偽物の聖女、真の聖女
「アイナ=オルソン!今ここにお前を断罪する!貴様は大罪を犯した!聖女の力を有していないにも関わらず、自分を聖女だと偽ったな!これは我が国はもとより、神々に対する冒涜であるっ。お前が聖女ではないという揺るぎない証拠は、この世に二人といないはずの聖女が、今お前の目の前にいることだ!そして真の聖女がどちらかなど、偽っているお前がわからないはずがないな?!」
そう言って、アイナを厳しい目で詰め寄るデンタール国王太子、フレデリクの傍には見目にも麗しい、華やかな女性がいる。
アイナはその女性を見止め、僅かに目を見開き、それからフと溢すように笑う。諦めているようにも、悲しんでいるようにも、どうとでも取れるような、疲れくたびれた笑みだ。
そんなアイナを見て、女性は――真なる聖女、ハンナマリはふわりと笑う。優美なそれは、アイナとは正反対であった。
デビュタントを祝う華やかな夜会のはずだった。だが、フレデリクの堂々とした告発に会場はざわめき、どよめいている。皆が固唾を飲みながら会場中央の断罪劇を見守るしかない。困惑と、そしてどこか歪な興奮が場を包んでいた。
誰もが慕い、誰もが憧憬を抱かずにはいられない、聖女アイナ=オルソン。
怪我や大病に侵されれば誰もが彼女の下へ向かい治癒を希った。先に戦いや諍いがあれば、彼女へ天から授かった啓示を求めた。魔物が国の中、国境の程近くに現れたとあらば聖なる結界を張るよう守護を依頼した。
彼女が与えられた教会の門戸はいつも開いている。朝でも真夜中でも。彼女は救いを求める手をいつだって振り払うことなく、貴賎なく困った者の声に耳を傾けた。聖なる力で導いていた。
淡い笑顔をいつも携えて、決してしゃしゃり出ることはなく、けれど自分の持つ力を持ってして平等に民を導くアイナ。彼女を疎む者などいやしない。嫌う理由を彼女に持つことができなかったからだ。
ただ、そんな彼女の断罪劇だというのに、彼女を表立って庇う者はいなかった。貴族の夜会という、圧倒的に身分のヒエラルキーが存在する場。その場で誰が王太子に楯突くことができようか――という、大義名分のもと、大体の貴族はこの催し物のような寸劇を薄暗く喜んでいたのだ。
アイナは寸分の翳りもない、完璧な聖女。誰にも彼にも優しくて、救いの手を止めない絶大なる力を持つ聖女。彼女を嫌う理由はない。
しかしだからこそ、彼女を特別に思う存在もまたこの場にはいなかった。貴族社会における彼女は、言うなれば価値はほぼない。誰にでも優しいということは、誰の味方でもなければ敵でもない。平民であれば誰にでも優しい彼女は崇め、奉りはするだろうが、貴族にとっての政治的価値が彼女にはないのだ。
かといって貴族の立場を捨て置けば、性格もよく教養もあり聖女の力があり、見目も儚くも美しい彼女は嫉妬を向けるべき人間であった。嫉妬を口に出さないのは、ただ自分が狭量な人間だと見せないためである。彼女は聖女であり選ばれた人間なのだから、自分たちとは隔絶された人間なのだ、そう、自身に言い聞かせるよう嫉妬の心は外には見せない。
ただしその嫉妬を、醜い心をアイナにぶつけられる理由があれば、話は別だ。
誰かが裏切られたと呟けば、それは波紋のように広がっていく。まさか聖女じゃないなんて、いままで私たちは踊らされ騙されてたなんて。そういえば彼女はいつも笑顔であったけれど私たちに本当の素顔を見せてなかったのではないか。どんな本心を隠して聖女気取りをやってのけたのか。
広がっていくざわめきはどんどんと大きくなる。
「主は貴方を許します。聖なる力がないにも関わらず、偽りの聖女となり、人々を欺いたアイナ様を。主は、広い心で許すと仰っております」
そんなざわめきを両断するよう、凛とした声でハンナマリが告げる。不思議な声だった。綺麗なソプラノの、大きくはない声であるのに、誰の耳にも真っ直ぐに届く。ハンナマリが手を合わせ祈りのポーズを取れば、まるで神が応えるように窓から一筋の光が差し込んだ。それは闇夜にはあまりに現実味のなく、宗教画の如く美しい光景だった。
そんなハンナマリの肩を恭しく、愛し気に王太子が抱きしめる。
ハンナマリはそれを淑女らしくそっと受け取った上で、自信に満ち溢れた顔でアイナを見返す。アイナは、ただ俯いた。
それだけで、十分だった。断罪する側と、される側。互いの立場が浮き彫りにされたのだ。
「アイナ=オルソン!申開きはあるか!」
「ございません。私は真なる聖女ではないことを、ここに告白いたします」
ハンナマリとはまた違う、美声が会場内に落ちる。だがそれは、震えを伴う、弱々しくいかにも下賎な人間らしい声だった。
アイナがそっと跪き、彼女の生白く細い腕に嵌められた細身の腕輪を外す。古ぼけた銀を鈍く光らせるシンプルな腕輪を、彼女は片時も外さなかった。今は亡き母親の形見だと彼女はいつも言っていたから、派手な装飾も何もないおもしろみない腕輪のことなんて誰も気にも留めなかったのだ。
しかし、その腕輪を外した瞬間、彼女が聖女だとたらしめる右手の甲の聖女の紋章が消えた。今日一番のどよめきが会場を包む。腕輪は魔道具であり、それを使ってアイナが聖女を偽ったということの何よりの証明だった。
対して、真の聖女たるハンナマリの右手の甲の紋章は消えない。そうして、この展開を予想していたかのようにハンナマリはアクセサリーの一切を身につけてはいなかった。
中立を保とうとしていた貴族もこれには眉根を寄せた。彼女個人に恨みを持ってはいなくとも、聖女を偽るのはこの信心深い聖都において重罪である。
アイナは首を垂れたまま微動だにしなかった。まるで断首を待つかのようにぴくりとも動かない。
その殊勝な態度に、フレデリクはフンと鼻を鳴らす。
