第百四十九話 愛は憎しみの果てに
短期で終結したにしてはあまりにも多くの血が流れた官渡流域の決戦。
袁紹の死によって戦いは決着したように見えたが、李岳軍はただちに次の行動に移る必要に迫られていた。
冀州未だ治らず――諜報集団『永家の者』たちがもたらした知らせによると、劉虞を頂点とした鄴の勢力は未だ民兵を組織し徹底抗戦の構えだという。実行部隊を率いていた大将軍袁紹の死とともに将兵のほとんどは李岳の下に降ったが、一部は劉虞の元にも糾合されたとのこと。
だが李岳が焦ることはなかった。大勢は決したと言って差し支えなかったからだ。
北では急遽戦力を統合した劉備軍が、北方に展開していた袁紹軍残党を猛烈な勢いで攻撃し始めた。それは李岳軍がいつどうやって袁紹軍本隊を撃破するか完全に見切っていたとでもいうような機の見定め方で、司馬懿でさえ舌を巻くほど。
方々に散っていると思わせた上で突如の集合、奇襲。繰り出される攻撃は全く効果的であり、袁紹軍はとうとう易京城に立てこもるしか手がなくなった。包囲するは諸葛亮、鳳統を従えた劉備軍である。李岳の助言を待つまでもなく、劉備軍は穴攻めを決行しただちに攻略に取り掛かった。公孫賛が誇った難攻不落の易京城は、それから数日も空けずに陥落の憂き目に遭うこととなる。公孫賛を裏切り程緒を殺し、易京城を実効支配していた閻柔は関羽によって斬り捨てられた。劉備軍は休息を取ることなくただちに南下を決断、鄴に向けて進軍を開始した。李岳軍と挟撃を目論みこの戦役での勝利を決定づけようとしていることは誰の目にも明らかであった。
――そのような情勢の中、曹操は軍の整備が完了すると官渡から撤退の旨を告げるために李岳を訪問した。
表向きは袁紹を斬ったことになっているが、実際は旧友を流したことを知る李岳。曹操の表情はどこか晴れ晴れとしているように見えた。
「約定と義務は果たしたわ。近々陣を払うつもりよ」
「兗州に戻るのか?」
「徐州まで向かう。呉との国境を片付けないと」
孫呉は徐州広陵に向けて北進し、未だ曹操軍と睨み合っているとのこと。実際には対李岳の決戦に備えて作戦を練っていると李岳は踏んでいるのだが、それは両者ともおくびにも出さなかった。
「貴方は冀州、そして幽州と北上を続けるわけね」
「まだ先は長いな」
「勝った。それだけなのだもの」
戦としてだけ考えた場合、袁紹を倒した時点でおおよその決着はついたと見ることが出来る。後は足元をすくわれないように慎重に事を運べば間違いは起こらない。いくら黄巾軍健在だとて主力は滅ぼしたのだ、内応も続くことを考えれば冀州と幽州の軍事的脅威は少ない。
問題は曹操の言う通り再平定という長い道のりだ。冀州も幽州も疲弊した。法を整え、官吏を整備し、田畑を手伝い実りがなったとて、税が納まるまで何年かかるだろうか。河北は戦乱に揉まれもはや肥沃な土地ではない。傷痕を癒すまで少なくとも五年はかかるというのが参謀の総意である。
その五年を李岳は待つつもりはなかった。そして曹操も。
「次に会うのはいつになるかな」
「それはわからないけれど、戦場であることは確かね」
その時は今のように隣り合って肩を並べるのではなく、二人は敵味方に別れ剣を向け合う形で再会を果たすだろう。この天下の行く末を決める決戦の舞台で。
思い返してみれば、共にお互いが終生の敵だと信じて疑ってこなかった。冬の酸棗からか、反董卓連合からか、西園軍の騒動からか、それとももっと前からなのか。だが揺るぎなき二つの思いを二人は共有している――尊敬と敵意という相反する二つが混じり合った、熱い何かを。
「……行くわ」
「ああ。お互い元気でまた会おう」
「ふふふ……ははは。笑わせてくれるじゃない! ええ、貴方こそ元気で!」
曹操は誇り高く優雅に振り返ると自らの陣営に戻っていった。訣別と布告は既に済んだとばかりに。
「返す?」
去りゆく曹操の背中を見送る李岳に、背後から呂布が声をかけた。
むざむざ返すのか、と――斬らないことを不思議に思っている声だった。
