眠らない街の凡婦はときめかない
『眠らない街の凡婦はときめかない』
――いつからだろう、ときめかなくなったのは。
葛城紗英はいつにも増して酒を呷った。もう何杯飲んだかもわからない。
居酒屋のカウンターに陣取って、店主が勧めた肴をあてにレモンサワーを飲んでいる。焼酎は好きになれないし、日本酒はよく騙される。かといってビールは苦くてあまり好まない。けれどもカクテルは少し高飛車な気がして(そもそもこの店にカクテルなんてない)、やっぱりレモンサワーに落ち着いてしまう。
時刻はまだ午後八時。それでもこの店に来てからもう二時間以上経つ。
「紗英ちゃん、もうそのへんにしとかんね?」
「なにおう! まだまだ飲むに決まっとろうもん!」
酒に酔っているのは自覚済。そうでなければ慣れない方言なんて使わない。紗英が微妙にずれたイントネーションで方言を使い始めると酔っ払った合図だと、店主も長い付き合いだからよく知っている。
彼女が福岡に来たのは五年前。この店に足繁く通うようになったのは三年ほど前から。店主は親子ほど歳が離れていることもあって、紗英をまるで娘のように感じていた。けれど、客は客。紗英が飲むと言えば店主は邪魔しない。
せいぜいが苦言を呈する程度。
「こげな居酒屋で飲まんでも、もっと小洒落たところに行きゃあよかろうもん」
紗英ちゃんはまだまだ若いんだから――そんな言葉は飲み込んで。
「あっ、また年齢のこと考えてたでしょ!」
「言っとらん」
還暦前の店主からすれば、三十路手前の紗英はまだまだ若い部類かもしれない。けれど、紗英からすれば折り返しは過ぎた年齢――最近はとくに肌の張りが減った気がする。
「私はね、このお店が好きで来てるの! まあ、大将の顔を見に来てるようなもんだけどね」
「へいへい。そりゃありがたいこって。ほれ、あぶってかも」
紗英は目を点にして皿の上に載った真っ黒なそれを見つめる。
「なにこれ」
「あぶってかもたい。炭にでも見えたな?」
よく見れば小さな魚だとわかる。けれど、真っ黒だ。
「焼きすぎじゃない? 大将、これでお金とんの?」
「いいけん、騙されたと思って食ってみんね。口に合わんかったら勘定から抜いとっけんが」
恐る恐る口に入れてみれば、なるほど魚の味がする。
塩はきつめで、噛んでいると鱗も内臓も残ったまま。けれど、悪くない。ちょっと焦げた味もパリパリした鱗の食感と、少し苦みを感じる内臓も、身のほろりとした甘さやきつめの塩味によく馴染んでいる。
「うん。これは焼酎がいる。芋のロックにスダチを入れたやつがいい」
「残念。スダチはなかばってん、かぼすならあるばい」
「んじゃ、それで」
飲み過ぎを注意したばかりだと言うのに、店主は苦笑いで焼酎を出した。量は少なめ。
「焼酎は嫌いやったんじゃなかとな?」
「こういうときは焼酎ばい」
「よう慣れもせんとに使いたがるこったい」
焼酎グラスの中で、かち割り氷が焼酎に溶けて独特の陰影がうっすらと見えた。
「しょうがないでしょ。私こっちの人間じゃないし」
紗英は東京の出身だ。
五年前、当時の彼氏が福岡に転勤するのに合わせて移住した。
お互いに結婚するつもりで同棲していたのに、どこで間違えたのか別れてしまった。本当はそのまま実家に帰るつもりだったのに、こちらで仕事を見つけてしまったものだから、なし崩し的に今も福岡に住み着いている。元彼はさっさと他の転勤先に飛ばされたというのに。
紗英はあぶってかもをかじって焼酎を一口飲む。やっぱり柑橘系のさっぱりした酸味がよく合う。これなら芋焼酎の独特な臭みも薄らいで、とくにこのあぶってかもの風味にちょうどいい。
「ジジ臭かあ。すごい絵面ばい」
店主は声を上げて笑う。紗英はむっとした顔であぶってかもを口に放り込んだ。
美味しい肴に罪はない。
気づけば、居眠りをしていた。