この聖都において聖女信仰は篤い。聖女はどの治世にもいるわけではないが、もしも聖女が発見された場合は必ず王家が貰い受けるしきたりとなっている。王家の都合や聖女との相性を考え、王家の直系ではなく分家が貰い受けることもあったが、今世は約半世紀ぶりに王家直系、それも第一王子が聖女の婚約者となった。一番の理由はフレデリクが熱心な聖女信仰者であり、それを望んだからだ。
フレデリクは聖女にまつわる文献や伝承、果ては御伽話にいたるまで、幼い頃から熱心に聖女を追いかけ続けていた。そんな彼が生まれた頃には残念ながら聖女の力を持つ者はいなかったが、聖女の力を持ち得て生まれる者と、ある日突然発現する者、二種類の聖女がいることを彼は知っている。だから夢見たのだ、聖女がいつか自分の前に現れて、自分と結婚する未来を。
そして彼の念願叶って、聖女として王宮に現れたアイナと出会ったのは彼が十四の時。まだぎりぎり、彼が婚約者を定められていない時だった。彼は自分の運命に感謝し、そして胸をときめかせてアイナと対面した。
同い年だというアイナは、その頃から美しい少女だった。見た目もであるが、所作が美しく、心根が美しい少女。フレデリクは完璧なカーテシーを取る彼女を見て目を細めたが、しかし自分が思ったよりも心が騒がなかったのをよく覚えている。美しいとは思った。だが、ただそれだけだったのだ。それは、憧れ続けていた聖女を前にしたというのに、不自然なほどに。
周囲が不審に思わない程度には、アイナを婚約者として扱ったつもりだ。だが、胸の内にある掴みどころのない嫌悪感をアイナに抱えていた。そのためか、人の心に聡いアイナは積極的にはフレデリクに近寄ろうとはしなかったため、溝はやんわりといつまでも二人の間にあった。何年経っても、むしろ年数を重ねれば重ねるほどに、溝は深まる。
言いもしれない不快感を、アイナには最初から抱え続けていた。しかしそれの正体に、フレデリクは終ぞ答えを出せぬままだった。……自分こそが真の聖女であると三ヶ月ほど前にフレデリクの前に現れたハンナマリに出会うまでは。
ハンナマリに出会った時の、まるで雷が全身に巡ったかのようなあの衝撃を今でも覚えている。この人だ、とフレデリクは一眼見た時からわかった。血が騒いでる。ハンナマリという聖女に出会えたという感動で体が震えた。
ハンナマリは、自分が聖女だという証拠、聖女の力をそこから存分に証明し続けてはくれたけれど、彼は最初からハンナマリを疑うことはなかった。ハンナマリこそ本物だと、フレデリクは心の底からわかっていたのだ。
ぎり、とフレデリクは奥歯を噛み締めた。
よりにもよって自分を目の前にし聖女を偽ったアイナという女にフレデリクは剥き出しの憎悪を向ける。
「我が国で聖女を騙るなど言語道断!しかしお前のおままごとのような救済に救われた民がいるのも事実。最後の温情で死刑はやめてやる。しかし修道院なぞ、貴様には生ぬるい。そもそも聖職者にお前のような者が近づくことすらおこがましい!よって今ここにお前を国外追放とする!」
怒りの咆哮をあげる王太子。哀れんだようアイナを見下ろす聖女。そして、首を垂れたまま微動だにしない偽りの聖女。
断罪に、どよめきが起きる、その前に。
「終わったかぁ?」
どこか高慢で、愉悦を含んだような尊大な声が場を裂くように届いたのは。
会場中の目が、一斉にそちらを向く。フレデリクも、ハンナマリも。唯一、彼に目を向けていないのは顔もあげていないアイナだけだ。
この国にはほぼいないと言っていい漆黒の目に、漆黒の髪。体躯は大柄で、騎士にも見紛おう厚みのある体。しかし、彼が貴族の上流階級であるのはその身なりで一目でわかる。シンプルながら上等であることがわかるスーツと装飾品。にやにやと笑っているその美丈夫が本当の意味では笑っていないのは、誰の目からも明らかであった。細めた目は暗く、冷たい。その美貌ゆえに怒りは鮮烈に光っていた。
「ウォルフ=クロイツ殿下…」
誰かが呆然とつぶやいたその名前を否定することはない。海を渡った先にある大国スワイデの王子、ウォルフはニヤニヤと笑いながら歩みを進める。
躊躇うことなく寄り添うようにアイナの隣へ座った。どかりと、胡座をかいて不遜にフレデリクを見上げる。その時だけ、僅かにアイナの肩が跳ねる。それに気づいたのは、おそらくウォルフだけだったろうけど。
ウォルフはタイを雑に外しながら一息つくと、胡座の上に片肘をついた状態でフレデリクを見上げた。
「いやはや、恐れ入った。勉強のためだなんだとほぼ無理やりの形で海の先に留学すれば、まさかこんな面白い即興劇を見られるとは。女一人をこのような衆人の前で見せ物のように辱める行為、確かに我が国ではあり得ないことだ。こんな世界もあるのだと、勉強には確かになったな」
「クロイツ殿っ、貴殿には関係ないことだ!」
「関係ないとは笑わせる。俺を主賓として招いたこの夜会でこんな真似をしておいて?」
顔を赤くしたフレデリクをウォルフは鼻で笑う。
ウォルフの後ろでは可哀想なほど慌てた従者が動こうとしているが、フレデリクの手前、下手に動けないのだろう。
ウォルフは嘲笑ともとれるような笑みを浮かべ、そうしてそっとアイナの肩に触れた。アイナの肩が、今度はわかりやすく揺れる。ウォルフは薄っぺらい肩に心の隅でため息をつきたくなりながらも、引き寄せるようアイナを胸に抱き込んだ。周囲にその顔を見せないよう、少し強めに胸に押しつける。
「デンタール国王陛下夫妻は此度の夜会には不参加。ざっと見た限りこの夜会に貴殿以上に身分が上の者もいない。ということは、俺と同じ身分でしかない貴殿へ口を慎む必要もないということだろう?ああ、そもそも学園でもそこそこ話した仲じゃないか。そう目くじらを立てないでくれよ」
「っ何を!クロイツ殿!よもやお前もその偽りの聖女に騙され、毒された口かっ!?」
「ひでえ言い掛かりだな。王太子殿と同じよう、真面目に学園に通っていた俺に、教会から離れないこの偽聖女サマと会う暇なんてなかったろ?そうじゃない。ただ、言うならば」
