大工と妖怪屋敷
本来、「あたし」と書く所を「あっし」と書いたり、テンポとリズムを崩さないよう書いていますので、出て来る方言が厳密ではありませんが、ご了承下さい。
江戸の町に住む大工の千吉は三十代の働き盛り。腕が良く真面目で、酒や博打をやらなかった。しかしながら、少しばかり威勢が良すぎた。不道徳・不良は天敵で、悪人と雨は親の仇。吉原へ女を買いに行こうと誘われたら「いつから女は物になったんでぇ!」と張り倒し、どこぞの寺や屋敷で博打をやっていると耳に挟んだら「俺に殴られる回数が丁か半か当ててみやがれ!」と張り倒す。
こうなると大工の頭も頭を抱える。なにしろ荒い男たちが集まる大工業。貧乏長屋で丁半遊びをする者もいれば、吉原へ出かけるの者だっている。千吉の気持ちも分かるが、自分のところの若い衆を毎度張り倒されてちゃ仕事にならない。結局、頭に迷惑をかけちゃならねぇと、千吉のほうから大工を辞めて、『便利屋千吉』という商売を始めようと考えた。
ある日。千吉は長屋の大家の所へやって来た。
「こんちわ! どうも大家さん! 千吉です!」
「おっ、丁度良い所に来たねぇ、今そっちに行こうかと思ってたんだ。まぁ上がんなよ」
「へい、どうも…… それで大家さん、相談に乗ってもらった件はどうなりました?」
「やっぱり引っ越しちゃうのかい?」
「えぇ、引っ越します。まぁ、あっしもねぇ、出来れば引っ越したかぁねぇんです。大家さんはもちろんの事、長屋の奴らも良い人たちばかりですからねぇ。ただ、便利屋ってのは大工とはちょいと仕事が違う。仕事によりゃ夜遅くに帰ってこなきゃならねぇし、てめぇの家でトンカントンカンと作業をしなきゃならねぇ事もあります。つまり、皆さんに迷惑が掛かっちまうんですよ」
「お前さんの言うことも分かるがねぇ、お互いに助け合い、笑い合ってきた仲だろ? そんな千吉つぁんがいなくなるってぇと、私も長屋のみんなも寂しいんだよ。いやいや、もちろん千吉つぁんが決めたことだ、私も応援するよ。それで、頼まれた引っ越し先だけどもねぇ……」
「やっぱり、注文が多すぎて見つかりませんでしたか?」
「私も方々聞いて回ったんだけどねぇ、見つけられたのは二つしかないんだよ」
「二つ! 二つも候補がありゃ十分ですよ!」
「いや、まぁ、実質は一つなんだよ。というのも、一軒はかなり遠くにあってねぇ」
「遠く? 隣町ですか?」
「いやぁ、江戸を出ちゃうんだよ」
「そいつはいくらなんでも遠すぎらぁ…… でも残りの一軒は近いんですかい?」
「それこそ隣町だよ」
「隣町! そいつはいいやぁ。隣町のどの辺りですか?」
「……禍々通りの一番奥でねぇ」
「あぁ、あの人っ子一人住んでねぇ、墓場の近くの禍々通りですか? そいつは周りに迷惑が掛からねぇでいいや。そいで広さはどのくらいなんです?」
「……八畳二間に六畳二間。四畳半に納戸。それと台所に厠。あと風呂もついてるよ……」
「えっ! 風呂! 据え風呂ですか? へぇー、それだけ広い上に風呂付き! 贅沢ですねぇそりゃあ」
「ただねぇ、ちょいと古くてガタがきてるらしいんだよ」
「なに言ってやんでぇ、こちとら元大工でぇ、ガタの一つや二つ、あっという間に直してみせらぁ。ってなもんですよ大家さん。それでいくらなんです?」
「……なにが?」
「なにがって、値段ですよ値段」
「値段かい? まぁ、その、なんだよ。ウチの長屋の三月分ってとこだねぇ」
「三月分ですか? 意外と安いもんですねぇ。月に今の三倍の値段で風呂付きの屋敷に住めるなら文句なんぞありゃしませんよ」
「月に今の三倍? 月にってのはなんだい?」
「なんだいって、月にいっぺん払う……」
「違う違う。三倍の銭を一度だけ払えば、あとはタダで住めるんだよ」
「タダで住める? たかだか三月分を出しただけで? ……ははっ、バカ言うんじゃねぇよ大家」
「急に言葉使いが荒‥」
「すみません! あまりの安さに驚いちまいまして…… それにしても、タダですかい?」
「あそこはどうも陰気なとこでねぇ、いくら墓場が近いといっても、昼間でも何だか薄暗いし薄気味悪いんだ。お上のほうも見捨てていたんだがね、やっぱり、こう、なんだい、訳の分からねぇ輩の根城になっても困るからってんで、特別な計らいって訳だよ。まぁ、それでも誰も住んでいないがね」
「いや、大家さん! あっしは決めましたよ! その屋敷に引っ越しますよ!」
「……墓場近くの禍々通りにあって、古くてガタがきているとはいえ、風呂付きの屋敷だよ? それがこんなに安いってのに誰も住まないんだ、気にならないのかい?」
「ならねぇ! これっぽっちも気になりませんよ、えぇ。どうせ幽霊が出るだとか妖怪が出るだとかの話でしょう? まぁ、ここ掘れワンワンだとかは勘弁してもらいてぇとこですけど」
「ここ掘れワンワンなら私が住むよ!」
「大家さんも物好きですねぇ。掘ったところから無数の生首が出てきても平気なんですかい?」
「…………私の知ってる『ここ掘れワンワン』じゃないねどうも。そんな恐ろしい話があるのかい? そりゃあ犬も吠えるってもんだよ。はぁ嫌だねぇ、夢に出てきそうだよまったく……」
「んなことより大家さん。あっしはもう決めましたから、すぐにでも行って話をつけて……」
「慌てなさんな。威勢の良い千吉つぁんのことだから、何も気にせず決めると思ってたんだよ。だからねぇ、もう私が話をつけておいたから」
