのも……天の導きか?」
馬鹿な考えだ、と笑って岳は寝台から立ち上がった。弱気になるなアホ、と自分を励ましてみる。
フラフラと頼りない足取りで李岳は水差しをから水を飲んだ。李岳の身分であればつきっきりで看護するものがいてもおかしくはないが、感染性の病の可能性が強い以上、誰一人として立ち入るなと厳命してある。ここが宮中ならばなおさらだった。皇帝まで感染してうっかり死んでしまえば笑い話にもならない。劉協が即位して彼女をさらった劉岱や劉遙が大手を振ってこの洛陽に戻ってくるだろう。あってはならない。
李岳は今、宮中の一角に部屋を頂きそこで起居している。純粋に安全保安上の問題で、李岳は永家の者の進言に従って宮中に身を置いている。廖化の指揮下、李岳の周りには常に護衛がつくようになり簡単に出歩くことができなくなったどころか、住む場所を選ぶ自由さえない。李岳は自分の身についての判断は完全に廖化に一任しており、独断さえ許していた。この洛陽で最も狙われやすい存在はもちろん皇帝である。だがついで危険なのは董卓と李岳といえた。実感はないとはいえ自覚はある。
――漢の停滞を招いた宦官を排し、皇帝の身を保護し、実力主義の気風を巻き起こしている涼州の巨星、董卓。その直属の幕僚統括者として李岳の名は知れ渡っている。いま、李岳は天下を左右する地位にあるのだ。
(ま、そのあたりはすぐに動くんだけど……)
一口、二口と水を飲んで、置いてあった粥をすすった。吐き気をこらえて無理やり口の中にねじこむと、そのまま李岳は床に皿を叩きつけて割ってしまい、破片をざっとだけまとめた――感染症対策だった。一度口をつけたものは全て破棄する。衛生管理の概念が皆無の世界ではやり過ぎて失敗したということなどありえないのだ。
再び寝台に戻ると、グルグルと回る視界に悶え苦しみながら李岳は強引に寝付こうと試みた。何度あるのか計りようもないが、高熱と思えた。感情が千々に乱れそうになるが、それもこらえて李岳は目をつむった。
望んでもいないのにこの数日が反芻される。洛陽が燃え、多くの罪もない命が散った。家を失った者もいる。そしてみすみす陳留王を渡してしまっている。敗戦だ、と李岳は痛烈な思いを抱えたまま布団を頭までかぶった。漢の分裂を招きかねない事態である、最悪東西に二帝が並び立つことさえありうる。
(……やめよう)
済んだことだ、と李岳は口に出して呟いた。
後悔ばかりが浮かんでくるのはそれが症状だからだ、と思い込もうとした。成果もある。それを数えないのは懸命に戦った部下を卑下することにもなる。しかし、どうにも感情の操作が上手くいかない。
李岳はやがて束の間の惰眠を貪ったが、考えと眠りはそれぞれ交互に中断され、その度に病状も一進一退を繰り返した。進んでは下がり、向かっては戻り――病床では感情が混乱する。悔しさだけが李岳の中で育ち、眠りの最中でその目から何度も何度も涙がこぼれた。失ったものを数えると悲しくなる。これから失っていくであろうものを想像すると身悶えでは済まない。輝きを描こう、と思った。これから訪れるであろう美しいものを想像しようとしたが、それを得るためには敵も味方もわけ隔てなく多くの血を流さなければならず、やはり悲しい。
孤独だ、独りなのだ……どういう未来を描いても! 血溜まりの中でたった一人立ち尽くす絵が浮かんで仕方がない。母は死んだ、友も失うだろう、周りは敵ばかり……普段意識さえしない不安や弱気を、病は存分に李岳の魂から引きずり出して弄ぶのであった。
尽きない感情の交錯――だが、その波もいくらか落ち着きを見せた頃、李岳は喉の渇きを覚えてうっすらと目を開けた。
「あ、起きましたか?」