そこで、ウォルフは胸に抱き込んだアイナをちらりと見た。小さく華奢で、折れそうなほど細い女だ。力を込めて触れたら、それだけで手折れそうなほど、哀れな女。
抵抗をする様子を見せない、というよりはそんな気力がないといった彼女の様子をもう一度見てから、ウォルフは顔を上げた。
「俺の国には女性を虐げるような文化はないんだ、大切にしろとは言われてもな」
そういって、今日一番の嘲りの笑いを向け明るくウォルフが言い放つ。余談だが、後ろで控える彼の従者の顔色が紙のように白くなり、声にもならない悲鳴を上げたのに気づいたのは、会場中でウォルフだけだろう。
ウォルフの言葉を聞き、フレデリクが顔を真っ赤にしたのを見て、ウォルフはパッと笑う。このような場面でなければ、本当に仲の良い友へと向けるような、明るい顔であった。
「なーんて。な?学友との別れを惜しむあまり、俺も戯れが過ぎたようだ。この会話は王族同士ではなく、ただの学友との戯れの言葉として納めて欲しい。そうすれば俺も、自国に帰ってあることないことふざけて口を滑らすことはないだろう」
「……っお前!」
「ああそれはそうと。デンタール王国では聖女を偽ると大罪になるそうだが。聖女信仰がない我が国では罪ではない。なので、例えば貴殿らが国外追放したどこぞの大罪人を俺が拾おうと、何の罪もないことを理解して欲しい」
「勝手にしろ!その穢らわしい女が俺の目の前から今すぐにでも消えればどうでもいいっ!」
そうヒステリックに叫ぶよう言ったフレデリクの言葉をこれ幸いと言わんばかりにウォルフは都合よく拾い「では、気分が優れないようなので俺たちはここで失礼しよう」と笑顔を保ったままウォルフは立ち上がる。アイナを胸に押しつけ抱え込めば、一瞬非難めいた目がこちらに絡む。まだ断罪が足りないとでも言うような、ハンナマリの目だ。真の聖女というわりには慈悲がないなとウォルフは心の内で笑う。
けれど外の態度としてはそんなものに構うことなく、アイナを抱えたままざわめく会場を突き抜けていく。悠然と歩く姿に、迷いはない。
彼が長い王城の廊下を歩くこと数分、静かな足音が遅れて付いてきた。
「なんでそう、勝手なことするんですか殿下………胃に、穴が空くかと……」
「俺が勝手なことなんて、今更だろう」
カラカラと笑われて、顔色の悪い従者の眉根が寄った。頭が痛そうな顔で額を押さえる従者に、おざなりながら謝れば、諦めたようにため息をつかれる。
「デンタール国王陛下がいない場で、というのはどうとでもとれるが。おそらくはデンタール国王陛下の保身を王太子が良いように解釈しての断罪だったのだろうな」
「そうでしょうね。賢王と名高い方です。民衆人気の高い現聖女を切り捨てる。それが良い方向に転ぶのか、悪い方向に転ぶのか……その結果によってあの王太子の進退は変わるでしょう。自分には最悪の火の粉が掛からないよう、保身をかけているのが狡猾……いえ、デンタール国王陛下が賢王と言われる所以でしょうね」
「ご子息は全員で四人だったか?ではあと三人までは失敗できる、残機に余裕があることだな」
おもしろくもない皮肉を飛ばしあい、二人は目だけで示し合う。心得たよう従者は頷いてから、場を離れた。もうこの国にいても何も学ぶことがないのは明白だ。スワイデ国にいる父王の義理でこんな遠い国まで留学には応じたが、一刻も早く出立してスワイデ国の空気を肺いっぱいに吸い込みたい気持ちでいっぱいであった。
ウォルフはそのまま歩き続けて、王城から出る直前に止まる。そして、あえて何も声をかけなかった胸の中の小さな存在に顔を寄せた。
ため息ともとれるような小さな息をついて、それから彼女の耳に口を寄せる。秘密ごとを言うような小さな声で呟く。
「泣くな、アイナ。もう何も、怖いことは起こらない」
そう言っても、胸の中の存在は体を小さくして、声を殺して悲壮に泣くだけだ。スーツはびしょびしょだろう。そうは思っても、ウォルフは彼女を離すだなんて思いも過らず、ただその頭を撫でて抱き抱え直す。
この国の誰にも、彼女の泣き顔なんて見せるつもりはなかった。
◆◇
彼女、アイナは目が溶けるのではないかと言うほど泣いた。そうして数時間泣いた後には気を失うように眠りにつき、彼女が再び目を覚ました時は船の上だった。
しかし、その現状を彼女は驚くことなく受け止め、上等な客室のベッドの上、浅く息をつく。目が覚めた彼女は、客室に備えられたシャワールームに行き、体を清めた後には、備え付けてあった簡素な服に躊躇うことなく身を通した。そうして、ベッドの横にある袖机に置いてあったチャイムを鳴らす。そうすれば、程なくしてこの船の主、スワイデ国王太子であるウォルフがアイナの目の前に現れた。夢のような対面だ。しかし、夢ではないことはわかっているアイナは淡く微笑み、ウォルフと対峙した。
「ここで話を?」
「……いや、デッキで話そう。今はちょうど夕日が沈む頃だ。綺麗なものだぞ。とくに、海をそんなに見ていないと言っていたアイナには飛び切りだろう」
そう言って無邪気に笑う男が、本当は無邪気なばかりでないことなどアイナは知っている。その身分故、男が振る舞うほど本当は自由は少ないはずだ。けれど、ウォルフの笑顔に嘘はなかった。アイナは少しだけ迷う素振りを見せたが、元よりこの船上においてアイナがウォルフに逆らうことなどあり得ない。背を向け歩き出すウォルフの背を従順に追った。
ウォルフは発言通りそのまま、船のデッキに向かった。
先ほどのウォルフの言葉通り、海に夕陽が沈む頃で真っ青な海が太陽の周辺だけ赤く染まる。水平線まで赤く、青と赤のグラデーションは確かに綺麗なものだった。そもそも海など見たこともなかったアイナにとって海の上というだけでも胸がいっぱいになったのに、この壮大な夕焼けは思わず息を呑んだほどだ。
「綺麗……」そう、状況を忘れて呆然と呟けば、ウォルフが苦笑して横に並んだ。
海なんて、王国が港の近くにあるウォルフにとっては見慣れたものでしかない。たまに王室を抜け癒されることは確かにあるが、こんな風に感動したことはないのだ。
