第五話 天才、ふたり
大枝先輩の言い分をまとめると、以下のようになる。
そもそも、大枝の家と弦本の家は、茶太郎の実家――地元の名士である東雲家を基点として、ゆるい繋がりがあったのだという。
だから、大枝先輩は幼い頃から、弦本先輩を知っていた。
そして、その天才性を理解していた。
自分よりもずっと上にいる、手も届かない存在なのだと。
ぼくらにしてみれば、天才の違いなど解らない。
アインシュタインとノイマンのどちらがより優れていたかなんて判別もできないし、精々作った特許の数、発見した理論の数を比べるのが関の山だ。
けれど、同じ分野に立つ者。
その中でも一握りの才能を持つものだけには、相手の真実が見えるのだと、大枝先輩は真摯に、淡々と語る。
「〝あれ〟は天才だった。少なくとも、ガキの大枝悠斗では手も届かないような異才だ。うぬぼれを打ち砕くには十分すぎる才覚の鬼。音楽の女神に届きうる、傑物」
だから、彼は手を伸ばしたのだという。
打ち克とうと、したのだという。
「決死の努力をした。努力などといっている間は凡才だと己を戒め、反吐をぶちまけるまで向き合った」
「やめようとは思わなかったのですか? 勝てないなら、他のなにかになればよいとお考えにならなかったので?」
「ふざけるなよ。おまえたちとは違う。この大枝悠斗には、ピアノしかなかったんだからなぁ」
彼は双眸に怒りを灯らせ。
ブルブルと全身を震わせながら、激情をあらわにする。
「何者かになりたいだとか、決められた路線から外れたいだとか、普通は嫌だとか宣う人間に理解できるものかよ。物事の楽しみ方すら人の感想に依存し、他人が作った攻略法とやらを見てはじめて、ああ、これが自分のやりたかったことなんだな……などと錯覚するおまえたちに、なにが解る?」
先輩は、絞り出すような怨嗟を。
なによりも、そんな普通を選べなかった自分への呪いをこめて、言葉を紡ぐ。
「生まれついてただひとつ、たったひとつ、それ以外の機能を持たなかった存在は、〝それ〟を目指して走り続けるしかないんだ! これは何者かになっているんじゃあないぜ。それ以外が断絶しているんだよ!」
彼は、ぼくが言動を誘導したと知ってなお、その鬱屈とした言葉を吐き出してくれた。
常に苛立ってこそいるが、音楽家として鋭い感性に振り回されているが、よい先輩なのだろう。
ゆえにこそ、彼はこう続けるしかなかった。
隠すことなど、できなかったから。
「にもかかわらず、正面から動かしようのない真実を突きつけられる気持ちが理解できるか? どれほど努力しても、生涯あの女には、弦本鍵には勝てないのだとまざまざと見せつけられる気持ちが」
彼は、最早泣きそうな顔をしている。
無数の感情が入り交じった、複雑な表情は、いまこの瞬間にも決壊しそうで。
大江先輩は吐き出す。
どうしようもない心の内を、向ける相手すらいないと言わんばかりの憤りに載せて。
「〝あれ〟は、だってのにいっしょにやろうなどと抜かすんだ。そして、追いついたと思えば、たやすく追い抜いていくんだ。最後には……勝ち逃げしやがった」
勝ち逃げ。
それは、無演奏コンクールのことだろうか。
「あの日、先に演奏をしたのはこの大枝悠斗だ。自分で言うのも憚られるが、過去最高のパフォーマンスだった。勝ったと思った、ようやく、初めて完膚なきまでに勝利を手にしたと。だが、あれは鍵盤に触れさえしなかった……」
「先輩に負けて、打ちひしがれたからではありませんか? それなら、その後事故に遭ったのも、失意で意識が呆然としていたからという可能性も――」
「あるもんかよ!」
強く。
激しくこちらの言葉さえ遮って。
それから先輩は、俯いて呟く。
ぼくらの知らない、ふたりだけの真実を。
「すぐに行くからねと、あれは言ったのさ。結果は知ってるな? ボイコットして、怪我をして、あれは二度とピアノの弾けない体になった。つまり、こう言いたかったわけさ」
弦本鍵は。
「大枝悠斗に勝ったまま退場する。絶対に手の届かない場所にいく。黙って指をくわえてみていろと、そう抜かしたのさ」
だから、音楽室のピアノにまつわる一件は、弦本先輩にではなく。
大枝先輩に対する嫌がらせなのだと。
彼は、音楽室の怪談を総括してしまう。
「どこの誰だか知らないが、この大枝悠斗に濡れ衣を着せたいやつがいるのだろう。〝あれ〟を悲劇の天才として祭り上げ、こちらをこき下ろしたいゲスが。つまり、おおよそ、推薦入試の枠で負けた連中の嫌がらせかなにかじゃないか? そう、そういう意味で、弦本鍵がこちらを貶めていると言った点は撤回するさ。あれに、そんな余分はない」
余分はないか。
このひとは、自分たちを機械かなにかのように語る。
たしかに、譜面に正確な音楽を奏でることは、彼らにとって重要なのかも知れないが。
だが、まだなにか、表に出していない情念が、そこにある気がして。
いま話して貰った以上のことが、この七不思議にはあって、大枝先輩に働きかけているように感じられて。
だから、ぼくはひとつ、鎌をかける。
「先輩は」
「ああ」
「音楽室に、思い入れがあるんですか?」
「――――」
その表情を、どう表現すればよいのか、ぼくには解らなかった。
それこそ、言語化できる心の機能が無かった。
先ほどまでの怒りや泣き出しそうな顔とはまったく違う。
怒髪天を衝いたとも。
郷愁に胸を締め付けられたとも。
皮肉を笑うことに失敗したようにも。
あるいは、泣き出しそうだとも。
どれが正しいか、どう当てはめるのかが正解か判然としなくて。
けれど苦しそうに。
軋るような声で、大江先輩は言葉を押し出す。
「……一度だけ、入学したばかりの頃、将来を語り合った。あの教室で、あのピアノを二人で奏でながら。きっと、人生で一度だけ、お遊びでな」
それは。
「リョウ」
これまで空気を読んで黙っていた茶太郎が、付け加えるように言う。
「先輩たちは、翠城学園側のオファーで入学している。学業や部活動を免除する代わりに、ピアノの業績を上げることを条件に。だから」
「東雲、そこまでにしておけよ」
大枝先輩が、うなだれた様子で呟く。
「過ぎたことだ。大枝悠斗は音大へ進学する。〝あれ〟は惨めに失墜する。それだけなんだよ。係員、これで終わりか? いささか疲れたぞ」
「では、最後にひとつだけ」
ねぇ、先輩。
「先輩は、音楽室のピアノの音色を、聞きましたか?」
彼は答えた。
最初と同じように鼻を鳴らして。
いけ好かないといった様子で。
「聞くわけないだろ。お遊戯を耳にするなど時間の無駄だ。もういいか? このあとは自主練をしなくちゃいけない」
ああ、十分だ。
次にやるべきことが明瞭になった。
「ありがとうございます、先輩。大変参考になりました。茶太郎も、骨を折ってくれて助かったよ」
二人にお礼を言って、ぼくはその場を離れる。
そうして、十分に距離を取ってから、懐から携帯端末を取りだした。
そこには、会議用のビデオアプリが起動しており、画面の向こうには、仏頂面をした魔女の顔があって。
「話は聞いていたね、透海さん。君にはこの後、深夜の音楽室でサンプリングをしてもらう」
ようするに。
「無人のピアノから、どんな音が鳴るか、採取してきてくれないかな?」




