パブリック 前編
読みやすくするために前編後編に分けました
漫画の世界に憧れない人間なんていない。漫画は人間の抱くちっぽけで壮大な願望なのだから。
漫画の主人公はどの作品にも大きな役割を果たす。その世界観で、圧倒的な存在感を放つのだ。これは覆ることのない概念。人間が願望を抱く限りそれは変わらないであろう。
主人公が努力を注ぎ込み、強敵たちを倒していくスポーツ漫画やバトル漫画が好きだった。
だから自分もこの主人公みたいになるぞ、という夢を持つことは当然だった。もし出会うやつらにその夢をあざ笑われたとしても構わなかった。
なぜかって。努力は裏切らないからだ。好きだった漫画の主人公だってそうだ。もともとの凡才から汗を流し、走りつくし、天才である強敵を倒す。これが主人公の道なのだ。
そう信じていたからこそ十年後の大人になった自分を見て、おかしくなりそうなんだ。
強敵役の同期が優勝トロフィーを掲げている光景を、主人公役であるはずの俺らが指をくわえて見ているこの世界に俺は絶望しそうなんだ。
この世界には主人公になれない人間もいる。俺は夜の帰路でそう……悟った。
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「おーい、虎丸ぅ。これから飯でもどうだ」
先輩の声に振り返る虎丸。虎丸は今日も仕事だったからであろうか、ひどく疲れていた。
「あ、先輩! お言葉に甘えて行きましょう。ほら、近くのラーメン屋とかどうですか」
芸歴七年目の鳥川先輩はその返答にうなずき一足先に玄関で待ってるぞと言って去っていった。
虎丸は舞台の控室へと入ると、椅子に座ってけだるそうにスマホを弄っている外鉢 裕一に声をかける。
「これから鳥川先輩とラーメン食いに行くけれど、裕一も来るか?」
そういうと、虎丸へと首を傾けることもなく表情だけいっちょ前に嫌そうにして、
「えー。鳥川さん、説教ばっかりだから楽しくねえんだよな」
と言ってきた。確かにそうだなと虎丸も内心頷く。
「まあ、おごってくれるかもよ。俺たちの今月の仕事量を考えると、ありがたいだろ」
「いや、俺はいいや。パーース!」
そうかと言って荷物をまとめて出ていく虎丸。
「あのさ」裕一は声を強める。
「俺さ、先輩からコンビにならないかって誘われたんだよね、迷っちゃってさ」
「……そうか」虎丸は振り返ることもなく部屋から出ていく。その姿に裕一は一瞥もせずにスマホを弄っていただけであった。
そろそろ潮時か。一番初めの相方だったのにな。………………まあ仕方ないか。
玄関には鳥川先輩のほかに、芸歴一年目の『クリムラッテ』佐村もいた。虎丸に挨拶をする佐村は子犬のようだ。可愛がってあげたくなる容姿に振る舞い。初対面の虎丸と打ち解けるのも早かった。
ラーメン屋に着き、注文を頼むと虎丸はやっと落ち着いたかのような表情をする。
ビール三人前が運ばれると鳥川先輩の口が開く。
「今日もお疲れさまぁ! 乾杯!」
乾杯! 三日ぶりの舞台漫才がよほど堪えたのかビールの発泡に心洗われる虎丸。
「お疲れさまでした! いやぁ、今日は飲みましょうね」
「おう飲め飲め。今日は楽しく反省会だぞー」
嫌な単語が入っていたが、虎丸は何も聞こえなかったフリをした。
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「佐村、今日はクリムラッテが一番ウケていたな。良かったな!」
「いやいや、僕らはまだまだですよ。『ザ・チキン』はやっぱり面白かったですね」
「そうかあ。よし、俺らから学べるところはどんどん吸収していけよ」
「はい、もちろんですよ」
佐村はそう言うと、味噌ラーメンに手をつける。佐村の味噌ラーメンにはコーンがトッピングされている。対して虎丸の味噌ラーメンには何もトッピングされていない。
(まだ浅いな、佐村。ここの味噌ラーメンはトッピングなしがベストなんだよな。まあ、ここの店で塩ラーメンに煮卵を入れる先輩は論外だが。)