「ここで曹操を斬れば兗州と徐州の民は善政を敷いていた君主を騙し討ちしたとして強く反発するだろう。その余波は全国に行き渡る。荊州も益州も不安になる。涼州も軍事を整えるだろう。そうなると?」
「面倒くさい」
「そういうこと」
しかし、そうだとしても曹操を斬った方が有利だということはわかりきっていた。けれど曹操との戦いはこの世界の行く末を占うものだ。曹操を正面から打倒できない者に、未来を決める資格はない。また気高いことでもないだろう。
「それに、斬るべき者はまだ他にいる」
呂布は李岳が誰のことを指しているのかすぐにわかった。李岳の因縁、その源流に立つ女が残っている。呂布は背に寒気を覚えた。李岳の憎悪が伝わったからだった。こんな李岳は呂布が知る限り二度目である。呂布を侮辱した匈奴の男、呼廚泉を斬ったあの時以来の。
――二十日の間を置き軍の再編を完了させると、李岳の号令一下隷下の軍勢は一挙に河水を渡河すると鄴へと突き進んだ。
抵抗はまばら、一度の野戦も経ることなく軍勢は目的地へとたどりつくことができた。黄巾の残兵は籠城戦に全精力を振り分け死守の構えということらしいが、理由はそれ以外にもあった。包囲戦は既に開始されていたからである。
李岳が馬を進めると、城を囲む軍から一団が現れて出迎えた。関羽、張飛、諸葛亮に鳳統を従えた劉備であった。見ればいつかの華やかな服装でもなく土色の地味な服装に身をやつしていた。それはきっといつでも民に扮して逃げ出せるようにという備えだろう。遊撃戦術を駆使して戦い続けた劉備の変化である。
再会を喜ぶよりも前に李岳は聞いた。
「その目はどうされたんですか」
「えっ!? あっ、これですか。ちょっと転んじゃって、あはは」
包帯を斜めに巻いた左目を押さえながら、劉備は恥ずかしそうに笑う。
「殴られたんです」
「雛里!」
「お久しぶりです、冬至さん」
あわわ、と首をかしげながら挨拶をする鳳統。もうすっかり照れて縮こまるような様子は見えなかった。背はあまり変わっていないように見えるが、堂々たる雰囲気に人として大きく成長しているということはよくわかった。
鳳統の言葉に李岳は驚きを隠せなかった。
「殴られた? 劉備殿が?」
「はい。講和説得の場で……よくあるんです、そういうことは」
劉備は打ち崩した敵兵に対して必ず講和を説いたという。争いのやめ時であると話し、手を取り合おうと――それがどんな場面であれ。
「いや、あの、ちょっとぶつかっちゃっただけだから。全然こんなのへっちゃらだから」
「ですが、それは……」
昨日今日の傷ではなかろうが、腫れは大きく片目はほとんどふさがっているようだ。真正面から真っ直ぐ拳を受けなければこうはならない。
劉備は眼前で暴力に訴え出る相手に、一歩も引かずに拳を受けたのだ――なぜか李岳にはその場面が目に浮かぶようだった。
「……それくらい民の皆さんは辛い思いをしてきた。もう一度信じてくれと言っても、すぐには受け入れられないくらい。失ったものが多すぎるんです。だから、仕方ないんです。でももう全然だいじょうぶです!」
ムン、と二の腕を見せながら強がる劉備をハイハイと押し止める関羽と張飛。注視すれば他にも傷はあるかもしれないが、李岳にはそれ以上探るような目を向けることは出来なかった。
「あまり柔肌を見せようとしてはなりませぬぞ姉上。李岳殿も困っているではないか、なぁ?」
「関羽殿、張飛殿もお元気そうで」
「……枳棘叢中鸞鳳の住む所に非ず、という言葉がわかるか」
突如投げられた関羽の言葉に、李岳は束の間考えてから答えた。
「……鸞鳳のような立派な鳥は、あえて険しきところに住むことはない。転じて立派な人物は良き場を選ぶという意味ですよね、関羽殿」
「うむ、私はそういった。だがこの姉上は全く話を聞かんのだ」
「だって鳥さんじゃないんだもん!」
「そうなのだ! 鳥さんじゃないのだ! 姉ちゃんみたいな立派なおっぱいを持った鳥さんなんていないのだ! どっちかっていうと豚さんなのだ!」
「鈴々ちゃん! 言っていいことと悪いことがあるよ! ごはん抜き! 本気も本気も超本気なんだから!」