「アイナが望もうと、望むまいと、もう海なんて珍しいものではなくなるぞ。スワイデ国は海の国なのだから」
「やはり、私は……」
「もう、デンタールには帰れないし、帰しもしない。………お前の意思を聞く前の誘拐まがいの出立になってすまないが」
「……それは、いいのです。どの道貴方様が連れ出してくれなければ国境へ捨てられた身でしょう」
アイナはデッキの縁、所在なさげに佇んで、それから少し沈黙した。
静かな瞳で何度か瞬きし、ゆっくりと口を開く。無理をしている様子はなく、また怯えた様子もない。ウォルフはその肩を引き寄せたが、アイナはウォルフを見上げることなく海に目を向けたままだった。
「……我が母は、前代の聖女様と幼馴染にあたる子爵の女当主でした。父は私の物心がつく前からおらず、屋敷には使用人を除けば母と私しかいなかった。母はよく、前代の聖女様の話をなさった。その姿は熱心な信者によく見える、盲目な信仰心が覗くこともありましたが、しかし聖女様を敬う心は確かに本物のようでした」
凪いだ話ぶりは、今の海の様子と似ていた。
まるで誰かにこうやって話すことをいずれかは想定していたかのような、落ち着いた話しぶりだ。
アイナの母の幼馴染である前代聖女は心根が優しく、そして誰にでも救いの手を差し伸べる人だったらしい。らしい、とつくのは、アイナ自身は会ったことがないからだ。アイナが生まれる頃には前代は亡くなっていた。元より、聖女とは短命なものが多い。聖なる力の代弁者たる彼女らは、その身に宿る以上に力を酷使してしまうものが多いからだ。そんなところも含め前代は真の聖女だったと語る母の姿は、いつだって恍惚とした笑顔であった。身近に知るものが、ある日突然聖女となって国を救う立場になる――その姿に、完全に母は当てられていたのだ。
前代が死んでから十数年、次代の聖女の座は埋まらなかった。デンタール国に、聖女は途切れず存在するものではない。
聖女がいなくとも国は保たれたままだ。その仕組みもある。しかし、いた方が世が分かりやすく安定することも確か。
「……聖女を偽る腕輪。それを私の目の前に母が差し出したのは、八つをすぎる頃でした。母がいつそれを手に入れたのかはわかりません。晩年の母が言うには、その腕輪は先祖代々受け継がれた聖なるものだと言われたこともありますが、晩年の母は妄想と現実の境を常に行き来していたところがあった。聖女がいない時代が続くのであれば、我が子爵家がこの腕輪を嵌めて擬似的な聖女となるお役目がある……母は確かにそう言っておりました」
「聖女を偽る腕輪、ね」
「聖女信仰のあるデンタール国でしたから、出来の差はあれど、そういった魔道具の存在は腕輪以外にもあったのです。あの腕輪は、出来がいいものでした。聖女の証を偽れるだけでなく、聖なる力紛いの治癒魔法を施すことができる。聖女に課される大きなお役目は、治癒魔法を遺憾なく発揮し民にもたらすことと、国内へ聖なる結界を張ること――結界魔法は元より私は得意でしたから、あとはどうとでもできました」
母から腕輪を嵌められ、聖女として過ごせと言われた期間が幾許か過ぎた後。母は死んだ。あまりにあっさりとした病死だった。床に臥した期間はたった一週間余りだ。しかし、何かの呪いでも受けたのかと疑うほどに彼女の容体は劇的に悪くなった。それこそ、偽の聖女の力で治癒魔法を施したところで、どうしようもないほどに。
それでもアイナは彼女の母の手を握り、必死に祈り続けた。祈り続け、しかしもう母の寿命が事切れるその瞬間。母は苦しいながらも最期の気力を振り絞るよう、笑ったのだ。「ありがとう、聖女様」そう。
それは残酷な一言だった。母に自分という娘が何も映ってなどいなかったのだ。母が求めたものは、初めから最期までアイナではない。聖女なのだ。
呆然としたままに、それでも聖女として役目を果たしなさいと呪いの言葉のようにしつこく母から言われ続けていたアイナは、母の死後も聖女のように振る舞った。そうすれば、徐々に、しかし確実にアイナの評判は広がっていく。転機はついに訪れ、アイナが周囲の評判に押され、王城へと『聖女』として招かれたのはそれからしばらくした後だった。聖女として、正式に名を頂戴したのも。
誰も彼も、デンタールの人間は聖女を求めている。聖女の祈りを、啓示を、守護を。
アイナに宛てがわれた教会に訪れる彼らはアイナ自身に礼を言わない。神の代弁者たる聖女に礼を言う。死の床の母とまるで同じだった。
「私にはそれが、歪なものに見えました。デンタール国の信仰心が不気味で、怖かったのです。そんな気持ちをどこかに持ち続けた私はやはり偽物の聖女です。非難をされても、申し開きもできない」
「しかしそれでも、治癒も、啓示も、結界も張り続けてやったじゃないか」
「治癒はまだしも、啓示と結界は聖なる力ではありません。ただの、私の知識や魔力を使った嘘っぱち。たまたまそれが、上手くいっていただけ」
自棄になっているようには見えないが、決して楽しそうでもない。そのアイナの様子にウォルフは目を細めた。
ウォルフの祖国、スワイデ国には聖女信仰はない。海に対する信仰は残ってはいるが、国民の割合として熱心な信仰心を持つものは少ないだろう。故に、熱心な聖女信仰が残るデンタール王国の民の気持ちがわからない。そもそもの土台が違うため、彼らの理屈がわからない。ずっと、ウォルフには、何故アイナが断罪されたのか、その理由がわからないのだ。
アイナが聖女として尊大に振る舞って、権力に物を言わせ、私腹を肥やしていたと言う話なら分かりやすい。しかし、彼女はただ聖なる力だけがない聖女として救いの手を伸ばしただけだ。足りない力は魔道具を使い。自分の知識や魔力を使い。
フレデリクには、まるでウォルフはアイナと対面などしたことないよう振る舞ったが、実際は半年の留学期間でアイナと対面した数は両手でも足りない。
