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クジラ岬の魔女

 その岬はクジラ岬と呼ばれていた。

 玄武岩の特徴的な崖がクジラのヒゲに見えるとか、かつてこの岬から沖合の鯨を探して船を出したとか、本当のところは地元の人間もよく知らない。

 今でも船乗りたちにとってクジラ岬は重要な目印だった。

 遠い水平線の向こうから帰って来ると、何よりもまず、水平線にクジラ岬の灯台が顔を見せる。

 黒く際立つ崖とは対照的に真っ白な漆喰で塗り固められた灯台だ。

 岬の付け根にある小さな港町からも、クジラ岬の灯台はよく見えた。

 日が暮れると同時に、夜の海を照らす灯台を、海を生業とする者たちは特別な思いで眺める。もっと言えば、この町に住まうものにとってクジラ岬の灯台はシンボルなのだ。

 辺りは緩やかな丘陵が続く高原で、陸を啄むように浸食した湾の奥がそのまま港町となっている。海は豊かだが、冬は凍てつき、夏は時折大時化になった。

 産業と言えば漁業が主体で、陸では酪農が盛んだった。強いて特産品を挙げるなら、オーク樽で貯蔵したウィスキー。油漬け鰯の瓶詰め、それから風味の濃い生ハム。特産品はどれも潮風を彷彿とさせる塩気の強いものが多い。

 けれども、のどかな港町にはそんな伝統的な食べ物がよく似合った。




 岬へ通じる登り坂の途中、灯台とは目と鼻の先に一軒の民家があった。

 こぢんまりとした一軒家で、レンガの壁には蔓が這い、赤い瓦に生えた苔が日差しに負けて枯れている。建て付けの悪い木製の門扉は風が吹く度に不気味に笑う。

 けれどもそうした気味の悪さとは正反対に、その家は賑やかな日だまりに満ち、古びた外観がいっそ味わい深い。

 ひとりの少年が息を整えながら自転車を降りる。勾配は緩やかに見えて意外にきつい坂道を登ってきたので、制帽から覗くあどけない顔に汗が滴っている。

 郵便局に見習いとして入ったばかりの彼は、先輩たちからこの家には魔女がいると教わっていた。

 子どもが好きで、捕まえて食べてしまうのだと。

 もちろん少年は強がってみせた。信じたわけもない。怖がる素振りを見せる先輩を馬鹿にしたぐらいだ。けれども、いざその家を訪ねると郵便受けも見当たらず、ノックをしようと門扉をすり抜けたところで思い出してしまったのだ。

 クジラ岬の魔女――二つ年上の先輩が教えてくれた。

 少年は首をぶんぶんと振って臆病な心を奮い立たせる。深呼吸を一度、二度。そうして落ち着いてから玄関扉をノックした。けれども、自分で思っていたよりも緊張していたらしく、変な力が入って不躾な音がした。

 少年は狼狽したが、扉の向こうから返事はない。不在だったのだろうか。胸をなで下ろして手元の郵便物に目を落とす。住所は間違っていない。宛名は男の名前だった。

 少年は小さくため息を吐いた。からかわれていたことに気づいたのだ。宛名をきちんと見ておけば変なことを思い出さずに済んだ。

 やれやれと踵を返そうとして、不意に扉がかちゃりと音を鳴らした。

 驚いて固まる少年だったが、その扉の隙間から顔を覗かせた女性と目が合い、息を呑んだ。

 亜麻色の艶めいた髪、翠玉を思わせる瞳。まさしく魔女に睨まれた少年のように言葉を失った。

「あら、かわいい坊や。手紙を届けに来てくれたのかしら?」

 にっこりと微笑む彼女に促され、呆けていた少年はようやく息を再開する。何度も頷いて、失礼があったかどうかもわからず何度も謝った。

 少年は先輩たちが言う魔女とはこの女性のことだろうと思った。

 魔女といえば、どうしても黒い衣服に身を包んだ老婆を思い浮かべてしまう。けれども、この女性は美しく、そして若い。服装も至って普通で、街で見かける婦人と大差ない。年は明らかに上だが、母親ほど離れてもいない。二十代も半ばだろうと思った。

