旅立ち 3
港に停泊する船は帆船がほとんどだ。
大型船が多いが、現実世界で超の付く大型船を見ているクロムにはそこそこの大きさとしか思えない。ただ洋風のその拵えは美しい。
潮風に吹かれながらエファとマリーの乗った船の小さくなっていく姿を眺め続けていた。
結局我慢しきれなかったな、と己のいい加減さにちょっぴり後悔する。
マリーを縛る鎖を付けてしまっただけのようなものだ。外すのはしんどいだろう。
でもなあ。
あそこで何もしなければ、この先もっと後悔してただろうからな。しょうがない……。
と益体も無い言い訳をぼんやりと考え続ける。
「兄さん、悪いがそこどいてくれ。次の船が来るんで準備しなきゃならないんだよ」
注意され、海に背を向け歩き出す。
学園ものはこれで終わったのだ。
ここからはまた新たなシナリオが始まる、そう思う内に元気が出て来た。
当初の目的である冒険者資格は手に入れた。
思えばプラチナとの最初の出会いからここまで、こんなに時間が掛かるとは思いもしなかったが。
しかしこれでようやく自由な冒険の旅に出る事が出来るのだ。後顧の憂い無く、有り余る金と覚えた魔法、装備品を誰に気兼ねする事なく使っていける。
気ままな立場にこの世界の知識も手に入れられたと考えると得たものは大きい。
無駄な時間ではなかった。
どころか随分楽しい時間だったのだ。
後悔などしても仕方が無い。
デイポートの街並みは石畳とレンガ造りの家で構成されている。
家々を繋ぐ頭上には紐が張られ、旗や洗濯物がはためいたりと賑やかで楽しい。
路上には屋台があちこちに出ており、海鮮ものの串焼きなどが売られている。
港部分の街からなかなかの傾斜の曲がりくねった坂道を登ると、もう一つの住宅街へと出る。
港と瀟洒な住宅街、二つに分かれたようになっているのがこの街の特徴だ。
港部分の街並みを見物して回る事にした。
大勢の人通りの大通りも、一本外れた狭い通りもどこも活気に満ち溢れ、これが夏ならもっと賑やかなのかもしれないと思う。
カモメや錨の描かれた看板が如何にも港町といった雰囲気を醸し出している。
浮き輪の装飾や銛、網。
イルカやイカなどの絵もあちこちにある。
香ばしい香りにつられ、折角だから海の幸を堪能しようと匂いの元である一軒の酒場の扉をくぐった。
「いらっしゃいませ! 空いてるお席にどうぞ」
ビールジョッキを運ぶ三つ編みのウエイトレスが元気良く出迎えてくれた。
店の中は丸テーブルが一定間隔で乱雑に置かれただけのように見えるが、きっとこれが最大限スペースを確保できる配置なんだろうな、とすぐに考えたのはそんな事だ。
昼過ぎの食事時で混雑している。
そのほとんどは屈強な男達ばかりで、豪快に笑いながら酒を酌み交わしている。まだ肌寒い季節だというのに半袖に盛り上がった逞しい二の腕がやたら目立つ。
空いている席だと、とクロムは店内を見渡す。
丁寧に案内してくれるような状況ではないのか、奥のカウンターから覗く厨房もウエイトレスも忙しく動き回っている。
確かに椅子自体には空きが見受けられるが、テーブルの隙間に余裕がある席など無い。
酔って気分良さそうに騒いでいる男達にわざわざ声を掛けて詰めて貰うのもな、とクロムが少し歩きながら思案していると奥の方から声を掛けられた。
「そこのアンタ! こっちに来な」
見れば店の一番奥のテーブルからド派手な女が高く手を挙げヒラヒラと手招きしている。
見る限り周囲のテーブルはその女の連れなのだろう、他のテーブルとは違いそこだけが仕切られた空間のように少し隔離されていた。
呼ばれたからには行くか返事をしなければならない。断るにしろ遠くからでは無礼だろう。
少し薄暗い店内をすり抜け近付いていくと、ニヤニヤしながら手をヒラヒラ振り続ける女はかなり酔っ払っているのが見て取れた。
大分顔が赤い。
しかしまだ若く、かなりの美女だ。
薄桃色のロングヘアを靡かせ、深い真紅のジャケットの前を大きく開けている。