学校にも行かず聖女として与えられた教会を切り盛りするアイナの下へ、ウォルフが初めて訪れたのは少しの興味と、退屈しのぎ。それだけであった。
聖女信仰が根付く国、そして今世にはちょうど聖女がいる。学友の誰かに聖女様を一度は見てみたいと世間話の一環でこぼしたところ、是非にと手を引っ張られたのだ。
そうして、連れてこられた厳かな教会の中。張り詰めるほどに神聖な空気の中で佇む、聖女アイナ。門戸は開き、彼女は来るものを一つも拒まない。完璧な慈愛の笑みを浮かべ、ひっきりなしに来る相談者の相手を一つ一つ丁寧にこなしていく。しかしそのアイナ自身の顔色は真っ白な作りをした教会の壁にも溶け込みそうなほど青白かった。それこそ、誰もアイナの体調を鑑みないのが不自然なほどに。思わずウォルフは眉根を寄せた。
お前は聖女様に相談事はないのかと学友にせっつかれる。信心深くはなく、望む夢は自分で選び勝ち取ってこそだろうという心を持ち、体も強いウォルフは、このどこもかしこもか細い聖女に叶えてもらいたい奇跡などただの一つも思い浮かばなかった。しかし、軽口の一環とはいえ、ここまで連れてきてもらった学友の手前何も相談もせず立ち去るのも座りが悪い。
ウォルフは、アイナにこう言った。
「あー……聖女様ご自身の体調は聖なる力では治せないのですか?」
「……え?」
「こちらが心配になる程、顔色が悪い。正直貴方が今ほど治してやっていた軽い風邪を患った男よりもよほど心配になる顔色をしておられます」
「…………聖なる力は、自身には向けられないのですよ」
「ああそれは、……不便な力ですね」
それは聖女の力を侮ったわけではない。ただ、純粋に不便だと思っただけだ。人には向けられても、自分の体調一つ治せないなんて。それは、同年にも見えた少女に対する憐憫を抱いたが故の、素直な感想であった。
周りにはほとんど人がいなかったとはいえ、その言葉に顔を青くしたのは同行した学友だ。聖女の力を不便だなどと、不敬だなんて一言じゃ表せないことを、今この留学生たる王太子は言ったのだ。
どう非礼を聖女へ詫びようか、滝のような汗を掻く学友を置いて、沈黙を破ったのはアイナ自身だった。フフフ、と鈴が鳴るような軽やかな笑い声をあげる。
「そんな問いをされたのも、そんな風に断じられたのも初めてです」
「……それはそれは。不躾な言葉を投げかけて失礼いたしました」
「いいえ。貴方様の言葉は、何か……嬉しかったです」
そう言って目を細め、淡く優しい笑みを浮かべたアイナが、何故かこのまま泣き出すのではないかとウォルフは目を瞠った。しかし、当然アイナが突然泣きだすことなんてない。穏やかな笑みがそこにはあるだけだ。
けれど、何故だろうか。聖女然するこの少女が、ウォルフにはそう神聖な存在だと思えなかったのだ。ただ、泣き出すのを、辛いというのを必死に飲み下しそこに立っている、役目を果たす淑女にしか見えなかった。そのあと、アイナは別の相談者に声をかけられ、会話は終わってしまったけれど。
張り詰めていたと思った神殿の空気は、もしかしたらアイナの心そのものなのかもしれないと思った。弱音一つも吐けず、人々の願いばかりを叶える奇跡の聖女。
帰り道、学友にあまり聖女様に無礼な物言いをするなとお叱りを受けた。しかし、その口で次にはポウッとした表情で顔をほのかに赤くしながら「でも、あんな風におどけたように笑う聖女様は初めて見た……可憐だったなぁ」と呟くのだ。学友を鼻で笑うのを堪え、代わりに違うことを考えた。
聖女も学友も、初めてという言葉を使う。
そうか、……そうかと。あの淑女自身を気遣う者は、異端で、この国にはいないのかと。ウォルフの頭にはこびりつくよう、初めてという言葉と、アイナの消えてしまいそうな笑顔が離れなかった。
それからだ。ウォルフが少しの合間を見つけ、教会へと足を向けるようになったのも。アイナがウォルフをウォルフ様と名前を呼ぶ仲になり、学友曰く「初めて見る」笑顔をウォルフにだけは屈託なく向けるようになったのも。ウォルフだけが砕けた口調でアイナに話しかけるようになったのも、どこかそれをアイナが嬉しそうにしていたのも。
けれど、最後まで彼女は自国への不満も、聖女として抱えていた恐怖も、ウォルフに打ち明けようとはしなかった。
アイナが思う聖女としての矜持がそこにあったのだ。ウォルフにはあの国の聖女信仰がいまだに分からないが、しかしあの国の誰よりもウォルフは聖女アイナをまっすぐに見届けた。
「私が追放されるのは、当然の結末でした。もとよりこんなやり方で、綻びが出ないはずがない。私が断罪されたのは何も間違っていない。真の聖女が現れたのなら、あの国にとってこれほどよいことはないのでしょう」
「……聖女がいない世をアイナなりに必死に守ってきたというのに、随分と聞き分けのいいことだな」
「そうでしょうか?でも今は、少し安心している気持ちもあるんですよ。いつ私の正体がばれるのだろうと日々怯える気持ちも確かに抱えてましたから」
そういって、アイナは手にずっと握っていた腕輪を一度ぎゅっと握り、それから大きく振りかぶって海へと投げた。もういらないものだったから。
腕輪はぽちゃんと海の青に吸い込まれていく。もう、見つけたくても見つけることなんて不可能だろう。
「……お母様。私、貴方をきちんと弔えましたか……なんて。私が聖女を貫いた理由なんてもとを正せば、お母様に求められたから、それしかなかったの。ちっぽけな、利己的な理由。私は私のための、聖女だっただけ」
そういって、独り言のように呟く声はか細い。無理に笑う彼女をもう我慢することなくウォルフは引き寄せた。
胸にしまい込むよう力強く抱き込まれ、ウォルフに昨夜抱き込まれた時も感じた、潮の香り。これは彼に染みついた海の匂いだったのか、とアイナはふと気づいた。そうして、潮の香りに紛れてまた泣きたくなる。
