Stay Night〜hazy moon〜・第六十四話
・『リグ・ヴェーダ』
神々への韻文讃歌集。全十巻。
古代インドの聖典であるヴェーダの一つ。インド・イラン共通時代にまで遡る古い神話を収録。
オリンピア郊外の南部に在る木が繁る丘陵。
二十メートルはあるだろう高木が数え切れない程林立し、その林の中は月光をも遮り、不気味な様相を呈していた。
そんな薄暗い中で、蠢く影が二つ。
その内の一つが、静かにもう一つの影に近付き、囁く様に話し掛けた。
「なあ兄さん」
「何だいパディー」
呼び掛けられたもう一つの影、パールは弟であるパディーの方へは向かずに声だけ返した。
「本当に奴等も呼ぶのか?
正直、奴等は群れて吠える割に弱いから嫌いなんだよな」
パディーは心底嫌そうな顔で言った。
「まあそう言うな。破沙羅様直々のご命令なんだから。
それに、彼らはいざという時の捨て駒にすれば良い。どうせ捕まっても碌な情報を持ってはいないしな」
パールが不敵な笑みを浮かべ、そう言うと、パディーは納得はできないものの、
「そうだね。精々、死んで役に立ってもらうか」
邪悪な笑顔を顔に貼り付け、頷いた。
「ははっ、辛辣だな」
そんな弟の容赦の無い発言にも、兄であるパールは笑みを浮かばせたまま、陽気に言った。
パディーも一緒に笑っていたが、急に真剣な表情になり、
「なあ、兄さん。
奴等を本当に呼ぶ必要はあるのか? 女一人くらい、僕達なら余裕で無力化できるだろう?」
そう尋ねた。
それに対して、パディーは諭す様に答える。
「確かに、普通のエレメンターや非覚醒者であればな。
しかしな、パール。相手はあの皇族だ。しかも、平和ボケした者じゃない。実際に殺し合った事がある者だ。
はっきり言って、俺達二人では善戦した末に消し炭だ」
パールはその言葉に、険しい顔をした。
「分かったよ。仕方がないか。
それにしても、アスタグレンス=リヴァインか。火・水属性に加えて光・音属性。
火と光属性はこの環境では弱くなるとして、気を付けるべきは水と音属性の魔法か。背後には湖があるから、使って来るのは多分水属性の方」
独り言を始めたパールを横目に、パディーは魔道具を設置していく。
しかし、早くも独り言に反応してしまう。
「そうだな。だが、警戒すべきは"ウラノス"という神格武器と、玄羽=ヴァトリーから習ったという《気配隠蔽》だ。
隠れられたら分が悪い。
そうならないためにも、彼らを呼び寄せなければいけない」
パディーは円形に設置した魔道具を次々に発動させていった。すると、円形の中心で空間が歪み始め、魔道具の域を出ない範囲で空間に穴が開いていた。
その後、その穴からゆっくりと人と思われる髭面の顔が姿を現した。
その顔は周囲を見渡し、パールを目に留め、安全であることを確認すると全身をその穴から出し、彼の元へと歩き出した。
「よお、パール。それに、パディーもか。
じゃあ早速お姫様の誘拐と行こうぜ」
「おい。一つ言っておくが僕達の指示に従えよ。勝手な行動は許さない」
「ふん、分かってるさ」
パディーの言葉を軽く受け流したその男は、後ろに続く彼の部下であろう者達を引き連れ館の方向へと歩いて行く。
「だから! 勝手に動くんじゃない。バジラ」
指示をもらっていないのに自由に動き始めた彼らに対して、パディーは怒った様子を見せる。
「おいおい、静かにしようぜ。なあ〜パール」
憤慨したパディーの圧も飄々とした態度で流したその男、バジラは口に指を当てて「シー」と言った。
「うぇ、気持ち悪いな。お前がそんな行動をすると」
「ああ!」
しかし、パディーの発言に対し、今度はバジラの怒気が強まった。
「いい加減にするんだ、二人共。作戦実行の前に仲間内でいがみ合ってどうする」
そんなパールの冷静な一言により、場はすぐに静まりを見せる。
「悪い、兄さん」
「ふん」
納得はまだしていない様子の二人であったが、一旦は怒気を引っ込め、パールの命令に従った。
「では、作戦を実行しよう・・・・・・」
その後、パール、パディー、バジラの三人は後ろに五十人の非覚醒者を引き連れ、標的、アスタグレンス=リヴァインがいる館へと南下していた。
丘陵地帯のほぼ中央、最も高い場所から下りて行ったため、歩く速度は意外と速く、数十分後には目的の建物が視界に入る。
そこは郊外に在り、周囲に民家も無かったが、元は皇帝の、というより現在も皇族の別荘であるためか電気が通っていた。館へ真っ直ぐ通っている道を照らす外灯は煌々と光っており、それが庭の中心の噴水を美しく見せていた。
さすがは皇族の家。
そうパール達は思った。しかし、同時に憎らしさも心中で生まれていた。
とっととあそこで優雅に暮らしているだろう皇族を引っ捕まえて、絶対に忘れられない屈辱を与えてやらねば。
そう思ったバジラとその部下は自然と歩く速度を上げていく。
それを咎めようとしたパディーであったが、その口を開く直前、噴水の前に座る一人の男に気が付いた。
「おい、バジラ止まれ! 敵だ!!