寝惚け眼をこすり腕時計を見ると午後十時。九時までは記憶がある。一時間ほど眠っていたようだ。
店主は紗英が起きたのに気づいてすかさずお冷やを一杯差し出した。
「ほれ、寝起きの一杯」
「ん……」
昔はこのぐらいで居眠りをするほど酒に弱くはなかったのになあ、と紗英は冷たい水の喉ごしに小さく息を吐いた。最近はとくにそうだ。ことあるごとに自分がもう若くないのだと思い知らされる。
まだ二十代とはいえ、来年には三十路。今でさえ歳を感じるのに、三十代四十代となればどうなるのか、今から恐ろしくなる。
両親は「今どき女だからって急いで結婚する必要もない」と言ってくれる。けれど、内心では早く孫の顔が見たいと思っているに違いない。それを表に出されないだけ紗英は気楽だが、それでも思ってしまう。
いい男はどこにいるのやら――優良物件は仮押さえされているのが普通。
この歳になっていい人を見つけようと思っても、中々難しい。
紗英は美人というわけでもなければ、不細工でもない。何か芸事に秀でているわけでもないし、趣味といえるものもない。休みの日には録り溜めしたドラマを消化するだけ。面白みも何もない。けれど、何かをするのも面倒で、今の生活に不満があるわけでもない。仕事はそれなりに上手くいってるし、金を使うのはこの店に来るときくらい。ギャンブルもしない。定期預金とは別にしっかり貯金もしているし、困るようなことがない。
「――でも、寂しいよね」
「なんだって?」
店主に聞き返されて、紗英は苦笑して首を横に振った。
「あーあ、どっかにいい男転がってないかな」
「おっ! 男前ば紹介しちゃろうか!」
紗英が暗い気分を吹っ切るように言うと、店主はここぞとばかりに乗っかった。けれど、紗英は口を尖らせて言った。
「どうせ飲食の男でしょ? 前もそんなこと言って、新しく店開いたばかりで財布すっからかんの男だったじゃん。まあ、顔はよかったけどさ」
「まあた、そげんこつ言って。真面目な男しか紹介せんばい」
「真面目でお店も人気でこれからが楽しみなのはわかってるよ。そこは大将の目を信じてるけどさ、やっぱり夜に家にいないのはね。もうこの歳になると、夫婦になったときのこと考えちゃうっていうか、お昼の仕事をしている人がいいなあって思っちゃうんだよね」
「そんなもんね?」
「そんなもんたい」
紗英は肩を竦めてみせる。店主は生まれも育ちも福岡で、根っからの商売人。奥さんも病気をするまでは店で働いていたと聞いた。
「私はお昼の仕事してるのに、夫が夜は店に出るんじゃ、ずっとすれ違いだよ」
「まあ、そりゃあそうかもしれんばってん……」
「かもじゃなくて、そうなの! 給料低くても真面目できちんとお勤めしてる人がいいの!」
「顔は?」
「良いに越したことはないけどね。顔は二の次。顔だけ良くて浮気性の男とか絶対にいや」
「禿げは?」
店主は自分の頭を指さして言った。紗英は苦笑しつつ答える。
「年齢的に禿げてるだけなら別にいいかなあ。あっ、でもお腹出てる人はいやだよ。多少ぽっちゃりしてるくらいなら許容範囲だけど」
店主はうんうんと唸った末に一言告げた。
「注文が多かっ!」
「普通のこと言ってるだけなのに」
けれど、その普通が今は理想。普通の人なんて滅多にいない。みんなどこかしらに欠点がある。それは男も女も変わらない。紗英は現実をよく知っている。元彼だって普通と言えば普通だった。真面目で浮気なんて一度もしなかった。同棲中には家のこともよくやってくれた。普段から優しくて紗英をよく気遣ってくれた。セックスだって別に悪くはなかった。彼はよく言えば優しくて、悪く言えば刺激がない。そんな人だったけれど、それで二人は満足していた。
けれど、上手くいかなかった。どこかですれ違って、小さなほころびに気づかないまま時間だけ過ぎて、いつの間にか取り返しがつかないことになっていた。
