夏野2
いつの日からか、1人でのそのそと起き上がることに慣れていた。かなり昔の話だと、義妹である凛華が叩き起こすのが日常だった。そこから少し経つと挨拶さえ許されなかった。今は……触れてほしくないから、義妹より先に起きて朝食も食わずに学校へ行っている。
「……本当にみんなと買い物行かないの?」
お母さんが背後にいるみたいだ。靴を履こうとする俺に話しかけてくれた。
「はい、2人で楽しんで欲しいです」
振り返るつもりは全くないけど、おそらく悲しい顔でもしているかもしれない。そして無言でドアを開け出ていく。いってらっしゃい、なんて言葉が後ろで聞こえた気がした。
朝イチの教室は雰囲気全てが好きだ。ガラガラとドアを開ける音、窓から聞こえる風音、隣の席の根原さんが奏でるスマホのタップ音。落ち着いた誰1人と俺を気にも止めないこれが好きだ。
「……」
「……」
両者には会話も視線も何1つない空気。俺は小説用のネタノートを開き、カリカリと音を出しながら今日投稿するだろう内容を駆り出す。
昨日の嫌な出来事を掻き消すように、筆が進み続けた。このペースなら昼休み前にエピソードを書けそうだ。
「……」
俺は人を噂如きで判断しないようにしている。人は信用するつもりは誰1人と許さない。でもこの根原さんは実は俺と似た、誰かの悪意で流された噂で生きている偶像に過ぎないのかなんて考えてしまう。
そんな都合のいいことは、この心地よい空間で積まれてしまったみたいだった。
「ねえ夏野くん。何書いてるの! 見せてよー」
やがて教室内は、30名ほど集まり騒がしい音になっていた。藤宮花奏が数名のグループを引き連れ、俺の目の前に現れノートを覗き見ようとしていた。俺にとっての諸悪の根源もとい、小学生の頃から人気者の俺が泣かせてしまった人。
今でも人気者を維持しているようで、男子も女子とも全員と仲がいい。チラっと正面を見ると昨日告白してきた人がいた。
「もうすぐホームルームなので座ったほうが良いですよ」
時計の針は鐘の鳴る1つ前を刺している。あと5分で始まるならさっさと自席に戻れば良いのに。
「いやーだってさ。私の友達がフラレちゃって泣いてたらしいんだけど、流石に理由くらいは知りたいからさ」
俺とその友達を交互に見てそう言った。気まずそうにしている友達さんは俺の顔を見ようとしていない。その空気感は前にも体験した、人を正当化して切り捨てる縮図だった。
「昔夏野くんと私がよく遊んでた公園で話聞かせてよ。今度はちゃんと逃げないでねー」
……向かうつもりなんてない。今度こそって、前はお前たちが嘘の集合場所教えてくれたせいで行けなかったんだけどな。返事は要らないと暗に伝えたのか、彼女らが立ち去ると同時にホームルーム始まりの鐘が鳴った。
出席確認を取る先生。適当な返事をしつつ、またネタノートに色んなことを書き記していった。
「はぁやっと午前中の授業終わったぜ。メシ食おうぜ」
ガラガラとうるさい音を立てながら机と椅子を移動している男子を尻目に、バイト代から捻出したパン2個を貪り食った。ふと周りを見渡すと俺の周りだけグループを作り上げ、俺の席は陸の孤島のようになっていた。
まあどうでも良いこと。早く猫さんの反応が見たいのでスマホで素早く投稿する。ピロン、投稿しましたという音と文字がスマホに出てきた。
「あっナツさん。投稿ペース早い」
それと隣の席の小声が漏れてきた。!?という驚きが俺の脳内をめぐり尽くし、遂に声に出てしまった。
「え、根原さん……が猫さん……?」
「え?」
俺と根原さん、両者ともに素の声で、誰かを拒絶するような声でなく本当の自分で反応していた。でもその声はざわつく教室には届かず、2人だけの知る秘密でなっていた。
「……ん」
すると根原さんは眉間にシワ寄せたまま、スマホを素早くタップしスマホを見ろと言わんばかりのジェスチャーをしている。
土曜日裏庭12。と書かれたコメントが、猫のアイコンと名前で来ていた。話をしようと言うことか。
「……」
通知を確認し根原さんの方向を見ると、ギラついた眼で俺を見ていた。それに応えるように俺は同意の意味として頷いた。
キーンコーンカーンコーン、昼休み終了の警鐘だ。ざわついていた教室も静まり教科担当の先生が入室してきた。それと反して俺の心臓は未だに高鳴り続けている。