くそっ、いつの間にあんな所に」
慌てて前方に居るバジラ達に言うも、時すでに遅く、唐突に現れたその人物との彼我の距離は既に五メートルも無かった。
バジラ達も驚いてはいたが、すぐに気を取り戻し、その人物を威嚇し始めた。
「誰だ!? 何故ここにいる!?」
馬鹿な奴だ。
パディーはバジラの行動を見て自然とそう感じた。
本来、ここにいるであろう人間は館にたった一人のはずだ。破沙羅からの指示によれば、数刻前まではフレア帝国のβチームが居たらしいが今は既に帰っている。さらに、あの館には護衛どころかメイドも執事も存在はしない。
何故、皇族であるアスタグレンスがそれらを拒むのかは謎であったが、彼女の誘拐を狙うパディー達にとっては都合が良いことだった。
しかし、確かに目の前には計画外の人物、しかもエレメンターがいて、自分達の進行を阻んでいる。
正直に言って、もう計画は破綻したも同然だった。罠に嵌ったか、それとも実は帰っていなかった奴に見つかったか。どちらにせよ、アスタグレンス誘拐の目論見は本人を含めて知られたと判断して相違無いだろう。
だが、そう考えているパールとパディーを置いて、目の前の敵に対して吠える男がいた。
バジラだ。
バカだ、バカだとはパディーは前から思っていた。しかし、ここに来てまでそのバカさが発揮されるのか。
パディーは心の底から冷静に物事を考えられないバジラを軽蔑していた。
しかも、悪いことに奴の五十人の部下も含めて一緒に吠える始末であった。
パディーは隣にいたパールと顔を見合わせ、撤退することを目で確認し合う。
ありがたいことに、数だけは揃っている奴等のおかげで自分達の存在はバレていない。
ならば、このまま障害物が多い林の中に戻ればエレメンター達に捕まることも無いだろう。
静かに、仲間である彼らにさえ気付かれず、パディーとパールは闇に沈んで行った。
一方、バジラとその部下達は目の前の男と相対し、一触即発の状態へと移行していた。
「お前、本当に誰だよ?」
元々怒りの沸点が低いバジラであったが、この時も既に苛ついた声も隠せず、距離ニメートルに迫った男に尋ねた。
「そうだね。今は憐れにも罠にかかった獲物を狙うハイエナとでも言っておこうか」
「何だと!!」
ハイエナ、と名乗ったその男の挑発的な言葉にバジラは遂に怒り心頭に発した。
「てめぇら! 今すぐあの生意気な小僧を殺せ!!」
すぐ後ろで武器を構え、臨戦態勢を取っていた大勢の部下はその一声で彼に飛び掛かった。
彼我の距離はたったの数メートル。得物を持った獣にその男は切り裂かれる・・・・・・はずだった。
剣を始めとした得物は尽く彼の躰をすり抜け、虚空を切り裂く。
バジラも彼の部下達もしばらく呆然としていたが、先程聞いていた声と同じ声が前方からすると、気を取り戻した。
「幻・・・・・・術、か」
「その通り。面白いぐらいに引っ掛かかってくれて助かったよ」
バジラが何とか絞り出した言葉に反応したその男は不敵に笑い、それがバジラの怒りゲージをさらに上げた。
「この、くそやろうめ」
「おやおや、徐々に語彙力が減衰しているな」
再び男はバジラを挑発し、バジラの炎の勢いを加速させていく。
「てめぇら、何をしている! さっさとあいつを攻撃しろ!」
呆気に取られていた彼の部下達に空に響くぐらい大声で命令を下し、自身も腰の剣を抜いた。
そして、五十人の非覚醒者は彼に再び襲い掛かろうとした。
しかし・・・・・・、
「来い! "電影"。《朧月》」
その瞬間、彼を中心にして闇が拡がって行く。
今夜は満月で明るかったのに、彼の闇に囚われると瞬く間に暗黒の世界へと導かれる。