その下の白いブラウスは首元までしっかりボタンが留められていたが、豊かな胸をこれでもかと強調し、大きく張り詰め膨らんでいた。
「アンタそこに座んなよ。ホラ、空けてやんな」
女が屈強なバンダナの男に指示すると、男はのっそりと無言で立ち上がり隣のテーブルへと移った。
「おーい、こっちにビールもう二つだ!」
クロムを無視したままウエイトレスに声を張り上げる。周りの男達は何も言わずにジョッキを傾けたり食事を取ったりしている。
「お言葉に甘えて」
断る雰囲気でもない。
どう考えても姉御と手下達、そんな空気だ。下手に断れば面倒な事になりかねない。
「お待たせしました! お客さん、注文は?」
「あーっと、海っぽいオススメがあればそれで。腹減ってるんで満足できるような食事を」
「苦手なものとかあります?」
「無いですよ」
「お代も、大丈夫そうですか?」
「コラコラ、しつっこいねえ。アタシが呼んだんだ、安心しなって。忙しいんだろ?」
ジョッキを受け取った女が笑いながらウエイトレスに言うと、ニコリと笑いウエイトレスは身を翻し去って行く。どうやら常連らしい。
「さ、飲みな」
さ、じゃないがとクロムは目の前に置かれたジョッキを持ち上げ女の掲げたジョッキにぶつける。未成年なんだけどな、と思うもしかしクロムもこの世界の些細な法令を守る気など更々無い。ビールの味は親しんだ現実世界のビールそのままで、いたく満足している。
「いい飲みっぷりだ」
「はー、美味い」
ほとんど一気に飲み干す。
「その辺のモンも良かったら食いな」
「じゃ、いただきます」
大皿に残された海老や魚、肉類はスパイシーな味付けが施されかなり美味い。
特に魚介は身の新鮮な歯ごたえと磯の香りがなんともいえずヒョイヒョイとつまんでいく。
「ガッハッハ、坊主、お前なんて言うんだ」
「クロムって言います」
「おめえさん大したタマだぜ。姐さんの前でそんな風にできるなんざ、なかなかいねえわ」
「ちげえねえや」
ドッと周りの男達が笑う。
姐さんと呼ばれた女も可笑しそうだ。
「気に入ったよアンタ。もっと飲むかい。奢りだ」
「……じゃ、せっかくなんで頂きましょうかね」
ヒョイと肩をすくめクロムは飲んでしまえと腹を括る。酔いも実はクロムの警戒すべき点として頭に入れてあるのだが、陽気な店の雰囲気に浸りたい欲求に負けてしまう。
運ばれてきた食事に舌鼓を打ちながら、勧められるままにドンドンと杯を重ねてしまった。
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「ほーん。特にアテの無い冒険ねえ」
「お姉さんは、何で俺を呼んでくれたんです」
クロムはすっかり良い気分になっている。
酔い潰れている訳ではないが、自分が冒険者資格を得て行く当てのない旅をするつもりだという、現状の身の上話はしてしまっていた。
「目立つその髪が気になってね」
「これ、ですか」
「こんな場所には似つかわしくない色男だし?」
「お姉さん程の美人に言われちゃ」
フフン、と姐さんが笑う。
ガキに言われるまでもない、といった表情だ。
「クロム、じゃアンタ今日は予定無いんだろ?」
「まあ、取り立てて今すぐは」
「そんならいいモン見せてやるよ。この後アタシらに着いてきな。何、取って食おうってんじゃない」
そう言うとさっさとウエイトレスを呼んで会計を始めてしまった。一体何を見せるというのか。
普通なら流石に危機感を感じるところだが、クロムはこの姐さんと呼ばれる美女も男達も悪い連中ではないという気がしている。第一クロムが人間相手に危険に陥る事はそう考えられない。
流されるままゾロゾロと店を出ると、再び港に向かって歩き出した。姐さんがクロムの肩に手を回し、機嫌良く鼻歌を歌い始める。
クロムと同じ程、女性ではなかなかの長身だ。
美女に密着されて悪い気はしない。
だが微かにクロムは、ここで初めて危機感を覚えた。具体的にどうとはいえないが、何か危険なものに捕えられたようなピリリとしたものを感じたのだ。
(何だ?)