眩しかったが、それより人の声に驚いた。立ち入り禁止を厳命していたはずだというのに、誰が立ち入った。李岳は小さく、あ、といって自分の声が出るのを確かめた。話せる。李岳は一体どういうつもりだ、と怒鳴ろうとしたが、目の前の少女を見た瞬間その言葉は引っ込んでしまった。
「よかった、峠は超えたみたい……」
侍女の服を身にまとった少女は、ほっ、と大きな安堵のため息を吐いた。
「……月!」
「はい」
えへへ、と笑う少女に李岳は束の間話せるようになったはずの声を忘れた。
「……た、立ち入り禁止だと言ったろう!」
「え、聞いてませんけど」
「命令したんだよ!」
「私、貴方の部下じゃありませんから」
むしろ命令するほうです、と。つーん、とそっぽを向く董卓。確かに、と納得しかけた自分に李岳は呆れ返った。
「そ、そうじゃなくて、俺の病気は移るんだよ、そうなれば君まで病床に」
「治るんですか?」
「え」
「治るんですか、一人で寝ているだけで」
劣勢を巻き返さんとして李岳はそっぽを向きながらも答えた。
「な、治ってるじゃないか。今もこんなに元気になった」
「一晩うなされ続けてましたよ。三回も着替えさせなきゃいけなくらいたくさん汗もかいてました。十枚も二十枚も頭に乗せた布巾を変えなくちゃいけなかったし、寝ぼけて暴れたことも覚えていないでしょう?」
「ううう?」
うなされていた、着替えさせられた、寝ぼけて暴れた――?
戦術の肝とは勝機を逃さぬことである。それを真に理解しているとばかりに董卓はまくし立てた。着替えさせるのは本当に大変だった。寝台の布も変えなくてはならない程の汗だった。匙で水を少しずつ何回にもわけて飲ませた。いきなり叫びだすからびっくりする。突然私を抱きしめて強引に寝台に――
「ちょっと待てえ!」
「最後のはウソです」
「ウソ!?」
「えへへ」
あっけに取られてしまった李岳の様子を敗北宣言と受け取ったのだろう、董卓は嬉しそうに笑うと水を杯に注いで渡してくれた。反論することすら出来ずに李岳は思わずそのまま受け取り口をつけた。うまい、と思った。染み渡るように水が李岳の体を冷ました。
「……感染りません。私、経験あるんです」
「経験?」
「昔、涼州でもひどい風邪が流行りました。亡くなる人もいました……でも、私は大丈夫だったんです。看病は私の仕事でした。大丈夫なんです」
小さな体を背一杯そらすようにして董卓は胸を張った。
抗体がある、ということだろうか。いや、インフルエンザに生来の抗体など何も関係なかったと思う。それに涼州で流行った病が自分と同じ病気だとも限らない――しかし李岳の言い訳は全てはねのけられるだろう、妙な確信があった。
「……上司が部下の面倒を見るというのもおかしな話だろう」
「だから変装しました」
董卓は自らの地位に決してふさわしくない、本来侍女が纏うべき地味な服を指さして笑う。
「……なんだかなあ」
妙だ、と李岳は呻いた。董卓はなぜこんなに強気で、自分はどうして気圧されているのだろう、と。
「月、君、変わった?」
一瞬、驚いたような顔を見せて、次いで嬉しそうにその頬を染めて董卓は答えた。
「変えられちゃいました、冬至さんに」
「俺に?」
「一生懸命だから。先頭で頑張って、倒れるまで頑張って、私はこのままでいいのかなって……血の階。一緒に登ると決めました。おんぶされて登っていくんじゃなくて、一緒に登るって」
「そうか」
「それに、私の方がお姉さんなんですよ? えへん」
李岳は苦笑した。渡された杯を飲み干した。今度は自分から甘えるようにして董卓に杯を渡した。董卓はその意を察して、嬉しそうにお代わりを注ぐ。李岳は受け取った水を一息に飲み干した。自分の症状が落ち着いていることを自覚する。峠を超えた、というのは本当だろう。目の前の少女が、肩を担いで一緒に超えてくれたのだ。
孤独じゃない――それは、なんという癒しだろう!