「アイナ、今は無理かもしれない。けれどいつかは言ってくれ。お前はあの国に追い出されたわけじゃない。お前から出てってやったんだと。スワイデ王国を、お前自身が選んだんだと」
「ウォルフ様……」
「うまい物を食べ、美しい景色を見て、好きなように着飾れ。疲れたら昼に起きてもいい。好きなように、やりたいように生きてみろ。たっぷり休め。アイナがアイナとして心から笑えるその時まで、俺がお前を守り抜く」
そういって、ウォルフは熱い息を吐く。
アイナはアイナが思うほどに弱くはない。今は疲れへたれこんではいるが、ウォルフには彼女の強さがわかる。心根が強く、矜持のためにやり抜いたのだ。彼女の思う、聖女を。そうしてそれを欺けるだけの能力があり、知識があった。
優しく誰にでも手を差し伸べるアイナは神々しく、その姿も嫌いではなかったが、聖女という役に押し込まれるだけでは勿体無い。スワイデ王国なら、ウォルフならば彼女を人形にはしない。
「攫った身だが、誓おう。スワイデ王国は、きっとお前も気にいる。なんせ、俺が愛する国だからな」
「…………初めて会った時も思ったけれど、貴方ちょっと不遜よ」
そう、涙交じりに笑う彼女の砕けた語尾に、ウォルフは笑う。それは、彼が思うより甘く、優しい笑顔であった。この夕日に似合の。
邪気のない綺麗な笑顔を浮かべたその人を、生涯忘れることはないとアイナは思った。アイナを連れ出し、海の向こうに連れ出した人。
ウォルフも思う。今日この日、やっと自分の手を取って心の内を話してくれた、世界で誰より綺麗な彼女のことを、やっと胸に抱えられた今を、忘れないだろうと。
「少し前言撤回だ。お前が笑える日まで守ると言ったが、お前が俺を選び、望むなら生涯アイナを守り抜くと誓おう」
「…………それ、は」
「まあ、返事は今すぐじゃなくてもいい。こう見えて気は長いし、……逃す気もないしな」
そういって、機嫌良くアイナの髪を一房掬い、口付ける様はまるで御伽話上の王子様のようでアイナは顔を真っ赤にした。普段は人を小馬鹿にした表情ばかり浮かべているが、少し黙ってしまえばその整った美貌には気障ったらしい動作が驚くほどに似合っている。故に、聖女扱いはされても一人の淑女として扱われることに慣れていないアイナはあてられてしまう。
真っ赤なアイナの顔をおかしげに覗き込み「これは重畳、短期戦で済みそうだ」と低く笑うウォルフに、アイナは抵抗とばかりに胸元を小さく叩く。まさしく猫が威嚇するようなものだ。大きな狼に、猫が戯れているようなその格好に、今度こそウォルフは大きく笑った。
湿った風を吹き飛ばすような笑いに押されるよう、船はアイナたちを運んでいく。スワイデに着くのは、もう間も無くだ。
◇◆
「綻びが、ない……」
愕然としながら、聖女ハンナマリが呟く。彼女は国境近くの土地にいた。この王国は魔物がこないように結界で守られている。聖女がいる場合は聖女の聖なる結界を。聖女がいない場合は国が抱える優秀な魔術団による魔術結界を。
一月前までは偽の聖女であるアイナが真似事の結界を張っていたという。今までは運良く魔物が押し入ってきたことはないが、しかし偽の聖女が施した結界だ。急務としてハンナマリは偽の聖女が張った結界を結び直すよう王直々に命令された。口ではなんて面倒なことを、など言っておきながら心の中では自分の力が求められ、国王直々の命令に自尊心は満たされていた。そうして、問題の結界を見て回っているのだが、真似事でガタガタのはずの結界に、綻び一つ見受けられない。
これには帯同した熟年の魔術師も困惑していた。
「なんで……こんな完璧な防御結界が……」
「これは確かに聖なる力での結界ではない。魔術結界だ……しかし、ここまで綻びも死角もない魔術結界など、ありえるのか?」
困惑しながらも、その目はいやにキラキラと輝いていた。魔術師というのは勤勉で、職人気質なところがある。誰かが斬新な魔術式を組もうものならそれを知り、自身の知識として吸収しようとするのだ。
その目が、ハンナマリは気に食わなかった。たかが偽の聖女のちょっとした防御結界くらい!
ハンナマリはそれを力任せに解き、代わりに聖なる結界に塗り替えた。途端、魔術師からどよめきが起こる。それは単に、アイナの防御結界を検分できなかったためだけではない。明らかに、アイナの防御結界より聖女の結界の方が質が悪いのだ。
聖女と言っても、ハンナマリの力は四ヶ月前に発現したばかりのものである。それを思えばハンナマリの聖なる結界の力は確かに強い方だと言える。ただ、比べるアイナの魔術結界の出来が良すぎただけ。
ハンナマリの結界は、アイナの結界と比べれば「綻んでいる」と言わずにはいられない出来だった。しかし、何かヒステリックになってしまった聖女を宥めなくてはいけなくなった魔術師は、綻びのフォローもできなくなった。
別の時。
ハンナマリはアイナが宛てがわれていたという教会をそのまま貰い受けた。ハンナマリの下には貴族平民問わずたくさんの者が加護を貰おうと押し寄せてくる。しかしそうはいってもハンナマリは学生の身分であり、ましてや未来の王太子妃だ。教会にばかりかまけてもいられない。そのため、日に何人まで、門戸を開ける時間帯も日中の時間までと制限をつけた。
これは貴族よりも平民の反発を生んだ。もとより教会に訪れる大多数は治療を欲する平民だ。貴族と違い、彼らには金がなくいつも医者に行けるわけでもない。だからこそ無償で開く聖女の下へ向かう。にも関わらず、その聖女が切り捨てるように制限をかけた。
そうして誰かが言った。前の聖女様ならそんなことしなかったのに、と。
それは、ざわざわと木霊のように伝播し、他の平民も口々に言い出していく。ハンナマリは口さががないその言葉を聞く度、怒鳴って追い返した。聖女を奴隷か何かと勘違いしないで!と彼女は叫ぶ。叫ぶたび、彼女の心はひび割れていくようだった。
偽の聖女と何故この私が比べられなければいけない。どうして偽物のあいつをみんな持ち上げる?私が、私こそが真の聖女なのに!
