第七話 あなたのための月光ソナタ
「月光」
奏でられる曲名は、もはやおなじみのもの。
けれど――
「茶太郎から聞きました」
まんじりともせず、じっと旋律に耳を傾ける大枝先輩へと向かって、ぼくは語りかける。
「弦本先輩は、本当に事故に巻き込まれたのです。相手側の過失が証明されています。居眠り運転であったとか。つまり、事故自体は弦本先輩が意図したものではなかった」
だが、そうなれば無演奏はなんだったのか、という疑問が浮かぶ。
けれどぼくの親友である茶太郎は。
大枝家とも弦本家とも交友のある東雲茶太郎は、真実を知っていた。
「弦本先輩は、コンクールを無意味だと考えて、演奏しなかったそうです」
「…………」
「大枝悠斗の演奏を耳にして、それが音楽の女神を手中におさめようとしていたと理解して、いままさに花開こうとする才能を前にして、自分が無意味だと感じて」
「…………」
そして、直後に彼女は、事故に遭った。
両腕に怪我を負い、もう二度とピアノを弾けないかも知れないと通告され。
「だから、いま、ここにいる」
ぼくらは、弦本先輩の演奏に耳を傾ける。
噂が出回ったとき、ピアノの音色はひどくたどたどしかった。
だが、昨日透海さんがサンプリングしてきた音色は、確実な上達が見られた。
そうしていまだ。
いま、この瞬間だ。
奏でられる音色。
壊れかけの両手が紡ぎ出すメロディ。
それは、とても怪我人の演奏とは思えないもの。
間違いなく一級品。
音楽に疎いぼくでも、プロのそれだと一発で理解できる表現。
……努力は、決して裏切らないという。
けれども表現者は知っている。
アスリートや、クリエーターは、誰もが本能的に思い知っている。
努力をやめた瞬間、才能は、己を見放すのだと。
技術は亜音速で減退し、理想は遙か彼方へと遠ざかる。
どれほどの才覚を持とうと、湯水の如く投資を行おうと、なにもしない人間は、絶対に高みへは届かない。
残酷であっても、これが芸能の世界の真実。
芸事の神は、音楽の女神は、己の人生すべてを捧げ、捨て、なげうってなお、振り向いてくれるとは限らない気まぐれな存在なのだ。
だから、弦本先輩は二度と立ち上がれないはずだった。
――そんな理屈は、いまこの場では粉砕される。
鍵盤が叩かれる。
弦が弾かれる。
音が産み落とされる。
怪我をしていたはずの彼女が、二度と音楽を実行できないはずの彼女が、いまこの場の、誰よりも高みにいた。
壊れた腕で、こぼれた指先で、なおも精緻に精密に楽譜通りの音色を奏でる。
一瞬ごとに上達を続ける。
けれど……足りない。
それでなお、掛け金としては不足。
正確なだけでは、音楽の高みにはまったく足りない。
足りない、はずなのに――
「――――」
大枝先輩が、唾を飲んだ。
ただでさえ見開かれていた両目が、さらに一回り大きくなる。
変わっていく。
弦本鍵のすべてが。
ぼくらの眼前にいたのは、もはや弦本鍵などというものではない。
音を奏でるための機械。
ピアノを弾くための精密機構。
そして、超えていく、その先へ。
恐らく魂と呼ばれる分野のなにかが。
命と不可分の、運命とすらいえるすべてが、この瞬間のために消費されつくし。
――届く。
指先がうたう絶唱
人知を超えて、いま彼女は、音楽の女神に触れて!
「――――」
だが。
ああ、だが。
残酷にも、その腕が。
壊れかけの両腕が、終に限界を迎え――
「まだだ!」
彼が飛び出した。
大枝悠斗が、崩れ落ちそうになった弦本鍵へと飛びつき。
補い、支えるように、彼女の不足をうめるように、鍵盤を叩く。
互いの視線が交わされるのは一瞬。
その一瞬さえ無用の長物とばかりに、二人は全身全霊をもって、ピアノと向き合う。
セッション。
連弾。
通常のピアノで行うにはあまりに困難。
それでも成し遂げる。やりおおせる。
ぼくと、画面の向こうの魔女を置き去りにして。
彼らは、向こう側へと征く。
ただただ、凄まじいと表現するしかない音の領域。
もはやプロの中でも一握り、その最上位にしか区別がつかないような、けれどそれがあるかないかでは、なにもかもが雲泥の差になってしまうような、些細で決定的な真髄が、いま学園の放課後を向かえた音楽室に顕現する。
ぼくは幻視する。
世界が夜に包まれ。
そこに降り注ぐ光の苛烈さを、優しさを、慈しみを、怒りを、嘆きを、なによりも――愛を。
月光。ピアノソナタ第14番。
ベートーヴェンの人生における、悲恋と別れをモチーフにされたとするこの曲は。
しかし、このとき、二人の人生を間違いなく繋いで――
最後の、打鍵が終わった。
響く余韻。
完全にそれが消え去ったとき。
汗まみれの、疲れ切った顔の弦本鍵は。
けれど満面の笑みで、往年の好敵手へと、告げたのだった。
「たのしいね、悠斗くん! ほら、すぐに行くって言ったでしょう……? これからは、一緒だよ!」