「李岳くん」
「へぅ?」
「最初、李岳くんって呼んでたよな……だってのに、いま冬至さんってのはおかしい……それだけ」
「……冬至くんって……呼んでもいいの?」
「それだけだよ!」
ふん、と李岳は布をかぶってあちらを向いた。どうにも照れて仕方ない。
そうと決めたなら全部任せると割り切って董卓に看病してもらいながら、李岳は廖化が持ち込んだ報告書に目を通した。この時はじめて李岳は段珪の死を知った。廖化は深くは語らなかったが、かなりえげつない技を使ったのだろう、と察した。そうでなければ得られない深度の情報だったからだった。
いつさらったのかも、どういう風に尋問したのかも李岳は聞かなかった。ねぎらいもしない。お互いがお互いの領分を分かち合っている。情報戦とはそういうものだ、と思う。全てを任せ、最大限に信じる――あるいは前線での体を張った戦闘よりもその姿勢が求められるのかもしれない。
董卓に熱いお茶を入れてもらいながら李岳は報告書を何度も読んだ。唸り声を上げるのはひとたびではない。その緻密さ、正確さ、綿密さは並の代物ではない。この数年における宮中の動きや人の働きがこれに目を通すだけで全て理解できる程である。廖化のとんでもない大殊勲だった。
「玉を手に入れたな」
「え?」
聞き返す董卓に李岳は首を振る。これは厳重に保管するべきだろう。本当のことを言えば焼き捨てるべきなのだろうが、自分が死ぬこともありうるのだ。自分の死後を託すとなれば……賈駆だ。そして陳宮。彼女たちにだけ隠し場所を教えておこう、と李岳は決めた。
「……しかし休みすぎたな、ぼちぼち出仕するよ。だいぶよくなったから。ありがとう月、助けられた」
「そんなこと……」
「もう十分だよ。さて、忙しくなる。月、君にも働いてもらう」
李岳の言葉に董卓はコクンと頷いた。そう、この後のことが肝腎なのだ。ある意味中常侍を討つことよりも重大な局面である。そしていま手持ちの最強の札を思う存分に使うことになる――董卓、という札を。
自分の立ち位置を十分にわかっているのだろう、難題を押し付けた李岳であったが董卓の顔に迷いはなかった。共に戦う、という言葉は嘘ではないのだろう。既に戦友だった。
夕暮れ前、賈駆、陳宮を交えて今後のことを話し合う時間を設けた。三人とも李岳の言葉に細かな質問を返しているが、李岳の提案に驚きはない。それもそうだろう。漢を牛耳っていた宦官を討ち滅ぼしたのだ、これ以上の暴挙などもう金輪際出来ない。あれに比べれば何がこようとまし、くらいに割り切っているのかもしれない。
李岳が身動き出来ない間の詳細な報告ももらえたが、この二人がいればある程度のことは自分がいなくても大丈夫、と李岳は確信した。避難民の生活の再建などはまことにもって滞りがない。李岳が考えていた政治工作もその大半が賈駆の手により実行済みだった。
(あらためて思うけど、二人共普通じゃない。俺なんかよりよっぽど手際がいい……当たり前か。実際に役人を使った経験なんかないんだからな、俺は。自分の能力を過信することだけはやめよう。大方針だけ出して、細かいことは委任する……俺達にはその方が合っているんだろうな)
大事を取ってその日は休み、李岳は翌日董卓と共に出仕した。あらかじめ旨は知らせていたので大議場には名だたる者たちが居並んでいた。三公、上位将軍、大長秋に太僕――漢を左右する最高位が一同に介していると言ってもいい。
その一人一人の顔を李岳は確認した。知っている顔ばかりだ。李岳とて執金吾である。この中の誰にも遜色のない高官だ。
「李信達、罷り越しました」
「董仲穎、参りました」
誰ともなく頷いた。董卓と李岳の二人を測りかねている、という雰囲気が如実に場に流れている。もてあます、という方が正確かもしれない。執金吾の地位にありながら宮中に押し入り、宦官を撫で斬りにした……前代未聞の椿事である。中常侍を殺したのは彼ではないという噂もあるが、その真相など確かめようもない。そして片や涼州上がりの非力でおどおどとした少女である。場違いにも程があった。
どこか様子をうがかうような空気に愛想が尽きたのか、やがて口火を切ったのは左将軍の地位を頂いている女性であった。