「大家さんが? 話を? ありがとうござ、いや、申し訳ありませんだなこりゃ」
「なぜだい?」
「店子が一人いなくなるってのは、大家さんにとっちゃよろしくないですからねぇ。なのに引っ越しの面倒まで見てもらっちゃ……」
「何言ってんだよ。千吉つぁんのおかげで、この町の悪い奴らがいなくなったんじゃないか。長屋の修理もしてくれたしねぇ。それに、長屋の皆の困り事にだって手を貸してくれて……」
「いやぁ、あたしはガキの時分に苦労したもんですから、どうも、こう、困ってる人を放っておけないんですよ。その人の苦労が手に取るように分かっちまう、矢も盾もたまらなくなっちまうってやつですよ」
「そうかい。でもね千吉つぁん。喧嘩っ早いのは少し改めたほうが良いよ? ほら、千吉つぁんは悪い輩にしか手を上げないけども、それで怖がっちゃう人もいるからねぇ」
「……へい、それはもう」
「まぁ、千吉つぁんが努力してるのは分かってるんだ。ただねぇ、人の流す噂ってのはねじ曲がって伝わるもんだから……」
「そうなんですよ。だからあっしは女の人に見向きもされないんですよ。ただの乱暴者と思われちまってますから」
「まぁ、今回は千吉つぁんの屋敷を探したけど、今度は千吉つぁんを女性方に売り込んでみるよ」
「はははっ、ぜひお願いします! そこいらの男よりも三倍強くて三倍優しいと売り込んでくださいよ!」
「売り込むよ! 早くしないと千吉つぁんもガタきちゃうからねぇ」
「違いねぇ! それじゃ大家さん、あっしはこれで…… じゃねぇや、屋敷の話をつけたって金はどうしたんです?」
「もう払ってあるから心配いらないよ」
「まったく、大家さんも人が良いからなぁ。今ここで大家さんに払えばいいですか?」
「なに言ってんだよ。いいよ、いらないよお金は」
「いやいや、こういうことはしっかりとしなくちゃいけねぇ。払いますよ俺は」
「違うんだよ。私や長屋の皆からの引越し祝いなんだよ。本当は皆でお酒でも送ろうかと思っていたんだけど、千吉つぁん酒やらないだろ? だから祝いの酒代わりに屋敷代を受け取ってくれよ」
「はぁ、本当にこの長屋連中ってのは…… 分かりました! 屋敷代、喜んで受け取ります!」
「そうかい、ありがとう。それじゃこれが地図だから。うん、屋敷の敷地内に松がたくさん生い茂ってるから、道に迷っても『松屋敷』と聞けば皆分かってくれるから」
「わかりました。それじゃ大家さん長いことお世話になりました!」
「たまには顔を見せてくれよ」
「もちろんですよ! そいじゃ失礼します!」
大家の部屋を飛び出た千吉は、一度済ませた長屋の引っ越しの挨拶をもう一度済ませると、自分の部屋に帰っていった。そして、少ない持ち物と服をひとまとめ。残りは命の次に大事な大工道具一式。千吉は風呂敷を背負い、やりくり型の道具箱を肩に持つと、もらった地図を懐に入れて長屋を後にした。
「はぁーっと、昼のそばを食って隣町に来た。んでもって禍々通りに来た。それなのに屋敷が見当たらねぇときた。地図がおかしいのか、俺がおかしいのか…… おっ、珍しく人がいるじゃねぇか、あの人に聞いてみるか。どうも、すみません、ちょいと道をお尋ねたいんですが」
「ハアッ! な、なんで、どうして! 昼間には道を尋ねられないと、き、聞いてたのに!」
「い、いや、あのですね、この地図の松屋敷はどの辺りにあり‥」
「ンサイタイカウヨ! ンサイタイカウヨ! 雨降りさんには梅干し二つ!」
「なんです? 雨降りさん? あっ、ちょいと! 待ってください! 道を教えて…… なんでぇ、血相変えて行っちまいやがった。ったく、屋敷探す前にまた人を探さなきゃならねぇよ」
「どうしただ」
「あん?」
千吉が声のする方へ顔をやると、壊れた和傘を頭に被った小僧が立っていた。
「どうしただ? 道知りたいだか?」
「えっ? あ、あぁ、まぁそんなとこでぇ。坊主、名前は?」
「オイラなぁ、あのなぁ、雨太郎っていうだぁ」
雨太郎は照れくさそうにモジモジと動くと、どこからともなく持ち手の付いた提灯を取り出し揺らし始めた。
「へぇ、雨太郎。それじゃ雨ちゃんってとこかい?」
「んだ、雨ちゃんってとこだぁ」
「そうかいそうかい。俺は千吉ってんだ」
「そいじゃ千ちゃんってとこだべ」
「まぁ、そんなとこでぇ。 ……ところで雨ちゃんよぉ、いま提灯どこから出したんでぇ」
「オイラ妖怪だでな、ヨイッとやれば提灯だせるだで」
「妖怪? 雨ちゃんが? 提灯を出す妖怪なのかい?」
「雨降り小僧だで、雨を降らすぞなもし」
「へぇ、ぞなもしってもんかい。なるほど、それじゃちょいとお願いできるかな?」
「そいじゃ千ちゃんのとこにだけ降らせるでな。ヨイッ!」
「おっ、冷てぇ! なんだ、本当に雨が降ってきやがった! おぅ雨ちゃん、もういい、ありがとうさん、もういいぞ!」
「ヨイッ! 面白かっただか?」
「いやぁ、面白いの面白くねぇのって、すげぇな雨ちゃん!」
「オイラなぁ、キツネの嫁入りの時とかにも雨を頼まれるだよ」
「おいおい! あの天気雨は雨ちゃん? こらぁまた驚いたねぇ、本当に妖怪なんだなぁ雨ちゃんはよぉ。へぇ、可愛らしい妖怪ってのもいるんだなぁ。俺はよ、妖怪ってのはもっとおっかねぇもんだと思ってたからよ」
「可愛いのもいるでな。座敷わらしどん、一つ目小僧どん、小ちゃい河童どんも可愛いだで。そういや千ちゃん、道知りたいだか?」