「ああもううるさいではないか! まったく! どれだけ苦労しても一向に落ち着きを得ない! いい加減にせんか!」
その三人の押し問答をかいくぐるように現れたのは、諸葛亮。
「お三方が失礼を……李岳様」
「お久しぶりです諸葛亮殿……なに、元気が一番です。本当に、それは間違いのないことですから」
「三人とも、なんだか照れくさいんだと思います。だからあんな……はしゃいじゃって。でもすごいんですよ。桃香様なんて殴られた後に『お腹空きましたね』って。お腹空いたからイライラするんです、って。そして軍の食料で宴会を始めちゃうんです。相手も呆れて最後には笑顔で笑いあうんです」
はわわ、とやはり鳳統と同じように言葉と裏腹に落ち着いた様子で諸葛亮は李岳に微笑む。
劉備は関羽と張飛に引っ掴まれたまま、えへへと笑って言葉を続ける。
――劉備一行は拍子抜けするほどたやすく笑う。その労苦は想像するだけで途轍もないことだというのに。
事実、劉備に協力を申し出たのは普通の民だけではなく、異民族も多かった。その中の筆頭が鮮卑族、率いるは軻比能という男だったと李岳は聞き及んでいる。田疇の術中にはまり、劉備を暗殺せんと目論んだ鮮卑族の少年が今や劉備を支える柱の一本にまでなったという。北方の抑えのためにここには来ていないとのことだが、あれほど憎んでいた劉備を支えるに至るとは李岳も考えてはいなかった。
あらためて劉備という少女を見て、李岳は大きなため息を吐いた。
敵地の真ん中で補給もままならない中、一人また一人と協力者を増やしながら戦うことの凄まじさ。一つ一つの説得その全てが命がけだったろう。誤れば即ち死につながる日常を三年間続けることなど誰に出来よう。離脱することもやめることも出来たはずが、それをしなかった。戦った。しかし命を諦めなかった。殺めた相手の気持ちさえ担っていると信じさせるその人柄を慕って多くを従え、とうとう勝利してここにいて笑う少女。
李岳の知る史実とは違えど、それは間違いなく偉業であった。
「皆さん、本当にご無事でよかった。私は」
「あー! 待って待って待って! まだ紹介したい人がいるんですよ、ほら、ほらほら早く」
劉備の手招きに従い、背後から現れたのは騎馬だった。乗っている者には片足がない。しかしその風貌にはいささかの翳りもない。
凛とした風、鋭く爽やかな初春の泉のような静謐な気をたたえた少女だった。
「そんなに見つめてどうした――冬至? なに、幽霊や鬼神ではない。足も片方残っているであろ?」
「……美兎」
「ああ、やはり――お前が私の真名を呼ぶ響き、好きだ。ようやく聞けたな」
味方を犠牲にするという李岳の鬼策により重大な負傷を持った少女――楼班。生死の淵をさまよい、立つも座るもままならぬ生活を経てようやく馬に乗ることがかなうようになったのは近頃のことである。実際は未だ長駆は無理といわれていたが、絶対に駆けつけるのだと霊剣『大精霊』を振り回して従軍を果たした。今もまた冷や汗を流しているが、それは決しておくびにも出さない。
「美兎、俺は、君に」
「そうだな。勝利の知らせをまだ聞かせてくれていない。不満だ。許されぬことだ。そうだな?」
「……ああ。全くだ」
「聞こうではないか。あの城を落とし、劉虞とやらを斬り捨てれば憂いはないと聞いている。我が友よ。再会の喜びは勝利の祝宴まで待とうではないか」
――楼班の激励があったことも含まれてか、固く閉ざされた鄴城を前に陣を敷いて数日の滞在中、永家の者たちは早くも城内の情報を入手することに成功した。元は黒山賊を主体とした隠密部隊が永家の者たちである。被害を最小限にとどめたとはいえ根城であった黒山を焼き討たれた恨みは深く、廖化指揮のもと凄まじい働きを見せた。
調略から戻った者たちは口を揃えて言った――民は皆、黄色い巾を振り乱しながら民は天に祈り劉虞に向かって伏し拝んでいる、と。
張角、張宝、張梁の三姉妹の歌を口ずさんではそれが天意に届くと信じているようだ。これほどの苦境であろうと――だからこそ、民は劉虞という聖人が起こす奇跡を信じている。
「おっぞまっし! うち無理や……めちゃくちゃキモいやんそんなん!」