「ここまで登ってくるのは疲れたでしょう?」

「だ、大丈夫です!」

 魔女は汗だくの少年を気遣って、彼の頬に流れる汗をハンカチで拭ってあげた。途端に少年は顔を赤くして答えたが、魔女はくすくすと笑う。

「愛らしい見習いさんね。そうだ。焼きたてのクッキーがあるのよ」

 女性からかわいいと言われるのはなんだか複雑な気持ちがする。けれど、年上の女性からこういう扱いを受けるのは少年もよくわかっていた。見習いとして郵便物を届けて回っている。すると年配の女性が幼い彼を気遣って冷たい飲み物やちょっとしたお菓子を恵んでくれることがあった。

「いえ、すぐに次の仕事がありますから!」

 少年は焼きたてのクッキーという言葉に興味を引かれたが、それでも強がって背筋を張った。すると魔女は言う。

「たまには息抜きもしないと、ね。真面目なことはいいことだけど」

 そうして魔女は彼の汗ばんだ帽子を優しく取り、外のベンチを指差した。ちょうど檸檬の木陰になっていて、涼しそうに見えた。

「あそこで少し座っていなさいね。今、クッキーと冷たいお茶を持ってきてあげるから」

「あ、あのっ……」

「うふふ。いいのよ。他の人には黙っておいてあげるから。それにね、他のポストマンも、そこでゆっくり休んでいくから安心なさい」

 魔女がそう言って制帽を奪ってしまったので、少年は安心と戸惑いとをまぜこぜに頷いて礼を言い、そこでようやく気づいたように握った封筒を差し出した。

 少年の照れた顔に魔女はくすくす笑って「ありがとう」と扉の向こうに消えた。

 それからようやく重荷が取れた心持ちでベンチに腰掛ける。

 さきほどは気づかなかったが、庭の草木は手入れが行き届いている。日だまりと木陰とが織り成すように、檸檬やオリーブ、月桂樹が枝を揺らす。小さな畑には色とりどりの花とハーブがあり、少し離れた少年の目と鼻を楽しませてくれた。耳を澄ませると穏やかな波音が聞こえてくる。

 魔女はすぐに戻ってきた。大きなお盆にクッキーをたっぷり載せて。

 彼女は少年のとなりに間を開けて座り、そこにお盆を置いた。グラスがひとつ、レモンの輪切りが入ったハーブティー。

「ほら、お食べなさい。先にこちらかしら」

 ハーブティーはよく冷えている。汗をかいて火照った身体に冷たさとハーブの爽やかさ、レモンの酸味が染み渡る。

 ごくごくと喉を潤して、はたと気づく。この季節にここまで冷やすには冷蔵庫がなければならないが、そんなに高価なものをこの小さな一軒家に住む魔女が持ち合わせているだろうか。

 町では漁港や屠殺場にあるが、個人では富裕なものがようやく持ち始めた程度だ。電線を家に引き入れるのだって安くはない。

 道中の坂道では電柱の一本も見ていない。屋根に視線を向けてもそれらしいものは見当たらない。彼女はくすくす笑っていた。

「冷たい飲み物が出てきて不思議?」

「は、はい。ここは町とは離れていますし、井戸も見当たりません。電線も……」

 魔女は感心したように微笑んで「秘密にしておきましょう」と言った。

 少年も深くは尋ねなかった。魔女がそういうのだから、不思議と納得してしまった。

「最近、町も賑やかになったわね」魔女は少し寂しそうに笑った。「電気があると便利なものね。冷蔵庫があればお魚やお肉が腐ることもないし、ずっと仕事がしやすくなったんじゃないかしら。そのうちガス灯も電灯に変わるのかしらね」