闇は、部下達よりもかなり後ろに居たバジラさえも捕らえ、煌々と光り輝いていた外灯の光を消し、その闇は満月さえも覆い隠した。
部下達の得物は再び虚空を斬っていた。しかし、先程の様な幻術ではなかった。確かに、闇の使い手が避けたのだ。
だが、もはや闇の使い手が彼らの視界に映ることはない。それどころか、すぐ隣に居るであろう仲間も視ることなどできない。
薄暗い森の中でさえ、こんなことはなかった。月が反射した太陽の光が木の葉の間を通り、彼らを照らしていたのだから。
しかしその月も消され、今彼らの目に映るものは漆黒。ただそれのみ。
唐突に。
悲鳴が闇の空間に響いた。それは、まるで怪物に心臓を抉られながら何とか絞り出した断末魔の様で、不気味に彼らの鼓膜を振動させた。
闇がその声を反射させていき、彼らの鼓膜を何度も震わせた。
それが、その声が、空高くまで轟く様な絶叫であったらどれだけ良かったであろうか。それ程大きくも無い悲鳴であったのにも関わらず、この静かな暗闇のせいでまるで自分のすぐそばでその声が聞こえた様な気になる。
そのためであろうか。部下達の一人がその手に握っていた剣ですぐ後ろを斬った。
だが、それが見えない怪物を刻むことはなく、密集状態であったために仲間の腹を切り裂き、その血と臓物が流れ出た。
悲鳴がまた一つ、加わった。
「何だよ・・・・・・これ」
一方、バジラは呆然と立ち尽くし、やっと出たその声は自分でも驚く程に弱々しかった。
ある程度闇に目が慣れ、辺りが見え始めて来た。実は月の光が完全に途絶えられた訳ではないことに気付いたが、今のバジラにとってはどうでも良いことだった。
何故なら、広がっていたからだ。死屍累々とした光景が。
耳を澄ませば、部下達の断末魔が聞こえる。
目を凝らせば、部下達が互いに切り合う姿が見える。
鼻を開けば、部下達の血の臭いが鼻をつんざく。
足を動かせば、ネチョという嫌な音と共に不快な感触が全身を伝わる。
気配を探れば、得体の知れない怪物が背後に迫るのを感じる。
部下達は、既に恐慌状態に陥っていた。
次は自分だ、と。自分は心臓を抉られるのか、腸を切り裂かれるのか、それとも首を落とされるのか。
仲間の悲鳴が恐怖を生み、恐怖が新たな悲鳴を生む。もはや仲間のことなど、リーダーであるバジラのことさえ思考になかった。有るのは、ただ己の内に生み出された恐怖のみ。
もはや彼らは己の目的すら忘れていた。
自分が何者であるかということさえ、頭から抜け出ていた。
得体の知れない怪物から逃れようと、自身を支配する恐怖に従い、森の方向へと走ろうとした。
だが、暗黒の世界へと誘われた彼らにはもはや方向感覚などない。どちらに逃げればこの怪物から解放されるか、そもそも逃れられるのかは分からない。
それでも、この感覚から一刻も早く脱け出すために、誰かを犠牲にしてでも脱出するために、走った。
近くに感じた気配を片っ端から剣で斬りながら。
そんな狂った状況の中心にいた五十人の部下達はいつの間にか五人まで減っていた。
バジラはその臆病な性格で後ろにいたのが功を奏し、部下にその剣で刺されることはなかった。
そんな時だった。バジラの背後に一人の男が立った。そして、丁寧な言葉で言い放つ。
「知っていますか? こんな伝説。
満月から降り注ぐ光は、人の心を狂気に奔らせる。ただ恐怖を煽る新月に対して、美しい姿を見せるその月は見る者の心を不安にさせ、昂らせ、震わせる」
彼の言葉と同時に空を覆っていた闇、もとい雲は薄くなり、月の光は地上に少ないながらも届く。
だが、依然として彼らに植え付けられた恐怖が消えることはない。いや、むしろ彼らの狂気は増大したと言って良い。