「病と聞きましたが、もうよろしいのですか?」
老齢にしても矍鑠たる目の輝きを見せる。白い髪は老いではなく、雪をまとった装飾なのではないかと思わせるが、その全身は数十年にわたって戦場を潜り抜けてきた歴戦の経験値を隠すことが出来ていない。
漢の混乱を常に最前線で鎮め続けてきた歴戦の勇者、誰一人として疑うことなくこの漢の最も分厚き藩屏である。物腰柔らかな笑みを浮かべてはいるが、その全身からにじみ出る闘気は最強将軍の看板に太鼓判を押す。
――姓は皇甫、名は嵩。字は義真。黄巾の乱をその腕力でねじ伏せてきた官軍中最強を誇る左将軍である。
「お陰様で、快癒いたしました」
「重畳ですわ」
「にしても、貴様、休み過ぎではないか!」
皇甫嵩の言葉に続いたのはその向かいに座していたこれもまた女将軍であった。ダン、と卓を叩いた手には戦場で昼夜を過ごし続けてきたものにしか宿らない数多くの傷が刻まれている。
――姓は朱、名は儁。字は公偉。
皇甫嵩とその名声を分かち合う勇将である。交州、南陽と長征を苦にもせず、北に南に反乱を鎮圧してきたその戦歴は誰に比しても遜色ない。皇甫嵩の長い髪に対比するように短く刈り上げた白髪は、老齢をものともせずに未だ最前線に立つことを厭わぬ気迫を存分に見せつける。つり上がった切れ長の瞳は燃えたぎる情熱をこれでもかという程に表していた。
朱儁の怒声に李岳は肩をすくめた。
「これは、失礼いたしました」
「自覚せよ! 貴様の独断でこの宮中がどれだけ混乱をきたしているのか!」
朱儁の声を皮切りに、多くの者が口々に李岳を非難し始めた。
――宦官に対するいきなりの攻撃、執金吾の地位にありながら陛下を危険に陥れたこと、あまつさえ陳留王の身柄をかどわかされたことはその職務に忠実ならざることを示してあまりある、ましてや洛陽に大火を招いた責はどのようにして償うのか、と。董卓に至っては并州牧であるというのに未だに兵力を蓄えたままこの洛陽に居座り何を企んでおるのか、李岳が率いた兵の中には并州兵、涼州兵もおったというのはまことか……
董卓の不安げな目をよそに、李岳はその声を黙って聴き続けていた。予想していたことである。そう、これは董卓と李岳に対する弾劾の場なのであった。
政争は既に始まっている。中常侍亡き今、次の権力を誰が握るのか、その駆け引きは予断を許さない。中には李岳を面罵しつつも感謝している者もいるだろう。邪魔を排除してくれた、あとはこの男さえ除ければ宮中の新たな特権は我が手に入る、と――
だが、そのような思惑などとうに李岳は読み切っていた。
「司空殿」
李岳は自らへの糾弾が一段落した途端、司空――劉弘を呼んだ。劉弘は女性である。齢は五十を超えたくらいであろうか。ふくよかな体型を大げさに揺らしながら李岳に答えた。
「何しら、執金吾殿」
「一つお訊ねしたい。昨年の夏至の夜、どちらにいらしたか?」
李岳の唐突な問いに一同は沈黙した。じっと視線が劉弘に視線が集まる。心底見当がつかないのだろう、劉弘は居心地悪そうに身動ぎしながら答えた。
「何の話?」
「お答え頂きたい」
「……さて、覚えておりませぬが」
「では暮れ、最後の満月の夜はどちらに」
「覚えておらぬ。何を言っているのかしら」
劉弘の答えに李岳はそうですか、と答えた。全員の視線が二人の間を往復する。皇甫嵩は口元を手で隠しているがそれは面白そうな笑みを人に見せられぬという仕草に過ぎない。朱儁などはこめかみに青筋を立てていた。李岳の言葉がただのごまかしならばこの場で叩き斬るなどと本気で考えているかも知れない。
「ならば十日前、どちらにいらしたか。日没前にてござる」
李岳の唐突な追及に劉弘はとうとう怒りをあらわにし始めたが、不意に、その顔が青ざめたのをその場に居並ぶ全員が見咎めた。
十日前、と誰かが呟く。劉弘その言葉にはっとし、冠が大げさに傾く程に激しく首を左右した。
「知らぬ」
「知らない?」
「知らぬ! 貴様は何を言っている!」
「何を、と申しましても……それがしは、それがしの職務を忠実に全うするために禄を食んでいるのです」
「……職務ですって?」
李岳の言葉に場はとうとうざわめいた。執金吾がその職を全うするために詰問する――劉弘に翻意ありとみている!