「えっ? あ、そうそう、そうなんだよ。雨ちゃん、松屋敷って呼ばれてるお屋敷知らねぇかい?」
「オイラ知ってるぞなもし」
「本当かよ雨ちゃん!」
「千ちゃんの後ろだでな」
「えっ………… あぁ、こりゃまいったねぇどうも。本当だよ。ありがとな雨ちゃん。どうでぇ、茶の一杯でも飲んでくか? …………あれ、雨ちゃん? おかしいな、どこに行った? なんでぇ、行っちまったのか。まぁ、妖怪にもいろいろ用があるだろうからな」
よし、そいじゃ屋敷に。ってなもんで千吉が屋敷の中に入っていくと、これが丁寧な作りの屋敷。多少くたびれているものの、ひどく汚れているということもなかった。
「こりゃ思ってたよりも良いじゃねぇか。雰囲気に張りはねぇが、まぁ、土間も大丈夫そうだし、釜戸も…… 大丈夫そうだ」
「千ちゃん、いらっしゃいませぇ」
「うおっ! なんでぇ雨ちゃんか! びっくりしたぜ!」
「お入んなましぃ」
「お、おぅ、そいじゃ、お、お邪魔します……」
「うん、よかよか。ばってん足洗うのが先やで千ちゃん」
「……足、足な」
「桶さんに水を張っておったけぇ、使ってくんろ」
「おう、こ、これだな? いやぁ、雨ちゃんは気が利くなぁ」
「へへへっ、褒めても何も出ねぇだよ」
「ははっ、大人の真似しやがって。そいじゃ上がらしてもらうぜ」
「段差あるでな、気ぃつけるだよ?」
「おっ、ここは八畳間か…… そういや雨ちゃんあれかい? 方々旅して回ったクチかい?」
「そうどす」
「へぇ、大変だなぁ、えぇ? いつ頃こっちへ来たんだい?」
「そうさなぁ、行ったり来たりで忘れちまった。覚えてねぇだよ千ちゃん」
「雨ちゃんもその年で苦労してんだなぁ。にしてもあれだなぁ、人が住んじゃいねぇにしては、随分と畳がきれいじゃねぇか。カビ臭くねぇしなぁ」
「千ちゃん、お茶ちゃにするかな?」
「お茶? あぁ、お茶な。この風呂敷にな、湯呑みだ急須だ入れてきたからよ。茶っぱも少しはあらぁ、いま俺が淹れてやるからよ」
「大丈夫だよ千きっちゃん。お茶ちゃはよく淹れるでな」
「そうかい? でもその前によ、その和傘と提灯は置いておこうぜ雨ちゃん、大事なもんなんだろ? 俺の道具箱をここに置くから、この上に置いておけよ。家の中で傘ってのもなぁ、火を使うんじゃ危ねぇし、なっ?」
「……そうするべかな。それじゃ置かしてもらうべ」
「そいで一応さ、近くで見ててもいいかい? よく淹れるっていっても火を使うからなぁ。河童の川流れなんていうこともあるしよ」
「へへへっ、あんときゃ河童どん流れたもんなぁ」
「なんか言ったかい?」
「なんでもねぇだよ」
「よぉ雨ちゃん、瓶に水は入ってんのかい? 長ぇ間だれも住んでなかったんだろ?」
「千ちゃん、瓶を外に出してくんろ」
「別に構わねぇけど、ここらは水売りも来ねぇだろうし、井戸の水ってもここらのは飲水にはならねぇしなぁ」
「オイラがきれいな雨を瓶にいれるだ」
「かーっ! すごいな雨ちゃんは! ちょいと待ってな、いま瓶を動かすからよ…… よし、やってくれ!」
「ヨイッ!」
雨降り小僧の声がするかと思うと、瓶の上にしとしと雨が降ってきた。
「よし、雨ちゃんもういいぞ。はぁ、こらぁ澄んだ水だ。よし、戻すか…… ほい来た雨ちゃん、瓶戻したぞ」
「千ちゃん力持ちだなぁ」
「へへっ、褒めたって大したもんは出ねぇぞ?」
「それじゃ、お茶ちゃ淹れるでな………… ほい、お茶ちゃが入りましたぞなもし」
「お、運べるかい? 俺がやろうか? 自分でやる? 気をつけな、ゆっくりでいいから」
「んだ、ゆっくり…… はい、お茶ちゃでごぜぇます」
「おぉっ、大したもんだ。うん、安い茶っぱだが水が良いから美味い茶だよ。淹れた者の気持ちが伝わってくるようだよ」
「お粗末さまでごぜぇますだ」
「ははっ、何を言ってやんでぇ。そうだ雨ちゃん、煎餅食うか? ここへ来る途中に買ってきてな、これなんだけどよ」
「オイラせんべぇ好き!」
「そいじゃ雨ちゃんは煎餅食べてな。茶も飲んだことだし、俺は屋敷の具合を見て来るからよ。早くしねぇとじきに夕暮れだ」
「見るかい千ちゃん」
「おう、これからここに住んで便利屋を始めるんでぇ、傷んでるとこは早く直さなきゃならねぇし、作業場をどこにするかも決めてぇしな」
「オイラも見ていいだか?」
「別に構わねぇよ。じゃあまずは、風呂場だ。家に風呂があるなんざぁ贅沢じゃねぇか。それで、風呂場はどこだ? 台所の奥かな…… やっぱりな、この引戸がそうか。どれ…………」
「どうだい、千きっちゃん」
「どうだいって、汚ねぇ据風呂だなぁおい! 壁も床も汚ねぇが、だめだ、汚さすぎて目がいっちまうよ。なんだよそれ、本当に風呂桶かそれは! おいおい、さすがに大工の俺でも風呂桶は直せねぇぞ? 結物ってのは…… おい雨ちゃん! 俺の後ろに隠れてろ! いいな!」
「か、隠れてるだよ!」
「やい! 隠れてねぇで出てきやがれ!」
「こんどは出るだか千ちゃん?」
「違う違う、雨ちゃんは隠れてろ、いいな? おい! 風呂の後ろに隠れてんのは分かってんだ! 出てきやがれ! 出てこねぇなら引きずり出して酷い目にあわすぞ!」
千吉の迫力に恐れ入ったのか、風呂桶の影からヌッと出てきたそれは、波打った長い髪に深緑の肌、蛇のような長い舌を持った、人間のようで人間じゃない者だった。
「……なんだ、ふざけてんのかお前は!」
