Superego・第六十話
・ジークムント=フロイト
オーストリアの心理学者、精神科医。神経症研究、自由連想法、無意識研究を行った。精神分析学の創始者として知られ、心理性的発達理論、リビドー論、幼児性欲を提唱した。
1923年に『自我とエス』を発表し、心の構造と自我・エス・超自我の力動的関連などを解明し、自我を主体にして人格全体を考察する自我心理学の基礎を築いた。
俺は、反撃の機会を得るために後方に林立していた樫の木々の後ろへと退却した。
これは、戦略的撤退であって、決してイヴァン=J=グランドウォーカーの猛攻が苦しかった訳ではない。断じてない。
そして、案の定と言うべきか、イヴァンはすぐさま林の大火災によって俺を炙り出すことに決めた様だ。
俺の周囲にあった樫の木は、《魔弾の射手》に撃ち抜かれて炎上する・・・・・・ことはなかった。
なぜなら、俺の周囲一帯には木々が既に、あたかも初めから存在しなかったかの様に無かったのだから。
俺がやったのではない。これは木村捷の功績だ。そう、木村が仕掛けたトラップの一つだ。
まあ、相手が気付く訳ないだろう。
なにせ、細工をしたのは地面の下にある根と、木の中身であり、火属性の魔法を、極端に言えば破壊系の魔法を好んで使って来たイヴァン達はその工作の断片を見ることすら叶わないのだから。
俺は、その細工をされた木が密集している所に来て、それらを蹴り飛ばせば空白地帯の完成だ。と言っても、普通の人間には出来ない芸当であり、俺だからこそのものではあったが。
おまけに、あいつは俺を炎で囲い込もうとして、この林の中心地帯からではなく、外周部分から燃やしていた。その煙によって、視界は悪くなり、ここの様子は万が一にも悟られることは無くなった。
だが、火事において最も危険なのは人を焦がすその炎よりもむしろ俺の助けとなったその煙だ。
まあ、火に関しては今のところ暑いだけだし、煙は風も強くはなく、上方に流れているからあまり問題はない。
俺はなるべく姿勢を低くし、攻撃の機会を待った。
しばらくして、火炎と黒煙が弱くなっていった時、俺は本来なら虎武龍麒戦での切り札としていた魔法を発動する。
目を閉じ、自分自身の存在感を薄れさせていき、同時に周囲の自然に溶け込んでいく。
「同調開始」
周囲の特化型精霊を支配下に置き・・・・・・いや精霊と同調して彼らの視界を拝借する。
上空から林が燃えている様子が見え、イヴァンが厳しい目つきでこちらを観察しているのが全方位から見えた、いや視えた。
そして、俺は開眼と同時に、その魔法名を叫んだ。
「《超自我》!!!」
刹那、イヴァンが自身の後方へ魔弾を乱れ撃った様子が観察できた。
あいつの意識がこちらから逸れた瞬間に走り出す。
少し熱い炎の上を走り、煙の中を息を止めて突き抜け、何十メートルも先にいたイヴァンへと迫る。
しかし、動揺していたとはいえ、イヴァンの対応も中々速い。
上空から、後方から、左右から、正面からも光の魔弾が射出され、先程までの俺ならここから一歩も動けなかっただろう。
それは、《perfect vision》の特性上仕方がないことではあるがーーというのも、音がない光の魔弾を捉えるには全方位を常に警戒し、攻撃を視野に入れなければならないからだがーー攻撃に移行できなければ俺の疲労とあいつの魔力切れの対決になり、分が悪くなっていただろう。
故に、《超自我》を使う。
《超自我》ならば、死角がない上に赤外線などを感知する精霊のおかげで攻撃予測の精度も上がる。《perfect vision》では、可視光線しか見えないからな。
数ヶ月前は、この《超自我》をまともに扱えなかった。
一度発動させれば、普段は一人称視点でしか物を見ていない脳が負荷に耐えきれず、頭痛も起こしたし、酔ったこともあったし、さらには嘔吐も繰り返した。
この状況を覆せたのは、俺の契約精霊である英霊、絳河のおかげだ。彼が俺の脳と一緒に精霊からの情報を処理してくれるために、俺の負担は急激に減り、戦闘できるレベルにまで持って来れた。
さすがは、二千年の時を生きたエレメンターと言うべきだろうか。