そろそろ帰ろうかと思い始めた矢先、店の扉が開いた。
無遠慮になだれ込んできたサラリーマンたちを店主が奥の座敷に案内した。見たところ四十代五十代のベテランから中堅の中に若手が二人。どこからどう見ても部署の飲み会だとわかる。一番偉そうに音頭を取っているのが課長か部長あたりだとして、大人しく聞く素振りを見せながら諸々の手配を並行している若手の苦労が忍ばれる。
「器用だねえ」と紗英は思わず小さく漏らした。
自分だったらあんなに作り笑顔でいられない。会社の上司は悪い人ではないけれど、お酒が入ると少しだけ男尊女卑が顔を出す。我慢できないほどじゃないし、普段は平等主義者だからいい。もしかすると本心では女を馬鹿にしているのかもしれないけれど、表に出さない分にはどうでもいいと思える。
スケベな社長にお酌をしてお尻を触られたことくらいはある。紗英はその時に社長に言ったことをしっかり覚えている。「部長、社長はキャバクラに行きたかったそうです!」と大声で伝えたときの慌てぶりは今でも思い出して笑ってしまう。スケベなところを除けば、経営能力に優れた社長なのに、天は二物を与えずとはよく言ったもの。
恥をかいたと怒られても仕方がなかったのに、社長にはなぜか気に入られた。本当に男というものはよくわからない。それ以来セクハラを受けることはなくなったし、なぜか積算部の課長補佐に昇進して給料もよくなった。本当に意味がわからない。
「――お前らにはまだわからんやろうけど、大黒柱の重みっつうのがあるわけよ」
奥の座敷から聞こえてきた台詞に苦笑する。
酒に弱い上司を持つと部下は困るものだ。
「大将、お勘定!」
「あいよ! いつもありがとね」
店主が電卓を打つ間にトイレに向かう。いつもの調子で扉を開くと男が用を足していた。
「……ごめんなさい」
焦って扉を閉めて数十秒。トイレから気まずそうな顔で出てきたのは、先ほどなだれ込んできた客の若手だった。紗英の知らないうちにトイレに行っていたのだろう。今更扉の「ノックで確認してください」の貼り紙が目に入る。
男は恥ずかしそうに頭をかいて謝った。中々かわいい顔をしていると思った。
「い、いえ、そのこちらこそすみません。鍵をしてなかったみたいで」
「あっ、いや、このお店のトイレ、鍵の掛け方にコツがあって……」
紗英が扉のドアノブの鍵をかけて外から回すとかちゃりと簡単に開いた。男は驚いていた。
「――なので、ちょっと押し込みながら回すと……ね?」
扉の側面からしっかりと止め金が出てくるのを見せる。すると男は感心したように頷いて「気をつけます」と言った。
男が去ったあとで用を足してカウンターに戻る。例の客の席では紗英に覗かれた男がやり玉にあがって笑われていた。男同士だからこその笑いの種なのだろう。見られた側が自分じゃなくて本当によかったと紗英は小さくため息をついた。
*
「先輩、お願いしますよう! 頭数足りないんです!」
部下の齋藤から今夜の合コンに出ないかと執拗に迫られて、紗英は辟易した気分で額を押さえた。齋藤は二十一歳。短大卒で入社して三年目に入ったばかり。自ずと合コンにやってくる男もどんな年齢かわかってしまう。
「嫌よ。若い人たちの中で三十路前の女が一人なんて、公開処刑じゃない」
「何言ってるんですか! 葛城先輩なら余裕でいけますって!」
「こんなときにおだてても何も出ないわよ?」
まったくこの部下は何を考えているのだろう。紗英は率直に疑問だった。ついさきほどまで取引先に数千万の誤差のある見積もりをやらかして、担当の営業と一緒に謝りに行って戻ったばかりだというのに。三歩歩いて忘れる鶏みたいだ。今までならせいぜい数十万の計算ミスだったから大したことはないと言ってもらえたけれど、さすがにこんな大きな額のミスをして、下手をすれば受注がなかったことになったかもしれないのに、図太いというか厚かましいというか。