 魔女はベンチから灯台を眺める。少年はクッキーをひとつかじった。しっとりした食感に優しい麦の甘み。いつか祖母が作ってくれたクッキーと似ている味だ。

「いつか、あの灯台の明かりも、電灯に変わってしまうのかもしれないわね」

 それはとても寂しいことだわ、と魔女は言う。

 彼女の視線はずっと灯台を見つめていて、少年はその横顔に見とれていた。

 ふいに魔女が少年の方を向いて微笑む。気まずい思いで少年はクッキーを口に詰め込んだ。もそもそと噛みしめる。懐かしい味――やはり祖母の顔が浮かんだ。

 魔女はそれを見透かすように問う。

「坊や、クレアの孫でしょう?」

「祖母を知っているんですか?」

 魔女は少年の目尻に指を這わせて、微笑んだ。

「よく似ているわ。垂れ目なところも、この唇も、若い頃のクレアにそっくり」

 指先でつんと弾かれた唇が熱い。少年は急に恥ずかしくなり顔を伏せた。

「この、クッキー。祖母から教わったんですか?」と少年は抑揚のない口調で尋ねた。

 すると魔女は首を傾げて、

「どうしてそう思うの?」と心底不思議そうに聞き返す。

「だって、祖母の……。おばあちゃんの作るクッキーと、とても味が似ています」

 魔女は一瞬驚いたような顔をして、それから嬉しそうに目を細めた。

「そう、クレアはこのレシピを気に入ってくれていたのね」

「どういう意味ですか?」

「さあ、どういう意味でしょう」

 少年は怪訝に眉根を寄せたが、魔女はくすくす笑って、

「昔話をしましょうか」と片目を瞑った。



 *



 まだその国が王国と呼ばれていた頃。

 とある小さな港町の瓶詰め工場に、十歳の少女がいた。

 少女の仕事は港に水揚げされた魚の下処理をすること。それを漁船が港に帰る朝から、日が暮れる夜までずっと。一旦塩蔵した小魚を工場の暗くひんやりとした地下倉庫で寝かし、数ヶ月経ってオリーブ油と一緒に瓶詰めしてから出荷される。

 夏はまだマシな方で、冬ともなれば、近海で採れた少し大きな魚を塩漬けにして天日干しにする。冷たい水と寒風に晒されるとてもつらい仕事だ。

 工場主は羽振りがいい。なにせこの港町の領主様だ。この港町の魚介は王国の貴族からも人気が高かった。

 けれども、少女はその景気の良さを知らない。少ない賃金で、毎日決まった仕事を黙々と続けた。


 そんな少女の生活が変わったのは、ある冬の日の出来事だ。

 冬。それは港町にとって寂しい季節でもある。

 海は寒風が吹きすさび、湾内に薄氷が張ることさえあった。

 けれどもそんな冬であっても、海沿いの気候もあって、港町は王都よりもずっと暖かかった。

 冬になれば、領主が港町の屋敷に帰ってくる。 領主は積雪の激しい王都の冬が嫌いだった。それに比べれば、寒風吹きすさぶ港町の方がずっといい。

 屋敷には暖炉があり、特産品の瓶詰めや生ハム、それから独特な風味のするウィスキー。冬を越すのには十分だ。

 晴れた日には厚着をして町を歩くこともあった。

 彼を見かけた領民は、口々に「男爵様、男爵様」と声をかける。それだけ彼には人望があった。

 しかし、彼に家族はいなかった。

 両親を早くに亡くし、貴族社会にも中々馴染めない青年期を経て、初老に差しかかってなお彼の心は常に港町にあった。どんな縁談も、麗しく着飾った女性よりあの長閑な場所に帰りたいという思いで塗り替えられてしまう。