◆◇
「俺が思うに、デンタール国王陛下は本人の口ぶりよりも熱心な聖女信者じゃないと踏んでいる」
「それはなぜ?」
「アイナが陳情を出したことがないとはいえ、聖女アイナの扱いがあまりに不当だったからだ。あれでは奴隷の方がマシだというほど、アイナは国益のため酷使されていた。まるで使い潰すように。……おそらくはアイナが聖なる力を持っていないことも、あの王は知っていた。あの王太子はアイナが聖なる力を持っていないことを初対面の時にすでに感じていたようなことを言っていたな?おそらく、王家の血を引く者は直感的に聖女の力を感じられるのだろう」
スワイデ王国の執務室。片しても片しても積み上がる書類に辟易としながらも、それでも優秀な補佐官と共にウォルフは手を動かす。
その書類の一枚に、デンタール王国からの書簡があったのでウォルフは少し目を細めた。書簡を開ける前に、補佐官に雑談めいた話題を軽い口ぶりで振る。補佐官も、なぜウォルフが今になってデンタール王国について話しだしたのか、心得ているのだろう。とくに驚きもせずその雑談に乗った。
ウォルフは立ち上がり、執務室の窓へ寄った。王宮のテラスが一望できるそこには、アイナが花を愛でつつ散歩している。その顔色は、あの時とは比べ物にもならないほどに血色がいい。
「聖女の力を感じられる……ふむ……それは我々からすれば何か薄気味悪いですね」
「同感だ。自分の血に聖女の血が混ざっているからなのだろうが、それを求めてはママーママーと縋り付く乳飲子のようだ」
「殿下……私はそこまで悪様には言っておりません」
「おっと、失礼」
閑話休題。
デンタール王国と違い、スワイデ王国には聖女へ対する戒律がない。
ちょうどデンタール国を出立しようとしていたボランティアとして奉仕活動をしていた魔術師を一人連れてきただけ――アイナを王宮に招いた際、しれっとウォルフが紹介した説明だ。豪胆すぎる説明にアイナが驚き言葉を失ってる間にも、ウォルフは「しかも学校に行く間も無くこの淑女は教会で奉仕を続け、結界を張り続けた。我が国では信じられない過労働ぶりだ」なんてわざとらしくため息をついたため、一気にアイナへ同情の目が向けられた。そんなところ逃げて当然だよと誰かが言えば、口々にアイナを慰めていく。
嘘は言っていない。ただそこに重要な聖女というワードが抜け落ちているだけで。
しかし、ここで本当のことを言おうものならアイナ自身はともかく、ウォルフが責められるのかもしれない。国際問題になど自分のせいでなってしまったら……とアイナが下手なことを言えずに困惑しながらウォルフを見上げれば、ウォルフはニコリと王子面して笑うばかりだ。確信犯だ、と口がぱかりと開いたアイナにウォルフは咳き込むほど笑い、側近は申し訳なさそうにアイナを見た。
と、そんな経緯があり、今のアイナは宮廷魔術師としてそこにいる。
自身を聖女だと偽り続けたアイナの魔力の質は驚くほどに高い。とくに結界魔法の質がよく、傍目には綻びが見つけられないほどの精度なのだ。王宮として、末長く重宝したい存在だ。
遠目に見ても、今の彼女はあの硬質とも取れる神々しさはもうない。綺麗で美しいままではあるが、親しみやすくなった。アイナ自身に告げ、少し怒られた言い方をすれば以前よりも「人間味が増した」のだ。
楽しいことがあれば笑い、美しいものがあれば目をとろけさせ、疲れれば体が軽くなるまで眠る。喜怒哀楽における喜楽は大分すんなりと出るようになったのだが、怒ることと悲しむことはまだ下手なままだ。だからたまに、からかいついでにアイナを怒らせる物言いをする。あまりやりすぎると側近たちから呆れたような目を向けられるが。
しかし、しょうがないではないか。どうせならアイナの全てが欲しいのだ。と、言えば側近たちから更に引いた目で見られることは浮き彫りなので、そこまでは口にしない。
「デンタール国王陛下が一番恐れたものは、王宮内の敵ではない。平民だ。手の内に入れれば簡単に褒美や便宜一つで掌握できる貴族などよりも、直接謁見することのない平民こそ恐れているのだ。実際、デンタール王国は聖女不在の時には平民から革命を起こされそうになった記述もある。デンタール王国は貴族を懐柔するため、税率が高いからな」
「………聖女をスケープゴートにしていたということですか」
「絶対王政という言葉がよく似合う地域だったよ。留学の甲斐あった。反面教師としてな」
今のアイナに目を向ける。よく笑うようになった。自分でやりたいことを言うようになった。たまには怒るようにもなった。しかし、悲しむ顔は見たくはない。
一生分の悲しみを、もうきっとアイナは味わったのだから。
そんな彼女は自分の意思で聖女を偽ったと言っていた。しかし、ずっとウォルフの中には疑念がある。本当に?本当にそうだったのだろうか?