ぞわぞわと身震いする張遼と違い、李岳は祈るしかない人々の心を慮った。力もなく、地位もなく、展望もない人々には時に祈りしか残されないことがある。田疇は劉虞を戴く過程で民に夢を見せた。不要に苦しむことはなくなるのだと、民の命運を天に左右されることはなくなるのだと説いた。人々はそれを信じ、初めは成功を垣間見た。
田疇も袁紹も亡き今、その夢を未だ見せ続けているのが劉虞。黄巾三姉妹はその道具に過ぎない。
――李岳だけが知る歴史の齟齬。そのこじれた糸を解きほぐそうと戦ってきた。残された最後の結び目が劉虞である。指で丁寧にほぐすにはあまりにも血が流れすぎ、こびりつき凝固している。悪夢の結び目は剣で断つ。その決意が揺らぐことはもはやない。
万民が見たこの狂った夢を醒ますには、おぞましいまでの現実を突きつけることでしかなし得ない。
内応の用意は万端であると、廖化が告げたのは包囲から十日を数えた朝だった。李岳の暗い瞳の色に気づいたのは、司馬懿と呂布だけであったろう。
劉虞の玉座にはいつも花が活けられていた。
季節の花、路傍に咲く花である。はじめは下働きの陪臣らによる心遣いだったが、ある日街路で劉虞に花を手渡した少女が現れ、それからというもの市井の者たちからの献上が後を絶たなくなった。
赤、黄、薄紅に白。色とりどりの花が部屋を埋め尽くしている。劉虞にはその価値がわからない。だが受け入れないということはなかった。枯れる直前の腐臭に似た花の香り。劉虞はそれに包まれて玉座で微笑む。
――劉虞に何かを好むという感情はなかった。同時に何かを嫌うということもない。
人が求めることに己がある。全てを受け入れ肯定することこそが愛。それを一片の躊躇なく行えることこそ人徳であると物心がついた頃から知っていた。
不思議なことであるが、劉虞は物心ついた時分より他者が何を考えているのかおよそ理解することが出来た。
人の心を読むなどというと神通力か妖術のように思われるが、そうではなく、人の持つ所作や雰囲気を過敏に感じ取り、それを理解する術に長けているのだと本人は理解している。劉虞はそれを生涯口にすることはなく自明のものとして振る舞ってきた。
初めは素朴な欲求であったろうが、劉虞は人が求めるところをなそうとした。そうしているとやがて聖徳を持つものとして名が広まり、際限なく応え続けるうちにとどまる所を見失った。劉虞は人が求めるがゆえそう在ろうとした。そこに善悪の区別などなく、人の生き死にでさえ些末なこととしか考えない。劉虞自身に望むものはなにもないのだから。ゆえに劉虞は与え続けたのである。
田疇が求めたがゆえに、袁紹が求めたがゆえに、黄巾が、民が、世界が――
己が美しいことをしたのであればそれは周りが美しくあれと望んだからであり、おぞましい程に醜いのであれば世界が汚れよと念じたからに過ぎない。その評価でさえ劉虞自身が望むものでない以上、元より関知しようとさえしなかった。
だがもし、狂おしいまでに望むものがあるとすれば……
「李岳軍! 南門を破壊! 城内になだれ込んできます!」
兵の叫び声に劉虞は微笑む。鄴城の南面を向く中陽門が叩き壊され、そこから無数の軍兵がなだれ込んできたとしても劉虞はそれを受け入れる。殺戮の音が聞こえる。劉虞は微笑みながらそれに耳を傾けた。劉虞と黄巾三姉妹を守らんと粗末な武装で健気に立ち向かう民と、それを一顧だにせず斬り捨てていく李岳軍の怒声にも似た声が和合してはひび割れていく。劉虞がそれを強いたことなど一度もない。そう望んだからそうせよと言っただけに過ぎない。響き渡る断末魔は願いが成就したことを寿く歓喜の歌として劉虞の耳には届いていた。
やがてその歌さえ静まった頃、劉虞は瞳を開けた。玉座に押し入る小柄な少年。芳しい血の香り。穏やかにあらんとする苦しみ、それを否定する激怒の熱情、悲鳴のような願いの声! 腹心の呂布と司馬懿を引き連れて、李岳は劉虞の眼前にとうとう辿り着いたのであった。
劉虞は打ち震えるように喉を鳴らした。
「お待ち申し上げておりました」
「劉虞……!」
「ああ……」
――その憎しみを欲していた!
