Beginning・第五十七話
・仙経
「仙」は道教の意。
道教の経典。または、古代インドの仙人の教義や方術を記した経典のこと。
あいつに出会ったのは、中学一年生の秋の終わり頃だった。
珍しい事例ではあったが、あいつを含めて多くが俺達の中学校に転校して来た。ある「事件」により、数多の人間が死に、また、生き永らえた人もその居場所を失った。
転校して来た人間の大半はその事件の関係者だった。それにはもちろん、あいつとあいつの仲間も含まれていたが、当時は特に関心も持たなかった。
なにせ、あいつらの眼はまるで死んだそれであったから。生きる目標を失い、生きる支えが壊れたかの様な、そんな印象を覚えたから。
そんなあいつらに構っていられるほど、俺は暇ではない。
俺に悪影響を及ぼさなれければそれで良い、そう思っていた。
しかし、あいつらが転校して来てから最初のテストで俺は屈辱を味わった。
今まで俺はずっと成績を一位に保っていた。全国で見ても、かなり高い立ち位置だったはずだ。
だと言うのに、俺はその玉座から転落した。二人に負けた。一人は全教科満点を取り、もう一人は僅差で俺を三位にした。
あんなに悔しい思いをしたのは、初めてだったかもしれない。
しかし、まだ満点のあいつに負けたのは自分を納得させることはできた。なにせ、初めて会った時からこいつには勝てない、そう思わせるほどのオーラを放つ奴だったから。
だがあいつ、神経質で孤高で傲慢なほどプライドの強い山滉穎だけには負けたくはなかった。
転校初日から人とは馴れ合わず、常に一人で居ようとしていた。
青カビの色をしている表紙の極限の本に目を落とし、また、さも他人がうるさそうに、持参した新聞紙で顔を隠して眠ったふりをする滉穎を眺めるたび、俺は子供嫌いの老人、いや仙人を連想していた。
孤高だと、周りの奴等は言っていたが、俺にはその様子が孤高というよりは孤独に感じられた。
まあ、どうでも良いことだったが。
それでも、滉穎を見ていると、孤独になりたくないのに、孤独を貫こうとしている。そんな矛盾を押し通そうとしている、そう俺には思えて仕方がなかった。
授業中だって、滉穎は常に上の空だった。うつけた様な茫漠とした表情で、目を遠くの空に放し、時々地上を見ては、うごめいている人間をまるで虫けらの様だとでも言う様な嘲笑する目で校庭を見つめる。
いつも何かを思い浮かべては、全てを諦めた様に空を眺め、しかしその諦めた何かに悲しさを覚えている。
だからこそ、動作はいつも片意地な、エネルギーのない匂いを醸し出す滉穎に負けたときは思考が一瞬停止した。
あんな無気力な奴に。
周りの奴等は達観と呼び畏怖するが、俺からすれば諦観としか言えない価値観を持っている奴に。
そう、俺は負けたのだ。
たとえ僅差であっても敗北は敗北だ。
では、何故負けた?
俺は周りから天才とは呼ばれているが、俺は努力もする天才だ。才能だけの奴とは違う。
そして、あいつには才能がない。断言しても良い。
それに加えて無気力なあいつに努力などできる訳がない。
なのに負けた。
その事実が、俺には許せなかった。
これが当然。とでも言うかの様に平然とし、人を侮蔑していることを隠蔽する様なあいつの変化しない顔も。
こんな勝負、無為で陰鬱なものだと言われている様な気がして。
だから、翌日から俺はあいつによく突っかかる様になった。
どうしても、その澄ました顔を無様なものにしてみせたかったから。あいつを慌てさせて、自分の優位を取りたかったから。
それこそ滑稽なことだというのは分かっていた。
しかし、どうしても許せなかった。
あいつのまるで、そう、この世を諦めたかの様な、この世の正義を全否定するかの様に嘲笑している、そんな顔が。この世を肯定して生きる俺達を嘲り笑う、そんな眼が。
確かに、人間の世界は見えない巨人の足が一踏みしてしまえば、たちまちあらゆる秩序も正義も美しさも跡形もなくなり、ただの瓦礫に化すだろう。それほど俺達の世界は脆い。
しかし、だからこそ俺はそこに美しさを感じている。混沌の中に秩序を見出し、そしてまた混沌へと戻って行く。
俺は刹那主義者ではないが、そんな瞬間的なものにも美を感得している。
故に、俺はあいつの考えが許せなかった。
だが、同時に俺は、恐れていたのかもしれない。
あいつの存在によって、自分の弱さを無条件に突き付けられ、嘲笑されている様な気がして。
あいつの眼は、確かに無機的なものであったが、その奥底で人の本質を見透かしている、そんな感覚を覚えてしまったから。
滉穎は最初こそ、痩せ細っている柳の木が強風を受け流す様に、俺を無視し続けてはいた。
しかし、遂に俺の不屈の精神を前に折れた。
「何故お前は俺に関わろうとする?