「い、いえ、ふざけてません! ふざけてません! これが通常でございます!」
「おい、おい、いいか? この屋敷はな、もう俺のもんになったんだ。大家さんや長屋の連中が俺にくれたと言ってもいい屋敷なんだ! んでもって俺はこの屋敷で便利屋をやるんだ! それをなんだ、お前は勝手に上がり込んで、風呂場で何をしてやがった!」
「はい、あの、垢を…… 垢をなめておりました……」
「……まだふざけてんのか?」
「ふざけてません! ふざけてません! 垢をなめているのが通常でございます!」
「……そうかいそうかい。ちょっと待ってろい! あの雨ちゃんな、やっぱり和傘を持っておいで。うん、持ってきたか、そしたら和傘をかぶって、こう隙間から手入れて耳塞いでな。よし。おい、この野郎! 子供と妖怪の子供の教育によろしくないこと言いやがって! 垢をなめるだぁ? 人んちの風呂場に素っ裸で上がり込んで訳の分からねぇこと言ってるんじゃあねぇ!」
「素っ裸だなんてとんでもございません! これが正装でございまして、垢をなめるとういうのも、私が垢ナメという妖怪だからなんでございます……」
「……あっ、なに、妖怪なの? 人じゃないの?」
「はい、私、垢ナメと申します」
「はぁーん、なるほど妖怪ねぇ。おい雨ちゃん、雨ちゃん、もう耳を塞がなくていいぞ」
「もういいだか?」
「おう、もういいぞ。あれも妖怪だってよ。それにしたって垢ナメちゃんよぉ、えぇ、妖怪だからといって、何したっていい訳じゃねぇんだぞ? 俺だから大して驚きもせずに済んだけどよ、あれがじいちゃんばあちゃんだったらそうはいかねぇぞ?」
「……そうでしょうか?」
「そうに決まってんだろ! 腰抜かして転んじまったら大怪我、キューンッと心臓にきちまったらそれこそ大事だ」
「はい。本当に申し訳ありませんでした。ただ、あの、一つよろしいでしょうか?」
「おう、構わねぇよ。言ってみな」
「あの、我々垢ナメというのは、何も驚かすために垢をなめているわけじゃありません。もちろん、驚かせてしまうことのほうが多いですが、我々は戒めのために垢をなめているのでございます」
「戒め? なんでぇ、お上のお裁きか? おぬしを垢なめの刑に処す、ってなもんか?」
「いえ、そうではなくて、子供たちに対する教訓として‥」
「なるほど、そうか! おい雨ちゃん、あそこで申し訳無そうにしてる垢ナメを見な。ああいう妖怪になっちゃいけないよ」
「い、いえ! そういうことでもございません! 垢を溜めるようなことがないよう、毎日しっかり掃除をしろという教訓でございます」
「あ、あぁ、そっちか? まぁ確かに教訓にはなるかもしれねぇが、もう少しやり方を工夫しねぇとだめだな。まぁいいや、さっきも言ったが、俺はここで便利屋をやるんでぇ、どっか他所に移んな。すぐにとは言わねぇから、いいな」
「え、あっ、はい…………」
「そしたら八畳間で座って待ってな。いいな? よし、そいじゃあれだな、お次は六畳間だな」
「六畳間だで」
「えーっと、おっ、ここか…… なんだろうな、さっき茶を飲んだ八畳間と違って陰気だなぁ。空気が淀んでるし、カビ臭ぇんだよ。縁側が近くても、こう閉め切ってちゃ暗いしな。襖の柄も酷いな、えぇ? タコとイカが相撲をしてらぁ。タコが有利に決まってんだろ。まったくどうも……」
千吉が文句を言いながらタコとイカの襖を開けると、ホコリとカビの混ざった嫌な臭いが部屋にたちこもっていた。
「かぁーっ、こりゃ酷い。雨ちゃんは下がってな」
あまりの臭いに、部屋の空気を吸いたくないと、千吉が手ぬぐいで鼻と口を覆ったとき、次の間に続いている襖の奥から、ピチャピチャペロペロと気味の悪い音が聞こえてきた。
「……やだねどうも、ろくなのが居るわけねぇんだから。こうなったら、思いっきり襖を開けて怒鳴り込んでやるか。よーし………… やい! この野郎! 何してやがる!」
「はぐっ! んぐぐぐっ!」
薄暗い部屋の隅で、ボロの着物を着たハゲ頭の中年男が、カビの生えた畳の上でもがいておりました。
「お、おい、なんでぇ? 暴れるなよ、カビだなんだが舞うからよぉ。聞いてんのか? どうしたんでぇ?」
「んぐ、おろかすからひらをかんらんらよ!」
「な、なにを?」
「おろかすからひらをかんらんらよ!」
「まぁいいや、出てけ出てけ。ここはお前の家じゃないんだから」
「ググッ…… 待ってくれ、待ってくれい!」
「なんでぇ、ちゃんと話せるんじゃねぇか。さっきは何て言ったんだ?」
「驚かすから舌を噛んだんだよ! そう言ったんだ!」
「ふーん、そうだったのか。まぁいいや、出てけ出てけ。ここはお前の家じゃないんだから」
「待ってくれよ! オラが何をしてたか聞いてくれよ!」
「ったく、聞いてやるがな、気が短ぇんだ、スパッと説明しろい!」
「天井をなめてたんだい!」
「……また教育によくねぇのが出てきやがった。なに? 天井をなめてただぁ? 垢の次は天井かこの野郎! どいつもこいつもペロペロなめやがって、お前も妖怪か!」
「よ、妖怪じゃなかったら天井なんかなめるか!」
「なにこの! 見ろい! てめぇがバカ面してなめるもんだから天井がシミだらけじゃねぇか! いいか、今日からこの屋敷は俺のもんなんだ、何から何まで俺が直すんだ、好き勝手するんじゃあねぇ! ………………泣くんじゃないよ、おい、おじさんよぉ。俺も相手が妖怪だと思ってちょいと強く言い過ぎたよ、なぁ、悪かったよ」