薄桃色の長髪は腰まで届き、機嫌良く揺れる頭に合わせて伊達に羽織ったジャケットの上を跳ねている。肩に回された腕からも、寄り添う体からも特別力強さは感じない。
引き締まってはいるが、細腰だ。
キリリとした眉に通った鼻梁。
相当な美形といっていい。
近くで見ると少し灼けてはいるものの、肌はきめ細かく、思っていた以上に幼くも見える。
口元のごく小さなホクロがセクシーだ。
(いや、そうじゃないだろ)
ついつい別の方向に考えが行ってしまった。
そうこうしている内に港へ戻ってきた。
相変わらずの賑わいを見せている港だが、この集団が進むと人が割れていく。
別に威圧したり誰かが露払いをしている訳ではない。クロムはほとんど先頭を歩いている。
どうもこちらを見ると多くの人間が率先して他の人間に注意を促し道を開けている。
有名人という事だ。
「ホラ、見えてきたよ」
顎で指し示されたのは一隻の見事な帆船だった。船首部分から突き出した衝角が他の船と違い異彩を放っている。
白い塗装が施された周囲の船に混じって、無骨で重厚な船体は鉄板で補強されている。
そのいかめしさはある記憶を即座にクロムに思い出させた。
「これは……」
「へへ、坊主、お前さんの隣に居るお人が誰か気付いたかい?」
ニヤニヤと一人の男が聞いてきた。
海賊。
クロムの頭に降りてきたものはそれだ。
確かにそれっぽい雰囲気しか無かったはずだが、クロムがそこに思い至らなかったのは理由がある。
ゲームで登場する海域は決まっており、海賊は北の海でしか出現しなかったはず。
ガルテン王国周辺には居なかった。
地図を分割すると最南端から三分の一程度に位置するデイポートはそのエリアからは大分離れている。以前クロムが出任せで言ったゼルクレタ島辺りの北方が該当する海域だ。
仕様が違うのであればそれはいい。
しかし驚きの根幹は、女海賊といえばクロムには一人しか思い当たらない事。
「エバーロッテ……?」
「何だ、知ってたのかい。つまらないねえ」
「ま、顔までは知らなかったみたいですぜ。姐さんもこの顔が見たかったんでしょう?」
「あっはは、そうだよ」
クロムは驚き、真横の美女の顔をまじまじと見つめてしまっていた。
「……こんな美人だったのか」
「そうだぜ、有名なのは名前だけじゃなくて美人ってとこもなんだけどな。てこたぁお前さん知ってるって程でもねぇな」
馬鹿を言うな、と言いたくなる。
女海賊エバーロッテ。
髑髏の仮面を付けた超攻撃的なスキル構成を持つディーの仲間候補の一人。
しかもシナリオ進行に関わってくるメインシナリオイベントのキャラクターでもある。
つまりクロムはキャラクターステータスから人物設定、バックストーリーまで知っている。
しかし素顔を見たのは初めてだ。
ゲームでこんな口調をしていたか?