「この劉弘を侮辱するのですか!」
「ならば、十日前にどこで何をしていたか答えられよ」
場の空気は一変していた。李岳に対する糾弾の場が劉弘に対する疑惑を問う場へと様変わりしている。彼の一顧だにせぬ表情が無上の確信を表していた。劉弘には何かある――その真相が李岳に対する糾弾の答えでもあるのだ。
「答えよ」
議場がざわついた。その声はここにいるはずのない人物から発せられた。
初めに気づき動いたのは朱儁であった。立ち上がり、ひざまずいて礼を取る。次々とそれに続いた。
現れたのは皇帝劉弁その人であった。全員が体を投げ打つようにして平伏した。なぜこの場に! 歯噛みして動揺する者が大半であった。皇帝を一昼夜保護したのは紛いなりにも董卓である。その詰問の場に最もいてほしくない人こそがこの皇帝であるというのに!
劉弁はその場の全員がひざまずいている様をしばしお睥睨しながら、よい、と囁いた。
「よい、楽にせよ」
「陛下におかれましては」
「よい、と申した」
大長秋の言葉を遮って、皇帝は下女が運び込んだ簡易の席に座した。
「興味深い集まりじゃ。朕も聞きたいのう、よかろう?」
「無論、否やはございませぬ」
「続けよ――李信達」
「はっ……」
李岳は面を上げると真っ直ぐに劉弘に向かった。だが対して彼女は面すら上げることが出来ない。
見るからに顔が青ざめ始めていた。脂汗がしとどに流れ、顔のおしろいを酷く汚してしまっている。李岳が同じ質問を繰り返したが、それさえ気づかずに劉弘は呻いてばかりいる。
呆れたように帝は声をかけた。
「司空は十日前のことも忘れてしまうのかのう。そのような不甲斐なさで職務が務まるのかや?」
「そのような!」
「司空殿、陛下の御前でございますぞ」
無用な口答えを皇甫嵩が律した。うう、と呻いて劉弘はあたりを見回すが誰一人として目を合わす者はいない。
盛大にため息を吐いたのは皇帝劉弁である。こめかみを揉み上げると李岳を促した。
「埒があかぬな。李信達」
「はっ」
「思う節があるのであろう? 述べよ」
奇妙なことに、このとき李岳に最も期待を寄せたのは劉弘であった。
李岳の言葉がでたらめであれば生き残る道がある、と賭ける他なかった。なぜこのような急場でいきなり自らの命運が秤にかけられているのか、未だ理解しきれぬまま、劉弘は李岳を親の仇のような目線で睨む。
「十日前、司空殿は会合に出られましたな。劉岱、劉遙、張譲、段珪、田疇が同席していた。貴方はその場で一つの報告を受けた。大将軍、并州牧のお二方の暗殺が近々決行されることです」
「でたらめだ……」
「貴方はその際こう持ちかけられた。両名暗殺後の混乱を鎮めるために司空の名において混乱の沈静化を図るべし。董卓麾下涼州兵を速やかに解体し無力化すべし。そして」
「でたらめだ」
「そして、陛下の退位を粛々と進めるべく用意すべし、と」
「でたらめだ!」
泣き叫ぶような反論が劉弘から飛ぶ。だが李岳が持ち込んだ容疑の不遜さたるや口にだすのも憚られる! 臣の身にありて、玉座をすげ替えるなどと!