今日も1日が終わった。それを告げるように部活へ行こうとする者、さっさと家に帰るため荷物をまとめる者、そして……
「夏野くん? 忘れてないよね。公園に行く約束……部活もやってないし他の先約もないでしょ?」
約束を果たす者もいる。この明るい藤宮さん、あの公園で起こったアレを覚えていないのか。それともそれをダシに俺を呼び出そうとしているのか……
「……はぁ、夏野はやく行くぞ」
根原さんがすごく嫌そうな表情を浮かべながら割り込んできた。土曜日じゃないのかという疑問もあったけど、苦手な藤宮さんに付いていくよりマシだと考え彼女の策略?に乗ることにした。
「ごめんなさい藤宮さん、根原さんとの約束があるので」
「へぇーそうなんだ。でもさ、夏野くん。根原さんってすごーく悪い噂があるんだけど知ってる? だから断っちゃいなよ」
そう彼女は根原さんの悪評を耳打ちしてきた。変な大人と遊んでいる、カツアゲ、恐喝、キリがない位に言ってきた。根原さんにも聞こえているはずなのに黙っている。その姿は黙っている方が無難だとそう感じている風だった。
「藤宮さんには関係ないです。気にしないで大丈夫です」
藤宮さんはそう聞くと酷く興味なさそうに、残念と一言だけ残して帰っていった。救ってくれた?根原さんの方に振り返る。騒がしい教室内と対象に、凛として咲いた花に彼女を見当ててしまった。
「……別に今日でも良い? 例の話し合い」
根原さんは言いながらある方向に指を指していた。あの方向は……校庭というより裏庭だろうか。
裏庭への道は校庭も通り道なので、かなり人通りが多かった。大多数は部活動の生徒、ユニフォームや体操服に身を包んでいる。チラチラとこちらを見ている様子から、悪者2人が密会をしていることが気になっているんだと思う。嫌なネットリとした嫌な視線たちだった。
今日は日が落ちるのが早かったのか、木々から色素の薄い太陽が照らしベンチをライブ会場のように彩っていた。昨日と同じく枯れ葉がベンチの上に乗っている。
「で、夏野がナツさん。私が猫」
なんと簡潔な言い草なんだ。分かりやすくていいけど、もっと置く間とかあったんじゃないのか。
「はぁ……幻滅したでしょ。あなたを応援していた『猫』がこんな、気味の悪い良い噂のない女だなんて。字面じゃ調子のいい心配言ってても、夏野のことを見捨てていたクズだなんてね」
今度は息づく間もない早口が飛んできた。でも否定したいことがたくさんある。
「幻滅なんて絶対にしないです。猫さんは猫さんです……それを言うなら俺のほうがクズです。根原さんが見ていたあの小説は、このこんな酷い人間が書いていたんだから。ごめ……!」
「作者のあなたが作った作品を否定しないで! 私はあなたの小説で救われたって言うのに……主人公もヒロインも、その世界に私は……!」
それはもう話し合いじゃなくなっていた。ごめんなさいと告げようとしていたのに、ただの自論の押し付け合いに変わっていた。俺も彼女も救われたモノの否定を酷く嫌っているからだと思う。
「俺だって、毎日毎日が猫さんのコメントで救われたんだ! だから……だからそうやって卑下しないでよ!」
「夏野こそ……! 私を生かしてくれた作品を、作者をそんな風に言うな!」
褒めているのか怒っているのか分からない言葉を、俺たちは投げつけあっていた。会話はキャッチボールと聞いたことあるが、今日のそれは全てがアタックの会話だった。自尊心を捨てた自身をこき下ろし、代わりに救われたものを称えるという異様な光景でいた。
両者、吐き出したいことは言い終えたのか疲れ切った表情のまま見つめていた。
「土曜日の件はこれで終わり……クソ、絶対に小説書き続けてよ。楽しみにしてるんだし、あとお前の噂言っても信じないだろうけど私は信じてなかったから」
彼女は吐き捨て走っていった。最後の方は素でタメ口で喋ってしまっていた……根原幸羽か。ねはらこうは? ねこ……俺も名字のナツだけど安直だなあ。
「ぷははっ」
妙におかしくなってきて声を出して笑っていた。久しぶりに笑っていたし、素で会話したのも何年ぶりなんだろうか。すべての状況が面白くなっていた。