大家さんとお隣さん
あらすじの通り。
各話短編。
夜八時になるとお隣さんがやってくる。
疲れた顔はいつも通り。朝はパリッとしていたスーツも、この時間にはちょっぴりくたびれて見える。
ネクタイを緩め、靴を脱いだらスリッパを履く。
それからようやく「こんばんは」と挨拶を交わすのだ。
「お疲れ様です、安藤さん」
「どうも、ありがとうございます」
杓子定規に定型句を交わし合って、安藤さんは鼻をひくつかせる。
「いい匂いがしますね。とっても安心する匂いです」
「醤油とみりんと酒、それからたっぷりの砂糖ですね」
「ということは、今日は煮付けですか?」
「残念。でも半分は正解。今日は鶏と大根の炒め煮です」
安藤さんは人好きのする笑みで嬉しそうに「やった」と呟いた。
「すぐにできますから、座って待っていてください」
「手伝いますよ。それくらいはさせてください」
安藤さんは背広を椅子の背もたれにかけると、シャツの袖をまくる。
箸や茶碗を取り出して、グラスも並べると、
「大家さんはどれぐらい食べます?」といつも通り聞いてくる。
「安藤さんの三口分くらいですかね」
「少なくないですか?」
「安藤さんの一口が大きいだけですよ」
そうしてご飯と味噌汁を準備して、冷蔵庫から麦茶の入ったポットを取り出して、こぽこぽと音を立ててグラスに注ぐ。
最初の頃はそわそわしながら座っていただけなのに、人は慣れるものらしい。
メインディッシュは鶏と大根の炒め煮だ。
今日はスーパーで大根が安かったから。
一口大の鶏もも肉を炒めて、いちょう切りにした大根を加えたら、軽く焦げ目がつくくらいまで炒め、砂糖、醤油、みりん、酒を加え、蓋をして弱火に。大根が柔らかくなったら、火を止めてじっくり味を染みこませる。
一時間ほどしか染みこませる時間がなかったけれど、小さく切ってあるから大丈夫なはず。
お皿に盛ったら、上からたっぷりの青ネギと炒り胡麻をかけたら完成。
副菜は水菜の塩昆布和えと焼き茄子。
水菜は三センチほどの長さに切りそろえて塩もみして数分置いて、それから水で塩気を流し、しっかり絞って水気を切り塩昆布と和えただけ。
焼き茄子は予定になかったけれど、大長茄子を見つけてしまったので衝動買いしてしまった結果。グリルで焼いて、粗熱が取れるのを待って皮を剥ぎ、一口大に切って、すりおろした生姜とたっぷりの鰹節をかける。
「今日も豪勢ですね」と安藤さんが言った。
テーブルに並べてみると、案外場所をとる。
「それでは今日も一日お疲れさまでした」
「大家さんも、お疲れ様です」
二人でいただきますと唱和するのは未だにちょっぴり面白い。
安藤さんが最初に口をつけるのは、決まって味噌汁から。
今日は安定の豆腐とわかめ。
本当は昆布と鰹節でしっかり出汁を取りたいけれど、正直面倒くさいので顆粒だし。でも、最近の顆粒だしは本当に優秀だ。
「あー、味噌汁ってホッとする味ですよね」
「なんででしょうね」
「もう遺伝子に刻み込まれてるんですよ。日本人は味噌汁を飲めって」
「かもしれませんね」
安藤さんはそれからようやくご飯を一口食べる。最初の一口はしっかり噛みしめて。
お腹を空かして帰って来て、味噌汁のあとに食べる白米の最初の一口は最高に美味しいといつか言っていた。
確かに、白米の甘さは味噌汁の塩気や風味と相性がいい。
ご飯と味噌汁は絶対に離ればなれにできないパートナーだ。
そうして安藤さんはまず副菜から箸をつける。
これもいつも通り。
まずは水菜の塩昆布和え。
塩もみしても、水で一度洗っているので強くない。
まだシャキシャキとした水菜の食感の中に、塩昆布の旨みがじわりと広がっていて、さっぱりした後味でありながらもご飯のあてにちょうどいい。
それから焼き茄子。
これはもう言わずと知れた味。
秋なすは本当に美味しい。とろりとした茄子の果肉に生姜と鰹節。
醤油を垂らせば鰹節がぺったりと貼りつくのはご愛敬。生姜を溶かしてたっぷりと含ませたら口の中に。
安定の味だ。
「美味いです、大家さん」
「それはよかったです」
安藤さんは本当に美味しそうに食べる。
作った私もちょっぴり嬉しい。
ただのお隣さんなのに、今では夕食を一緒に食べる仲。
きっかけは彼が酔い潰れて玄関の前で寝ていたから。
放っておけなくて介抱して、せっかくだからとご飯を作ってあげたら、彼から「月三万で夕食を作ってくれませんか?」と言い出したのだ。