「ならば、その日は一体どこで何をしてらっしゃったのか今この場で明言されよ」
「……家で休んでおった。どこにも出歩いておらぬ」
絞り出したようなその一言が、李岳の欲しかった自白であった。全てを察しているとばかりに帝は李岳を促す。
「執金吾、証拠はあるのであろうな?」
「はっ。会合はおよそ一刻。劉弘殿、貴方はその日ご自分の屋敷に戻られなかったのです。場は劉岱の屋敷……貴方は輿を用いて劉岱の屋敷に入った後、一刻にわたって話し合った。そして結局一晩、出てくることはなかった……貴方が雇っている御者はじめ、使用人から裏は取ってあります」
一夜通して劉岱とどういう関係を持ったのか、李岳は言わなかった。それは確証の得られないことであるからだ。
劉弘は俯き震えている。李岳はその様子を侮蔑のままに眺めている。反論は聞こえてこない。一際大きなため息を吐いたのは帝であった。それがきっかけで正気を取り戻したのか、劉弘ははっと脂汗にまみれた顔を上げると、その場でひざまずき何度も叩頭しては皇帝に直訴した。
「陛下! この者は臣を陥れようと虚偽を申しておるのです! 臣は誓ってそのような不敬を働こうなどとは思っておりませぬ! そのような会合などに出たこともありませぬ! 臣は!」
その様こそが、何より雄弁な自白であっただろう。皇甫嵩は何かおぞましいものでも見たように目を細め、朱儁はこれみよがしに舌打ちした。
劉弁は、憐れむように目を細める。
「もうよい……」
「臣は!」
「よい、と申したぞ――!」
最後通牒には十分な声であった。
皇帝の声は龍の吠え声と表されることがある――まさにその吠え声に威嚇されたように、劉弘は肩を落としてその場に崩れ落ちた。
李岳が一声上げると、執金吾直属の兵士が現れた。そしてうなだれたままの劉弘を抱え上げて連行していく。ぶつぶつと呟き続けているようだが明確な言葉はなかった。頂点から一直線に奈落に落ちたようなものなのだ。現実感など皆無だろう。
その背中を最後まで見届けてから、李岳は口を開いた。
「臣は執金吾として、陛下の御身を御守し、敵を討ち、御心の平安を献じ奉ることが務めと心得ておりまする」
「執金吾はよくやっておる、并州牧もじゃ。朕は宦官が好かなんだ」
――その一言は、これ以上ない決着であった。
今ここで李岳を糾弾すれば、それは帝の言葉に異を唱えたことになる。しかも不敬を企てた劉弘の肩を持つことにもなりかねない。李岳と董卓は信任を得たのだ、玉声によって!
だがそれだけではない、劉弁は続けて号令した。
「劉弘を司空の位より解く」
勅命であった。続いて呼んだ名に、一同驚愕する。
「……董卓」
「はい」
ひざまずいたまま、董卓が一歩にじりよった。声を出さぬままに議場の雰囲気が緊張するのがわかる。帝の次の言葉もわかる。その場に居並ぶ多くの者にとって、その内容が決して容認できるものではないということもわかる。だが、はっ、と頭を下げる他に臣下にできることはない!
「そちが次の司空じゃ」
「……謹んでお受けいたします」
しんと静まり返った部屋であったが、李岳はざわめきをはっきりと聞いたような気がした。衝撃が走っている。静かだが、うねるような激動の瞬間である。涼州に生まれ、戦乱に翻弄された一人の少女が、とうとうこの中央で最高の地位の一つを手にしたのだ。
董卓、司空の座へ。
夕暮れの洛陽を眺めながら、李岳はやり取りを思い返していた。
廖化がもたらした情報の正確さは目を瞠るものがある。当然裏は取らねばならなかったが、大した労力などいらない。
事前に帝に対しても案内を出していた。描いた絵がそのまま動いた。大して難しいことではない。というより、最早董卓と李岳に抵抗できる勢力はこの洛陽にはいない。
元より勝ち戦だった。皇帝を保護した……その意味とはまさにこれである。皇帝に直接繋がるということは、このような圧倒的な権力を自由に用いることが可能ということを意味する。皇帝の声は最強の鬼札だ。それを現実に左右できる董卓の立ち位置は、かなり史実に沿った存在感を発揮しているだろう。