「い、いや、天井なめてたオラが悪いんだ。自分でもわからねぇんだ。天井なんてなめちゃいけねぇ、なめちゃいけねぇ、そう思って拳を握るんだ。だのに、ふと気がつくと天井、天井なめて、ハァーン!」
「分かったから泣くんじゃねぇよ。ほら、あっちの八畳間に行くぞ。ったく尻腰のねぇ、それでも妖怪か? ほれ、この手拭で涙拭け。あっ、あの雨ちゃんなぁ、悪いんだけどよ、火に気をつけて茶を淹れてくれるか?」
「んだ、いまお茶ちゃ淹れるだよ!」
「ほら天井ナメのおじさんよ、そこに座って。おっ、雨ちゃんありがとな。ほれ、雨ちゃんが茶を淹れてくれたんだ、それを飲んで少し落ち着きな、いいな? 雨ちゃん、このおじさん見ててくれ、残りの四畳半と厠を見てくるからよ。頼んだぞ」
「ほい、頼まれた!」
「はぁーあ、今日の朝、あの長屋を出てきたのが懐かしいや。ったく、垢ナメに天井ナメと来やがった。次は何ナメだってんだよ、えぇ、ここは、あっ、なんでぇ厠か。こっちが四畳半…… あれ納戸だ。なるほど、ここが四畳半だな」
千吉が襖をすぅっと開けると、何やら天井からぶら下がってきて額にぶつかった。
「イテッ! なにしやがるチキショウ! なんだてめぇは!」
「んんっ…… 天井下がりと申します。以後お見知りおきを」
「……教育に良いんだか悪いんだか分からねぇのが出てきやがった。いま天井下がりって言ったか? はぁーん、ナメじゃなく天井の方で合わせてきやがったか。おめぇさんも妖怪かい?」
「はい、妖怪でございます。お陰様で長いこと天井から下がらせていただいております」
「……言葉使いが丁寧でも妙なのは妙なんだ。下がらせていただいてるって、何が目的なんでぇ。天井からぶら下がって、なにかあるのかい?」
「いえ、特にこれといってございません。ですが、人を驚かすよう幼い時分から教えられて育ちました。ですから長い間、人を驚かすためだけに方々の天井でぶら下がっておりました。しかしながら、どうにも驚かす調子、拍子というものが掴めません。何度やってみても驚かすと同時にぶつかってしまう。と申しますか、驚かす前にぶつかってしまう。ですが一度だけ、一度だけではございますが見事に驚かすことができました。ただ特にこれといって何もございませんでした」
「職変えな。職を変えなってんだ。人には向き不向き…… 妖怪にも向き不向きってもんがある、聞いたこたぁねぇが多分ある。知り合いにな、ナメナメ妖怪が二人ばかしいる。よかったら口利いてやるから」
「よろしくお願いします」
「なんだかなぁ。まぁ、四畳半はそんなに傷んでねぇか。よし、それじゃサガリちゃんよ、八畳間のほうに……」
「はい、参ります」
「…………垢ナメ、天井ナメ、天井下がり。次はなんだ、昼下がりか? まったく、勘弁してくれよ。まだ仕事もしてねぇ内から疲れちまったい……」
千吉が八畳間に戻ってくると、妖怪四匹がズズッと茶を飲んでいた。
「のほほんとしてるんだか、おっかねぇんだか。どっちかにしろよ、まったく。わざわざ天井にせんべぇを貼り付けてナメてるんじゃあねぇ! バカかお前は!」
「あれ、千ちゃん終っただか?」
「おう、一通りは見てきた。まぁ、なんとかなりそうだ」
「一緒にお茶ちゃ飲むだか?」
「いや、瓶の水を飲んでくらぁ。冷えたのが飲みたくなっちまってな」
「柄杓は横に置いてあるだ」
「あいよ」
千吉は土間に下りると瓶のフタをとり、柄杓で水をすくい、口を付けずにすすって飲んだ。
「はぁ、冷たくていいや」
千吉、もう一杯と柄杓を伸ばした途端、瓶の横の存在に気づいて大きく仰け反った。
「な、なんだてめぇは! いつからそこにいやがった!」
「…………………」
「黙ってねぇで何か言えってんだよ! ナメか? 下がりか? どっちでぇ!」
「あ、油すまし」
「すまし! すましだぁこの野郎! すましてんじゃねぇや、油と来たらナメやがれってんだ!」
「………………」
「なにをすましてんだよ! この屋敷はどうなってるんでぇ、ナメだ、下がりだ、すましだってよぉ。お前も向こうで茶でも飲んでな!」
「…………どうもです」
「チッ、雨ちゃんみたいな妖怪が増えねぇもんかねぇ! 他の奴等が出てくるとどうも湿度があがるんだよ。夏で蒸し暑いんだ、勘弁してくれよ」
「おーい千ちゃん!」
「おう、ちょいと待ってくんな! 今そっちに行くからよ…… ふぃー、どうしたい雨ちゃん?」
「そこの縁側の戸を開けたで、風が気持ちいぞよ」
「おっ、本当だ。いいねぇ。庭先の笹がさらさらと揺れて涼しいや」
「清涼感がありますよねぇ」
「垢ナメちゃんが言う台詞じゃねぇが、まぁそういうこと‥ おい! もう夕暮れじゃねぇか!」
「遠くの山に沈みゆく夕日。風情がありますよねぇ」
「いやぁ本当に風情があってよろしゅうございますなぁ…… じゃあねぇんだよ! 晩飯の支度をしねぇと!」
「えっ! 晩飯ですか! いやぁ、これはどうも、ごちそうさまです」
「まだ何も言ってねぇだろ! なんで俺がお前らに馳走しなきゃならねぇんだよ!」
「オイラ人間の食い物ひさしぶしに食べるだぁ。なぁ油すましどん。天ナメどんもひさしぶしかぁ?」
「オラも久しぶりだよ。煎餅にお茶もらって、天ぷらが食えるとは思わなかったよ。なぁ天井下がりさん?」
「そうでございますねぇ。私なんかお刺身お造りが大の好物でして。えぇ、もう、よろしゅうございますねぇ。垢ナメさんはどのような料理がお好きなんですか?」
