7.悪夢
神楽坂のおかげ?か、結果的には通常より早く帰れる事になった。
しかし感謝はしない。
世の中のどこに放火犯に感謝できる奴がいるのだ。被害者もいなかったし、校舎の損傷も軽微だから良かったものの、これで人が死んだらどうするつもりだったのか。
状況が状況じゃなきゃ、あいつと河原で殴り合いしてたよ。
「……さて。」
現在の時刻は午後2時頃。爺さんは夜遅くに帰ってくるから、だいぶ余裕がある。
ならば一つ、不確定な部分を明確にしておこう。
俺は自室のベットに腰掛け、手をついて天井を朧気に眺める。厳密に言うなら見ているのは天井ではなく、虚空だ。
「見てるんだろ、呼べよ。」
俺はぶっきらぼうにそう言った。
ここ最近、あいつとはよく会う。理由は分からないが、あいつが俺を呼ぶ。
ならばたまには、俺から呼んでも許されるだろう。
『おやおや、困り事かい?』
頭の中に声が響く。それと同時に、俺は強烈な睡魔に襲われた。
しかし直ぐには寝ないように、ベッドに寝転がりながらも、歯を食いしばって気を保つ。
「とぼけるな。どこからかは知らねえが、見てるんだろ。」
『君も、私が分かってきたようだね。』
「信用はしねえがな。」
『それは手厳しい事だ。私は君の味方だというのに。』
味方は自分の事を味方とは言わない。少なくとも直接脳内に語りかけてくる奴が味方だったら嫌だわ。
『それじゃあ、ようこそ。私の世界へ。』
時間と共に増す睡魔に俺は抗う事はできず、深い深い眠りへとついていった。
そこには、地平線の彼方まで続く海のようなものがあった。空はどこまでも青く広がるが、そこには太陽は存在しない。
その海、正確に言うなら水は驚くほど透き通っており、何故か海の中でもゴーグルをつけているように冴えて見える。呼吸もできる事から、やはり普通の水ではないらしい。
透き通る水の中には、ありとあらゆる物が沈んでいた。
剣や槍といった武器、人形や玩具、インテリア、車などの、文字通りのありとあらゆる物だ。
俺もそれと同じように沈んでいたが、慣れたもので力を抜いて、底に寝転がっていた。
「……もう見慣れてきたな。」
最近、俺はよくこの世界に来ていた。自発的にではなく、強制的にではあるが。
この世界は俺もよく分かってはいない。ただ一つ分かることがあるとするなら、ここはあいつの支配領域だということだ。
『さて、何が気になるんだい。何でも言ってみるといいさ。』
水の中を鮮明な声が響く。ツクモと、そう自分を呼んだ存在の声だ。
最近は何度もここに来ることがあるが、ツクモの事は何一つとして何も分かっていない。ツクモについて質問しようとしたところで、強制的に追い出されるのだ。
しかしツクモは俺と話がしたいようで、度々呼ばれる。最近になってそれが増えた理由も気になりはするが、これも教えてくれない。
『君が私のこと以外で私に質問するのは初めてだ。特別に懇切丁寧に教えてあげよう。』
「簡潔に答えろ馬鹿が。急いでんだこっちは。」
『そんなに気を立てないでくれよ。焦ったって何にもなりやしない。』
焦らずいられるか。今、何が起きているかも分かりやしないんだ。口も悪くなる。
「それで、何が起きてるんだツクモ。その口ぶりからして知ってるんだろ?」
『当然だとも。私だから。』
「何の自信だよ。」
悪態をつきながらも、俺はツクモの言葉を待つ。
これからの行動指針も含めて、これから発するツクモの言葉で決まる。ここは一体何なのか、それが決まればやる事も定まるはずだ。
一刻も早くここを抜け出す為にも、俺は次の言葉を集中して聞く。
『さて、まず見直しをしようか。ここは君が元いた世界、地球だね。正確に言うならそう見える場所だ。』
「……ま、そうだな。」
地球をこいつは知っているのか。やっぱりこいつは超常的存在だ。
異世界では、地球という世界があるのは知られている。過去にそういう異世界から来た英雄がいたからな。
しかし、地球という名前を知っている奴はいない。
それを知っているという事は、こいつは地球に何か関わりがあるか、神に近しい存在であるのだろう。
それ自体の予想は前々からできてはいたが、確信が深まる。
