格好悪い男の厄日
圧倒的な力を見せ付けたクロムが正式なルカの許婚となった事に反対する者はいなくなった。
表向きには、だが。
ほとんどの者は納得している。
強さは大きな価値である。
何故エバーロッテがクロムという少年を招き入れ歓待したのかは、後付けの説明により今やエバーロッテの上げた手柄だとまで認識され賞賛されるに至っていた。
龍神伝説の秘宝捜索特別部隊。
レバイド海賊の悲願。
新たに発表されたその計画に、信じがたい人間離れした少年の存在は、すぐに海賊達にとって警戒から希望へと変わっていた。
今ではほとんどの人間がキャプテン・ドレーの夢を託すに値する力を持つ少年を歓迎し、その楔となるルカとの関係を祝福している。
ルカに対する扱いも変わった。
これまでと同じく男達が軽々しく馴れ馴れしい態度で接する事が無いのは変わらないが、角が取れたような、愛される姫君のようなものへと変わっていた。今までもそれに近い感じは少なからずあったのだが、若者達が諦めた事で、それがルカにはっきりと伝わるようになったと言うべきか。
変わったのはルカなのかもしれない。
女になる事を強制される事からの解放。
それを祝福される事でルカ自身が生き生きとした子供の頃の自分を取り戻しそう感じるようになったせいかもしれない。
ルカも明るい。ルイも満足していた。
ただこの変化をもたらした計画は嘘ではないにせよ、実際はやや違っている。クロムがネプチューンの財宝探索に取り掛かる事は事実だが、それは後の話だ。
「だからよお、お前そうじゃねえって言ってんだろが。何でそうなんだよ?」
「ちょっともう一回やって下さいよ。わざとやってません? 速すぎるんですけど」
クロムに下賜された<はぐれもの号>。
かなり大きめのクルーザー程の船体の甲板で、ジョシュとクロムは座り込みロープを結んでいた。
「ここを回すだろ? んでこっちに通して」
「はい」
「んでここを抑えながらグルッとこうだ」
「いや、だから」
互いにイライラしながら作業訓練に励む。
エバーロッテから副船長の指名を受けたのはジョシュだ。航海長でもあり操舵手でもある。
ストレイ号は秘宝探索のために各地の情報を集めて回るためのクロムの部隊の船であり、海上の任務からは一切解き放たれた存在であるため乗組員の数は少ない。
そこでクロムも最低限の作業は覚えようという訳だが、これが難航していた。クロムはこれはおそらくスキルが関係していると睨んでいる。
もしくはそう言い訳している。
「こんなペースじゃ無理だな。中途半端に任せられねえ。どこ行きたいかだけ言やぁいい」
「はあ、そうですか」
バタリとジョシュが甲板に倒れこむ。
ジョシュはクルーの選定も行わなければならない。クロムが作業員として計算できないなら、信頼できる人柄以外にその辺も踏まえた能力と鷹揚な性格も見定める必要がある。
島に残る人材となれば老人や若者が多い。若者には海戦艦乗りの道を歩むための経験を積んで貰いたいので、老人や女達になる。
少人数での外洋航海はクロムが居るとはいえ危険が大きすぎる。
ジョシュは女海賊を低く見積もるつもりはないが、あまり選ぶつもりが無い。むしろその存在はレバイドにとって貴重なため、結局ほとんど老人達から選ぶしかないと思っている。
適任とも言えるのだが。
「いやーきつい」
エバーロッテを恨む。
折角側近として取立ててくれたのに、こんな面倒を任されるとは。
勿論その意図は理解している。
自分に期待されている役割を考えれば、左遷というより抜擢という言葉が相応しいのも。
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「海神の秘宝?」
側近たるドレー号の乗組員と一部幹部だけを集めて行われた会議でクロムの扱いと計画が発表された。
