私の名前はマルティナです。下級貴族の令嬢ですけれど。
私は社交界などにはあまり興味は持てなかった。
男爵令嬢の私は、社交界ではほとんど最下層と言ってもいい。何年か前に、お姉様が社交界に入ったときのことをよく覚えている。
お姉様は何度か茶会や夜会に参加されるようになって間もなく、突然塞ぎ込むようになり、ついには自室から顔を出すこともなくなった。
「下級貴族の娘に生まれるくらいなら、平民のほうがましよ」
それが、私が聞いたお姉様の最後の言葉だった。それ以来、お姉様の顔は見てもいない。
私が15歳になると、お父様がどうしてもというので、私も社交界に参加するようになった。
姉が社交界で良縁に恵まれなかったので、お父様は焦っているのかもしれなかった。下級貴族が這い上がるには、より高位の貴族との関係を築くことが必要らしい。
姉の言葉が脳裏をよぎり、初めての夜会は恐る恐るの参加になったが、右も左もわからない新人貴族令嬢の私に、周りの方々は予想以上に気を遣って話しかけてくださり、初めての夜会は楽しいものになった。
侯爵令息のジークベルト様という方ともお知り合いになった。まだ将来のことなど話すような仲ではないけれど、とてもお優しい方で、私のことを気に入っていただいているのでは、とちょっとだけ思った。
そんなこともあって、お姉様の言葉もすっかり忘れていたのだけれど、夜会に参加するのも3回目くらいになると、少しずつ自分の身分を意識せざるをえないことも起きてきた。
「あら、マリアナさん。ごきげんよう」
公爵令嬢のイゾルデ様が声をかけてくださった。
けれど、私の名前はマルティナだ。
毎回お会いしているのに、いまだに名前を覚えていただけないということは、きっと私はその程度の人間だと思われているのだろう。
まあ、気にしないけれど。
近くで、伯爵令嬢のマルガレーテ様が目に入った。マルガレーテ様も、以前から夜会では私にお声がけくださる方だ。
「マルガレーテ様、ごきげんよう」
私は声をかけた。けれど、マルガレーテ様は他の方に気を取られているようで、私に応えてくださらなかった。
「あの……マルガレーテ様……」
そのとき、ようやくマルガレーテ様は私に気がついたようだった。
「あら、いらしてたのね。えっと、マリアナさん。ごきげんよう」
私は少し顔が引き攣ってしまっていたかもしれない。マルガレーテ様も私の名前を間違えた。しかも、イゾルデ様とまったく同じように、「マリアナ」という名前で呼んだ。もしかしたら、お二人の間で、私のお話をしていたのかもしれない。それで、お二人は私の名前をマリアナだと勘違いしているのだ。
「私は忙しいので、またね。夜会を楽しんでね」
そう言って、マルガレーテ様は別の貴族令嬢のところに行ってしまった。
私を相手にする優先順位は低い、ということだろう。それはそれで仕方ない。
私がひとりで所在なげにしていると、こちらを見ている方がいた。
あれは……ローレンツ・エーレンベルク侯爵。若くして侯爵となり、整った顔立ちをした男性だったが、性格に難があると噂されている方だ。
私を見るその視線もずいぶん冷ややかだ。私が目障りなのだろうか。
そこに、また別の方が声をかけてきた。
「やあ、マリアナさん」
振り返ると、侯爵令息のジークベルト様だった。
まさか三人も続けて同じように名前を間違えられるとは……。しかもそれが、私に好意を持っているのではないかと思っていたジークベルト様だったのが少し寂しかった。
「あの……私、マルティナです」
私がそう言うと、ジークベルト様はきょとんとした顔をした。
「そんな名前だったか? それにしても今日も同じドレスとは……」
私は顔が熱くなるのを感じた。
男爵家はお世辞にも裕福とは言えず、お父様は私を無理やり社交界に行かせはしたものの、夜会用のドレスはお姉様のお下がりが一着しかなかった。だから私は、毎回同じドレスを着るしかなかったのだ。
それを、よりによって男性から指摘されるとは、恥ずかしくて仕方がなかった。それなりにお気に入りでもあったその淡い水色のドレスまで、何だか恨めしく思えた。
