にやり
村田 一。三十歳。彼は今、薄汚いリュックサックを背負ってコンビニの裏口から出てきた。その足取りはまるで、鉄の足枷を付けながら便所に行く囚人のようである。
彼は思わずコンビニの自動ドアに対して振り返る。彼のその表情は憎悪に満ちていた。この憎悪はコンビニの自動ドアに向けられたものなのか。いや違う。ここのコンビニの店長に向けたものである。まだ車どおりは少ない。ふと何かを企んだ彼はこの憎悪を、ジーンズの後ろポケットにしまいつつ踵を返した。
村田 一。たった今、無職。
彼は帰宅すると、目の前のちゃぶ台にてうなだれていた。今の自分にとって昼飯は豪華すぎる。朝飯はコンビニの売れ残りチキンであった。
バイトをクビになった。三十歳でだ。まさかインターネット掲示板に蔓延るクズたちの仲間入りをするとは。まさか。そんな。どうして。
彼の頭にはもともと、「まだ大丈夫だ。職がないこいつらよりはましだ」という浮ついたヘドロの塊しかなかった。彼はまず、昨日記帳した通帳を見てみた。残り二万三千円。今日の四時間分の給料を合わせても三万円に満たない。家賃は四万円。これでは払えない。彼には努力が足りなかった。ゆえにお金も今、足りなかった。
彼はあの企みについて考えていた。それを実行しようかということについて考えていた。自分に失うものはもう何もないと、バイトをクビになり三時間が経った彼の結論だった。「あのコンビニから金を奪えば……。あのくそ店長が」
そう。彼の企みはコンビニ強盗をやってのけることであった。この強盗には二つの目的があった。ひとつは自分の資金集めのため。もうひとつは店長への復讐だ。実はこの村田、クビになる前は結構な働き者であった。金を稼ぐためとはいえ、後輩にも丁寧に仕事内容を教えるなどのケアを欠かさずやっており、なかなか仲間からの信頼も厚かった。彼は基本的に優しいやつなのである。
ではなぜクビになったのだろうか。それは、彼自身にもその理由はわからなかった。ただ、彼はそういえばと、ちゃぶ台にうなだれていた時にコップに注いだ水に手を付けながら思い返すことがあった。
村田が友人と飲みに行っていた夜のころである。彼はもうすでにほろ酔い気分であった。一年ぶりだなあと楽しくから揚げでもつついていた時に携帯のコール音が鳴り響いた。見るとなんと店長からではないか。なぜだ。俺は今日はシフトを入れていないぞと、意外にも冷静な思考状態で電話に出る。
店長からは、今日の夜に急いでシフトに入ってくれないかということであった。なんでも急にバイトの子がひとり辞めてしまったので夜のシフトが誰もいなくなってしまったらしいのである。店長もまた出張が入っており(店長の妻から聞いた)、彼に任せたいと懇願してきた。
しかし、この村田。現在夜の十時半に酔った状態で働けるわけがないと店長からの懇願を断ってしまった。少し可哀想にも思いながら、自分の状況を正当化して店長からの願いから逃げた。要はコンビニに行くのが今日だけは面倒くさいと思ったからである。
最後まで店長は頼むよ頼むよと焦り気味に声を荒げていたが、酔った友人たちで創った空気を壊したくなかったのでなんとか流して通話を切った。内心、店長ごめんと思っていたのだが、その罪悪感も流し込まれたアルコールで中和されてしまった。その夜は最高に楽しかった。
しかしながら、その日以降から店長の彼への態度が一変した。なぜか目を合わせてくれない。些細なミスで後輩たちの前で晒され怒られ休憩なし。しまいにはその二週間後にはクビである。
そうだ。そのことしかない。店長からの嫌がらせで自分はクビになったんだ。彼はついに真実にたどり着いた。
それからの彼は早かった。まずは休息をとるために夜五時にはもう就寝だ。翌日、彼はあとわずかの貯金から覆面マスクと大きめのバッグをホームセンターから調達した。武器は自宅の台所にある包丁がある。今の彼にとって、こんなにも嬉しいことはなかった。自分をどん底に叩き落したあの店長を恐怖に陥れることができるのだから。こんなにも嬉しいことはない。おい、金を出せと言えば慌てふためくあいつの顔が目に浮かぶ。小太りの男が強盗にしてやられる、大きめのバッグに金を入れる姿は喜劇さながらである。こんな愉快な日には思い切ってかつ丼でも食べようではないか。もちろんコンビニのね。
決行日は三日後であった。深夜のこの辺りは人通りが少ない。今日のシフトは店長ひとりというのは長年のバイト経験から割り当てることができた。さすがにあんなに可愛らしい後輩を脅すことはできない。狙いは奴だけだ。
コンビニの駐車場を王者のごとき足取りで進んでいった。今の自分には足枷などない。俺は今、人生の絶頂期にいるのではないかとさえ思えてくる。漫画にみるラスボスのような一歩でアイアム キングと叫びたくなる衝動を抑え、彼は徐々に駐車場を進んでいく。
その時であった。ぶわあっと、突如、自分の全身から悪寒が走ったではないか。なぜだ。いや、なんだこの圧倒的な波は。重い。あまりにも重いこの波は!
