第四話 素晴らしき日々
端末から鳴り響いたのは、ピアノの音色だった。
音楽にそこまで詳しくなくともわかる、穏やかで、軽やかで、優しさに満ちた打鍵。
ベートヴェン、ピアノソナタ第31番。
その連弾。
こんな常軌を逸した技巧の演奏ができる人間を、ぼくはひと組しか知らない。
いや、むしろ思い知っている。
「大枝先輩と、弦本先輩……?」
「ええ、素敵でしょ」
陽光を受けてできる、葉桜の木陰が揺れるたび、音は活き活きと跳ねまわり、これが録音などではないことが、すぐにわかった。
彼らは、いま演奏しているのだ。
あの日、あの夕暮れ。
衝突ばかりしていた彼らは、互いを認め合い、支え合って、高みへの片道切符をもぎ取った。
月光の音色が降り注ぐなかで、絆を確かめて。
それと、遜色ない旋律がいま、奏でられている。
「他ならない、あなたのために。あたしたちのために」
「なぜ……」
音色が転調する中で放った問い掛け。
透海さんは答えず、代わりのものを取りだした。
お弁当箱。
ぼくと彼女の前に置かれたそれ。
促されるまま蓋を開ければ、卵料理が山のように敷き詰められていて。
「東雲茶某の恋人ちゃんと、それから冨塚柊子さんに手伝って貰ったの。ほら、柊子さんは実家が養鶏場だし」
茶太郎をめぐる恋の三角関係。
卵が先か、鶏が先か、茶太郎が優しくしたのが先、惚れられたのが先か。
惚れた腫れたは四百四病の外、つける薬なんてないという。
人を盲目にして、ひた走らせるそれは、誰を傷つけようともとまらないもので。
「……すねこすり」
ぼくの足下を、あたたかなものが抜けていった。
黒猫が机の前に座り、ひょいっとくわえていたものを置く。
それは獲物でもなく、与えられた食べ物でもなく、一枚のしおり。
まるでこれまでの記憶をとどめてと言わんばかりの、寓意的なアーティファクト。
「……訂正するよ」
根負けしたのかも知れない。
ぼくは、口元を弱々しく歪めて、内心をこぼす。
「ぼくがやりたいことは、もう終わっていたんだ」
透海近の存在を記録するために。
ほかの七不思議を判定するために走り回った日々。
なんでもない学園での生活。
それが、いまでは輝いて見える。
共犯関係の彼女と過ごしたかけがえのない毎日。
きっとそれこそが、ぼくのやりたいことで、欲しいものだった。
特別な彼女と過ごすことこそが、特別だった。
だからこそ、思い残すことはない。
ないはずなのに。
「ハルさんは、あたしを存続させるために記録をしてくれたよね」
彼女が言う。
一等星の双眸を、キラキラと、どうしようもないほどの希望に輝かせながら。
「同じだよ。ずっと、刻まれていたんだ」
「……そうかな」
「そうだよ。みんな覚えてる。ハルさんのことを。春町遼遠を」
机の上に置かれていた携帯端末が着信。
表示されたのはメッセージ。
差出人は――多賀恵留。
「ほら、あのへそ曲がりですら『遼遠くんのことは、忘れられないだろう』だってさ。あ、いや……これはちょっと呆れてるっぽいけど……」
困ったように首をかしげる彼女を見て。
ぼくは、いよいよ限界だった。
両の目頭を押さえる。
あふれ出しそうなものを堪える。
そんな資格はないだろうと思っていた。
学園のすべてに敵対したぼくには、七不思議である春町遼遠には、魔女の空き教室のような居場所すらないはずだと。
なのに。
「あたしはね、往生際が悪い」
自分で言うのもなんだけどねと肩をすくめながら、透海さんは続ける。
「諦めも悪いし、へこたれてもやらない。不可能だーって言われたら、なんとかしてやるって考えちゃう」
それは悪徳だ。
人間の持つ、変えようのない性だ。
ひときわ色濃く悪徳を備える彼女は。
だから。
「だから、絶望なんかしない。方法は、いま思いつきました」
ピアノの旋律がピークを迎えるなかで。
少女が、高らかに告げる。
「透海近から七不思議の魔女へと問い掛ける」
その質問は。
「春町遼遠は、人間ですか?」
その答えは。
「いいえ、人間ではありません」
――必ず、間違える。
刹那、世界が淡く、鮮やかに、色づいた。
§§
「わぁ」
少女が感嘆の声を上げる。
ぼくもまた、起きた現象に見蕩れていた。
咲いていたんだ。
桜の花が。
とっくに季節外れのものが、これ以上も無く。
双樹桜が、満開になっていて。
散っていく。
熱い風に吹かれて、急速に花が。
「ああ、そうか」
唐突にぼくは理解した。
自身にいま起きていることを。
そしてこれから起きることを。
待ちわびた春を遼かに遠くして、桜の吹雪く今日がある。
世に、有り得ないことのたとえは数あれど。
きっとこれは、とびきりに不思議で、とびきりに素敵な。
だからこそ、生きていればいつかは巡り会う。
思いもよらない、けれど確かにあると断言できる。
〝奇跡〟――というやつの、形なのだろう。
いまこの場は四月。
桜花舞い散る入学式の、あの日あのときあの場所で。
違いは一つ。
孤高でしかなかった席が、二つに増えて寄り添って。
「春町遼遠くん」
彼女が言う。
「あたしは、ひとりぼっちより、ふたりぼっちがいい。支え合っていこうよ、双樹桜みたいに」
「けれど、あれは、病気で」
「あら、知らないの?」
笑った。
少女が妖しく。
悪徳に満ちた、艶然たる顔で。
「それは四百四病の外、どんな名医も治せない病。そして、健やかなるときも病めるときも寄り添うのが、理想というものなのです! だから」
差しだされる手。
「一緒に、生きようよ!」
ぼくは。
他の誰でもない、春町遼遠は。
その手を。
いま、とって――