それと同時に、私の名前すら覚えていなかったのに、なぜいつも着ているドレスは覚えているのだろうか、と納得がいかない気持ちにもなった。
「どうだ、一曲踊らないか?」
ドレスのことを指摘しておきながら、ダンスに誘う気持ちがよくわからなかったが、侯爵令息に誘われて断るのも何か憚られた。
社交界に入っていく前の準備として、基本的なダンスは男爵家で習っていた。それでも夜会で男性の方と実際に踊るのは初めてで不安もあったのだが、私は頷いていた。
最初のうちは、最低限のステップは踏めていたと思う。けれど、突然ジークベルト様にぐいっと手を引っ張られた。慌ててついていこうとしたのだけれど、そのまま足がもつれ、あえなく転ぶことになった。
「なんだ、ダンスも踊れないのか」
ジークベルト様は転んだ私を見下し、そう言い捨てたかと思うと、それ以上は何も言わずに私から離れていってしまった。
周りからクスクスと笑う声が聞こえたが、私は周りを見る余裕もなかった。
「ダンスも満足に練習せずに夜会に来ているのかしら?」
「せっかくジークベルト様がお誘いしたのに、何だかジークベルト様がかわいそうだわ」
「何だか安っぽいドレスね」
そんな声ばかりが耳に入ってきた。
恐る恐る顔を上げると、あのローレンツ侯爵がまた冷ややかな目で私を見ているのに気づいた。
ただただ、恥ずかしかった。
※
男爵邸に帰宅してからも、夜会での失態が頭から離れることがなかった。
思い返すたび、恥ずかしさで顔が熱くなった。
お姉様が社交界で疲弊し、「下級貴族など平民より不幸だ」と言っていた意味が少しだけわかった。お姉様は私よりもずっと繊細だったから、きっと耐えられなかったのだと思う。
けれど、私は違う。
男爵家の未来がかかっていることもあるが、下級貴族だからと、ばかにされるのが悔しかった。
お金がなくともドレスに工夫を加えることはできるし、ダンスだってもっとしっかり練習すればいい。名前を覚えてもらえないなら何度でも名乗るし、お話についていけるよう、教養だってもっと身につける。
あのローレンツ侯爵にだって、私を認めさせてみせる。
「マルティナ、夜会はどうだった? お知り合いになれた貴族の方はいたか?」
お父様が、期待と不安の入り混じったような表情で私に声をかけてきた。
「はい。皆様、ご親切で、お知り合いの方もできました。マルガレーテ伯爵令嬢ですとか、イゾルデ公爵令嬢や、ジークベルト侯爵令息も」
私が答えると、お父様の顔がぱっと明るくなった。
「それはすばらしい。ぜひ良縁に恵まれるといいな」
ところが、お父様はすぐに真剣な顔に変わった。
「マルティナ、良かれと思っておまえに社交界に入ることを勧めたが、もし嫌なことがあれば、やめてもいいからな。高位の貴族に取り入ろうとせんでもいいし、男爵家のことも気にせんでいい。おまえを幸せにしてくださる方とお付き合いすればよい」
その言葉が私には意外だった。
お父様は男爵家のために、私を社交界に入れたのだと思っていたから。
けれど、それ以上にお姉様が社交界で傷つけられてしまったことを後悔されているのかもしれない。
「はい、お父様。ご心配なさらないで。今夜も悪くはなかったですけれど、次はもっと上手くやりますわ」
私は努めて明るい笑顔を作った。
※
私は、また夜会の場にいた。
今度こそうまくやろうと息巻いていた。
少しでもいつもと違うドレスに見えるよう、夜なべもして、ドレスの裾と襟にレースの装飾もつけた。
「あ、マルガレーテ様! マルティナです!」
マルガレーテ様を見つけた私は、元気よく声をかけた。名前も名乗りながら。
ところが、マルガレーテ様は振り向こうともしなかった。
「マルガレーテ様、マルティナです! ごきげんよう!」
私が再び声をかけると、ようやくマルガレーテ様は振り向いた。
「うるさいわね、大声で。わかっているわよ。マリアナさん」
その顔は不機嫌に歪んでいた。そして、やはり名前を間違えた。
もうマルガレーテ様にとって、きっと私はマリアナなのだ。
「あの……私……王立劇場の新しい演目の記事を読んだのですが……」
私はそれでもお話をしていただこうと、昼間に読んだ記事の話題を持ち出した。