クロム・ディーという存在については徹底的な緘口令を敷く。表向きレバイド海賊団との繋がりももう無いものとする。
「そうさ。クロムは亡くなった両親からその情報やらを受け継いでいる」
クロムが竜人と言ったワードとエバーロッテの思う龍神というワードの齟齬は既に解消されていた。汗ばんだ体でうわ言を言いながら谷間を露出したエバーロッテを宥める際、クロムがすぐにそれに気付いたからだ。
かといってガッカリされた訳ではない。
ネプチューン海底神殿はクロムにとってお馴染みのマップであり、その情報など網羅していた。だから簡単に話を合わせる事ができた。
というかキャプテン・ドレーの言うその宝かどうか分からないが、ネプチューンの財宝なら既に所持すらしていたし。
一応クロムはこれらは黙っている。
「クロムにはこれから影のレバイド海賊団、フルクタスの一員として働いて貰う。小型船を与え、親父の資料も預ける。そして」
「お、親父さんの!?」
「静かにしないか。まったく」
「アンタらが見つけ出してくれるってんならアンタらに預けたっていいんだよ」
その言葉に反論できる者はいない。
キャプテン・ドレーでさえ辿り着けなかった場所に到達できるとしたら、超越した力を持つクロム以上の適任者はいない。別の情報まで持っている。
エバーロッテこそ適任者ではあるが、レバイド海賊団の長として、フルクタスの五柱の一本として責務を放り出す訳にはいかないのだ。
「ええと。ただしクロムにもメリットが無きゃ、そうだろ? だから船の裁量権は全てクロムのものとする。クルーはどんな指示にも従う」
「秘宝の情報集めと並行してクロムもやりたい事をやるそうだ。こっちもすぐに結果を持って帰ってくれなんて図々しい事は言わない。ストレイ号はそういう意味で完全にクロムのものとする」
これがクロムの出した条件だった。
話を聞くにつれてそれがネプチューンの海底神殿である、と分かったクロムが即座に巡らせた計画は、望み通りレバイド海賊の協力者となる代わりにエバーロッテの言うように船を一隻寄越せ、というものだった。
要するにクロムとしてはこの世界は移動がとにかく不便であり、オープニング時点で船を手に入れられるならまさに渡りに船という訳だ。
海底神殿の情報なら既に持っている。
ズルくはあるが、小出しにしていって大いに船を活用させてもらう。そういう企みだ。
船だけ手に入れても動かない以上、この世界最高クラスのレバイド海賊というエンジン付きであるならば、それはどんなに望んでも手に入れられないレアアイテム並みの価値がある。
だからこそクロムは竜人の力の一端を晒してまで海賊達に見せ付けた。
上手く事が運ぶように。
海の一族として隔離された海賊達であるならば、そうそう情報漏れが起きる事も無いだろうしクロムを何かに利用しようと思う者もいまい、という計算も働いている。
別にクロムはしゃかりきに世界攻略に乗り出そうなどと思っている訳ではない。
ただこれで、大いに気ままな冒険ができる。その足を手に入れられる機会に乗っかったのだ。
「で、だ。問題はクルーさね」
全員が考え込む。
ちょっと考えただけでも分かる事がある。
ものすごい退屈そうだな、と。
「あのー、姐さん」
「何だい、ジョシュ」
「情報集めって事は、色んな大陸のあちこちに上陸するって事ですよね?」
「そうかもね」
「船は誰かが守ってなきゃいけない訳ですよね」
「そりゃそうさ。失くしてどうすんだい」
「て事はですよ。ええと、例えばクロムの手伝いする人間と船を守る人間に分けたりするんですか」
「どうなんだい、クロム?」
「いや、別に留守番だけしててくれればいいですよ。連絡役はどこかの町に居て貰うとか」
「だとさ」
ええー……と全員が嫌な顔をする。
例え寄港中でも羽を伸ばす人間と留守の人間は必ず分ける。