 そして、その冬。

 男爵は町でひとりの少女を見つけたのだ。

 瓶詰め工場の、あの十歳の少女である。

 正午を過ぎたばかり。男爵はいつもなら使用人に告げて屋敷を出るのだが、窓を叩く寒風がぴたりと止んだこともあって、ふらりと町へ出たのだ。

 少女は工場の外で、出荷用の木箱に座って食事をしていた。

 赤らんだ指先の隙間から硬そうなパンが見えた。。

 もそもそと、ただ水平線を眺めながら食事を続ける少女に、男爵は視線を奪われたのだ。

 まだ幼い、無垢な少女である。

 少女が顔をあげ、ようやく男爵に気づく。しかし、また俯いて口をもそもそと動かし始めた。

 男爵は驚いた。工場主であり、領主であるから、いくら年端もいかない子どもであろうと、せめて会釈のひとつぐらいあるはずだと思っていたのだ。憤慨さえした。着ている衣服も平民のそれとは違う。ひと目見ればそれなりの身分だとわかるはずだ、と。

 けれども、男爵は少女に詰め寄ろうとしてはたと気づく。

 まだ恋も知らないような少女が、瞳から覇気を失い、冷たいパンを――よく見れば薄らとカビが生えているそれを――無表情で胃に流し込むその光景に、男爵はぞっとした。

 少女の指先は凍瘡が目立ち、かわいらしい鼻の頭は赤くなっている。首に巻いたマフラーは年季があり、家中の布切れを集めて縫い合わせたような、それでも薄く風を通すような服を着ている。

「そこのお嬢さん」と男爵は胸に詰まる思いを押し隠して尋ねる。

 少女はそっと顔だけ上げて続く問いを待つ。

 男爵は息を詰まらせ、しかし無理やり大きな息を吸い込んで、今度は震える声音でゆっくりと問いかける。

「もしや、瓶詰め工場で働いているのかい?」

 少女はこくりと頷いた。まるで返事を言葉にするのも疲れてしまうと言わんばかりに。

 男爵は胸を締め付けられる思いだった。自分が知るこの港町は、長閑で、善意ある領民が多く、自らを慕ってくれるものばかりだと思っていた。ましてや、自身が経営する瓶詰め工場の労働者――しかもまだ幼く小さな少女――が身を窶すように働いているとは思ってもみなかった。

 そして、男爵は気づかされた。

 普段屋敷を任せている執事も、代官も、あるいは工場長も、自分が外を出るときは決まって案内を買って出る。それは嬉しいことだったが、同時に自由にあちらこちらを見て回ることはできなかった。そういう時はいつも喜ばしい部分だけを見ることができた。

 男爵は少女の前に膝をついて目線を合わせ、

「年はいくつだい?」

「十歳」

 少女はぽつり呟くように答える。その答えに男爵はまた驚いた。

 決して十歳の体格には見えなかったからだ。とても小さくて、か弱い。もう二、三は若いと思っていた。

「いつから働いているんだい? ご両親は?」

「一昨年の夏から。お父さんは知らない。お母さんは王都にいるの」

「二人ともこの町にいないのかい? では、君はどこに住んでいるのかな?」

「おばあちゃんのお家」

 男爵はホッと胸をなで下ろす。ようやく少女の言葉に安心できるものを見つけた気がしたのだ。けれどもやはり気になってしまう。

「お母さんはどうして王都にいるんだい?」

「お金がないから、出稼ぎに行ってるんだって。王都ならたくさん工場があって、仕事には困らないし、お給金もいいんだって」

 王都の工場、と言われて男爵は頷いた。

 確かに王都の郊外にはいくつかの工場がある。めぼしいところで言えば紡績工場が有名だった。しかし、王都の工場で女性が働く場所はそう多くない。王都の住民だって働きたいのだ。それに田舎の女が飛び込んだところで仕事をもらえるとは到底思えなかった。

 よく聞く話なのだ。田舎の稼ぎでは税を払えず、払ったとしても日々の食い扶持に困る有様で、仕方なく出稼ぎに王都や大きな街に行く。男は炭鉱に行き、女は工場を探して回る。