「何? 唐突に。マリアナさん、あなた演劇を観たの? 観ていない演劇の話など聞きたくないわ」
私には演劇を観に行くお金も時間もなかった。だからせめて高位貴族の方が観ていそうな評判のよい演劇の話を勉強したのだが、それが裏目に出てしまったようだった。
マルガレーテ様は、それ以上私に向けて口を開くことはなく、別のご令嬢と談笑していた。
「また同じドレスか……」
そこに先日も聞いた言葉が耳に入ってきた。
振り返ると、やはりジークベルト様だった。
「いや、少し違うのか。まさか少し手を加えれば、違うドレスだと思われるとでも思ったのか? 貧乏くさいな」
そんなことを言われて、また顔が熱くなった。
必死で苦手なお裁縫をしたというのに、恥ずかしさと悔しさが込み上げてきた。
けれど、私はすぐに気持ちを切り替えた。
今日こそ、ダンスはしっかり踊ってみせる。
私は挑むように視線をジークベルト様に向けた。
「何だ? 俺と踊りたいのか? 冗談だろう? おまえの下手な踊りでは、せっかくの夜会の興が冷める」
そう言って、ジークベルト様は足早に遠ざかっていった。
まさかの事態に私は途方に暮れてしまった。
ふと、誰かが見ていることに気づいた。
また、ローレンツ様だ。
やはりあの冷ややかな目で、私を見ていた。
まさか、と思った。
ローレンツ様が、私にいじわるをするよう、マルガレーテ様やジークベルト様に指示しているのだろうか。
あの冷ややかな目の奥で、私を嘲笑っているのだろうか。
「きゃっ」
そのとき、呆然としてただ立っていた私に、どなたかがぶつかってきた。さらに、その方が手に持っていたワインが、私の淡い水色のドレスにかかり、赤い染みが広がっていた。
ぶつかってきたのはイゾルデ様だった。
「なぜぶつかってくるのよ!」
ものすごい剣幕で、イゾルデ様が怒鳴った。
「えっ……」
私はじっと立っていただけだ。私からぶつかるなんてことがあるはずがない。
「えっ、じゃないわよ。ぶつかっておいて謝りもしないなんて、どういうこと?」
周囲の貴族の方たちが、私に非難の視線を向けているのがわかった。
「これだから下級貴族は……」
「男爵家では礼儀も教われないのね」
「迷惑だから、夜会に来ないでほしいわ」
誰も、イゾルデ様のほうからぶつかってきたなどとは思いもしていないようだ。
社交界は、そういうところなのだ。
より高位の貴族が正しく、低位の貴族は間違っている。
事実など関係はないのだ。
ようやく私はそのことを理解した。
「申し訳ございません」
私はイゾルデ様に、ただ頭を下げた。
※
「どうした、マルティナ? 何かあったのか?」
お父様が私の汚れたドレスを見て、驚いた様子で尋ねてきた。
「うっかりワインをこぼしてしまいました」
私はおどけたように笑って答えた。
「そうか……。そのドレスでは、しばらく夜会にはいけないな。ワインの染みはなかなか取れないからな」
「そうですね。でもその間に、ダンスの練習をしたり、お勉強したりしますわ」
私はそう言いながら、あの夜会にしばらく行かなくて済むことに、少し安堵していた。
それから、私は男爵邸で何をするでもなく過ごすことになった。
ダンスの練習も勉強も、何もする気が起きなかった。
このまま、私もお姉様のように社交界から逃げてしまっていいのだろうかと思っていたが、お父様は何も言わなかった。
そんなとき、男爵邸に、私に宛てられた荷物が送られてきた。
送り主はローレンツ・エーレンベルク。あの冷たい視線の侯爵だ。
私は胸がざわつくのを感じた。
夜会に出席しなくなった私に、まだ何かしようというのだろうか。
立派な胡桃色のしっかりとした木製の箱を、私は恐る恐る開けた。
中からは薄い紙に包まれた衣服のようなものが出てきた。私はその薄紙をめくった。
それは、深い紺色のドレスだった。
思わず「わぁ」、と声が漏れた。
装飾はシンプルなものだったが、生地の質や縫製など、上等な仕立てであることは見てすぐにわかった。
けれど……
「なぜドレス……?」
恐る恐るドレスを手に取ると、そこから一枚の紙が落ちた。
「もしまだ夜会に参加するつもりならば、それを着て夜会に来い。これ以上、見苦しい姿で現れるな」