しかし少人数だとそうもいかない。
見知った港ならまだしも、知らない土地で全員船を降りるなど有り得ないし、船を守るのにも人数がいる。持ち回りで一人ずつ順繰りに陸で羽を休めるのが関の山だろう。
情報集めが数日で終わればいい。
しかし何週間、何ヶ月もかかるとなればその生活を強いられるのはキツい。
ちょっと航海しては長期の留守番。また動かしてはボーッと留守番。
ただの船乗りでさえ退屈するだろうに、海賊の血が全力でそれを拒否してくる。
全員が考えるフリをして腕組みしたりあらぬ方を見たり、俯いたりする。
要するに目を逸らす。
「ジョシュ」
南無三。
ジョシュ以外の全員が黙祷を捧げる。
心の中で派手なガッツポ-ズをしながら。
「頼んでいいかい」
嫌です。
そう言いたいが居並ぶ先輩達からの圧が凄い。断れば殺す、そういう目をしている。
ジョシュも覚悟を決める。
「はい」
「助かるよ。流石アタシが見込んだ男だ」
「その代わりいっぺん姐さんのその胸に、と」
「いやあ、ジョシュ! おめえしかいねえぜ、こんな事できそうな奴ぁよ!」
「おお、まったくだ」
「将来大幹部間違いなしだな!」
ズン、とジョシュの肩に振り下ろされた岩のような重さの隣の幹部の手が、早口にあらぬ事を言おうとしたジョシュの発言を遮る。
万力のように締め上げてくるその手と他の人間の嘘くさいおべっかが一斉に場をかき回した。
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一通り海賊達の間を回り当たりを付けたジョシュは重い体をひきずるようにして歩く。
体が動く熟練の海賊は多いが、気の長い者、船内の生活まで考えると色々と絞られてくる。
はあ。
ジョシュは溜息をつく。
何故自分を選んだか、お前程頭が回る者はいないから、とその場に一人残され聞いた事で納得すべきなのだろうが。
とぼとぼ歩いていると、クロムとルカが居た。
向かい合って立っている。
というよりほぼ抱き合っている。
真っ直ぐ立つルカの腰に正面から両手を回し支えるようなその格好は、抱き合っているとまでは言えないかもしれないが、密着してイチャついているのは間違いない。
クロムの顔を見上げながらルカが明るい笑顔で楽しそうにしているのが救いか。
本当に許婚になったのだから構わないし、そうやって既成事実を積み上げるのも良い事ではある。あえてそうしている部分だってあるのだ。文句など当然無い。
まったく唾でも吐きかけてやりたいね。
クロムにだけだが。
とにかくずるい男だ。
ドレー号の乗組員は勿論エバーロッテがクロムを連れてきた本当の経緯を知っている。
先代の憧れた銀髪をその娘が気に入ったという、ただそれだけの偶然でしかない。
しかし何故かルカにも気に入られ、成り行きで許婚になり、更にルイに認められ本当に可愛い婚約者を手に入れた。挙句、幹部の誰一人として持ち得ない全権船長の地位まで手にした。
勿論それには理由はある。
ただの幸運ではない。
まず顔がいい。
サラサラの銀髪美少年などこの洞窟ではお目にかかった事がない。ルカが惚れるのも無理は無い。だがこれは運だ。親のおかげ。
本来有り得ない許婚になった経緯。
これも運だ。
ルイが何かを認めていたフシはあるが……。
いやいや、ラッキーなだけ。
まあその後は実力だ。
これは認めてやる。
しかしそれだって親が海神の情報や秘術を手に入れていたおかげとも言える。
まったくいけ好かない。
何より気に食わないのは、自分がそんなクロムを結構気に入ってしまっているという事。
あの酒場で料理をバカスカつまみ食いし、酔って船べりで間抜けにうたた寝していた姿を思い出し、ジョシュは思わず笑ってしまった。
あーあ。
ジョシュだって二十四歳と若い。
