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paradigm  作者: 闇鍋同好会
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薄明

 気づいたらこの街にいた。いつからここにいるのかは覚えていなかったし、どこから来たのかも同様だった。ただここではないどこか、もっと鮮やかなところにいたのではという疑念だけが頭にあった。

 その証拠に、この街には無いものを私は知っている。一つの例を挙げれば鏡。誰もが慣れ親しんで、自らの形を確かめるための鏡が、この街にはない。それにもかかわらず、私の脳は鏡の存在と有り方を、生まれつき備え付けられたかのように知っていた。さらには単なる鏡だけにとどまらず、窓ガラスや銀食器、事切れた液晶さえも、ここでは相対する風景を映さない。それらは一切の曇りもなく・インクを重ね塗りしたかのように・黒洞々たるばかりであり、絵画の中のような寂しさを湛えていた。その不純物の混じりえない異物感が、ここでないどこかを恋しく思わせるのだった。

 街がこのような様であるから、私は自分の姿を未だ知らなかった。自分を映すものがないのだから、行き交う人々の外見からよくそれを夢想したものだったが、私を取り囲む雑踏はどこか無機質であった。薄暗い空と同じくらいの明度、周りの風景に溶けていくような透明度の人々。違いのまるでない顔とうつろの声、冷ややかでのっぺりとした造形。それらを自分に置き換えるたび、目を閉じて漂い去りたい欲望が浮きあがる。しかし、いくら目を瞑ろうとも、自分を連れ去る波は立たず、喧しいひしめきに浮き沈みを続けるばかりだ。

 街を包む最も大きな違和感は時間だ。ここには、鏡と同じように時計がない。しかし違和感の元栓はそれではなく、時間の捉え方自体にある。ここの空は、いつまでも赤く染まったまま移ろおうとしない。それはまるで時が止まったかのようだが、茜色とは対照的に、雲の群れは悠々と流れ続ける。そんな世界の孕んだ矛盾、アンバランスさについて、私は一つの妄想をはたらかせる。

 この街では、時間は区切られないものとして横たわっている。ただ一つのたおやかなる流れ、それが時間の正体であり、この街における唯一の存在形態である。ここではいかなる場合においても、その際限のなさを失うことがない。要するに、始まりと終わりで区切られた、ある一定の範囲と制限で切り取られた時間が、ここにはない。最たる例で言えば昼と夜だ。昼と夜、あるいはより細かく区切るための言葉は、いわば時間の分霊のようなもので、人間や他の生物が咀嚼したあげくに生まれた、概念の精霊たちだ。あらゆる生物はこのプロセスを経ずして正しく時間を認識しきることができず、一定の規則や周期があれば、無意識のうちに区切りをつけてしまう。私たちはそのせいで、根源たる時の母体を、そのまま捉えることができなくなる。そしてこの街では、その母体が切り刻まれることなく、生きたまま蛇行している。その結果、雲は流れ、しかし斜陽は淀み続ける。だから、時計のない街も、それを染める夕やけも、時の止まったからでなく、朝や昼、夜といった、あらゆる枠組みが消失した結果だというのが私の妄想だった。

 確信のない不明瞭な理論だが、時間が区切られたものであるというのは、この街で得た確かな気づきだ。そして、私たちが知覚し、切り取ることのできる最大限度の時間の塊、私たち自身にとっての始まりと終わりが、この境界のない街でどれほど希釈されるのだろうと考えると、得体のしれない不安が立ち込めてくる。しかも、その片鱗に、既に自分は触れているような気さえした。

 区切りという点について、睡眠にも同じことを思う。時間にまつわる壮大な認識論とは釣り合わない身近な行為だが、そこに私は、人間がおこがましくも区切りをつけた痕跡を見る。我々は睡眠という境界を挟むことで一つの区切りをつけるが、寝ても覚めても同じ風景の中にいると、一連の行為が本来なにも隔てていないことに気づく。『私』が存在する限り(ここでの『私』とは、自己や自我としての『私』ではなく、物理学、生物学上の『私』である)『寝る』という行為は、連続する『起きる』という行為を確定させ、同じ意味を持つ。一方で、微睡みと覚醒の狭間では、私という自己は姿を消すが、それ故に双方は虚無を挟み込んで接着し、やはりコインの裏と表になる。この思考プロセスを経て、二つの行為は時間軸上の異なる角度から見た同一のものに過ぎなくなり、夢、あるいはそれに準ずる何かは、メッキを剥がされて無へと還元される。

しかし、瞼の開閉に挟まれた夢路が虚無であるならば、同じくして挟まれた現実も、等しく虚無なのだろうか。表が裏であるように、裏が表であるならば、夢と現もやはり背中合わせなのだろうか。得体のしれない不安は、ベールを一つ脱いだ代わりに、すぐ眼前まで迫っているような気がした。



ぽつりぽつりと思索をしているうちに、空に見慣れない色が滲んでいるのに気が付いた。その群青は、私が凡てを悟るには十分すぎるほどに鮮やかだった。

「あの赤は、朝焼けだったのか」


こうして街は朝を迎えた。私の意識は急速に引き伸ばされ、耳元で泡のはじける音が大きく響いた。


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