「でもでも、男側は三十過ぎてる人も来ますよ! 大手メーカーの出世株ですよ!」
「なんでそんな出世株がうちみたいな弱小企業の女を相手にするのよ……」
「えー、そんなの関係ないですってえ。女は多少馬鹿な方がモテますよ?」
紗英はなるほどと思った。道理で齋藤は部長や課長からかわいがられている。今まで気づかなかったのが馬鹿らしい。どうせならもっと馬鹿なフリをしておけばよかった。そのうち我慢できなくなって爆発していただろうけど――紗英はふんっと鼻を鳴らした。
「どうでもいいけど、あんたそれで悔しくないの?」
「別に。だって将来は専業主婦目指してますし」
ため息を隠せなかった。このご時世に専業主婦を目指すのは中々勇気がある。だからこその大手メーカーに勤める男との合コンなのかもしれない。そう考えると、齋藤は目標を達成するための努力をしている。少なくとも婚活なんてしない紗英よりもずっと前向きかもしれない。
「まあ、色んな考え方があるよね」
紗英は齋藤を否定はしない。ただ自分には馴染まないなと思った。女だからと見下す男なんてこちらから願い下げだ。一体どうやって産まれて来たんだ、試験管の中で作られたのかと言いたい。「とにかくパス。絶対に行かない。私じゃなくてもっと若い人いるでしょ? 例えばあんたの同期で経理の三宅さんとか」
「ミケちゃんはちょっと……」
「なんでよ。むしろもうメンバーに入ってると思ってたんだけど」
「ミケちゃんは良い子ですけど、美人だし嫌味なところないし、気遣い上手だし、なんていうか欠点なさ過ぎてうちらが霞みますもん」
私だったら霞まないのか――紗英は内心で齋藤に拳骨を叩き込んだ。
失礼な部下には仕事を振るに限る。
「謝罪対応の報告書、今日中によろしくね」
紗英はとびきりの笑顔で言った。案の定齋藤はげんなりした表情を見せるけれど、紗英の知ったことではない。元はと言えば紗英が有給中、齋藤が積算した見積もりを課長がいつもの調子でチェックを疎かにしたのがいけない。監督責任は課長なのに、たまたま他の案件で社外に出るからと紗英に一任したのも気に食わない。責任を取って一緒に頭を下げるのが上司だろう、と紗英は内心で苛立ちを隠せずにいた。おまけに出先からそのまま直帰するというので余計に腹が立つ。
「わたし、これから合コンで……」
「何を言ってるの? 退勤時間まであと一時間もあるけど、まさか書けないの?」
「だって、今まで先輩が書いてくれてたじゃないですかあ」
「それはあなたが書き方がわからないと言うから教えてあげるついでに書いてただけでしょ? 先月も先々月も、毎月のようにあなたが原因のクレームだったり謝罪だったりの対応があったけど、これだけ数をこなしておいてまだできないなんて言わないよね?」
優しくしすぎたツケがこんな形で回ってくるとは紗英も思っていなかった。齋藤はもっと思っていなかったに違いない。
結局齋藤は退勤時間までに終わらなかった。泣きそうな目をしてすり寄ってくる齋藤を紗英は自らの信条もあって帰した。残業なんてするものじゃない。その日に終わるだけの仕事しか振っていないのだから、それで終わらないなら無能だ。齋藤だって三年目としては杜撰すぎるけれど、積算部への異動からまだ一年も経っていないにしてはそれなりに仕事も覚えてきた。少し人より遅いけれど、なんだかんだ言ってかわいがられるのは才能なのかもしれない。
喜々としてオフィスを飛び出していく齋藤を見送って、紗英は彼女のデスクに残った書きかけの書類を眺めた。
「あの子、日本語もろくに使えないの?」
まるで女子高生が書いたような丸文字。書くべきことが散らばってまったく要点がまとまっておらずわかりにくい。無駄な部分が多すぎて、まるで量を書けば単位がもらえると勘違いした大学生の答案用紙のようだ。一体今まで何度教えたことか。紗英は頭を抱えた。タイムカードを切った後だとわかっていても、そのままにしておいて明日提出されても面倒だった。