資格でいけば一応ルカの候補ではあった。
ルカにもジョシュにもその気は無かったが。
仰ぎ見るべき存在であるはずの頭領。
二十六歳のエバーロッテに惚れているなど、天地がひっくり返っても言っていい事ではない。
勿論その体を望む事も。
側近に選ばれた時は飛び上がるほど嬉しかったものだ。そのおかげで器の違いを思い知らされる羽目にもなったが。
長く離れる事になると分かり我を失い覚悟を決めたが、危うく掟に背く所だった。
きっとこれもクロムとルカが事あるごとにイチャつきやがるせいだ、と言い訳する。
エバーロッテはドレーの娘として、フルクタスの上位から婿を取ると目されていた。
もしくは多分だが、どこか大国、モルデニアス神皇国あたりの大国の貴族筋に嫁ぎ、フルクタスと結ぶつもりなのでは、そういう野望の気配も一時期感じていた。
ドレーの夢を引き継ぐ事をあきらめ、フルクタスの人柱になろうと。
勿論そうなった時は全力で阻止するつもりだったが、結局エバーロッテはレバイド海賊団の面倒を見る事をやめられず、娘としての時間を失った。
そういう自分達に不甲斐なさも感じる。
だからこそ傍で支え続けたかったのだが。
はあ。
再び溜息をつく。
一人洞窟を歩いていく。
その内だんだんモヤモヤしてきた。
エバーロッテだって自分が言いかけた言葉の意味ぐらい分かったはずだ。
掟に背かせまいとあえて気付かないフリをした優しさともとれるが、それにしたってその後知らん顔するだけではなく、いっその事厳しく咎めてくれた方がまだスッキリするというものだ。
諦めも付こうというもの。
大体あの格好、あれも良くない。
いくら先代のスタイルを踏襲しているとはいえ、あんなに色気を振り撒かれては堪らない。
考えれば考える程、エバーロッテが悪い部分だってあるよな、としょうもない愚痴に行き着く。
が、そうも言ってられない。
報告すべき愚痴の相手の私室に辿り着いた。
岩肌を綺麗にくり貫き一際立派な装飾が施された木の扉。コンコン、とノックする。
「ジョシュです」
「入れ」
「失礼します」
王家の墳墓の石室のように壁も天井も一切の凹凸なく、美しく磨き上げられている。
地味だが上等な寝具の乗った寝台と、大きな机、棚、いくつかの生活用品。
海賊は日の光の当たらないこの洞窟内でずっと生活する事は無い。基本、寝るだけの部屋として使用するにすぎない。
外界と比べれば粗末な部屋といっていいが、ことこの島に限っていえばこんな上等な部屋は無い。
エバーロッテは鏡台の前に立ち何か書物に目を落とし背を向けたままでいる。
さっきまで考えていた内容のせいか、ジョシュはつい強調するかのような、ピッタリとしたズボンのキュッとしまったヒップラインに目が行く。
「どうした」
「あっ、はい、クルーの相談で」
鏡越しにこちらを見たエバーロッテにバレやしなかっただろうかとドギマギしながらジョシュはクルーの選定とその理由などを話していく。
「いいんじゃないか。同意も得たんだろ?」
「へい」
「後はクロムにでも聞けばいい」
「アイツはダメです。船の事はてんで」
フッとエバーロッテが口元で笑い、本を置くと寝台へ歩いていき腰掛けた。
後ろ手に手を付き、足を組んでいる。
「あの時も説明したけどアンタがしっかりやってくれるって信じてるよ。他の奴には無理だ」
「分かってます」
「へえ、自信あるのかい?」
「いえ、そういう訳じゃないんですが……」
やれやれと首を振ったエバーロッテが手招きし、チョイチョイと椅子を指差し座るよう促す。
説教でも慰めでも、それは嬉しかった。
「アンタはまず自信を持つ所から始めなきゃダメだね。慎重なのはいいけど周りにビビってばっかじゃ海賊なんてやってけないよ」
「へい」
「クロムをご覧よ。ま、全部が全部って訳じゃないけどね……堂々としたもんじゃないか」