あまりに舞台装置が用意されすぎていた。
「偽の聖女としてアイナが完璧に立ち回った。アイナはたまたま聖女を偽れるほどの才があった。………アイナの母が持っていた魔術の腕輪。あれは本当に何故アイナの母は持っていたのだろうな?もう現物はないとは言え、聖女の治癒能力が疑似的に扱える魔術具なんてそう持てるものではない。ましてや、一介の女子爵家の領主程度に。……そして聖女の代理というのは、あまりに王家に都合がいいな」
「まさか……」
「さあ、誰が手引きした、など他国の王太子風情の俺が言及などできないが。まあしかし、もしもさる高貴な身分の方が、そういった手引きをしているとなれば、国としては問題だろうな」
こともなくいうウォルフの言葉に、補佐官は息を呑んだ。
聖都、デンタール。
聖女信仰の根強い彼の国。聖女信仰があるほどに、聖女の発現率が高い国。しかし、本当に?アイナは前代未聞の偽聖女だったのだろうか?本当に未だかつて自身を聖女だと偽って、聖なる力を持ち得ていなかった偽の聖女はただの一人もいなかったのだろうか?わかりやすい右手の甲の聖女の証があれば、それが聖女だと信じて疑わない国民たち。本当の意味で王家以外には聖女と聖女じゃないものの見分けがつくものはいない。
その割に、聖女を偽るのは罪だと断罪する奇妙な言い分を通す奇妙な国家。
「今から話すのはただの創作話だと思って流してくれ。聖女という存在があの国で生まれ、それは都合よく平民のご機嫌取りに使える存在だと王家は気づいてしまった。それから王家は聖女の血を取り込んだが、しかし聖女の発現というのは血統ではない。しかもどの世にも絶えず生まれるわけでもない……王家は魔道具を使った偽の聖女作りを思いつく。『聖女とは素晴らしい存在で神に選ばれたもの』という憧れを利用する。そのために、王家は過度な聖女信仰を煽るような伝承をいくつも残した。偽でもいいから聖女になりたい、そんな人の穴をつくように」
「そんなのは、人柱と何も変わらないじゃないですか……」
「その通り。だからこそ偽の聖女作りに王家が加担してるだなんてばれてはいけない。加担していないという証に王家自ら聖女に対する厳しい法律を作っていく」
腐ってる、と吐き捨てるように補佐官が言うのにウォルフも鼻を鳴らした。
確たる証拠は何もない。ただ、証拠なんて出はしないだろう。もしウォルフのこの創作話が正しいのであれば、これは数百年に渡る王家の秘密となる。証拠なんて握り潰していないはずがない。ましてや現在のデンタール国王は、歴代にも稀に見る天才と言われている。賢王が、他国からの介入を許し証拠を易々と引き渡すとは思えないのだ。
しかし、しかしだ。
ウォルフはデンタール王国からの書簡をそっと開ける。そこには概ね予想通りのことが書いてある。大して親交もなく、同盟国ですらない遠い海の国スワイデに対する支援物資の援助要請。内乱が重なり、その上で国境付近の結界の綻びで魔獣まで迫ってきているらしい。もしいれば、援助物資の他に、腕の良い結界師も要請したい、と厚顔無恥にも程があるおまけまでついてきた。
ただの偽聖女一人追放しただけ。切り捨てただけ。そうだったんだろう。デンタール王国にとっては。
しかし今やウォルフの下へ書簡を送ってくるほどに追い込まれている。
何が決定的だったということでもないだろう。しかし常に分岐点はあった。これは民と、王族が選んだ結果だ。
そして、これは最期の分岐点だろう。
それを分かりながらも、ウォルフは呆気なくその手紙を縦に切り裂いた。
「なぜ、なぜ彼女は断罪されなくてはいけなかったのでしょうか?彼女は聖女ではなかった。ですが、それだけです。自分の力の限界を超えてでも、国を、民を支えようとしていた」
「青白い顔で、いつだって彼女はそれでも私たちに手を差し伸べたのです。私は大丈夫、そういって、彼女は……アイナ様は……笑ってくださった……っ」
「私たちがお礼をいうだけで本当に幸せそうな顔をしてくれたのです」
「彼女の自尊心は、あなた方が歯牙にも掛けない、私たちの礼の言葉だけで満たされていた。彼女ほど、彼女ほど聖女という言葉に相応しい御方を私たちは知らない。それなのになぜ、彼女はあんなにも不当な扱いを受けなければいけなかったのですか」
「返してぇ……!私たちに、アイナ様を、返してよぉッ」
そう、名もなき平民が言う。王太子が歯牙にもかけないような、有象無象の平民の女が言う。しかし、その女の慟哭が周りにも伝播する。濁流のように、平民からは啜り泣く音、泣き叫ぶ声、茫然自失と何事かを呟く声が王城へと続く広場に呪いのように木霊していく。
王城の周りには火をつけられた。もうここにいない家族もいる。ああ、聖女は、真なる聖女であるハンナマリはどこにいった。彼女がいれば、彼女からの天の啓示があれば、治癒があれば、聖なる結界があればどうにかなるのに。
いや、どうにかなる、はずだったのに。
ハンナマリはとうに逃げ出していた。平民に力を求められ過ぎ、心を壊した彼女はもう国内のどこにもいない。逃げるように国外へと旅立った。彼女は真の聖女であったのに、まるで国外追放されたようであった。
フレデリクは後ろを振り返る。
父であるデンタール国王は玉座についたまま、もう微動だにしなかった。諦めたように、目を閉じている。それと正反対に、母である王妃は泣き喚いて命乞いをしていた。まだ残っている一人の弟からは罵倒された。お前が聖女アイナを迫害しなければ!と。
そうして、前を向いた時、ついに革命軍が彼らを囲んだ。彼らは平民だったはず。力もない、気品もない平民だったからこそあの夜会にはいなかった。断罪の場にも呼ばれないような、有象無象の存在だったはずなのに。
「私たちはあなた方が思っているよりも愚かではない。無償の愛など信じていない。この世に神がいたとして、神はその手を自ら差し伸べてくれることなどない。それでも、アイナ様だけは無償の愛を持って、我々に手を差し伸べてくれた」
「あなた方が軽んじた命によって、あなた方は今ここに散るのだ」
破れ落ちた書簡を、補佐官がちらりと見る。
「平民からの謀反など……しばらくは動乱の時代となりますよ、デンタールは」
「どうでもいいな。そもそも平民にしたって、聖女聖女と祭り上げる割には、その裏で聖女を人扱いしていない奴が大半だった。まともな奴がいれば、そいつが立て直すだろう」
「……………信心深いデンタール王国。何故こうなってしまったのですかね……」
軽い調子でウォルフは言った。さもどうでもいいというように。
「さあ。天罰じゃないのか」
リアクションや感想、誤字報告ありがとうございます。
とても励みになります!
ちょこちょこ加筆修正しました。
皮肉屋な王子に、最後の台詞を言わせたかった。
書ききれなかったスワイデ側や、アイナ母のこと、なによりちゃんと二人が恋愛する様とか……いつか書きたいなぁ……。