紙に書かれたその文字を見て、私は背筋が凍る思いがした。
ローレンツ様は、あの冷たい視線の奥で、何を企んでいるのだ……。
ドレスに何か仕掛けでもあるのかと調べたが、何もない……。いや、なさすぎる。ポケットすらない。
「何なの……」
私はどうしようもなく怖かった。
もうあの夜会に出たいとも思っていなかった。
けれど、このまま社交界を去り、お姉様と同じ道を辿るのも、どこか悔しかった。
「もう一度だけ……」
私は誰にともなく、そう呟いていた。
※
私はまた、夜会に戻ってきた。
前回参加した夜会から何日も経っていないので、夜会そのものの雰囲気はそのままだったが、私の気分は違っていた。
ローレンツ様がどういうつもりで贈ってきたのかはわからなかったが、仕立ての良いドレスは私の気持ちを高揚させた。まるで、自分が素敵な令嬢になった気分だった。
もし何かいじわるをしてきても受けて立ってやろうと思った。ドレスは、きっと女の戦闘服なのだ。
「あら、あなた、見ない顔ね」
そう声をかけてきたのは、マルガレーテ様だった。
もう何度も私の顔を見たことがあるはずなのに、私の顔を覚える気などないのだろう。
私は小さく頭を下げて、そのまま夜会場を進んだ。
まず、ローレンツ様を見つけなければならない。
ドレスのお礼にかこつけて、その真意を明らかにしなければならない。
そして、もしローレンツ様が黒幕ならば、なぜ私にいじわるをさせるのかもはっきりさせたい。
相手は侯爵だ。令息でも令嬢でもない。男爵令嬢ごときが気軽に声をかけられる相手ではないことはわかっていた。
けれど、その身分差に怯むつもりもなかった。
「いやー!」
そのとき、夜会場に大きな悲鳴が上がった。
何事かと思って振り返ると、イゾルデ様がお顔を真っ青にしていた。
「どうされたのですか、イゾルデ様?」
イゾルデ様にそう声をかけたのは、あのマルガレーテ様だった。
「私の、宝石のついた指輪がないの。ちょっとテーブルに置いていただけなのに……」
「なぜそんな無用心なことを……」
マルガレーテ様が少し非難するように言った。
「ちょっと煩わしくなってしまっただけなの。だって、この夜会場に、盗みを働くような方がいるとは思わないじゃないの。ああ……お父様がくださった、大切な指輪なのに……」
マルガレーテ様ではないが、確かになぜ高価なものを、少しの間とはいえ、見ていないところに置いてしまったのだ。
そう考えながらも、そんな大切なものを失くしてしまったイゾルデ様に同情心が湧き、探すのを手伝おうと思って、一歩踏み出したときだった。
「マルティナが犯人だ!」
会場から、男性の方が叫ぶのが聞こえた。
私はその声が誰のものか知っていた。
イゾルデ様のもとに歩み寄ったその人物は、ジークベルト様だった。
「俺はあいつがドレスのポケットに指輪を入れているのを後ろから見た! あいつがいつも着ている淡い水色のドレスを見間違えるはずがない」
ジークベルト様はそう言った。イゾルデ様に向けて。そして会場中に聞こえるような声で。
「あっ」
マルガレーテ様が声を出した。
そう。先ほど私にお会いしたマルガレーテ様なら知っているはずだ。
私は、今日はいつもの淡い水色のドレスは着ていない。
誰であろうと見間違えようのない、濃紺のドレスを着ているのだ。
それでも、ドレスのことをかき消すように、声を荒げてマルガレーテ様が言った。
「そうよ! マルティナが犯人に違いないわ。貧乏な下級貴族がやりそうなことだわ」
ジークベルト様といい、マルガレーテ様といい、なぜ一度も正しく呼んでくださらなかった私の名前を、今になって正しく口にするのだ。マルガレーテ様に至っては、先ほどは私の顔も覚えていない様子だったのに、いったい何なのだ。
マルガレーテ様の視線が私を見つけ、まっすぐこちらに歩いてきた。
「待て」
マルガレーテ様を遮るように男性の方が立ち塞がった。
「ジークベルト、おまえ今、淡い水色のドレスと言ったな」
「そうです。あの貧乏くさいドレスを見間違えるはずがない」
ジークベルト様は自信たっぷりにそう答えた。
マルガレーテ様が、舌打ちでもしそうな苦い表情をした。