『そしてプラスで、この世界は君にとっては過去だ。だが、過去に戻る事なんて、それこそ神の中でも、ほんのひと握りでしかできない奇跡だ。』
「だけど、現実に起きてるじゃねえか。」
『そう。だからこそこれは過去に戻ったわけでも、地球に舞い戻ってしまったわけでもない。君が戦ったあの少女の、能力に過ぎないわけだ。』
俺はあの、名も無き組織の幹部である白い少女を思い出す。
確かに名も無き組織の幹部は規格外だ。カリティもそうだった。高位の冒険者であるはずのヘルメスですら、歯が立たなかった。
それこそ旧代の英雄、七大騎士の一人でようやく追い払える程度だった。
その能力がこの世界であっても、確かにあり得ない話ではないだろう。
『それこそがこの世界、君の悪夢だ。』
「悪夢?」
『そうだよ。いくら何でも触れたものを強制的に世界、それもこんな複雑でエネルギーを使うような世界に閉じ込めるなんて、一個人では不可能だ。故に、ここは君の想像によって形作られた悪夢に過ぎないというわけさ。』
思い起こしてみれば、確かにあれは『睡眠欲』と言っていた。
幹部の欲望と能力の関係性はよく分かってはいないが、相手を眠らせる能力でも違和感はない。むしろ、街の住民がいなかったのにも説明がつく。
となると、ここは本当に夢の世界なのか。
「ここが俺の悪夢だとして、まさか出られないなんて事はねえよな。」
『勿論、夢から目覚める方法は存在する。触れるだけで相手を眠らせるなんて強力過ぎる力、制限が課せられないはずがない。』
それは大分楽観的な思考な気がするがな。
俺達を本気も出さずに圧倒した青髪の男、ケラケルウスによって何とか難を逃れたカリティ、そしてスエと名乗った白い少女。
俺達が遭遇した幹部は全員、未だに底が知れない。中には即死の能力を持っている奴がいてもおかしくない気もする。
『悪夢を見せる能力なら、ここを悪夢じゃなくしてしまえばいい。君がここを悪夢だと捉えている根源を断てば、君はこの夢から抜け出せる。』
「……まあ道理だが、正直言って俺はここを悪夢だとは感じてねえぜ。」
本当に悪夢というのなら、母さんの死が挙がってくるはずだ。それを差し置いて、何故高校時代が悪夢として現れるのか。
確かに高校生活に良い思い出はないが、特段嫌だったわけでもない。
『それは本当かい?忘れているだけじゃなく?本当に、何もなかったと言えるのかい?』
「本当、に?」
何もなかったはずだ。高校生活はただ辛かっただけ。悪夢というにはぬるすぎるし、俺の人生の中でも大した事は――
「あ。」
『思い出したかい?』
高校二年生の二学期。今思い起こせば、そうだ。アレが起きたのはその時だ。
何故忘れていた。何故今まで思い出せなかった。俺の中で、絶対に忘れてはいけない出来事であるはずなのに。
「……ぁあ。クソ、アレに、アレに立ち向かえってのか?」
『ふふふ、やはりここは君にとって、紛れもない悪夢のようだ。』
「笑ってんじゃねえぞ、ツクモ。」
俺の、人生の中で起こした最大の悪行。俺が、俺を嫌いになった出来事。その全てがここにある。
俺という人間の卑怯さと、卑劣さと、臆病さと、愚かさによって死なせた。死なせてしまったあの事に、俺は対峙せねばならないのか。
冗談じゃない。あんな地獄に、どう立ち向かえって。
『君は今まで、ありとあらゆる事を乗り越えてきた。母の死すらも、だ。』
体が上り始める。この深い水の底から剥がれ、水面へと浮上していく。
この水面に辿り着いた時に、俺はこの世界から抜け出してしまう。しかしそれを気にすることができないほど、俺は精神が追い詰められていた。
『だけど、君が乗り越えたのは今世まで。前世からは必死に目を背け、忘れてきていた。』
それは間違いなく、真実であった。
忘れていた。忘れようとしていた。変わったのだと、無意識下に自分を鼓舞し、記憶に蓋をしていた。
そのツケが今、回ってきたのだ。
『頑張りたまえよ、幸福の魔法使い。全てを幸せにする魔法使いなんだろ?』
俺の夢が、重くのしかかる。
地球で普通の人生を過ごした奴が、どうして異世界で普通じゃない人生を過ごせるだろうか。
そう思いながらこの小説を書いています。