三公の座。それはこの漢における最高位と言ってもいい。宦官を討ち、皇帝を保護した者の名は董卓。今回の人事はその事実をこの中華全土に知らしめたことに他ならない。
「ここまでは想定通り、というところか?」
その声に、李岳はひざまずき平伏した。楽にせよ、という声がすぐにかかる。李岳は劉弁の隣に立つことを許された。劉弁は、どこか疲れたような声で李岳に言った。
「ひどい男じゃな。劉弘は見せしめか」
「はっ」
――劉弘はちょうどいい人材だったのだ。
大した後ろ盾もなく、飛び抜けて有能でもない……そして何より、司空という地位をぶら下げていた。
段珪の言葉を信じるならば、劉岱らとつながっていた者たちは他にも大勢いる。だがあえて劉弘を選んだのは、そろそろ董卓を中央の地位に据えるべきだと考えたからである。并州牧はもう返上してもいい。これからはより洛陽の中心で、より帝に近い位置にいるべきなのだ。
劉弘は、絶好の餌なのであった。他の者達はある程度泳がしておく。全てを芋づるで釣り上げることは諜報戦では下策だろう。
「これで董卓殿は司空の座を手に入れました。動きやすくなります」
「胆の弱い娘であろうに、拒まなんだか?」
「……月は変わりました」
そうか、と劉弁は答えた。あえて真名で答えたことで、どこか察するところがあったのだろう。やはり聡明だった。何一族はじめ外戚の権勢を嫌った権力者たちが、帝位をすげ替えるための理由として吹聴したに違いない。劉弁は異様なまでに人の心を読むことに長けている。決して暗愚などではなかった。
「劉弘はのう、幼い頃遊んでもらったことがある。宗室としても数えられんほどの傍流であるがな、可愛がってもらった……まぁ、内心何か含むところがあったのかもしれぬが」
「そのような……」
「命だけは助けてやれ」
「……はっ」
劉弁の声は弱い。その遊んでもらった身内が、見えないところで陰謀を企て、帝位を揺るがそうとしていたのだ。しかも自らの愛する妹を拉致した計画にも携わっているやもしれない。やりきれない思いでいっぱいだろう。
李岳はやおら話を変えた。
「ところで、一つお願いがあります」
「申してみよ」
「執金吾の任を解いていただきたく」
「わかった。次はどうする?」
「もう少し身軽な地位を頂きたく……さしあたり洛陽の外にて」
「どうした、羽を伸ばしたいか?」
いえ、と李岳は首を振った。
「戦乱が起きます。諸侯は立ち上がり、此度の我らの行いを横暴とそしり連合するでしょう」
ふふふ、と帝は笑った。乾いた笑いだった。
「……確実か?」
「確実です。盟主は恐らく汝南袁氏の頭領……袁本初。号令一下、名だたる名家名族、勇者智者が軍馬を揃えるでしょう。まさに古に云う合従軍です。そして……」
「そして、劉協がいる」
帝の言葉に、李岳はうなだれるように頷く他なかった。
――陳留王。
李岳の知る歴史とは明確な違いが発生している。はっきりと帝位継承の説得力を持つ陳留王がこの洛陽にいないのだ。そして彼女の居場所は未曾有の戦乱を企んだ劉岱らの手元にある。このまま何もせず囲っているはずがない。手筋はいくつもあるだろうが、存分に有効活用するに違いない。
つまり――
「劉協を帝に据えるか」
「……ありえます」
――正当な帝は劉弁ではなく劉協であると宣言し、東西真っ二つの戦いを巻き起こすのだ。
大義名分はこれ以上ないほどに確固とするだろう。李岳の知る三国志の『反董卓連合』より更に強力な布陣となるやもしれないのだ。
「忙しくなります。軍備を整え、防衛線を敷かねばなりません。こちらから攻めこむことは出来ないのです。四方八方より襲ってくることもありえます。申し訳ありませんが、執金吾はやや身重なのです」
「熾烈じゃな。負ければどうなる」
「漢は滅びます」
劉弁の沈黙は、李岳に先を促すものだった。