 けれども、その結末はいつも同じだった。

 男は炭鉱で肺をやられるか土砂に埋もれて死に、女は仕事をもらえず夜鷹となる。

 男爵は思う。あるいはいずれこの少女も、この町から出て、大きな街で春を売ることになるのかもしれない。小銭のために身体を切り売りするのだろう。

 わずかばかりの自尊心が首をもたげ、男爵は尋ねる。

「他の、君の周りの人たちは助けてくれないのかい?」

 偶然苦境に立つ少女を見つけてしまった――そう思いたかったのかもしれない。しかし、少女は嘲りを含むように口角をほんのわずか上げて、

「みんな、同じだもの。自分のことで精一杯」

 男爵はそうかと頷いて少女の手に触れる。

 冷たい、氷のような指先にあかぎれがいくつもあった。

 風に晒すだけでも痛いだろうに、この小さな手で働いているのだと思うと、自らの不甲斐なさに憤りさえ感じた。

 自分が安堵し、常に心を安んじる場所だと思っていた故郷に、少女のような存在がいるとは少しも考えていなかったのだ。

「おじさん、どうしたの?」

 少女が男爵の顔を覗き込む。

 冷たい指先が、彼の頬に伝う涙を拭った。

 男爵は自分が泣いていることに初めて気づいたのだ。

「ははっ、目にゴミが入ってしまったんだ」

 彼は強がって笑みを作る。心なしか、少女も笑った気がした。

「そうだ。これを君にあげよう。大事に使っておくれ」

 それは男爵が持ち合わせるものの中で一番質素なものだったが、もちろん少女にとっては大層な代物である。

 男爵は少女の首から薄汚いマフラーを優しくとり、自分の温かく肌触りのよいマフラーを代わりに巻いてあげた。

 少女は戸惑い、彼を見上げる。

「おじさん、寒くない?」

 その言葉に男爵は奥歯を噛みしめる。この少女はこのような状況にあって、まだ他人のことに気を遣っているのだ。

 男爵は努めて笑顔を振りまいて、薄汚い少女のマフラーを自分の首に巻いた。

「大丈夫。おしゃれなマフラーだから、おじさんのと交換しておくれ」

 少女はなおも戸惑っていたが、男爵の言葉になんとか頷いて温かいマフラーに目を細めた。

「そろそろ行かなくちゃ。工場長は怒ると怖いの」

「厳しいのかい?」

「うん。でも優しいよ。帰りにこっそり魚を持たせてくれるの」

 軽い会釈をして走り去る少女の後ろ姿を、男爵はしばらく眺めていた。

 工場長が平民の労働者をこき使っているのかと思っていたが、彼女の言葉を聞くにつけ、何かしら事情があるのだろうと思った。

 首に巻いた薄汚いマフラーは、饐えた汗の臭いと、汚れとが混ざり合って鼻が曲がりそうだった。

 寒風がまたぞろ吹き始める。

 男爵は冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んでほうと吐き出した。

 真っ白になった息が瞬く間に空へ消えた。



 *



「それで、その女の子はどうなったんですか?」

 少年が膝を乗り出して尋ねる。

 魔女はくすりと笑って、

「続きはまた今度にしましょう」と言った。

 少年はあからさまに落胆した。けれども、すっかり時間が経っている。早く仕事に戻らなければならない。

 彼はクッキーとハーブティーの礼を言うと自転車に跨がり、振り返る。魔女は笑顔を絶やさずに彼を見つめていた。

「次に来たときに、続きを教えてくださいよ」

「ええ、必ず」

 そうして少年は地面を蹴って坂道をずんずん下っていく。

 魔女は少し寂しそうに彼の背中を見送り、受け取った手紙の宛名に指を這わせた。

「あなたが繋いだ命は、今も未来に続いている。ねえ、アルバート」

 坂道の上から港町を見下ろす。

 時計台から鳩が飛び立ち、少しして鐘の音が聞こえた。

 午後の仕事始めの鐘だ。

 青い海と、放牧地の緑が対照的に見え、港町は民家の赤い屋根瓦が目に冴える。

 軒先で揺れる洗濯物も、路地裏からひょっこり顔を出す子どもたちも、あるいは階段に腰掛けて談笑する老人たちも、全て男爵の愛した光景だ――魔女は目を細める。

「私はいつになったら眠りにつけるのかしらね……」

 灯台の上空を舞う、ウミネコが寂しそうに鳴いていた。


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