第一話 空き教室の魔女
この備忘録に記されたすべてが、意味を持つことを期待する。
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放課後の空き教室には魔女が出る。
そんな噂を耳にしたのは、高校二年生の春。
一年生の入学式も終わってしばらく経ってからのことだ。
ぼくこと春町遼遠の所属する翠城学園高等部には、大人の目線からすると笑い話にもならない荒唐無稽な噂話、つまり七不思議の伝承があった。
読むと死んでしまう本だとか、入れ替わりの天邪鬼だとか、どこの学校にもあるような、そして現代においては一顧だにされない極めて無価値な御伽噺。
しかし、ことのこの学園において、それらは空想を意味しない。
実在するからだ。
他ならない七不思議が。
すくなくとも、ぼくらはあるという前提での学校生活を余儀なくされている。
魔女は、その一番目。
女子の間だけで噂される存在。空き教室の魔女。人生で一度だけ、未来を占ってくれるなにか。
この日、ぼくはいつも通り、魔女のもとを訪ねた。
親しき仲にも礼儀あり。
一応の礼節に乗っ取り、入り口をノックしようとしたとき。
ドアが、勢いよく開いた。
飛び出してくる一人の少女。
もうすこしで正面衝突しそうな、そんな力強さ。
慌てて避けて、しばし唖然としていると、空き教室の中から、クスクスと笑い声が聞こえてきた。
見遣れば部屋の主――あるいは虜囚と言い換えてもいい――が、窓際の席に腰掛け、口元に手を当てて、夢見る乙女のような表情で微笑んでいる。
……月並みな表現をすれば、美しい少女であった。
校則ギリギリの長さに切りそろえられた頭髪は、それでいてフィンセント・ファン・ゴッホが描き出す夜空のように麗しく幻想的。
眉は書道家が念を込めて筆を走らせたように力強く、睫毛は長く、鼻筋は大理石を切り出したように通り、唇は薄く桜貝の色。
肌の色は透明なほどに白く。
だからこそ、強い意志が秘められた双眸が、一等星のようにまばゆい。
いささかスカート丈が改造された制服。
その下の体付きはなだらかだが、見るものが見れば、しなやかな筋肉と弛まぬ鍛錬が織りなした歴史を感じ取れるだろう。
そういった魅力的な要素を。
たったひとつの性質が台無しにしていた。
悪徳。
魔女というならば、他においてないだろうという特性。
それが滲み出る笑顔は、窓の外に立ちこめる暗雲よりもずっと黒く。
「女の子に触れるチャンスを、不意にしましたなぁ、ハルさんや」
ニマニマとした顔つきで吐き出された言葉は、音こそ涼やかだったが、べったりと悪意が付随していた。
もしも先ほど部屋を飛び出してきた少女を――思えば少し見覚えがあった――抱き止めていようものなら、この魔女は拍手喝采を送り、次の瞬間にはやれセクハラだ、同年代だからといって許されることではないすぐに自首すべきだと、じつにネチネチと因縁をつけてきたに違いない。
ゆえに、月並みな表現では美少女なのだが。
その内側にあるのは、もっと歪んだ悪戯心の煮凝り、口先だけで人を弄して操る、まさしく魔女なのだった。
「透海さん、君に協力するような紳士は、けっして女子に許可なく触れることを喜びとはしない、そう心得てくれると嬉しいな」
ため息交じりに窘めの言葉をおくれば、彼女――透海近は「それはごめんあそばせ」と、やはり楽しそうに口元を綻ばせてみせる。
きみは嘲笑しないと生きていけないチェシャ猫かなにかか? などという揶揄を飲み込み、目下の話題へと意識を戻す。
「それで? いまの彼女は、君からどんな予言を引き出したんだい?」
「ハルさんや、あたしにも守秘義務が」
「ないだろ、魔女に、そんなもの」
「あら、今日はあたりが強い。ひょっとして虫の居所でも悪かったりする? 大丈夫、糖分とる?」
そういって透海さんが差しだしてきたのは、ポッキーだった。
この空き教室には、放課後限定でティーセットがあらわれる。
意味は無い。そういうものだから、あるだけだ。
これに菓子類は付属しないと記憶していたので、つまりポッキーはこの魔女が用意したものということになり……なんていう、ありきたりで愚昧な思考を破却。
先ほど出て行った少女が、満面の笑みだったことを思い出す。
「お礼の品だね、さっきの子の」
魔女にまつわる噂には、幾つかルールがある。
そのうちのひとつに、『占いが外れたらお礼をする』というものがあった。
つまりこれは、そのそれだ。
「つまらないぐらい冴え渡ってるー。ハルさんは生きづらそうだ」
こちらの心配をしてくれるのは嬉しいが、本気でつまらなさそうにポッキーを片付ける君からは悪意しか感じない。
なにより、生きづらさというならば、魔女という役割を押しつけられた君こそがその象徴だろう。
なにせ、君はもう――
いや、いま考えるべきことは、こんな前提の話ではない。
ぼくはスッパリと思考を切り替え、今度こそ本題へと入ることにした。
「校内で盗難事件が発生したんだ。一週間前のことだよ」
「ちょうど大雨が降った日だっけ。昼まで憎たらしいぐらい晴れてたのに、下校の時間になって親の敵みたいなザアザア降りで、あれは痛快でしたなぁ」
「君の感性の特異度は一端脇に置くとして……そのとき、つまり雨が降り出した直後、置き傘が盗まれたんだ」
侮蔑にも似た眼差しを、透海さんはこちらに寄越した。
置き傘というのは、傘を持って通うのが面倒な学生諸氏が、傘立てに無造作に突っ込んで長年放置しているあれのことだ。
そんなもの、置いておけば誰かが持っていくなど、容易に予想がつく。
翠城学園は比較的治安がよく、県下有数の進学校で、よって生徒指導部の見回りも多い。
そんな窃盗まがいの行為をすれば、当然厳しく取り締まられるが……傘の持ち主本人が現れなければ、所有権の証明すらできない。
加えていまは入学式を終えてひと月が経ち、浮ついていた学内の雰囲気も落ち着きを取り戻しはじめている。
「そもそもね、ハルさん。著しく景観を損ねるようなものが、ひとつやふたつがなくなったって、誰か気にする? 困ることがある? あたしは、ない方が嬉しいかも」
だから、置き傘が盗まれるなど、些細な出来事だとしか思えない。
魔女はそう語る。
しかし。
「盗まれたのが、おかれていた傘、すべてだったとしたら?」
「――――」
透海さんが目を閉じる。
目蓋が開かれたとき、彼女の瞳には期待の星が散り、口元は吊り上がっていた。
そうだ、これからぼくが続ける言葉を、先に理解してのことだ。
じつに、魔女らしい顔。
まったく、冴えているのはどちらだか。
「全校生徒の約半数に匹敵する数の傘が、雨の降る直前に姿を消し、そして今日すべて戻ってきた。ぼくはこれを、学園七不思議のひとつ、唐傘オバケの仕業だとして、空き教室の魔女へ動議を図りたい」
つまり。
「これは、人為が起こした事件か。それとも、怪異が起こした事件か。君の推理を、聞かせてくれ。なぜならば」
ぼくは、ヒトデナシの魔女。
寓話の象徴たる目前の彼女へと告げる。
「七不思議すべての実在・不在を判定すること。それが君――透海近が人間へと戻る、唯一の方法なのだからね」