彼が感じる波の正体は、一歩手前にようやくやってきた自分自身であった。恐怖と不安。失敗したときのリスク。崩れかけている倫理観。
彼は思わず、レジのカウンターから死角に入る駐車場の端っこに帰る。待てよ。ひょっとしたら、失敗したらこれからの人生が終わってしまうのではないだろうか。単なる復讐のために俺は、こんな博打を打たなければならないのか。
彼はついに自覚し始めた。これからやることは豆腐の階段を上ることよりも難しいことに。一瞬だが、彼の脳裏にあるテロップが思い浮かんだ。
『村田 一容疑者』。彼の膝が震え始める。やがて震えは大きくなり、それに伴い意識がはっきりしてくる。
いや待て。自分は何のためにここに来た。練習したとおりにやれば、そう、練習とおりにやれば簡単なことじゃないか。喜劇は成功に終わる。ならば、一歩だ。あと一歩進めれば俺は、金を得られるんだぞ。なんだこの震えは。俺には必要ないものなんだ。
彼の震えは気づくと止まっていた。彼は深呼吸すると、左手に持つ包丁を握りしめる。彼は今、成長した。それは格好は悪そのものだが、まるで勇者のようだ。四日前は囚人だったというのに。今の自分は、悪の正義だ。
一歩を踏み出す。二歩、三歩。死角から出発した彼に今までの人生が濃縮されてフラッシュバックする。走馬灯というやつだ。ああ、やはりここが自分の絶頂期だったんだな。しみじみとする彼はその時にひとつの疑問が生まれる。
そういえば、走馬灯って死ぬときに流れるものだよな。
死角へと急いで帰宅する彼。いややはり、強盗なんて成功しないのではないか。初挑戦なんだぞ。たいして学もない自分がそんなことできるわけがない。やはりやめたほうがいいのではないか。帰って十円アイスでも頬張りながら新しいバイトを探したほうがいいのではないか。
覆面マスクの内側はもうすでに汗が滲んでいた。まだなにもしていないのにである。このまま帰宅すれば、何も得られないが、何も失うこともない。それが正解のはずだ。そうだ、そうなんだ。
いや、今の自分に失うものなんてあるか。三十の無職に、彼女もいない、ネットサーフィンが趣味の自分にこれ以上何を失うというのか。どうせ逮捕されたってされなくたってこれからの人生は灰色なんだ。今さえ色づければいいのではないのだろうか。よし、行くぞ。俺は行くぞ。
彼はもう一呼吸すると、入り口に向かう。雑誌コーナーから入口までの彼の歩はまるでスローモーション。やがて玄関に近づく。ちらりとコンビニの中を見ると、レジには誰もいない。人がいない。よおし、今だ。
その時、店長がぬっと彼の視界に入ってきた。彼はあまりにも急な出来事に彼は驚き、死角ゾーンまで走る。
びっくりしたあ。いきなりはそりゃ困るって。やばいやばい。やっぱり成功するのか、これ。
いや、俺には包丁がある。あんな肥えた中年なんてどうってことはない。殺しはしないが、あいつも脅されればすぐに金を出すにきまってる。俺には生活がかかってるんだ。やるしかないんだ。一歩だ。あと一歩だ。
いやでも。いやしかし。いやでも。いやしかし。いやでも。いやしかし。いやでも。いやしかし。いやでも!
彼の鼓動は早くなる。脳裏の天秤は揺れて揺れてゆらゆらとぐらぐら揺れる。時刻は二時。コオロギのさえずりさえも今の彼には聞こえない。
まだくそやる捕まっ金欲し帰ろふくしゅなぜ結局就潰し何を3風太じじ距離金4すまなまた活sy12を!」
天秤はやがて右に大きく傾く。ぐらんと傾いた。
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「実は、三日前に自分の店が潰れてしまったんです。それもバイトの奴らがなぜか、全員辞めてしまって。急いで募集したんですけど、ひとりも面接にさえ来ることがない。これじゃあ経営なんてできっこないですよ。最近いいことないんですよね。嫁とは私の不倫がばれて離婚。慰謝料四百万が課せられてしまったんです。現在無職の私に払えるわけがありませんよね。年も四十でもう後がないんですよ。愛人にもそっぽを向かれて、今日の朝食なんてカップラーメンですよ。職員さん。お願いしますからなんとか職を紹介してはくれませんかね。できれば年収三百万以上をお願いします。もうなんでこうなったんだろう。あいつをクビにした途端何でこうなったんだ。ああいや、こっちの話です。どうでしょう。私に見合う条件は見つかりましたかね。あ、その顔は見つけそうだなあ。私の勘が言っているぞお。クビにしたあいつとは大違いだ。ねえ優しい職員さん。マスク越しでもわかりますよ」
眼前の優しそうなマスクをつけた職員はにこりと微笑む。
「そうですか」
作者名:青色海月