紗英はデスクの引き出しから付箋を取り出して気になる箇所にどんどん貼り付けた。重箱の隅をつつくような小言も忘れない。どうせ齋藤は自分のことを口うるさいおばさんとでも思っているに違いない。そう思うと当たり前の注意事項もなんだか嫌がらせのように見えてしまう。
営業事務の社員が帰り支度を整えて出入り口の前でこちらを眺めていた。きっと定時を過ぎてもまだ残っている紗英を見て珍しがっているのだろう。二十分ほど使って赤ペン先生に徹し、紗英は小さく息を吐く。
明日は木曜日。でも今日は飲もう。先週の金曜日にも飲んだけど、今日は飲みたい。そんな気分だった。そう思うと店主の顔が浮かんだ。
「もっと小洒落たところ、ねえ」
ぱっと思いつく店の大半が使いやすい活気のある居酒屋ばかり。ちょっと照明を落としたようなムーディーなお店なんて記憶の端っこにもかからない。
「やっぱりわたしにはああいうお店がお似合いなのよね、きっと」
今頃齋藤はうきうきして合コンを予定したお店に向かっているのだろう。そのお店はきっとオシャレで、ジャズなんかが流れていて、間接照明で薄暗くて、店員も話しかけてこなくて、カクテルグラスにはサクランボが入っているに違いない。
「なんでよ。鶏皮タレに豚バラ串をレモンサワーで流し込むのがいいんじゃない」
紗英は上着をかっさらうように手に取り、鞄をひったくるように肩にかけて退社した。足取りはずんずんと踏みしめるようだ。向かう先は西中洲だけれど、目的地はその隣の春吉。祇園のオフィスから国体通りをまっすぐ。自宅のアパートは清水町だから帰りは西鉄大牟田線の高宮駅で下車すればいい。最悪タクシーを使ってもそんなに高くない。あんまり頻度を開けずに飲みに行くのはよくないけれど、こんな日ぐらい飲んだっていい。
「大将、来たよー」
「おっ、いらっしゃい!」
ガラガラと扉を開けて入る。まだ時間が早いこともあって客は疎らだった。
奥の席にはもう客がいるらしい。紗英はいつものカウンター席に腰を下ろして上着とバッグを隣の席に置く。
「とりあえずレモンサワーちょうだい――」
言い終わるよりも先に、聞き慣れた声が紗英を振り向かせた。
「先輩! 何してるんですか!?」
紗英は混乱した。どうしてここに齋藤がいるのかわからない。齋藤は奥の席にいた。柱の陰になって見えなかったけれど、齋藤の隣には営業事務をしている同僚がいて、向かい側には知らない男が三人いる。齋藤が慌てて近くにやってきたので尋ねる。
「……飲みに来たんだけど、なんでいるの?」
「こっちが聞きたいですよ!」
「まさか今日の合コンって……」
齋藤が気まずい顔で頷くのを見て、紗英はしくじったと額を押さえた。なんて不運。今日ほど偶然を呪いたい日はない。
「場所セッティングしたのあっちなんですよ。わたしもまさかこんなしょぼいお店とは思ってなくて」
小声で耳打ちされて、紗英はむっと眉根を寄せた。
しょぼいお店とは聞き捨てならない。この店の鶏皮は絶品なのに。
「でもちょうどよかった! せっかくなんで先輩も一緒に飲みましょうよ!」
「絶対にやだ」
「もう先輩! わがまま言わないでくださいよう!」
「どっちがわがままよ。適当なこと言わないで。私は一人で飲みに来たの。誰かと飲む気分じゃないの」
「そんな寂しいこと言わずに、ねっ! ほらっ! 女二人と男三人じゃ数が合わないんです!」
「あなたの都合なんて私は知らない」
店主が苦笑いでレモンサワーを持ってきた。紗英は軽く微笑んで受け取ると齋藤を無視して注文した。
「大将、今日のおすすめはー?」
「うちは毎日全品おすすめたい!」
「じゃあ、鶏皮タレ、豚バラ、白ネギ、ピーマンでしょ」