「それに対して、虎丸んとこはまたウケなかったな。そんなんだと売れないぞ」
よく言うよ。アンタは今まで何していたんだよ。
「いやぁ勘弁してくださいよ。次はもっと面白いネタ作ってみせますよ」
虎丸は作った笑顔を張り付けてそう答える。
「頼むぞぉ。お前が売れれば、お前を育てたやつとして俺が売れるかもしれないからな」
鳥川先輩はそう上機嫌に言うと残りのビールを飲み干す。虎丸はあははと控えめに笑うと、メンマ一つだけを口に弱弱しく入れる。
「おうっとこれは冗談じゃないぜ。あ、ちーっと、小便・べん! あーはっはっは!」
鳥川先輩が席から外れる。酒を飲んでいるはずなのになぜかどっと疲労がたまっていく。これ絶対に先輩によるやつだな。
鳥川先輩の姿が見えなくなると、佐村と虎丸が同時に溜息をつく。
「あの人、もう終わりだな」
え、と驚いて声の主に振り向く。見るとひどく冷たい表情をしている佐村が箸を置いている。
「えっと、佐村君。先輩にそんなこと言っちゃだめだよ」
虎丸の言葉に鼻で笑う佐村。こちらに顔を向ける。
「先輩? 笑わせないでくださいよ。自分の漫才で売れることを諦めている奴なんて俺の先輩に値しませんね。年だけ食った寄生虫ですよ」
「おい、いくら何でも言いすぎだぞ」虎丸がきつく注意する。しかし佐村はさも聴いていないような態度だ。
「虎丸先輩もあんな人にならないでくださいね。芸歴四年目でしたっけ。自分の漫才にぶつかる第一の時期にこれから向かっていくんですから」
自分の漫才にぶつかっていく? なんだそれ。虎丸が佐村にどういうことだと聞き返そうとしたら、鼻唄まじりの先輩が帰ってきた。
「おー佐村ぁ。何の話してたのぉ?」
「先月の漫才大会についてですよ。ほら、虎丸先輩も出てたでしょ」さっきまでの表情はいつの間にか消えてもとの子犬に切り替わっている。こいつ、プロか。
「ああ、そうだったな。虎丸、お前らは惜しかったな。ベスト16だもんな」
「まあ20組中ですけどね。下から数えたほうが早いですよ」
「そうだったな! いやぁ、あっはっはっは」
酒の入った先輩の今の言葉に悪気はないであろう。ただ虎丸の反応は苛ついている。しかし、それを表に見せるのはまずいので右手のこぶしで感情を抑え込む。穏便に済ませるためここは笑っておいた。
その表情を佐村は見逃さなかった。佐村は何かを確信する。
「一位の『さみだれタウン』と虎丸先輩は同期でしたっけ」
『さみだれタウン』。その言葉に動揺する虎丸。
「同期。そうだよ。あいつらとは一応ライバルだ。まあ、あいつらには置いてけぼり食らってるけどな」
虎丸の言葉を聞いた鳥川先輩がおもわず吹き出してしまう。
「いやいや、ライバルなんて言いすぎだよ! さみだれは天才だよ。センスがある!特に中村! だからやめとけって」
鳥川先輩の言うことはごもっともだ。だが……だがそう言われると悔しい。まるで俺たちが漫画によく出てくる噛ませ犬的扱いをされているかのように思えてしまうからだ。
だが実際そうなのかもしれない。俺たちはあいつらに挑むたびに惨敗してきた。努力はしてきた。でもまるで歯が立たなかった。そしてあいつらはきっと俺たちのことをライバルとしてはもう見ていないのだろう。
そう思うと次第にやるせなってくる。あの惨敗した大会後の帰路で缶コーヒー片手に満天の星空を見たときに輝きの強い星と弱い星があちこちにあった。
きっと輝きが強い星は弱い星があることでより一層輝きの深みが増すようにみえるのであろう。
俺たちは明らかに弱い星。『さみだれタウン』は頂点に輝く一番星。気づいていた。ライバルなんておこがましいことなんて。でも認識なんてできなかった。同期でこんなに差がつくなんて。
虎丸はやがて自分の目から涙を流していることに気づいた。それは自分の不甲斐なさからの涙だった。そして、天からの寒風が虎丸の肌を刺激したときに彼は悟った。
この世界には主人公になれないやつもいる。そして、それが田中虎丸。俺だ。
後編は今夜七時に投稿する予定です。
作者:青色海月