俺は、初めて彼を見た時からある予感がしていた。彼ならば、俺に必要な要素を埋めてくれる、と。彼ならば、俺が道を踏み外す時、それを止めてくれる、と。
俺は、なるべく最小限の動きで全ての魔弾を回避しつつ、イヴァンへと接近した。
やはり、戦い慣れていないあいつは、それだけでかなり慌てる様子を見せた。
おそらくは魔力量をあまり考慮していないのだろう、それとも既にそれどころではないのか。あいつは、本日何度目か分からない無数の弾幕による攻撃を繰り返した。
だが、俺には当たらない。
当然だ。
あいつが見ているのは俺の表層的な動きであって、俺が視ているのはあいつの目と全身の動き、そして焦っているその心なのだから。
おまけに、光の魔弾は避けやすい。確かに、光速の攻撃というのは厄介極まるだろうが、逆に時間差がないので予測がしやすいのだ。
魔弾のチャージ時間に差異を付ければ、俺も少し苦しくはなるが、戦闘での駆け引きなどイヴァンにはまだ早かったのだろう。
そうこうしている内に、距離はもう十メートルもない。本来なら、ここで一気に決めるべきなのだろうが・・・・・・
「《再現》!」
ほら来た。
こいつが意外と厄介物だ。まあ、少なくとも二回は見ているのだから、もう見切れたが。
と言っても、近付ける訳ではない。避けることはできるが、それはある程度の間隔があった場合だ。
そして、俺のスピードが減速したのを良いことに、イヴァンは距離を取り、安全圏から魔弾を放ち続ける。
しかし、あいつが放ったその場所に、もう俺はいない。
「あっ?! どこだ? どこに行った?」
イヴァンは狼狽し、全周見渡すがその視界が俺を捉えることはない。
いや、正確には俺を見てはいる。しかし、あいつの脳が俺を俺として認識しない。
あいつは既にこの魔法を知っているはずだが、まあ気付いたところでどうしようもないだろう。
これが、俺が使える忍術《繋風捕影》だ。
あいつが《魔弾の射手》から《再現》に切り替え、距離を取ろうと俺から目を逸らしたその一瞬、発動させたのだ。
命の危機を察するまで俺が見えることはないだろう。
イヴァンが再び俺を認識したのは、俺があいつの目の前に来た時だった。
「なっ!?」
「《電撃》!」
右腕に電気を纏わせ、あいつの心臓目掛けて剛拳を放つ。
それは、面白い様にイヴァンの胸へと吸い込まれ、あいつを吹き飛ばした。
だが、手応えは薄い。
まだ気絶もしてはいないだろう。咄嗟に後ろへ少し飛んだのか、全力の七割しか入っていない。
まあ、それでも十分致命傷足り得るのだが、おそらくはソナチネの聖句でも使ったのだろう。
事実、イヴァンは再び立ち上がっていた。と言っても、さすがに《電撃》は効いたのか、あいつの左腕は麻痺した様子を見せていた。
そして、俺は再び《繋風捕影》で姿を消した。実際は、観客からは俺はしっかりと見えているのだが。
目の前の対象にしか作用できないのが、この忍術の難点か。
しかし、それで十分事足りる・・・・・・はずだった。
どうやら、イヴァンは石田魁の例もあってか、すぐにこの忍術の絡繰に勘付いた様だ。
「《展開》」
己の視覚に頼るのを止め、神格武器ソナチネの能力で俺を探す。
《繋風捕影》は、対象の認識に干渉するものであって、音や光属性の魔法ではない。故に、超音波で簡単に俺は探し出され、《魔弾の射手》が・・・・・・来なかった。
「《四重奏》、《呈示・展開・再現》・・・・・・《魔弾の射手》!!」
唱えるやいなや、分身と一緒にあいつは俺に向かって走り出し、魔弾の射手も逃げ道を塞ぐ形で繰り出された。
なるほど。ちゃんと学習しているじゃないか、イヴァン。俺に出し惜しみしていたら、全身全霊で来なければ、勝機はないということに気付いたか。
さすがに俺も疲労が溜まり、これ以上は《超自我》や《perfect vision》も発動は難しくなって来るだろう。
ならば、俺も全力で歓迎してやろう。
本当は使いたくはなかったし、虎武龍麒戦に備えた切り札の一つでもあった。
だが、認めざるを得まい。イヴァンは不得手とする戦闘という分野で俺を困らせた上に、切り札を二切らせた。
これで、手加減をしてやるのも失礼極まるというものだ。
「"電影"! Turn up!
