藤宮1
「ーーは、この文法です。まあテストに出るかも? 起きてるやつはちゃんとメモしておけよ」
黒板に向き合う生徒と向き合うことなく、国語担当者は絶対にテストに出すであろう1文を丁重に解説している。彼が対話しているものは、自身の評価、給料、業務であって無知な生徒ではない。
ひゅるるる、この時期には珍しい大風が教室に入った。半開されていた窓がガタリと音を出し風の侵入を許している。
「……うーん、少し肌寒いですねえ。窓際の人は閉めてもらっても良いですか?」
2年生教室は3階。木々の障害を受けずに入る風を、先生は面倒そうに生徒に風の在りどころを閉めさせた。流風は生きているだけ、だが他人は自分都合で存在を消失させる……ちょっとだけ既視感があった。
(せんせー、夏野くんが何か質問あるみたいでーす)
(きゃはははは)
その光景は、俺を消失させた藤宮の中学時代を頭に通り抜けた。耐え忍ぶしか手段を知らなかった俺を、笑い物にして人気者の踏み台へと利用する彼女。それと、提供されし話題を受けて笑い、見下すクラスメイトもどきが鮮明に思い浮かんだ。
「ちょおい夏野……今先生さ、テスト範囲の追加ページ喋っていなかったか? 聞いてたか?」
ボソボソと耳心地の良い声が左から流れ、顔をそちらに移すと真剣な眼差しでいる根原さん。先ほどの黒板を写すことに集中していて、口頭でテスト内容について説明されたことまで聞いていなかったみたいだった。
「……うん、前回のテストに入らなかった所入れるから復習しておけって言ってた。39から45ページの所」
「へーお前、聞いていないようで聞いていたんだな」
聞きたくないけど聞こえてしまう。昔、俺の悪い噂を自力で改善しようとして出来てしまった要らない力なんだ。聞き耳を立てて、誰の発言でどんなことを言ったのかをずっと聞き続けて……意味は全く無かった。でも初めて役に立ったような気がする。
「根原さんのしょう……アレで、今みたいなシーンあったね」
小説と言いかけた言葉は途中から代名詞に。以前、根原さんは小説を書いていると知られたくないと言っていたことを思い出したためだ。
言い直したというのに何故か紅潮する根原さんがそこにいた。それだけに留まらず、授業の真っ只中だけど根原さんはガタガタと大きく机を揺らして立ち上がった。
「……ッッ!」
教室内の全視線が彼女に集まり、遅れて椅子がガタンと付いてやってきた。誰ひとりとして彼女のことを気にしていない……いや気にも留めたくないとそういう雰囲気であった。
「はあ、アレいなくなってなんかスッキリしたなあ。病原菌か何かか?」
「俺さーアレの後ろの席だから、マジ最悪だよ! 早くテスト終わって席替えしてくんねえかな」
嫌な空気感と、流れる発言が後方から聞こえてきた。しかしそれよりも嫌なものが聞こえてくる。
「えーでも、根原さんって昨日から具合悪いみたいだよ? みんな心配じゃないー?」
藤宮……この腑抜けた教室だと、後ろを振り向いても誰も教師さえも気にしないが、俺の直感が見てはいけないと電流を流していた。嫌なもの、嫌悪感がヤツを見た瞬間に溢れると確信していた。
ガヤガヤと藤宮の発言から活気と取り戻そうとする教室に、黒板前の教師は辟易そうに全生徒が喜ぶであろうことを呟いた。
「……ま、授業は残り10分ですか。あとは自習でお願いします。くれぐれも他教室には迷惑にならないように」
首を大きく下げてつまらなそうに、黒板を消すことなく教室から出ていった。今日は昔のことばかり思いを馳せてしまう。この微妙な長さの10分、イジりというには過激すぎたイジメ……言葉が軽いな、犯罪が妥当だろうか。
身体に残るキズアトは年齢が上がるごとに消える。ただし心の問題はそうじゃないと思うんだ。昨日と今日、一歩足を踏み込んでみたけど少し時間が経った今あの2人を、ほんとうの意味で直視して良いのか。まだ終わりの見えないギシンアンキが心を閉めている。
『根原さん大丈夫? 俺のせいだよね、ごめん』
人との接し方をよく知らない俺は、2度3度と何回も入力した文字を確認し送信した。既読はすぐに付いた。根原さんが本当に保健室にいるのなら、なんとなくの想像だけど布団にくるまりながらスマホをいじっているのかな、と考えると少しだけ口元の筋肉が緩むのを感じた。昨日の遊び、笑い疲れたこの口元には少しだけ負荷のようだった。
『お前ほんとワザとだろ。ほんとさお前……まあいいや』
『ワザとじゃないよ。ただ根原さんの書いた小説であった展開だなーって、思ったことが口に出ちゃっただけなんだ』
『いちばんタチわりいんだよ!」
先生の言いつけ通りに勉学に勤しむ者もいれば、俺のように堕落してスマホを見る者、藤宮のように根原さんをネタとして遊んでいる者、多種多様な生き物がこの教室にはあった。ガヤガヤというほどでないが、キャッキャキャッキャと擬音が飛ぶような教室だった。
(うえっヒック……うわああん! 夏野くんが私をぶった! ううう!)
(お前、そんなやつだったんだな)
急に脳に巡った情報、いつかという正しい日付は知らない。裏切りというには稚拙な代物と、友達だった男の顔。目を瞑っていないし、目の前のスマホに集中していると思っているのに心は後ろを向いている。
俺はイマイチ集中しきれなかった根原さんとのRineもそこそこに、スマホとともに取り出したQRコードを読み込むことにした。この浮ついた脳みそが吉と出るか……それともより最悪な結果を生み出すのか、知ったばかりのQRコードで読み取った先でも分からなかった。
ピコン、そこまで嬉しくない通知音が聞こえる。上部には先程送ったばかりの友達申請に、すぐさま反応を示す藤宮の名前が見えた。
『よろしくねーナツくん』
頭のざわめきは増すばかりだった。