「僕ですか? 僕はお豆腐が好きなんですよ。冷奴ってやつにもう目がないもので。もうね、冷奴を塩で頂いて、お冷の一杯をクイッとやりまして、もうたまりませんよ! ねぇ千吉さん?」
「いやぁ、俺は酒をやらねぇんだけどよぉ、冷奴はうまいなぁ。刺し身に天ぷらも美味いもんだよ。うーん、ふざけんなよお前ら! どこのバカが勝手に上がり込んだ妖怪どもに至れり尽くせりのおもてなしをしなきゃならねぇんだ! 俺の持ってきた米と味噌でオジヤだバカ!」
「オジヤ! あれも美味しいですよねぇ」
「…………ったく、調子の良い妖怪だよ。もういいや、準備するから手伝えよ? それじゃ垢ナメは庭に行ってシソかなんか摘んでこい。探せば生えてんだろ。あとノビルかなんかも採ってきな。味噌と和えるから。天井ナメと天井下がりはこの八畳間を簡単に掃除しておいてくれ。雨ちゃんはお米をといでおいてくれ。俺はその間に庭に生えてるあの竹で、お前らの箸と茶碗代わりになるもんを作ってやるから。んで、そのあとオジヤを作る。いいな? ……油すましはそこですましてろ、いいな? よし、かかれ!」
日が暮れる前の明るい内にと、千吉と妖怪は大急ぎで夕食の支度に取り掛かり、日が沈む頃には夕食を終えた。
「いやぁ食ったなぁ。ちょろっと作ったわりにはノビルの和物も美味かったなぁ。雨ちゃん、美味かったか?」
「オジヤうまかったぞなもし! オジヤのシソがえがった!」
「そうかい、そいつは良かった。ふぅ、水と手ぬぐいで体を拭いてサッパリしたことだし、そろそろ寝るかな」
「オイラもこの畳で寝ていいかい?」
「あぁ、構わねぇぞ。枕は使うか?」
「オイラ枕あると寝れねぇでな」
「そうかい。おい、垢ナメたちは寝床があるんだろ?」
「はい、あります」
「うん、そいじゃその寝床で寝な。妖怪といえども、こんな時間に追い出しちゃ可哀想だしな。新しい住処を探すのだって大変だろ。明日明後日とは言わねぇから、どっか他所を探してくれよ」
「……あ、はい」
「よし、そいじゃ寝るか」
こうして引っ越し一日目が終わっていく、わけはない。すでに妖怪が五匹も現れた妖怪屋敷。六匹七匹がいて当然。いなきゃ逆に怖いくらい。
夜が更けて、草木も眠る丑三つ時。千吉、寝苦しいのか何度も寝返りをうっていると、なにやら泣き声が聞こえてくる。だが少しすると聞こえなくなる。千吉が「なんでぇ空耳か」と寝返りをうつと、その度に鳴き声が聞こえてくる。
「……まぁーた聞こえてきやがった」
「しくしく…… しくしくしく……」
「……うるせぇ野郎だ」
「……めそめそ、めそめそめそ」
「だぁもう! うるせぇ! さっきから泣いてやがんのはどこのどいつでぇ! ナメか、下がりか、すましか!」
「ど、どうも、枕返しでございます……」
「返し! 返しだぁ! ネタの尽きねぇ妖怪どもだ! その枕返しがなんだって泣いてんだ!」
「だって、だって旦那、寝返りうつたびに自分で枕を返しちゃうんですもん! あたしの仕事をとっちゃうんですもん! ……しくしく、めそめそ」
「どうなってやがんでぇこの屋敷は! まだいるんなら、この八畳間に集まりやがれ!」
千吉がそう言った途端に、屋敷のいたるところから妖怪が現れ、八畳間に溢れかえる。
「ロウソクに火をつけてと。…………かぁーっ、揃いも揃いやがって」
網切り、ぶるぶる、目目連、吹き消しババァに化け草履。その他にも名前が無いものから、何だかよくわからないものまで、とにかくウンザリする数の妖怪たちが八畳間に集まった。
「かーっ、数える気にもならねぇよ。あれ? なんだってお地蔵様がこんなとこに……」
「ひひひっ、オイラだで千ちゃん」
「あら? なんでぇ雨ちゃんか? へぇ! 雨を降らすだけじゃなく、化けることもできんのかい! ……おい、そこの垢ナメ天井ナメ! こんな幼い雨ちゃんが、化けられるってのに何だてめぇらは! いい年こいてペロペロしてんじゃあねぇぞ!」
「千ちゃん、千ちゃんのひざっこの上に座っていいだか?」
「ん? おう、構わねぇぞ。それでだ、これは一体どういうことなんでぇ? 誰か説明しろい!」
千吉の問いかけに垢ナメが静かに手を上げた。
「……他に立候補するやつはいねぇのか?」
「大丈夫です! 説明できます!」
「風呂場の垢なめてるやつに説明できんのか? 本当だな? じゃあ説明してくれ」
垢ナメの説明はこうだった。
ここにいる妖怪たちは元の住処を追われた妖怪たちで、逃げた先で仲間を増やしを繰り返し、様々な地方からやってきた。ではなぜ、この江戸の町の屋敷に集まったのか。それは、高名な古狸がいたからであった。
この狸。一匹で里を離れてこの屋敷で暮らしていた。もともと墓場近くの屋敷。ただでさえ不気味な雰囲気のこの禍々通り。それも相まって、狸の化かしが人間たちにはよく効いた。また、この狸は賢い狸で、相手が坊さんだろうが侍だろうが悪人だろうが、瞬時に相手の弱点を見切り、化けて追い返していた。
「ほう、古狸ねぇ」
「はい。私たちは住処を追い出された妖怪たち。自慢じゃありませんが、私たちを見て怯えた人間は数えるほどしかいません」
「……まぁ、俺も最初少し驚いたくれぇだったもんなぁ」
「私たちは腕っぷしもからっきしなもんで、立ち向かったところでポコポコ殴られて返りうちにされてしまうんです」