《Eclipse》!!」
その瞬間、周囲が闇に包まれた。
俺に迫っていたあらゆる光の魔弾は消え失せ、あいつの分身も虚しく散った。
大空に浮かんでいた太陽はいつの間にか月に完全に覆われ、闇に染まった空間にほんの少しだけ光を与えるのみだった。
イヴァンは既にその足を止めておりーー暗過ぎて見えないから仕方がないがーー状況を把握仕切れていないのか、周章狼狽といったところだ。
そう。これが俺の「電影」の一時的解放《eclipse》の能力だ。分類的には、範囲魔法(領域展開魔法)であり、周囲を擬似的に闇へと変える。ただし、皆既日食が起こっているのはあくまで視覚的効果であって本当に起きている訳ではない。
イヴァンが日の下で輝く存在、勇者だとすれば、さしずめ俺は闇夜に染まった奸雄、良くて英雄といったところだろう。
だが、この勇者は残念ながらその純真さ故に、海千山千の奸雄には敵わない。
そして、このフィールドは先程まで日光の力を借りていたあいつには相性が最悪で、俺には最適だ。何故なら、《eclipse》は光を弱め、闇を強める固有領域を展開するのだから。
イヴァンにとってこの状況はもはや絶体絶命。俺の勝利は、今、確定した。
俺はイヴァンへと先の戦いとは異なり、音も無く接近すると、虚空へと蹴り上げた。
そして、矢を電影に番え、上空のイヴァンに向かって引き絞る。
「"電影"、《弦月》。
《帯電》《電磁加速》《質量倍加》《重力反転》。
《竜上空放電》!」
《弦月》によって、西洋風な弓から和弓へとその姿を変化させた電影から魔法を重ね掛けした矢が放たれる。
鎌倉時代の弓以上に重いために、一瞬身体ごと持っていかれそうにはなったが、何とか耐え抜き、雷を纏う矢は銃弾を超える速度でイヴァンへと迫った。
「くそっ。こんな隠し玉まで持っていたのかよ、滉穎め。
《展開》《展開》《展開》《展開》《展開》!!」
しかし、イヴァンも黙ってやられるつもりはない様だ。幾重にも防護壁を展開させ、竜を象っている様にも見える矢の進行を押し留める。
それでも、《竜上空放電》は止められない。
展開された壁を破壊しながら、イヴァンへ直進し、そして雷竜の口がイヴァンを飲み込んだ。
雷竜はイヴァンを貫通し、場外へと放たれる。遂には《eclipse》さえもぶち壊し、その役割を終えた。
既に転送され、あいつの姿は無かったが、俺は一言、
「存外、楽しかったぜ、イヴァン」
闇が薄れていくフィールドの中で、そう言った。
それ以上の言葉は見つかりはしなかったし、そもそもあいつと俺はそんなに言葉を交わす程仲良くもない。
これで十分だろう。
試合終了の笛が鳴り響いた刹那、俺の意識は飛んだ。
・Eclipseー闇、電気(雷)
山滉穎が所有する神格武器、電影の一時的解放。領域展開魔法に分類される。
自分の周囲一帯を日光を月によって覆い隠すことにより、闇をもたらし、光属性を弱め、闇属性の魔法を強くする、というのが一般的な効果への見解。
しかし厳密には、音波や光などの波や電磁波全般、電荷を持つものを弱め、逆に重力属性に分類されるものを強めるという能力である。ただし、使用者が使う電気属性の魔法には効果が現れない。すなわち、使用者が電気系の魔法を使った瞬間は、電荷を弱める効果が薄くなるため、攻撃の隙を突かれない様にしなければならない。