劉虞は立ち上がり両手を広げた。歓喜とともに己が半ば気をやっていることにようやく気づいた。究極の地位にある者のみが着ることを許される皇衣を引きずりながら、愛惜するように懇願する。
「李岳様、さぁこちらへ!」
抜剣し――なんと既に血をしたたらせているではないか――李岳は迫った。劉虞の首を左手で掴み、その体躯に似合わぬ力強さで体を吊り上げた。鬱血、窒息のために地上で溺れながら劉虞は恍惚とする。憎悪に歪んだ李岳の表情があまりにも愛しい。
そのまま全てを与えてくれても良かったというのに、李岳は劉虞を汚らわしいもののように地に投げ捨てると言った。
「貴様は……貴様は何が望みなんだ。何がしたい!」
「何も」
咳き込みながら劉虞は答える。
「朕は、朕は受け入れるだけ……求められたように振る舞うだけ。皆が皆、朕を……私を愛してくれたのです。皆の愛に応え、振る舞ったのみです」
ああ、と劉虞は物欲しそうに李岳に手を伸ばした。李岳は劉虞の仄暗い情念に束の間気を取られ、身動きが取れずにいた――呂布がその手をはたかなければ、李岳は不用意に抱きしめられていたであろう。魔性とも言える劉虞の、言葉では言い表せぬ魅力に李岳は今更のように気づき一歩あとずさった。
「あら。惜しい。もう少しで触れ得たのに」
「う、受け入れただけだと?」
「生来、私はなぜか人の心がわかるのです。私に出来るのはそれだけ。人が望むものを与えてきただけ。それを繰り返していると、やがて人徳の持ち主と呼ばれるようになったのです。それだけなのですよ? ですから私、貴方様の心もわかるのです」
それが狂気であればどれほど良かったろう。しかし劉虞の正気がいささかも損なわれていないことを李岳ははっきりと理解した。そして嘘をついていないことも。劉虞の正気を疑うには、李岳の出自はあまりにも特異であったから。
「……俺の心など貴様にわかるわけがないだろう」
そういう他なかったのである。しかし震える李岳の瞳を見つめて劉虞は微笑む。
劉虞は座り直すと床に指を突き、恭しく申し出た。
「――貴方様は全てをやり直したいとお考えである」
李岳の瞳が初めて動揺で震えた。劉虞はおもてを上げて笑う。
「己に対するとても強い嫌悪の心が貴方にはあるけれど、それをまた良しとしている。己は誰にも愛される資格ないのだと……憎まれたいとさえ考えている。間違ってばかりの自分を許せないのですね?」
呂布が驚いたように李岳を見るが、李岳はそれにも気づかず固く唇を引き結んで劉虞を見る。
「……この期に及んでそんなことを。何か意味のあることでも言ってみればどうだ」
「私は貴方の目的を果たすお手伝いをしたいと思っているに過ぎません。やり直したいという願いを叶えることはできませんが」
李岳の沈黙を劉虞は肯定ととらえた。
「憎まれたいという望みを叶えて差し上げたいのです」
「……貴様」
「袁紹を倒しても何一つ変わらないとお考えでいる。民の皆々が呪われていると思い、それを解きたいと考えているのでしょう? そして方法は既にわかっておいででしょう? でも躊躇われている。一つは私を哀れんで。もう一つはあまりにも大きな反発がために」
劉虞は歌うように続けた。城中から響き続ける民の懇願の声と調和し、声は旋律をまとった。
「でもお心は既にお決めにもなっている。貴方という人は本当に不思議なお方……決めているのに迷い、どうにか救おうとしながらも諦め、より一層己を責める道を歩こうとしている。どうにかもっと自分を痛めつけたいとでも言うみたいに」
「そんな趣味はない」
「ええ。けれどそれが償いだと信じてもいる」
惑うようなわずかな沈黙の後、李岳は劉虞に歩み寄ると手首を掴んだ。