「……ここにいるお前らはちょいと、こう、なんだ、物腰が柔らかいし、大人しそうなのが多いもんなぁ」
「ですので、こちらの狸さんに色々と教えて頂こうと、勉強しようと集まったのです」
「あら、こりゃお見逸れしちゃったよ。このままじゃいけねぇと思って、脅かし方だなんだを習いに来たのか? そいつは偉い。まぁ人間からしてみれば嬉しかねぇが。それからどうした?」
「はい。狸さんは妖怪じゃありませんので、数年前に亡くなりました。ですので、私たち妖怪も狸さんから教わったことはほんの少し。このお屋敷で暮らせていたのも、生前の狸さんの功績のおかげなんです」
「なるほどなぁ。ここに住み続けたいが、人を驚かすには力不足だし、他所へ移ろうにもいい場所がない。あったとしても、力不足じゃ結局追い出されちまう」
「私たちも、根が大人しい性格の妖怪の集まり。あまり人間と関わらず、必要最低限ってやつででしょうか、そういう生き方がお互いのためになると思っていまして……」
「確かに、それに越したことはねぇな」
「それで実は一つだけ解決策と申しますか、考えがあるのです」
「考えねぇ、話してみな」
「では、天井下がりさん、お願いします」
「はい。千吉さん、よろしでしょうか?」
「お、おう。分かりやすく頼むぜ?」
「では…… 町外れの更に外れ。そこに『行ったきりの森』と呼ばれる場所がございます。その森は、草木が生い茂り、昼間でさえ仄暗く、獣でさえも近づこうとはしない所。名前の通り、一度入ったが最後、帰ってきた者はいないという樹海なんでございます」
「あぁ、俺も噂程度には聞いたことがあらぁ。それで?」
「はい。その行ったきりの森、実は私たち妖怪にとっては過ごしやすい場所なのでございます。ですが、ご覧の通りの者たちです。つまり、ここにいる妖怪のほとんどが『屋敷』に依存している妖怪。そう、いくら森が住みやすいところいえども、屋敷に依存している以上、屋敷の無い所では存在していけないのです」
「でも、さっき言ってたろ、妖怪には寿命がないってよ」
「はい、申し上げました。しかし、存在そのものは消えてしまうのです。例えば、この世から『天井』が無くなったとします。そうなれば天井下がりや天井ナメさんなどは、存在出来ずに消えていく。この世のほとんどの人間がきれい好きになり、汚れにくいお風呂場を作り始めたら、垢ナメさんもそのうちにいなくなってしまいます」
「そういうことか…… 大工も人から必要とされなくなっちまったら、大工をやめるしかねぇもんなぁ。そういや、最近は大八車ばっかりで、牛車を見かけねぇ。妖怪もそういもんなのか」
「そうなのでございます。もちろん、屋敷に依存していない妖怪たちは今すぐにでも森へ移り住むことが出来ます。しかし、先ほど話に出ましたように、私たちは元の住処を追われてしまうような妖怪の集まり。今は団結の力で短所を補い、助け合いをして日々を送っております」
「なるほど、誰が欠けてもいけねぇって訳だ。そうかいそうかい、妖怪も大変なもんだなぁ。人も妖怪も獣も草木も、共に生きていけりゃあいいんだけどよぉ………… じゃあねぇや! ちょっと待ってよ、えぇ? するってぇとなにか? 住みやすい所に屋敷がありゃ全員で暮らしていけるわけか?」
「は、はい、そういうことでございます」
「なら早く言えってんだ! その行ったっきりの森ん中に、俺がお前らの新しい住処、妖怪屋敷を建ててやらぁ!」
千吉のその言葉に、驚かせる側の妖怪たちが目を丸くして驚いてしまった。千吉のひざの上に座る雨降り小僧にいたっては口もあんぐりと開け、目を輝かせていた。
「せ、千ちゃん! 千ちゃんおうちつくれるだか!」
「あたぼうでぇ! ……あぁ、あたぼうってのは『当たりめぇだべらぼうめ』ってのをキュッと詰めたもんだ」
「あ、あたぼうなのかい千ちゃん!」
「おうよ! 元々俺は大工だからなぁ、家を建てることなんざぁ朝飯前でぇ! と言いてぇところだが、さすがに俺一人じゃ厳しい。だからいいか、よく聞けよ?」
「聞くぞなもし!」
「俺が知り合いから大八車を借りて来る。そこにお前ら妖怪たちの大事なもん、例えるってぇと垢ナメが舐めてるあの汚ねぇ風呂桶。天井ナメのおじさんなら天井板二・三枚を大八車に載せて引っ越しってわけだよ。お前ら妖怪にだって愛着ってもんがあるんだろ? だからそれを使いつつ屋敷を建ててやる。まぁあんまり大きいのは無理だけどよ」
「せ、千吉さん……」
「安心しろよ天井ナメのおじさん、えぇ? 俺が天井ナメ冥利に尽きる天井を作ってやるから。他の材料だなんだはアテがあるから心配するな。あと先に言っとくが、銭だ見返りだはいらねぇ。他の人間と同様、お前ら妖怪を追い出すことに変わりはねぇからなぁ、罪滅ぼしってことでタダでいい。どうでぇ、それでいいか? いいな? 天井ナメのおじさんもそれで文句ねぇな?」
「せ、千吉さん…………………… ハァーン!」
「だから泣くなってぇんだよ! まぁいい、よし、そうと決まったら善は急げだ。明日っから動き始めんぞ! 俺も便利屋の仕事を始めちまったら、時間がねぇからな」
それからというもの、千吉と妖怪たちは大忙し。昼の内は屋敷の中で、妖怪屋敷の部品を作り、夜になったら他の人間たちに見つからないよう『行ったっきりの森』へと運び入れる。これを休まず毎日続けるのだからどっと疲れが押し寄せる。しかしながら、新しい妖怪屋敷のことを考えると、妖怪たちの疲れは不思議と取れた。また千吉は、雨降り小僧の冷たく澄んだ雨の水浴びで、日々の疲れを癒やし、希望に満ち溢れた妖怪たちを見ているだけで、活力が湧いてきた。