「群雄は確固に地位を求め、戦力を整え、地盤を強固に築くでしょう。俸禄を求めはするものの年貢は収めますまい。人を雇い、隊伍を整え我こそが王者だと競うように出兵を繰り返す。そうなればこの世界は疲弊し、国は斃れるでしょう」
「勝てるか?」
「勝ちます」
李岳の答えに答えることなく、劉弁は数歩回廊を歩いた。宮廷の頂上、夕日が眩しいまでに降り注いでいる。突き刺すような光だ。真っ赤に染まった楼台の、手すりにもたれかかるようにして、劉弁は全く違う話をし始めた。
「李岳。そなたには悪いことをしたと思っている。そちの母は朕のために死んだと」
ふと、丁原の顔が浮かび上がって李岳は唇を噛んだ。恨みがあるか、と言われれば、ある、と答える他ない。だが目の前の皇帝を恨んでいるか、と言われれば、否、と李岳は答えるだろう。何を恨めばいいのかすらわからない。悔いるというのなら、自らの未熟という他ないのだ。
「……いえ」
「すまぬ……ふふ、私は一体何をしているのだろうな。誰にも認められぬ帝じゃ。誰からも拒まれているというのに強引に帝位に着いた。妹の安寧を願って、泥をかぶるつもりでな。しかし見てみよ、この有り様を! 暗愚じゃ、阿呆じゃ! この劉弁が玉座にいるがために、それが原因でどれほどの混乱を生んでいるか! 劉協さえ失い、結局矢面に立たせている!」
一気にまくしたてると、皇帝劉弁は肩を落とした。
「違う、そちを責めているわけではない」
「いえ、臣が」
「そちはよくやった」
――違う! 劉協がさらわれない未来もあった! 自分がうまくやっていれば――まさかそんなことを言えるわけもなかった。
李岳はまじまじと目の前の女性を眺めた。この華奢な肩に一体どれほどの重圧がのしかかっているのか。悲しみを打ち明ける相手はいるのか。二人とも母を失った。そして二人とも、馬鹿みたいに自責にまどっている。そして孤独――李岳は、このときはじめて、目の前の少女に親近感を抱いた。
「陛下、臣の父は李弁と申します……申し訳ありません、僻地にて避諱せぬ不敬を」
「いや、よい。それでどうした」
「……先帝陛下にも、臣は同じ事を申し上げました」
途端、劉弁は弾かれたように李岳を見た。少女の顔が真っ直ぐに李岳の瞳に飛び込んできた。そこには皇帝でも、権力者でもない、一人の母を失った少女がいるだけだった。
「お母様が、お母様が? なんと?」
「……先帝陛下は仰られました。我が娘と同じ名だ、父を敬うように我が娘に仕えることができるか、と」
「お母様が……」
「先帝陛下は、陛下が玉座に着かれることを、一度もお疑いにはなっておられませんでした」
「……そうか」
劉弁の返答はか細く、聞き取れないほどであったが、万感が募っていた。見とれぬ憂いが、聞けぬ悲鳴が、流せぬ涙があった。このとき、李岳に去来した思いは最早天意という他なかった。
――ああ、この人を守ろう。
李岳はその場で、ひどく自然な心持ちで膝をついた。どうなろうとこの人を守ろう、と李岳は心に決めた。その衝動に理由はない。ただ、ここに居たまでなのだ、自分が尽くすべき主が。
父に尽くすように尽くす。忠と孝――その言葉の意味が、これ以上ない程の自然さで李岳に染みた。
天下激動す!
董卓は宮中に押し入り並み居る宦官を撫で斬りにしては洛陽を血で洗った! その暴虐により哀れ帝はその手中に堕ち、危険を察した劉岱と劉遙はあわや陳留王を東へと逃がす!
ここに天下の動乱は極まり、洛陽は董卓の圧政の元にひれ伏すことになった!
堂々と司空の地位を奪うや否や、兵を整え洛陽を恐怖に満たし、帝を思うがままに左右しその権勢を誇った! 麾下の軍団は我が物顔に洛陽を闊歩し、信任篤い李岳は毎晩自らが口にする高価な皿を砕いては淫蕩にふけった!
天に義があり、地に人よあれ! ここにおいて中華の混沌は極限に達し、各地に逼塞していた英雄たちがとうとう立つ! ある者はその忠義を捧げんと、ある者はその野望を遂げんと、ある者は自らの力を誇示せんと剣を取り、乱を鎮めんとして檄文を全土に発した!
董卓を討て! 大義は我らにあり!(劇『反董卓連合』の幕より抜粋)




