長い挨拶
「このメール、君じゃないか?」
綾子はベンチに相席した男性の顔を見つめた。
今日、ほんの三十分間だけ出会った二人なのだ。
子どもの声がここまで飛んできて綾子は視線を正面に向けた。
男性の子どもの男の子と女の子がローラーブレードとサッカーボールで遊んでいた。綾子はあんまり急いで眼をやったのでどっちがどんな物で楽しんでいるのかわからなかった。
「きっと君のだと思うんだ」
心臓を落ち着かせるために綾子は自分はいま二十一歳で二十分後くらいにはここにやってくる同い年の大学生の男の子のことを考えた。メール。この人に送るはずがないんだけど。そんなことはわかりきっていた。でもこの中年男が言うからには無視することもできなかった。
「メールですか」
「これだよ」
――十七時に帰ってきて。ヤスオとミキは塾だから。
「塾なんですね」
男は携帯電話をポケットに仕舞い込んだ。そしてコートの襟に顔を沈めていった。
彼はそのままじっくりと自分の子ども達を眺めた。
綾子は耳を赤くして怒った。なんとはなしに侮辱されたような気がした。
それでもベンチを移る勇気はでなかった。
綾子は自分の性分にさらに苛立つ。
ふと自分が女で英字新聞を読んでいるからこんな嫌がらせをされるんだという考えがうまれた。馬鹿げたことだった。綾子は子ども達を眺めはじめた。とても気持ちのいい子ども達だった。
十分、沈黙が過ぎた。
男は前のめりに姿勢を変えて綾子に後頭部を覗かせて喋り始めた。
「君、あの子達をかわいいと思う?」
「かわいいと思いますよ」
「うん、あの子達は僕達を破壊したんだ」
「えっ」
「僕と妻の仲を壊したんだ。僕は妻と別れることになってね。僕はそうしたくなかったけどね、結局、そういうふうになったんだ」
「お子さん達がなにかしたんですか?」
「生まれてきたんだ。僕達別れるんだよ」
これは返事だろうか、と綾子は自身のこころのなかに住む他人に尋ねた。もちろん、否定が返ってきた。
――お父さんも一緒に遊ぼうよ!
中年男は立ち上がると駆け足で息子のボールを奪いにかかった。
ようやく綾子は嫌悪感むき出しにため息を吐いた。
しばらくすると綾子の心臓は、決まりきった長い挨拶を驚きもせずに聞き入ったあとのようにただ瞬きしていた。綾子には嫌でも中年男の姿が映る。初老にしては割と格好のよい男性だった。それ以外のことはひとつだって特徴を見出せない。
綾子はああいった男と一緒になる女性に好奇心を感じた。
子どもに混じっているとあの中年男も少年のようだ。
三人の子ども達の騒ぎ声だけが空の雲に投げられているみたいだ。
あのメール、たぶん、あの人の奥さんだ。離婚かなにかで、どうせたまに会えるだけの日が今日なんだろうな。なんかかわいそうだけどなんで私がこんなことに付き合わされるんだろ。
ミキって子は病気になって、血液系の病気ですぐに死ぬんだわ。とても痩せた顔になる。ヤスオは胴が真っ二つになる事故がいい。ふん、あのオヤジ、さすがに泣くわ。綾子はとてもリアリティのある死に方を子ども達にさせた。それでもうスッキリした。
まあ幸せになればいいのよ。離婚しても、あんないい子達ならどこでもやってけるでしょ。オヤジがあんな感じだからいけないんじゃないの。
まったく。
新聞を読むのをやめると三人はこちらに手招きをしていて綾子は焦った。慌てて立ち上がろうとすると隣で肉体が動いた。女性がいつの間にか座っていて、彼ら親子の招きに応じたのだ。
ミキはローラーブレードを履いた足で強引にサッカーボールを蹴って女性にボールを渡した。
三人の母親は懐かしい流行物のスーツを着ていた。
綾子は膝上に乗せていた新聞を丁寧に四つに折ってベンチに置くと両手で目頭を押さえて泣き出した。
夕日が落ちてしまい、四人の親子達の身体と影はしだいにベンチを離れて遠のく。
彼らの声はするが綾子には複数に増えたヤスオとミキの声しか聞こえなかった。
悲しい孤独な子らの声だった。
――ばいばい! ばいばい!
綾子はベンチにくっつけていた尻を浮かせて立ち上がり、彼女の手の平はかたく握られていた。
「もう寂しくないよ! 絶対に寂しくなんてしないよ!」
二十一歳の男の子の歩く姿が近づいて、すでに待ち合わせの時間になっていた。
「おい、綾子、どうしたんだ! 綾子!」
そして綾子は結婚できないと分かると走り出した。
お腹の子を宿したままに走った。