日常への侵食1
それからの授業はただの惰性だった。テストに使えるだけの知識を、将来を全く考えていないツルツルした脳みそに叩き込むだけの時間。夢はある。現実に向き合うことと、自分の描いた小説を書き続けること。
そんなことを考えながら、目の前にある黒板を一切見ることなく教科書をサッと流し見をする。そこに広がるものは、自分の評判を良くするために、良い大学に入るために既に覚えた知識だけしかなかった。でもコラムとして載っている『ナイロンの開発』が目に入る。
(遊びから服飾業界への革新……試薬を棒に付け研究室中を走って遊んでいたら、まさかの繊維となっていた!?か……俺はただ椅子に座り続ける研究員なんだろうか、一歩を踏み出せる勇気はあるのだろうか)
「はぁ、はい夏野さん。ここ分かりますか? ノート開かず、黒板も一切見ない。何やってるんですか」
「……」
怒気込められた言葉の方に向くと、呆れてチョークを卓上に置く先生が見えた。両手を机について、肩をすくめて俺に何ひとつ期待していない態度でいた。
「……その空欄に当てはまる物は4です。あとその下は熱反応です」
この教室に入って初めて見た黒板には、少しぐちゃぐちゃに書かれた化学反応式のような物と絶妙に空いた空間。何を聞かれているのかは分かる。
「……はあ、次は87ページを開いてください」
こんな最低な態度で授業を受ける俺、こういう攻撃をされるのは片手で数えられる範囲を超えている。
でも、良い態度で授業を受けるというのは意味がないって知っているんだ。俺も期待していないし、周りも期待していなかったんだ。
「はい最終単元ですね。まとめの時間といきましょう」
授業が終わるまで残り25分ほど、俺は常日頃持ち歩いているネタノートを開いて指摘箇所の訂正に入っていった。
「──さてと、これで大体のテスト範囲は終わったかなっと。ちょうどこれで……鳴るかな」
こちらの方も大体の訂正は終えたところで、授業も終わりに近づいていたみたいだった。先生を視界に捉えると腕時計に目を通している姿が目に入った。
キーンコーンカーンコーン、鐘が鳴り響く。先生が時刻を確認してから数秒のことで、キリよく終わったようだ。
「はい、鳴りましたね。じゃあ次回からテスト勉強ということでよろしくお願いしま」
「きーつ、礼、ありがとうございましたー」
その日直当番は、先生の言葉に被せつつ終わりの言葉を言った。ガラガラと椅子を引く音に紛れ込んでいたけど、教卓にいるあの先生の顔は少し苛立っているようにも見えた。その顔色を周囲は一切気にする素振りなく、ただただ次の授業場所に移動していった。
「はましたちゃーん。早く行くよー」
「ぷっ、早くしてよはましたちゃん」
次に目についた物は藤宮のグループだった。藤宮たちじゃない、藤宮個人のみが権力者であるグループだ。また何かをバカにしたような目と、口調で誰かを待っている様子だったけど『はました』という名前は誰なんだろうか。
「あはは……私、浜中だけど。もしかしてあだ名?」
授業のまとめで手間取ったのか浜中さんが、ちょこちょこと小動物のような感じであのグループに入っていった。中……下、あだ名……そうか、あの『はました』というのは彼女を見下しての浜下ちゃん呼びだったのか。
純真な彼女は気づいていないのか、気づいてなのかただ嬉しそうな笑みを浮かべて藤宮の後ろに属する。その歩く陣形は最後尾に浜中さんを置いた、絶妙な壁を感じさせる配置だった。俺はそんな彼女らをただ見つめることしか出来なかった。
「……次は歴史」
スマホに記しておいた日程表から次の授業を探した。日曜日……の3時限目は歴史で、これから教室に向かえば良いみたいだが、自分の教室ではない……
「鹿取もいる教室かあ」
ため息混じり。あの教室に行くとき、同じ単位を取る鹿取から妙に視線を感じてしまうんだ。だから図書館のとき、彼女の近くを通る勇気がなく帰るしか出来なかった。何か言われるんじゃないか、それを意識してしまうだけで頭が回らない。
仕方なく歩いていると、身体に染み付いた経験はいつの間にか目的地に辿り着いてしまっていた。ただ別クラスに入るだけ、なのにここだけは妙に汗ばむ。
「えっー? 琉衣ちゃん、そんなに頭良いんだねー。今度一緒に勉強会しようよー」
入ろうと扉に手をかけた教室には、何らかの侵食者がいる気がした。この俺の濁った心と評判と似たような香りの、チクリと刺激する……藤宮がなぜこの教室にいるんだ?
「あはは……藤宮さん、そろそろチャイム鳴っちゃうし、自分の教科に戻ったらどうかな?」
「おーもうこんな時間かー。じゃRine交換しようよー」
彼女が居るべき教室は隣の日本史だ、決してこの世界史の教室ではない。どうして、何の理由があってわざわざ鹿取と会話をしているんだ?
藤宮が興味を持つ対象は俺のような格下か、頭が良い運動神経が良い……いわゆる優良児。知ったのはつい最近だけど鹿取も頭は良い……日常が侵食されて、俺の壁がどんどん埋められているような感触がした。
ガタン!
俺は妙な胸のざわめきを抑えるため、仰々しくうるさく扉を開けることにした。だがそれでも、あの藤宮を見てしまうと夏の終わりのざわめくススキ、そう感じてしまうほど胸の奥が動き続けている。
「……」
「んもー、夏野くんー! もしかして私が琉衣ちゃんと話してるせいで嫉妬ー? わざわざドアの音立てなくていいのにー」
俺をざわつかせる奴と目が合ってしまい、今度は耳からも攻撃された。俺は無言不反応をしていても、教室の真ん中にいる彼女の声がとても近くに感じる。それとは対象的な鹿取……中央の自席に座っており、ただ俺を見つめているようだった。
ジロジロと突き刺さる視線を交わし、左端の日が照らされている席に向かって歩く。
『藤宮さん、早く自分の教室に行ったほうがいいです』
歩きつつ手に握りしめているスマホからRineを開いて、嫌なことに1番上に表示されていたボックス先にメッセージを送る。
すると、マナーモードでないらしい藤宮から通知音がピコンと小さく聞こえて、それを確認する彼女の姿はニヤニヤとニヤけた笑みを浮かび上がっていた。
「じゃーねー! ナツくん!」
いろんなクラスが集まるこの教室に、嫌な声が響いていた。