「来い」
「いずこなりとでも。ええ、そう! いずこなりとでも!」
李岳は劉虞の手を引いて王宮の外へ向かった。外には無数の人間がひざまずき祈りを捧げていた。それは劉虞の助命嘆願を乞うものだった。李岳と劉虞の姿を見るや否や、民衆は大声で泣き叫びながら祈った。
李岳は一つ大きなため息を吐くと、握っていた手を離して劉虞の髪を掴んだ。冠が無様に転がり落ちて長い髪が振りほどかれた。何万もの悲鳴と非難が上がる。嘆願が天を衝く。泣き叫ぶ声が城を満たし、城壁を叩いて反響しながらうねりとなった。
「李岳様……我が真名をお受けください。私は金蘭。金蘭ですのよ」
「断る」
「ああ。なんとご無体な……真名さえ与えてくれない! ひどすぎる! 喜びが……喜びが! この体の裡より溢れて参ります! さぁお断ちください、その無骨な刃でこの首を! この金蘭の首を刎ね、物語を終えられませ! そして全てを貴方様の望むがままとするのです!」
「劉虞……お前というやつは……お前という人は!」
李岳に組み伏せられ、足蹴にされ、地に頭をこすられながら剣を突きつけられている劉虞。それら全てを歓喜のうちに受容しながら、涙を流して女は言う。
「こうとしか生きられなかったのです。哀れみください。ですが幸せでした。最後はこんなにも憎んでもらえた。愛よりも、それはなおはっきりしたものでした。我が血を浴びた貴方が一層の非難を受け、望むままに憎まれることをお目にできないのが、ただ一つの心残りでございます」
「……お前は」
「おやめくださいまし。最後まで憎み、嫌って? それで良いではありませんか。後生ですから。いいえ、でも話しすぎましたね。私の過ちでございます。さぁ、お斬りあそばされませ。私は死後に迎える闇の褥で、貴方の本当の望みがきっといつか叶うことを願っております」
劉虞は悪であった。李岳は自らに思い込ませるようにそう大声で念じ、剣を振り下ろした。血が舞い、その身体が震えたのちに跳ね跳んだ首が舞う。穏やかに微笑んでままの劉虞はそのまま街に落下し、民の伸ばす千手の海に飲み込まれていった。
怒りと悲しみの沸騰する巨大な坩堝と化した鄴の城内。万民に己が顔を決して忘れるなとしばし睥睨したのち、李岳は宮殿に踵を返した。
「冬至様……」
「まだだ、まだだ如月」
劉虞の死に憤慨し、悲しむ民の声。それはただちに騒乱なって軍との衝突に発展したが、李岳は焦ることなく呂布と司馬懿を従えたままある場所へと向かった。それは劉虞が鎮座していた玉座の奥、廖化の手の者たちが掴んでいた場所――黄巾三姉妹の居所であった。
三人は当初の情報の通りの部屋にいた。部屋の隅で肩を抱き合いながら闖入者である李岳を見て震えている。
李岳は怯えを見せる少女たちにすたすたと近寄った。張角、張宝、張梁の三人の娘たちはそれぞれ死を覚悟し、死を信じられず、死なぬように知恵を巡らせている。その表情があまりにもわかりやすくて李岳は笑う。
――李岳はもはや全てを知っていた。己が知る史実と違ってこの三人の娘たちはただの芸人であり、歌と踊りを人に披露することしか考えていなかったということを。しかし多くの人を魅了するその歌声や踊りが田疇にとって都合のいいものであったこと。黄巾をまとわせ、規律に従わせ、軍を組織して剣を取らせたことにもさして考えることなく指示に従っていただけのことを。
田疇亡き後、残された巨大な黄巾軍という組織を前にして為す術なく途方にくれていた時に手を差し伸べたのが劉虞であり、唯々諾々と従っていただけに過ぎないことを。
李岳は張角の胸ぐらを掴むと力任せに引き寄せた。
「貴様らは」
「きゃっ、いやっ」
「俺の目を見ろ――貴様らは、何も考えずにただ言われるがままだったというのだな?」