ズン、と重い物がジョシュの胸を塞いだ。
エバーロッテもやはりそうなのか。
当然といえば当然だ。
いや、分かっていた、そんな事は。
しかしその差は力を持つ者とそうでない者の差だとジョシュは思う。どうしようもない。
「まだガキだってのにさ。頭も相当切れる。アイツと一緒にいればアンタにも色々と――」
他人を羨んでも仕方ないが、外から来た少年には皆が特別な目を向ける。
男も女も。
老いも若きも。
それが興味であれ信頼であれ敵意であれ。
クロムは静かに黙ってそれを受け止める。
本当は分かっている。
エバーロッテが本当に気に入ったのはその臆す事の無い度胸だったし、ルカが惚れたのは少年らしさと男らしさを兼ね備えた、どこか掴みどころの無い風を感じさせるようなその姿にだったはずだ。
自分ですら最初の出会いの日から何となく感じていたのだ。
とぼけているようで不思議と強く惹かれる、遠くを見据えているような何か。
言葉にできない何か。
ルイもビンスもそうだろう。おまけにあの力だ、運と言い張るのは負け犬の遠吠え。
選ばれた人間という言葉こそが相応しい。
そういう何かを持っている。身に付けたのか生まれ持ったのかは知らない。
そしてこれだけ嫉妬してもまだ嫌いになれない程、自分も気に入ってしまっているというのだからもう手の施しようが無い。
少し俯きはしたが精一杯小さく笑顔を作る。
――アンタを信じてるよ。
こんな狭量な男にそう言ってくれたのだ。
せめてその言葉は守らなければいけない。
「分かったかい?」
「分かってますよ、姐さん」
目を合わせる事はできなかった。
良く分かりました、そういう態度を装って目を閉じ深く何度も頷き、ひねた自分を隠す。
ふう、と溜息が聞こえた。
ちっぽけな抵抗も聡明な頭領には見抜かれてしまったらしい。本当に笑いが漏れた。
「立ちな、ジョシュ」
歯を食いしばり立ち上がる。
エバーロッテが目の前まで歩いてきた。
やや見下ろす形になるがそれだけだ。
「……」
かける言葉さえ見つからないらしい。
当然だろう。
腕組みし俯きじっと何かを考えるエバーロッテの姿に詫びる。卑屈の穴に落ちるような男でしかない事を、申し訳ないと思う。
エバーロッテがようやく顔を上げた。
じっとジョシュの目を射抜いてくる。
「アンタ、何か言ってたね。あの会議の時」
ドキン。
やばい。
咎めてくれと言った事を取り消したい。
今はやめてくれ。死んでしまう。
「えっ……何か言いましたっけ」
「とぼけてんじゃないよ」
スッとエバーロッテの目が細くなる。
終わった。
「あの……何と言いますか」
「良かったねアンタ。もし止めてくれる人間がいなければ掟に背いたアンタをアタシは斬ってた」
ブツッ、と一切の音が途絶えた。
心のどこかで期待していたものは妄想にすぎなかったとはっきり分からされる。
側近に取り立てて貰った事で何か勘違いをしていた。あの言葉に込められたわずかな意味を明確に拒否された。
アンタに期待してる。
アンタは他とは違う。
数々の言葉は、やはり単なる発破にすぎなかったという事だ。勝手に勘違いしただけだが。
「アイツらに感謝しな。アンタはガキだ。それをまずしっかり肝に銘じるんだね」
むしろ有り難いな、と考える。
これで張り切ってクロムの部隊に迷い無く参加できるとすればラッキーじゃないか?
「へい。肝に銘じます」
自分はキリッとした顔を作れているだろうか。
せめてそれだけ格好つけたいけどな。
「よし、じゃあ」
やはり仰ぎ見るべき頭領だ。
ジョシュは改めて尊敬する。
ひねくれた自分を見定め、一撃で真っ直ぐな男へと変わる分岐点を与えてくれた。
この事を感謝すべきだろう。
それを噛み締めながらあの扉をくぐるのだ。
「今この場所この時間だけ掟を破る事を許す」
……。
えっ?