目障りだ。視界から消えてくれ」
滉穎が初めて俺を罵倒したのだ。
いや、もしかすると俺が初めてあいつの声を聞いた瞬間だったかもしれない。
それが何故か、妙に嬉しかった。
別に罵倒されて喜ぶ趣味はない。そういうことではない。
あいつがようやく俺と同じ高さの視点になったと思ったから。
いつもあいつは俯瞰していた。周りが浮かれようと落ち込もうと、もう一人の自分によって状況を冷徹に鳥瞰していた。決して、あいつが俺達と同じ視線になり、感情が昂ぶることも爆発することもなかった。そう繕うことはあったが、俺には分かる。楽しもうとしているあいつの横には、いや上には、常に諦観で物事を見つめるもう一人のあいつがいる。
そのもう一人が、常に滉穎を抑制していた。まるで、幸せになることを拒むかの様に。
だが、あの瞬間は、あいつは確かに自分の感情を昂ぶらせたのだ。
俺は、軛だったあいつを消し去り、俺と同じ視点まで引きずり下ろすことに成功したのだ。
あいつの灰色の視界に色を塗ったのだ。
「目障りなのはこっちなんだよ、滉穎。
いつもいつも無気力で、その上常に諦観で物事を眺めて、お前は一体何をしたいんだ?
まだ、将来の目標とか、夢とかを持っていない奴ならまだ分かる。だがお前は、昔のお前は、夢を持っていたんだろ? なぜ諦めた?
いや、まだ諦めただけなら良い。それはお前の勝手だ。だが、周りの人間の夢まで叶わない、そういう眼で俺達を視るな!」
この時の滉穎は、少しばかり驚いた様な顔をし、しかしすぐにそれをいつもの無表情に直した。
「別に」
そして返って来たのは、意外にも短い言葉だった。それは、思いの外弱々しく、拍子抜けしてしまった。
だから、チャンスだと思った俺は畳み掛ける様に言葉を続けた。
「なぜ黙る?
図星なんだろ?」
「五月蠅い」
「そうだよな。お前は周りに対して無関心を装うが、神経質な上に傲慢なほどプライドが強いから」
「黙れ」
「孤高を貫きたいなら、山奥で隠遁生活でも送れよ。
でも嫌なんだろ。孤独になろうとしているが、本心では独りが嫌だという矛盾を抱えているから」
その瞬間、俺の横を拳が通り過ぎた。あいつの席は一番後ろだったから、俺は自然と壁を背にして立っていたが、その壁にあいつの剛拳が勢いよく当たった。
見えなかった。
無気力で、しかも今は普段からは想像できないほどにあいつの放つ雰囲気が弱まっているから、強気に出ていた。しかし、喧嘩になれば、暴力がものをいう様になれば、俺はこいつに絶対勝てない。
そう俺に思わせるには、十分なほど、鋭く力強い殴りだった。
壁は幸いにして頑丈だったが、あいつの拳も同じくらい頑丈であるのか、痛がる様子も見せない。いや、こいつのことだ。もしかすると、痛いなどということも麻痺しているのかもしれない。
そして、あいつはゆっくり顔を上げると、
「それ以上、喋るな」
そう言って、そのまま立ち去ってしまった。
俺には追うことができなかった。なぜなら、あいつの眼は、次に言えば殺す、そう告げている様で、その恐怖に俺は屈辱にも屈してしまったから。
ああ、そうか。
あいつが抱えている矛盾は、孤独だけではなかった。
そして、あの眼は一線を超えた眼だ。
俺の本能がそう警鐘を鳴らしていた。
しかし、次の日からも滉穎はほぼいつも通りで、昨日感じた刹那の恐怖がまるで冗談だとでも言う様に。
ほぼ、というのは滉穎が表面上は、先日まで醸し出していたオーラが、人前に居る時は見られなくなったことだ。
授業中にぼー、とすることが無くなった。
音楽室から見える校庭での、サッカーの練習にも前よりは精が出ていた。
時折人が居ない所で、ある写真を見ては悲しげな表情を浮かべることもあった。
だが、目に見えて陰鬱な雰囲気を醸し出さなくなったのは確かであった。
まあ、それでも俺は毎日の様に滉穎に突っかかった。
日を重ねるごとに、滉穎との口論は激しくなった。もちろん、喧嘩には発展しない様に。
その内、滉穎たちが転校して来て、二回目のテストの日が来た。
結果は・・・・・・。
また負けた。今度も、あの完璧主義者は満点だったが、滉穎には僅差で三位にされてしまった。
しかし、なぜだろうか。
最初のあの時と比べれば、それほどむかつくことはなかった。いや、もちろん悔しさはある。できることなら、早く次のテストをやって滉穎に大差を付けて勝ちたい。
だが、許せないとは思わなかった。むしろ、順当だと考えてしまった。
それからという日々は、今と同じ様な感じだ。
滉穎とは、目と目が合えば口論を繰り広げる、いわゆる犬猿の仲となった。
一度、彼が机に置いたままの文庫本の表紙を見たことがあった。その題名があまりにも彼に合っているので、一人失笑した記憶がある。
それは確か、森鴎外の『灰燼』だった。
・森鴎外
明治時代の小説家、軍医。
本名は林太郎。
浪漫主義、理想主義の確立に貢献し、夏目漱石と並ぶ反自然主義の巨匠と目された。