どうやら本編より前の、いわば過去編とでも言うべき女海賊のイベントに行き会ったらしい。
「そら、乗んなよ。特別だ」
「いいんですかい、姐さん」
「おいおい、まさかこんな優男にビビってんのかい? 情けないねえ航海長ともあろう者が」
タラップが降ろされ、船に残っていた水夫達が出迎える。クロムは驚いた頭に少しづつ整理を付け、冷静になると楽しもうという気になっていた。
ギシギシと木の板が軋み、甲板が近付いてくる。港の人間は海賊に囚われた哀れな男と見ているだろうか、一味だと思うだろうか。
そんな世間体をつい考えてしまう。
甲板は屈強な男達が作業をしており、お決まりの樽やらロープやらが積まれている。
帆は上がっていない。
やはり髑髏マークが描かれたりしているのか。
「アタシの船室に案内しな」
エバーロッテは一人の男に言いつけると作業する男達へ向かい、何やら指示を始めた。
来な、と野太い声で促されたクロムは男に着いて階下へと降りて行く。
案内された部屋はまさに海賊の船室といった趣で、世界地図や抜き出した各地の拡大図、海図が壁一面に貼り付けられていた。
船長室という事になるのだろうか。
様々な――ガラクタといっては失礼だが――何に使うのか良く分からないような物があちこちに積まれ、広い部屋を圧迫している。
隅には小さな寝台。
宝箱よろしくチェストも至る所に見受けられるが、流石に確かめて回る訳にもいかない。
キョロキョロと物色しながら待つ。
出て行った案内の男は何も言わずここに放り込んだだけなのだ。じっとしてろと言われなかった、という言い訳は通じるだろうか。
特に女性らしさは見受けられない。
というかはっきり言うと汚い。
机の上はカサカサで木の粉が浮いているし、積まれた様々は若干埃が被っている。
ピンクの髪を考えれば、現実世界ではギャルの汚部屋と呼ばれるような代物だ。
来る途中女船員も見かけた。
船員かどうかは勝手な決めつけになるが多分そうだろう。もしかしたら女性の寝室は別で、ここは会議とかそういう目的の部屋なのかもしれない。
クロムが記憶にある世界地図と壁に貼られた沢山の地図を見比べていると、エバーロッテが入ってきた。手にはカップが二つ握られている。
「珍しいかい、やっぱり」
コトリとテーブルにカップを置くと、ツカツカとクロムの傍まで歩いてき、隣に並ぶ。
「これはね、イーゲルンシュ諸島の一部を拡大した地図だ。凄いだろ。知ってるかい?」
「一応名前だけは」
「ここまで精密な地図はどこに行っても手に入らないだろうね。言ってみれば一つのお宝さ」
豊かな胸の上で腕組みしたエバーロッテは誇らしげに地図を眺める。
「確かにそうでしょうね。凄い価値だ」
「だろう?」
「これはエバーロッテさん達が測量したんですか? 地形もだけど、海抜まで書いてある」
「へえ。アンタ、海の知識があるんだね」
「えっ、素人ですよ」
「そんな専門用語使っといてかい」
「あー、まあ本を読むのは好きで」
気を良くしたのかエバーロッテは次々にクロムに地図や海図を説明してくれる。
クロムにとっても興味深い。
ゲームのマップより遥かに詳細な、拡大された地形がここに並んでいるのだ。
記憶と突き合わせ、あの場所あのモンスターを狩った場所かと感慨深く頷いていく。
それにしても楽しそうだ。
少し興奮気味にどんどん説明してくれる。
ちょっと酒場で引っ掛けただけの若造に海賊の機密を何故ペラペラ喋るのか。
それ以前に船長室に招待するのもちょっと普通じゃ考えられない。
これだけの手下をまとめるからには頭の足りない女船長という事でもないだろう。
クロムを見初めて自分の寝室に引っ張り込もうという訳でもないだろう。
「海流の関係でここはまだ……」
地図に目をやりながらエバーロッテのシナリオを思い出していく。推測にすぎないが、理由としてはこれじゃないかと思えるもの。
……髑髏の女海賊エバーロッテは、父親である前船長の死後海賊団を引き継ぎ――
海賊ドレー・エバーロッテ。
眼帯に銀の髪を持つ伝説の男。
娘の名はエメリア・エバーロッテ。
メインシナリオで共に海の旅をする、女海賊エバーロッテの核心に迫る部分のストーリー。
ドレーは白髪に貝殻の粉を吹き付けて銀に見せていたとか、そんな逸話まで出てくるエメリアの父親の死の謎を追う話だった。
だから多分だが。
クロムの銀髪に父親を重ねているのではないか。銀髪というのは滅多にいないらしい。