振るわれる暴力を拒むように、両手で顔を覆いながら張角は首を縦に振る。
「言われるがまま、考えることを放棄すれば残酷な仕打ちをしても許されるのか? 責任がなければ罪はないとでも?」
「だ、だって、だって!」
「貴方だって!」
割って入ってきたのは張梁だった。眼鏡の奥に姉を守るという強い意志をたたえながら、懸命にしがみつく。
「貴方だって人を殺しているじゃない! 残酷な仕打ちだってしているじゃない!?」
「……張梁殿」
「田疇を、殺したじゃない! けれど、私は諸葛亮を返した!」
田疇を斬ったあの夜。諸葛亮を救う手立てを張梁を阻まなかった。計算でも計略でもなかったが、張梁がすがるよすがはもうそれしか残されていなかった。
「そうです。私も殺した。殺させている……殺し、殺させ、それに報いるためにまた戦っている」
「私たちも……殺したくて、殺したかったんじゃない……」
「そうですね。私の仲間も皆そうです」
李岳は張角から手を放し、その場に膝をついた。座り込んでいる三人娘と目線を合わせて言葉を一つずつ区切りながら言う。
「悲しんでもいい、恨んでもいい。しかし自分の不始末を誰かのせいに押し付けることだけは許さない……」
「な、なんでもするわ。取引ならなんでもする! だから、だから!」
滅多なことさえ口走ろうとする張梁を制して李岳はいう。
「生涯かけての罪滅ぼしを」
一人ずつ、目を合わせて李岳は続けた。
「今からお三方には戦ってもらいます。自らが蒔いた種なんだから文句は言わせない。種は育ち、花を咲かせ、香りで人々を狂わせた。実は傷み腐臭を漂わせている。自身で刈り入れなくて何とします」
「……何をすれば」
「歌を」
なぜなのだろう、と張角は思った。しがみつく張宝と張梁の手の隙間から覗く李岳の瞳は濡れている。勝者の命令ではなく、まるで敗者の嘆願のように李岳は 希っている。
「平和で、穏やかな歌を。争いは誤りだったと省みる歌と、死者を悼む踊りを。冀州と幽州のあまつちと人に捧げて欲しいのです。貴方たちは聞こえはいいが対立を煽ることばかりしてきた。これからは耳に痛くても融和を説き続けるのです」
「……それが、私達の戦いなんですか?」
李岳はやはり、すがりつくように言った。
「……歌や踊りが、平穏を願うものでなくてどうするんです」
――鄴の陥落を持って冀州、幽州の支配が再び漢に帰することになったという見解は、おおよその史家の見識が一致を見るところである。劉虞の処刑、黄巾賊の頭目であった張角、張宝、張梁の降伏により冀州の騒乱は完全に終焉を迎えることになる。それは公孫瓚が北斗七星の牙門旗をかざして南下を決行してから四年後のことであった。以後、幽州牧に公孫越、冀州牧に劉備が任官を受けることとなり善政に励むこととなる。
冀州、幽州の人心の安定に一役買うことになるのが張角、張宝、張梁の三人であった。騒乱の中心人物と思われていた三人はまるで乱れた天地を鎮めるように歌と踊りを捧げ、荒廃した世相を安寧に導くために生涯を捧げることになる。
しかし失われたものはあまりにも多く、帰らぬ人もまた多かった。三人の歌はその嘆き、悲しみを内包するうら寂しいものもあったが、どこか暖かく人の心を包むとまるで望郷の念にかられるように人々の口の端に上ったという。
ただし、全ての恨みが溶けてなくなることなどありはしない。
冀州、幽州の民らに残った遺恨はただ一人の少年に向かうことになる――本人がそう願った通りに。
そして戦乱が治まり天地が安まるにはまだ尚早、未だ覇王を志す英雄は死せず、野心は煌々と燃えていた。
最後の決戦は、刻一刻と近づいていた。