バジラも、不意に現れた男の気配に悪寒が走り、抜いていた剣で後ろを薙いだ。
その後、ゴトッという音が響き、然る後に身体が地面に当たる鈍い音が聞こえた。
確かな感触が残る手に意識がいきながらも、ゆっくりと後ろを振り向いたバジラは、その光景に驚愕した。
何と、倒れていたのは怪物でもなく、若い男でもない。
バジラの部下の一人だった。酒好きな何の取り柄も無い男。召喚される直前まで、酒を浴びていたのだ。何の取り柄も無かったが、バジラが破沙羅に従う前からの付き合いであり、カーリーに入る以前はよく一緒に強盗を働いていたのだ。運だけは良いようで、どんなに死にそうな目に遭っても、必ず生き延びて来た。
しかし、そんな男が首と胴体に二分され、地面に転がっていた。自分の剣は血に濡れ、今更ながらに己の袖が赤黒くなっていたのに気が付いた。
「バ、バドマ・・・・・・?」
もはや、最初の威勢はバジラに残ってはいなかった。
そんなバジラを嘲り笑う様に、低く笑いながら近付く男が一人。
その闇使いは・・・・・・怪物などというものには程遠く、何処にでもいそうな少年であった。その姿は狂化した場にいたにも関わらず、全く血に濡れていない。それが何とも場違いであり、その異様な光景にバジラの不安は強くなる。
「イギリスやフランスの一部では満月で狼男に変身するという伝説も存在しますし、警察やFBIの調査では満月の夜に犯罪件数が増えているそうです。まあ、後者は偶然、というか光がある方が泥棒とかも動きやすいですからね。
さて、こんな話は置いておいて、あなたは雰囲気的にこの部隊のリーダーですね。大人しく連行されて下さい」
普段であれば、安心させられる様な穏やかな微笑みと共に闇使いは接近して来る。
その微笑みが、逆にバジラの恐怖を煽っていた。
そして、丁度闇使いの後ろでは、互いに切り合ってしまった最後の部下が恐怖で顔を歪ませながら死んだところだった。
それを背にして近付く彼に気圧され、バジラは一歩後退る。
「そう言えば、名乗っていなかったですね。
僕は山滉穎です。まあ、冥土の土産にどうぞ」
「ヤ、マ・・・・・・地獄の王か。ははっ、道理で」
バジラは名字の山しか聞き取れていなかったのか、その名前のみで『リグ・ヴェーダ』に書かれる死者の国の王である「ヤマ」を思い浮かべていた。
仏教では「閻魔」として知られるその神の名に、バジラは納得した顔を浮かべた。
しかしながら、滉穎にはそれが不服だったそうで、
「失礼な。誰が兄妹で結婚するか!
まあ、そもそも妹は居ないけど」
その場にあまりにも不釣り合いな冗談に、バジラは引き攣った笑みを浮かべ、遂に逃げ出した。
幾らか明るくなったおかげで林への方向は分かったが、その恐怖が薄れることはやはりない。
後ろから、「逃げられる訳ないじゃないか」という声が聞こえる。
早く、早く、早く・・・・・・。
その瞬間、林の方向から発砲音が響いた。
「な、ん、で・・・・・・?」
バジラは、心臓を抑え、膝を着き、自分の血で濡れた右手を眺めながら、倒れていった。
・朧月(hazy moon)ー闇
山滉穎所有の神格武器、電影の一時的解放。領域展開魔法に分類。
本来、一時的解放は定義的に神格武器一つにつき、一つであるが、電影には二つある。しかし、《eclipse》も《朧月(hazy moon)》も元は同じ魔法であるため本質的には一つ。昼間に使うと前者、夜間に使えば後者となる。
月が満月に近ければ近い程効果は強くなり、持続時間も長くなる。光を遮り、闇をもたらすことにより、光属性系の魔法はかなり弱くなる。また、精神属性の要素も混じり、範囲内の生物に恐怖を与え、狂化の作用を及ぼす。