ファザコンは言いすぎかもしれないが、エメリア・エバーロッテは約六年後、本編開始時期でもそうだった事を考えると、更に父親の死に近いこの年代であればよりその執着が強くてもおかしくない。
きっと銀髪を気に入っているだけだろう。
勿論これを言う訳にはいかない。
クロムがエメリアの過去を知っているなどおかしすぎて警戒されるだけだろうから。
「すっかり冷めちまったね」
「昼間っから飲みすぎたんで、冷めててもお茶はありがたいですよ」
「たったあれくらいで飲みすぎかい?」
エバーロッテがカラカラと笑う。
グビグビと飲み干すと、壁に据えつけられた小さな寝台に歩いていきバタリと仰向けに倒れこむ。
「ああ、いい気分だ。眠くなっちまったよ」
「いつもここで寝てるんですか?」
「他にどこで寝るんだい」
黙ってもう一度部屋を見渡す。
なら何故掃除しない、と思ったが。
もしかしたらドレーが居なくなった時のままにしてあるのかもしれない、とそんな風に考える。
「お休みになります?」
「アンタも一緒に寝るかい」
顔を少しだけ持ち上げたエバーロッテがニヤリとからかうように挑発してくる。
うずたかい二つの山のせいでその顔はわずかしか見えなかったが。
「美人がそんな挑発してたら危ないですよ」
「ハハハ、男は皆スケベ野郎ばっかりさ。でもね、アタシの名前は伊達じゃない。試してみなよ。手下共にだってそういうバカな奴が居なかった訳じゃないけどね、みんな返り討ちさ」
失念していたがエバーロッテはディーが仲間にする程強い。うっかりしていた。
見てくれの体格や筋肉では測れないスキルを備えているのだったな、と立ち上がる。
歩いていき、両手を投げ出し仰向けになり目を閉じたまま薄く笑うエバーロッテを見下ろす。
多分からかおうというつもりなのだろう。
こちらもその気になった訳ではない。
ただ単純に、ゲームで髑髏の仮面を被っていたエバーロッテというキャラクターはどんな女性だったのか、それが少し知りたくなっただけだ。
初めて出会ったディーの仲間候補の力がどれ程のものか知りたくもある。
そのまま沈黙が続く。
シーツに広がる薄桃色の波が綺麗だな、と髑髏の仮面の時には見る事のできなかった外見を眺める。閉じた目は睫毛が長く、端正な顔立ちは抱いていた女海賊のイメージからは程遠い。
更に沈黙が続く。
僅かに酒気が空気に混じっている。
パチリとエバーロッテが目を開く。
見下ろしたまま動かないクロムを見上げ、馬鹿にしたような笑みを浮かべ更に挑発してきた。
「勇気が出ないかい、坊や」
その顔、肢体は勿論魅力的だ。
ふるいつきたくなる。
触れてみたいのは山々だ。
だが心が沈んでいた。
その気になれば力づくでやれる。
勇気がどうのではない。
なのにコイツは無神経に。
その言葉に何故か腹が立った。
不意に激情に駆られた。
先程までの知的好奇心だという呟きは自制するための言い訳に近い、己への戒めでもあった。
なのにこの女は。
この衝動は多分八つ当たりだ。
マリーとの曖昧な別れのせいで、心がささくれ立っているせいだ、という自覚はある。
勝手な理屈だが、女を使って挑発するエバーロッテの無神経さにどうにも腹が立った。
――お前がその気ならやってやろうか。
上体を曲げ、顔の横に手を付く。
薄ら笑いを浮かべた目は揺るがない。
脱力したままピクリとも動きを見せない。
白いブラウスを押し上げる膨らみは形良くクロムを誘惑してくる。威圧のつもりで一歩踏み込む。
足がエバーロッテの膝を割り、顔が近付く。
口元の蠱惑的なホクロ。そこに目をやると、微かに開いた唇から漏れた吐息に触れた。
濃密な女の匂いがした。
思わずごくりと唾を飲み込む。
カッとなりこのまま本当に覆いかぶさってしまえ、と体が一瞬本気でそう思った。
だが。
抱きしめたマリーの香りと吐息がすぐによぎる。
切なげで儚い笑顔が脳裏に浮かぶ。
一瞬で苛立ちも欲情も鎮火していく。
そのまましばらく視線をぶつけ合ったが、目を閉じクロムは上体を起こす。
どちらにせよ、クロムのままではどうにもならないのだ。黒髪と竜眼を晒してまで試す価値も無い。
勿論自分にウソはつけない。
マリーの事を想っても、目の前で豊満な魅力を放つ体に触ってみたい欲望は確かにある。
が、今日の今日はダメだ。
「魅力的すぎますよ、エバーロッテさん」
「知ってる」
自制心をフル回転させクロムは机に戻る。
浮いた木の粉を指でなぞり、そういえば湿気の多いはずの船室がなぜこんなにカサカサに乾くのだろう、とまた益体も無い疑問に思いを馳せた。