「マルティナ嬢は、そこにいる濃紺のドレスを着ている女性だが? おまえはいったい誰を見たのだ?」
男性が私を指で示し、ジークベルト様がようやく私の姿を認め、顔から血の気を引かせた。
「ドレスの色なんて関係ないわ。マルティナが盗んだのは間違いないのでしょう? マルガレーテ、ポケットを調べるのよ」
イゾルデ様が慌てたようにマルガレーテ様に指示した。
「マルガレーテはだめだ。誰か別の者が調べるんだ。おい、そこの君、頼めるか? マルティナ嬢は、そこの濃紺のドレスを着た女性だ」
指示された令嬢らしき方が、私のところに近づいてきた。
私は一切抵抗もせず、その令嬢を受け入れた。だって、私は何も盗んでいないから。
「このドレス……ポケットも何もないです」
その令嬢が言った。
ああ、そうだった。このドレスにはポケットも何もなかった。
「ほう、ドレスにポケットはないのか。ではジークベルトが見たという、指輪を入れたポケットとは何のことだ?」
男性が再びジークベルト様に声をかけた。
「いえ……。見間違いだったかもしれません……」
「そうか。だが、人に冤罪をかけようとした以上、『見間違いでした』で許されるとは思うなよ」
「違う。私は知っているわ。その女が盗んだのよ!」
ジークベルト様が証言に誤りを認めたにもかかわらず、マルガレーテ様がなおも叫んで、私のほうに向かってこようとした。
そのマルガレーテ様の腕を、男性が掴んだ。
「その手に持っているものは何だ?」
そう言って、男性がマルガレーテ様の腕を強く握ると、マルガレーテ様の手から何かがこぼれ落ち、床に当たって、かたん、と音を立てた。
「マルガレーテ! どうしてまだ持っているのよ!」
イゾルデ様が叫んだ。
男性は、マルガレーテ様が落としたものに視線を移した。
「これは、宝石のついた指輪だな。確かにマルガレーテ嬢の手から落ちたな」
男性がよく通る大きな声で言った。
「ち、違う……」
マルガレーテ様は弱々しい声でつぶやいた。
「あなたは、マルティナ嬢を調べるふりをして、その指輪をドレスのポケットに忍ばせるつもりだったのだろう。残念ながら、そのポケット自体がなかったようだがな」
「違うわ!」
「イゾルデ嬢、あなたの指輪はここだ。誰も触れん。拾うといい」
男性に促されて、イゾルデ様が近づいてきた。
「私の指輪だわ。マルガレーテ……あなたがやったの?」
イゾルデ様はマルガレーテ様に向けて、信じられないというような顔をした。
「ふふ。何を言うのだ。イゾルデ嬢。先ほど、マルガレーテ嬢がこの指輪を持っていることを知っていたようなことを叫んでいたではないか」
「マルガレーテが、私が指輪を置いていたテーブルの近くにいたのを思い出しただけよ。それで、もしかしたらマルガレーテが指輪を持っているのではないかと思って……」
イゾルデ様は悪びれもせずにそう言った。
「ずいぶん苦しい言い訳だな」
「イゾルデ様……私を切り捨てるのですか?」
マルガレーテ様が小さくそう言ったのが聞こえた。
「マルガレーテ嬢、聞こえたぞ。あなたは、イゾルデ嬢が共犯だと認めるのだな」
男性がそう言うと、マルガレーテ様の顔が蒼白になった。
「あ、あの……いえ……」
「共犯とは何ですか? 何を仰っているのですか?」
「わからないならはっきり言おう。あなたは、マルティナ嬢を陥れるために、指輪を失くしたふりをして、マルガレーテ嬢に渡したのだ。それから、ジークベルトに虚偽の証言をさせたのもあなただ。覚えたセリフをそのまま口にして、ドレスの色すら間違えていることに気づかないとはな」
離れたところにいたジークベルト様は後退りを始めていた。
「つまり、イゾルデ嬢、あなたは共犯ですらない。主犯だ」
その男性はあの冷たい視線でイゾルデ様を見据えていた。
「何て言いがかりを……。ローレンツ様、あなた、侯爵でしたわよね? 私は公爵家の人間なのよ。このことはお父様に報告させていただきますわ」
「好きにしたらいい。今、問題になっているのは、家格など関係のないことだ。これだけの人が集まっているところでこの茶番を演じたのだ。もう逃れようがない。マルティナ嬢に恥をかかせようとしたのが、裏目に出たな」