齋藤が後ろで呼びかけるけれど、紗英は無視をした。
「あっ、シイタケも食べたい。あとこの前のあぶってかもだっけ。あれも」
「先輩!」
紗英はようやく振り返った。齋藤は涙目になっていた。
知ったことかと紗英は笑みを作った。
「私はこのお店の常連で、たまたまあなたが合コンにやってきたので鉢合わせしただけ。あなたの頼みに乗って来たわけじゃないの。いつも言ってるよね? 私は仕事を持ち帰らない主義なの」
後輩の面倒を見るのは仕事よ、と紗英は言った。
我ながら性格が悪いのは自覚済。けれどもこれくらいきつく言わなければきっと齋藤は理解してくれない。自分が頼めば最終的に許してくれると思っているところが許せなかった。そんなことだから同じミスを何度も繰り返す。
「わかったら、さっさと戻りなさい。せっかくこんな素敵なお店を予約してくれたのに、相手に失礼でしょう?」
紗英は有無を言わせず追い返した。
しょんぼりした顔で奥の席に戻る齋藤を見て同情したのか、店主が紗英に何かを言いかける。けれど、結局店主はやれやれと苦笑しただけだった。きっとそこまで言わなくてもいいじゃないか、と言いたかったのは紗英でもわかる。けれど、齋藤とは仕事の先輩後輩の関係でしかない。プライベートで付き合いたい相手ではなかった。なあなあで彼女の言うとおりに合コンとやらに飛び入り参加しても、かえって悪目立ちするというもの。
「すいませーん、うちの先輩ちょっとKYでぇ……」
小声で言ってるつもりだろうが聞こえている。紗英は青筋を立てそうになって大きなため息を漏らした。どうして気分を晴らすために飲みに来たのに、余計に腹を立てることになるのか。本当に今日は厄日だ。
もう明日からは面倒なんて見てやらない――一瞬そう思った。けれど、面倒を見なければ余計に仕事が増えると思うと、やはり最低限の面倒は見てやらないといけない。それもこれも課長が齋藤を甘やかすからだ。そもそも齋藤が積算部に異動になったのは積算部の一人が産休に入ったからだ。齋藤はもともと営業事務だった。
営業部が取ってきた仕事はそのまま設計部に回されて、必要な部品の数が算出され、それらをもとに積算部が見積もりを作る。商品は多岐に渡るとはいえ、カタログもマニュアルもあるわけで、面倒くさい計算方法もコンピュータに正確な数字を打ち込むだけ。要するに覚えていないから品番を間違えて計算ミスが出る。
ケアレスミス以前の問題だ。今は金額的にせいぜい数千万規模の案件しかさせていないが、億単位の見積もりもできるようになってもらわなくては困る。具体的には紗英の仕事量が減らない。
「どっちがKYだ」
レモンサワーを飲み干してもう一杯頼む。
店主が料理を持ってきたので耳に蓋をしたつもりで食べた。今日はあぶってかもがやたら苦く感じる。
「まっ、そういう日もあるたい」
店主がサービスだと言って芋焼酎のロックに、半分に切ったかぼすを持ってきた。紗英は礼を言って怒りに任せてかぼすを絞った。グラスに口をつけて、なんだか馬鹿らしくなった。
「隣、いいですか?」
声をかけられて振り向くと、合コンに参加していた男の一人が申し訳なさそうに立っていた。年齢は二十代半ばに見える。けれど、それ以上に何かが気になって首を傾げた。すると男は思い当たる節があるのか苦笑いを浮かべた。
「先週の金曜日にそこで」
そう言って指さしたのは店のトイレだった。
「もしかして、私が覗いてしまった、あの?」
「その節は見苦しいものをお見せしてしまって」
一体何を言い出すのやら。謝るのはこちらだと言うのに。
「こちらこそ、この前はすみませんでした。ノックもせずに開けてしまって……というか、まさか後輩の合コンの相手があなた方だとは思いませんでした」
「それは、こちらもですよ」
男はそう言って紗英に名刺を差し出した。条件反射のように紗英も名刺を返す。