びっくりして断ったのだけれど、話を聞いているうちに、なんだかそれも面白そうだなと思って、翌日から夕食は安藤さんを招いて一緒に食べるようになった。
ひょっとすると襲われるかもしれない、とは思ったけれど、彼は誠実だった。
仕事ぶりは知らないけれど、毎朝元気よく出勤して、挨拶も忘れない彼のことだから、そういうことはないだろうと思っていた。
彼は仕立てのいいスーツを着ているし、安月給というわけでもなさそうだから、ちょっぴり進展があったら嬉しいな。顔も結構男前だし――なんて思っていたけれど、数ヶ月経った今でも何もない。
ヘタレなのか、本当に私に興味がないのか、どっちかわからない。
少なくとも、悪い気はしていないようだけれど。
「この大根、染み染みですね。美味い!」
「気に入りましたか」
「はい! これならいくらでもご飯が進みます!」
鶏と大根の炒め煮は、簡単にできて、ご飯にもよく合う。
やっぱり醤油とみりんと酒に砂糖という組み合わせは至高だ。
醤油の風味に甘塩っぱさがご飯のお供にならないはずがない。
「鶏もいいですね。しっかりこのタレをまとって、しかも香ばしい」
コツは最初に鶏皮からしっかり焼き目をつけてあげること。
先に片栗粉をまぶしておくと、タレが絡まりやすい。
「おかわりもらいます!」
「どうぞどうぞ」
安藤さんはあっという間にご飯を平らげて、また山盛りのご飯をよそう。
一人だと一日で一号も炊けば十分なのに、安藤さんがいると一日四合炊かないと足りない。
一応、彼からもらっている月三万円で足りている。
最初は不安もあったけれど、今は安藤さんの食いっぷりを見るのが細やかな趣味になっている。彼の美味しそうに食べる顔は、見ていて飽きない。
次から次にパクパクと大きな口に入れて、その度に美味しそうに頬を緩めるのが、なんだか子どもっぽくてかわいくもある。
そしてまたおかわり。
食べ終わるのはだいたい同じときだ。
私は少食だから、彼がたくさん食べるのとタイミングが同じぐらいになる。
「いやあ、今日も美味しかったです。ごちそうさまでした」
「お粗末様です」
食後に麦茶を飲んで、ホッと一息。
「そういえば、今日は大事なお話があるんです」
「大事なお話ですか」
ついに告白かと思ったら、全然違った。
「昇進が決まりました!」
「あっ、お、おめでとうございます」
「あはは、ありがとうございます!」
安藤さんは照れて、頭をかいた。
いちいち仕草がかわいいと思ってしまうのは、私が彼を好きになってしまったからかもしれない。
でも、どうして。
自分でもどうして彼を好きになってしまったのかわからない。
そりゃあ、ご飯を美味しそうに食べてくれて、いつも美味しいって言ってくれるのは嬉しいけれど、それだけじゃ好きにならないはず。
確かに彼が隣に越してきた時から「イケメンだなあ」ぐらいは思っていたし、下戸と知ったときには「意外だな、ちょっとかわいい」と思ってみたりもしたけれど。なんだかなつっこくて犬みたいだなあとか、毎朝挨拶してくれるし元気いいなあとか、思ったけど。
確かに確かに、美容室でほんの少しだけ短くしたのも、チークを変えたのも、ピアスを変えたのも、全部目敏く気付いて褒めてくれたのは嬉しかったけれど!
そのぐらいで好きになるはずがない!
「あっ、大家さん。もしかしてそれ新しいスカートですか?」
「ええ、まあ」
「いいですね! 似合ってます。大家さんはスタイルがいいから、何着ても似合いますね。とくに落ち着いた赤は大人っぽくて大家さんにぴったりですね!」
「あ、ありがとうございます」
私の顔が真っ赤になるからやめてほしい。
彼の笑顔が純真すぎて、褒めてくれるのを期待して買ったなんて言えない。
「はあ。これだけ毎日大家さんの美味しいご飯を食べていたら、もう離れられませんよ」
思わずドキリと胸が弾んだ。
それはどういう意味だろう。
もしかして……。
「大家さんの手料理って、なんかこう、ホッとするっていうか、安心する味なんですよね。あー、今日も一日頑張ったなーって、また明日も頑張ろうって思えるっていうか」
「そ、そうですか。それは……。よかったです」
「はい! また明日もよろしくお願いします!」
「あっ、あのっ!」
安藤さんはきょとんとして私を見つめる。
喉元まで出かけた言葉が出てこない。
「あ、明日は何が食べたいですか?」
「大家さんの作るものならなんでも美味しいですから、お任せします」
それが一番困るのに。
でも、なぜちょっぴり嬉しい自分がいる。