どういう意味だろう。
今までエバーロッテは難しい事も言ってきたが、他の連中はともかく自分がその意味を一切理解できないなどという事は無かった。
扉の方へ向かいかけていた視線をゆっくり戻す。目で分かりません、とエバーロッテに問いかけるがその顔に変化は無い。
阿呆のようにボケッとしていると、エバーロッテが腕組みを解きダラリと両手を垂らした。
それからしばらくしてこちらを見つめ返していた強い視線を放つ目が静かに閉じられる。
ドクッドクッ、と心臓が動き始めた。
それは勢いを増し、弾けそうな強さに変わる。
嘘だろ。
まさか。
見た事の無い女の空気。
ジョシュとて経験はある、男の本能が騒ぎ立てる。さっきの言葉の意味を良く考えてみろ、と。
鼓動が脳を叩く。
馬鹿な、よせ、もう期待するなと呪文のように繰り返し自分を戒めるが体が震える。
「……さっさとしな……」
ガン、と巨人にぶん殴られた。
恐ろしい程美しく妖艶な拳。
いつもの声ではない。
吐息混じりの甘い、か細い声。
無意識の内にガシッとエバーロッテの両手を掴んでいた。肘の下の辺りを挟み込むように。
自分にこんな勇気があったのか、と驚きと喜びが溢れてくる。
いや、違う、勇気の無いジョシュを甘美な巨人が抑え付けてくれただけだ。
これではエバーロッテにおんぶに抱っこのままではないか。
エバーロッテとて勇気を持って踏み出してくれているはずだ、自分のために。
クロムの姿が浮かぶ。
俺もあんな男になりたい。
もう一歩。
掴んでいた手を離す。
ピクリとエバーロッテのまぶたが揺れた。
違います、勇気が無くなったんじゃありません、ここから勇気を出すんです、姐さん。
スルリと腰に手を回し正面から抱いた。
エバーロッテに拒否する素振りはない。
涙が出そうな程歓喜が湧き上がる。
こんな風に抱きしめる事をどれ程夢見た事か。もう死んでもいい。
いや、弱いジョシュはもう死んだ。
今ここで愛する女性が殺してくれた。
ゆっくり顔を近づける。
ゴクリと唾を飲み込んだ。と、反応するかのようにエバーロッテも小さく喉を鳴らす。
わずかに唇から吐息が漏れた。
カッと力が湧きあがった。
もう躊躇いは無い。
エバーロッテの美しい顔が間近に迫るまでスッと顔を近づけ、一気に距離を縮めた。
その顔を通過し、ジョシュの顔は豊かな胸へと飛び込んでいた。
強く押し返してくるような、深く沈みこみ包まれるような、極上の感触。
柔らかさの極致。
荒い息を吐きながらジョシュはエバーロッテの細い腰を強く抱きしめ、頬を擦り付ける。
うっひょおおおお。
頭がおかしくなりそうだ。
脳髄が痺れるような快感が突き上げる。
腰に回していた手をずらし、両手で思い切りエバーロッテの尻を掴んだ。小ぶりに引き締まり、それでいて女の柔らかさを持っている。
胸に顔を埋めながら尻を撫で回し揉みしだいていると、快感が痛みを伴うようなものへと昇華した。
人は本当に絶頂を迎えるとこうなるのか。
快楽のあまり頭が割れそうだ。
ハアハア。
ハアハア。
……。
ん。
あれ、違うな。これ本当に痛ぇーぞ。
ふと我に返る。
「……う、ギィィッィイィ……!」
こめかみを左右から万力で締め上げられ、そのまま顔を持ち上げさせられる。
今までの夢見心地から一気に激痛オンリーへと変化した驚きに何事かと薄く片目を開けると、エバーロッテが自分の頭を両手で挟んでいるのだという事が分かった。
「何考えてんだい、アンタ」
地の底から這い出たような声。
僅かに赤らんだ頬と冷たい目、額の血管。
まさか!?
オッケーサインでは無かったのか!?