「逸見宏和さん、ですか。すごいですね。聞いていた通りの大手さん」
「葛城さんもまだお若いのに課長補佐だなんて、すごいです」
「名ばかりですよ」
「あはは、僕なんてまだまだ平社員です」
宏和はいつか見たように頭をかいて、紗英の隣の席に手をかけた。
「お隣構いませんか?」
紗英は怪訝な顔をして聞き返す。
「合コンの途中で違う席に移るのはマナー違反なのでは?」
ちらりと視線を奥に向けると、男二人に女二人が楽しそうに談笑していた。
「上司に花を持たせるのも若手の仕事ですよ」
「はあ、世知辛いですね」
宏和は屈託のない顔で笑った。やっぱり笑った顔はかわいいと思った。
「こんなおばさんが話し相手でよければ、どうぞ」
席を勧めると、宏和は首を横に振った。
「おばさんだなんて、葛城さんは魅力的な女性ですよ」
「お世辞は結構です」
笑って受け流すと宏和は「お世辞じゃないんですが」と言いながら席に座った。小さく息を吐いて言う。
「大変ご不快な思いをされたのではないかと思いまして、本当にすみません」
「逸見さんが謝ることではないです」
「あそこに座ってる上司が気楽に飲んで話せる場所がいいと言ったので、僕がこのお店を予約したんですよ。なので、僕にも責任があります」
「それとこれとは別だと思いますけど。このお店を気に入ってもらえたなら、常連としても嬉しいですし、まあお気持ちだけ」
変わった男だな、と紗英は珍しく思った。
「正直、上司があの二人を気に入ったみたいなので助かりました」
「というと?」
「僕、ああいうタイプの女性が苦手なんですよ」
ずいぶんはっきり言う。紗英は少し意外に思いつつ、店主を呼んで彼に注文させた。彼は紗英の手元を指して「同じものを」と頼んだ。
「うちの馬鹿がなんかすみません」
「僕が苦手なだけで、上司は気に入ったみたいですから」
「そういえば、あの子、女は少し馬鹿な方がモテるって信条なんですよ」
「あー、なるほど。うちの上司と馬が合うかもしれませんね」
お互いに苦笑を漏らした。
宏和は変わった男だったけれど、顔つきはかわいくて、その割に言いたいことははっきりと言う男だった。
「――じゃあ、新卒で入ってこっちに?」
「ええ。もう五年になります」
「じゃあ、私と一緒ですね。私も五年前にこっちに来たので」
「奇遇ですね。出身はどちらに?」
「東京の赤羽ってご存じです?」
「ああ、埼玉の植民地の」
わかり合える話題が東京らしからぬご当地ネタとあって、紗英は自分でも予想外なほど笑った。
「もしかして逸見さんも?」
「そうですよ。といっても、僕は八王子でしたけど」
「八王子って都内でしたっけ」
「冗談言わないでくださいよ」
宏和が笑うと、紗英は少し嬉しくなった。無邪気に笑うのがどこか親しみやすい。
「葛城さんはどうしてこちらに?」
紗英は言葉に詰まった。けれど酒のせいもあって正直に言った。
「当時付き合ってた人がいて、その人の転勤に合わせて福岡に来たんですけど、仕事も見つけたのに別れちゃって。結局そのままこっちに残ったんです」
「――もったいないですね」
「はい?」
意味がわからずに聞き返す。けれど宏和はふっと笑って「独り言です」と言った。
店に来たときは腹が立って仕方がなかったのに、店を出る頃には少し惜しくなった。そろそろ合コンも終わる時間だと言うから、紗英は齋藤と話したくなくて先に店を出た。宏和は店の外まで見送ると言ったが紗英は固持した。
「機会があれば、また飲みましょう」
宏和がそう言うので、紗英は社交辞令だと思って「その時はぜひ」と返した。
けれども、勘定を済ませて店を出て、電車に乗ったところで思い出したように宏和の名刺を見直すと、裏面に手書きで電話番号が書いてあった。表の番号と違うのを見ると、きっと彼個人の番号なのだろう。ご丁寧に「待ってます」とまで書いてあった。
少しだけ胸が跳ねた。