第二章 欠陥姫と騎士(8)
その日、テンペランス帝国の皇帝、ジークフリート・テンペランスは、上機嫌な様子で書類に目を通していた。
普段のジークフリートであれば、その紫の瞳は暗い影を落とし、眉間に深い皺を寄せて不機嫌そうに書類に目を通していた。
それなのに、その日の、というかここ最近のジークフリートは常にない上機嫌な様子を醸し出していたのだ。
初めは、宰相のセドル・ジルコンでさえ分からないほどの小さな変化だった。
しかし、徐々にジークフリートの機嫌は上昇し、セドルには一目で分かるほどにまでなっていた。
ここ最近では、ジークフリートに近い場所で仕える者でなくてもなんとなくジークフリートは機嫌がいいかもしれないと判断できるほどにまでなっていたのだ。
相変わらず眉間に皺を寄せていたが、以前のように強い口調での叱責は少なくなり、失敗に対して注意はするもののその失敗を挽回できるようにアドバイスを与えるようになっていたのだ。
以前であれば、挽回する機会も与えずに切り捨てていた場面でも最後にチャンスを与える寛容ぶりに、ジークフリートの変化に周囲の者は喜んでいたのだ。
「最近の陛下は、とてもいい傾向です」
「ん? 何を馬鹿なことを」
「いえいえ。家臣たちからの評判はとてもいいですよ。以前なら、小さな失敗も許さないところでしたが、最近では失敗した者にもチャンスをお与えて頂いておりますし」
その言葉を聞いたジークフリートは、片眉を上げて馬鹿らしいと鼻で笑った。
「俺は何も変わらん。くだらん政策を提案しようものならすぐに切り捨てるまでだ。最近は、お前たちが多少学習したのか以前と比べてマシに感じるだけだ」
「いえいえ。以前でしたら、その多少が通じなかったんですから」
「ふん。くだらんな」
そう言いながらも、軽口を叩くだけでセドルを許している姿こそ以前のジークフリートからは考えられない姿だったのだ。
それまでのジークフリートは、帝国を良くするためにと邁進するあまり、自分にも家臣にも厳しい姿勢を崩さなかったのだ。
極稀に息抜きをするため、執務室をこっそり抜け出すことがあるくらいで、常に厳しい姿を周囲に見せていたのだ。
しかし、最近のジークフリートは、その息抜きを頻繁にしているせいなのか以前よりも厳しさが無くなり、雰囲気も多少ではあるが柔らかくなっていたのだ。
そんなジークフリートをいい傾向にあると感じていたセドルは、ついに核心をつくことにしたのだ。
「それで、私に軽口を叩くことを許していただける寛容な陛下に質問です。花嫁候補たちはいかがですか?」
唐突な質問にジークフリートは、一瞬不機嫌そうに顔を顰めたが、面倒そうにため息を吐いただけだった。そして、つまらなさそうに吐き捨てたのだ。
「どうもしない。あれらは、周辺諸国を黙らせるためのただの人質だ。本当に妃に迎える訳がないだろう」
本当に興味がさなそうに吐き出したジークフリートを見たセドルは、不思議そうな表情になっていた。それに気が付いたジークフリートは、面倒くさそうにではあったが、セドルに質問の意図を確かめることにしたのだった。
「はぁ。どうしてそんな考えに至ったのか俺が聞きたい。お前たちも、あれらが人質だと理解していると思ったのだが?」
「まぁそうですね。私たちも国母になっていただく方には、帝国の令嬢にと考えておりますよ。ですが、最近の陛下はまるで恋に落ちた少年のように感じることがあったので」
セドルは面白がる風にそう言ってジークフリートを驚かせたのだ。
まさかそんな風に思われているとは思っていなかったジークフリートは驚きを隠そうともせずに素直な気持ちを吐き出していた。
「俺が? 恋する少年? はっ、馬鹿を言うな。あれは、そう言うのではない……。いや、そう言うことなのか?」
そう言って黙り込んだジークフリートの脳裏には、たった一人、可憐な少女の姿が過っていた。
そして、その少女を守りたいと思った感情やすぐに会いたくなってしまう衝動について思いを巡らせたのだ。
最初は、小さくて壊れてしまいそうな少女に保護欲が湧いただけだと思っていた。
それもそうだろう、現在二十六歳になるジークフリートから見れば、十歳も離れた十六歳の少女など、まだまだ子供にしか見えないはずなのだ。しかし、そんな少女を腕の中に閉じ込めて思う存分その甘やかな存在を味わいたいと思うこの気持ちは一体何なのだろうか。
そこまで考えたジークフリートは、胸に広がる不可思議な感情の正体を確かめずにはいられなかったのだ。
「セドル、俺は少し用事が出来たから席を外す」
「は? 陛下? 待ってください。今日中に片付けなければならない書類がまだこんなにあるんですよ?」
そういって、机の上に積みあがっている書類の束を見つめたのだ。
しかし、ジークフリートはその書類の束を一瞥しただけで、席を立つことは止めなかった。
「今日中に片付ければよいのだろう? 戻ってきたら目を通す」
そう言って、足早に執務室を出ていってしまったのだ。
セドルは、その背中に向かって掠れた声で小さく嘆く事しか出来なかったのだった。
「陛下が良くても私が良くありません……。陛下が決裁された後に、誰がそれを関係各所に届けると思っているのですか? やっぱり陛下は鬼ですね……」