徐々に圧力が増す。
やはり勘違いだったのか。試されたのか。
しかし悔いは無いからな、と妙な方向へ強く生まれ変わったジョシュは心の中でそう叫ぶ。
このまま自分は頭を砕かれて死ぬだろう。
だがエバーロッテの両手はそのまま閉じるはず。愛した女に合掌で送られるなら悪くない。
とニヒルに目を閉じる。
まったくダセエ男だったぜ……。
ただ尻を掴んだままは本当に格好悪いな。
腰に戻そう。
すると徐々に圧力が弱まっていった。腰に戻した事で許されたのかもしれない。
そんな事を思って片目を開けてみる。
もう一度、心臓が止まるかと思った。
その顔は想像と違っていた。
少し唇を噛むような上目遣い。
まるで少女のような恥じらい、「どうしてわかってくれないんだ」とでもいうような涙目のような。
――何て可愛いんだ。
一瞬だったが確かに見た。
あの時、十四歳のエバーロッテに初めて恋をしてしまった時の少女の顔が蘇った。
「アンタって奴は……」
力こそ弱いが、まだエバーロッテはいつでもジョシュの頭を砕ける体勢のままだ。
それでもジョシュは止められなかった。
「姐さん、好きです。十二の時からずっと、あの時から姐さんに惚れてました」
エバーロッテの目が大きくなる。
「ジョシュ、アンタ……」
「嘘じゃありません。掟破りもいいとこだって分かってます、でも、俺――」
そして絶句する。
欲情とは別の素直な気持ちだった。
だがやってはいけない事だった。
ジョシュには分かってしまった。
これは上手くいこうが失敗しようが最悪の結果しか招かない。
上手くいったとしてもそれは許されない。掟破りをエバーロッテ本人にさせてしまう事になる。
馬鹿を口走った自分を見逃せばやはり掟を破らせる事になってしまう。体を求めるだけに留めていた方が百倍マシだった。
己の愚かさに絶望した。
掟破りを許すなどエバーロッテは言ったが、ここまでされるとは思っていなかったに違いない。
しかしエバーロッテは自分で口にしてしまった以上ジョシュを見逃すだろう。そして罪の意識に苛まれながら生きる事になる。
そういう女性だ。
「あ……」
腰に回っていた手が力なくストンと落ちた。
自分が馬鹿だったばかりに最愛の女性を地獄に突き落としてしまったのだ。
色を失ったジョシュの瞳に、エバーロッテは全てを理解する。
賢い男だから。
そこが強さでもあり弱さでもある。
本当はそんな掟など無いのに。
いや、手下にとっては掟と呼んでもいい。
それが共通の概念なら。
だがエメリア・エバーロッテを守るべく老人達が書き足したその掟は、本人の枷にはならない。
「アンタは本当にどこまでもガキだね。ま、急に大人になんてなれやしないさね」
「姐さん……俺……」
「なんて顔してんだい」
ジョシュには期待するがあまり損な役回りばかりさせてきてしまった。
臆病な男にしてしまったのは、難しく失敗するような事ばかりさせてきてしまった自分のせいだという後ろめたさも少しある。
今度の件だってそうだ。だから。
自信をつけさせてやろう。ちょっとばかりの贖罪と褒美と激励のつもりだった。
雰囲気でキスだと伝えたつもりだったが、まあそれは男はそんなものなので許せる。
欲望を剥き出しにされて頭にきたが。
まったく。
もう一度手に少し力を込め、俯いたその顔に素早く顔を近づけた。
充分すぎる事はもうしてやった。
贖罪も褒美も激励も終わり。
これはほんの少し幸せな気分にしてくれた事への礼。それ以外の意味などない。
心の中でそう確認し、唇を重ねる。
この日ジョシュ・グリッドは死んだり生き返ったりを繰り返した。
最後に生き返って終われた事は幸運であり、その息を吹き込んでくれたのが恋焦がれる女であった事もまた彼にとって幸運だったろう。
彼の運命はこの日変わった。
ただこれが幸せと呼べるかどうかは分からない。後に訪れる結果ではもしかしたら、だが。
もしかしたら振り返ってこう言うかもしれない。
厄日だったと。