「あなたもわからない人ね。だから、お父様に言えば、どうとでもなるのよ」
「この冤罪事件をもみ消そうとするなら、公爵であろうと糾弾させてもらおう。法務次官として、見逃すことはできない。私は法務卿にこのことを報告させてもらうとしよう」
私は目の前で何が起きているのかよくわからなかった。
ただ、あの、いつも冷ややかな視線で私を見ていたローレンツ様が、このことを予見して、私にこのドレスを贈ってきたのだろうことだけはわかった。
「ああ……もうひとつだけ妙なことがあったな」
ローレンツ様がイゾルデ様、マルガレーテ様、ジークベルト様のそれぞれの顔を見ながら言った。
「あなたたちは、これまでマルティナ嬢のことを『マリアナ』とずっと呼んでいたな。マルガレーテ嬢に至っては、顔すら忘れたような素振りであったではないか。それなのに、今日に限って、なぜか犯人の名前だけはしっかり覚えていたな。『マルティナ』と」
三人は黙ったまま、何も言わなかった。
「ずいぶんと都合のいい記憶だな……」
※
その日、夜会で私はなぜかあのローレンツ様に手を取られ、踊っていた。
「ずいぶん踊れるのだな」
ローレンツ様が言った。
「そうですか? そう言っていただけると嬉しいです」
本当に嬉しかった。私は、踊れるのだ。それを侯爵が認めてくださったのだ。
「そのドレスも似合っているではないか」
ローレンツ様がぽつりと言った。
「ありがとうございます。こんなすてきなドレスをいただいて……」
「いや、喜んでくれたのなら嬉しい」
「でも……このドレスは冤罪を防ぐためにくださったのですよね?」
「それもあるが、それだけではない」
「それだけではないのですか?」
「……そのドレスが君に似合うと思ったのだ」
「……濃紺がお好きなのですか?」
「それよりも……あいつらのやることは目にあまった。あいつらからしたら、令嬢だろうが令息だろうが一緒だ。毎年、社交界に入ってきた弱い立場の新人に目をつけ、鬱憤のはけ口にしていたのだ。その標的を笑い者にして、イゾルデたちは社交界の中心人物として結束を保ってきた。それは社交界にとって健全な状態ではなかった」
突然饒舌になったローレンツ様に面食らってしまった。
「マルティナ、君の姉上もあいつらから同じ目に遭ったのだ」
「えっ……?」
私は一瞬、足を止めてしまいそうになった。
「まさか、私が着ていた、お姉様のあのドレスで……?」
「そうだ。指輪をポケットに入れられて冤罪をかけられた。それ以来、姉上は社交界から姿を消したのだ。だから、俺は君のためにポケットのないドレスを仕立てたのだ」
「そうだったのですね……」
「あのときはまだ俺も力がなく、何もできなかった……」
「……」
「だが、もし姉上が望むのであれば、今度は安心して夜会に来られるようにしたいと思う。もちろん、無理にとは言わないが」
お姉様がお部屋を出て、社交界に戻ってくる……。それはとても素敵なことだと思った。きっとお父様も喜ぶだろう。
「それは嬉しいです」
私がそう言うと、ローレンツ様は小さく微笑んだ。ほとんどわからないくらい小さく。
「それにしても、なぜローレンツ様はずいぶん私のことを見ていらしたのに、夜会で声をかけてくださらなかったのですか?」
私はローレンツ様のあの冷たい視線を思い出していた。私はあの視線に、警戒すらしていたのだ。
まさかこうして守られて、一緒にダンスまで踊るなど、想像もしていなかった。
「恥ずかしくて声をかけられなかったのだ」
「はい?」
あまりに予想外の答えに、変な声を上げてしまった。
ローレンツ様は表情も変えず、ただ顔を少し赤らめていた。
「でも、ずいぶんと怖い目で私のことを見ていらっしゃいましたよね?」
「見るだけならできたのだ」
「ずいぶん怖かったのですよ」
「それは……すまなかった」
「いえ、私こそ申し訳ございませんでした」
「なぜ君が謝るのだ」
私は何だかおかしくなって笑ってしまった。
「私は、ローレンツ様のことをずっと誤解していたみたいですから」
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