大八車を引き始めてからたったの二十日後、行ったきりの森の奥で、千吉と妖怪たちが飲めや歌えの大騒ぎをしていた。どんちゃん騒ぎの理由は一つ。妖怪屋敷が完成したからである。
「千ちゃん! 食べてるだか!」
「おう、酒を呑まねぇ分、たっぷり食べてるぜ!」
「うまいだか!」
「おう、美味い刺身だ! どうでぇ天井下がりちゃんよ、美味い刺身だろ?」
「えぇ、もう、美味しゅうございます! 天井ナメさん、天ぷらの方はどうです?」
「おいしいねぇ! オラが食った中で一番おいしぃ天ぷらだよ。まぁこれが二度目の天ぷらなんだけどねぇ。垢ナメどん、豆腐はどうだい?」
「美味いですよ! 大豆の甘さと香りが広がって、豆腐ナメになりたいくらいですよ! 千吉さん、本当にありがとうございます」
「なに、大したことはしてぇねぇよ。この料理だって金は俺が持ってるが、用意してくだすったのは、俺が前に住んでた長屋の大家さんだからなぁ。ねぇ大家さん」
千吉の目線の先に、化け草履に酌をしてもらう大家の姿があった。
「え、えぇ、まぁねぇ…… おっとっと、ば、化け草履さん、お酌をどうも……」
「大家さん、どうです酒の味は?」
「うん、美味しいと思うよ」
「なんですか、その思うよってのは」
「呑んでるんだけどねぇ、どうも、よ、妖怪さんに合うのが初めてなものでね…… き、緊張しちゃって味がわからないんだよ」
「なんでぇ、そういうことでしたか。でも心配いりませんよ、そのうち慣れますから」
「いやいや、馴れ合いはあまり良いものじゃ、な、ないからねぇ」
「千ちゃん!」
「ん、どうした?」
「おかしらさんが、そろそろ帰るって言ってるき、どうすっぺかな?」
「頭がぁ? 帰る?」
右を見た千吉の目線の先に、数匹の妖怪に取り囲まれながら煮物をつつく、大工の頭の姿があった。
「頭、どうしたんです?」
「どうしたもこうしたもねぇや、どうにかならねぇのかコイツら! 食おうが呑もうが、妖怪が気になって味が分かりゃしねぇ。せめてこの足元にいるバカでけぇ三匹の猫をどうにかしてくれよ」
「どうにかしてくれって、猫なりの感謝の気持ちの表れってやつですからねぇ。そうなんだろ雨ちゃん?」
「んだよ。おかしらどんにありがとうって言いながら体をこすりつけてるだよ、その化け猫三兄弟は」
「そう言われてもなぁ…… それじゃ雨降り小僧ちゃん、黙ったまま俺の左腕に抱きついてるすまし顔のやつは……」
「おかしらどん、それは油すましだで、口はきけるだよ」
「なんでぇ、喋れるのか? おい、お前は何だって俺の腕に抱きついていやがんでぇ」
「…………あぶら下さい」
「おぅ千吉。こいつは別に感謝してねぇぞ?」
「照れ隠しですよ」
「照れ隠しであぶら下さいって……」
「とにかく、妖怪たちも頭には感謝してることは間違いねぇんですから。屋敷の材料になった廃材を用意してくれただけじゃなく、いろいろと作業も手伝ってく‥」
「そりゃ千吉、お前は腕の良い大工だがよ、他の連中は素人だろ? 妖怪だろうがなんだろうが見ちゃいられなかっ…… なんだよ猫ども? ゴロゴロ言いやがって! チキショウ可愛いじゃねぇか! 撫でまくってやらぁ!」
なんだかんだ楽しく騒いでいた宴会もそろそろお開き。帰り支度を済ませた千吉は、酔って眠ってしまった大家を背負いながら妖怪たちに別れの挨拶を始めた。
「まぁ、なんでぇ、色々と苦労してきたお前たちもようやく落ちつけるってわけだ。我ながら良い妖怪屋敷を建てたと思ってる。大事にしてくれっつーか、まぁ垢でもペロペロとやってくれよ垢ナメちゃん」
「はい!」
「そういやあれだろ、たまには人里に来て、戒めのためにペロペロやるんだろ?」
「はい。ここにいます何匹かの妖怪は、たまにではありますが人里で一仕事します」
「じゃあ、そん時にでも俺の屋敷に顔を出してくれよ。ただ天井下がりちゃん、今度はぶつからねぇでくれよ?」
「承知いたしております。日々『下がり』の稽古を続けていきたいと思っております」
「おう。気合い入れて頑張りな! それじゃ雨ちゃん」
「んだ。オイラ千ちゃんにあえてよかっただよ。千ちゃんのこと好いとーよ」
「ありがとよ。あとこれ、雨ちゃんが好きな煎餅だ。食ってくんな」
「こんなにいっぱいいいだか?」
「構わねぇよ。無くなっちまったら、俺の屋敷まで来な。またやるからよ」
「千ちゃん、ありがどう」
「へへっ、気にすんない。よし、そいじゃ俺らは行くぜ」
「千ちゃん、もう暗いだでオイラの提灯さ持っでげ」
「そりゃいけねぇよ、雨ちゃんの大事なもんなんだろ?」
「かまへんよ。ヨイッとやればもう一つの提灯出せるだで」
「そうかい、それじゃありがたく貰っていくぜ。それじゃ、みんな達者でな!」
妖怪たちに見送られ、千吉たち三人は町に向かって歩き始めた。
「頭、離れねぇでくださいよ? この森は複雑で迷いやすいんですから」
「へぇへぇ。にしても、本当に妖怪がいるとはなぁ。五日前、初めて会ったときからどうも信じらんねぇんだよ、てめぇの目がよ。まぁ、大工から便利屋になった奴が『妖怪を助けてやりてぇから手を貸してくだせぇ』と俺んとこに来た人間の神経が一番信じられねぇけどな」
「へぇ、物好きな奴もいたもんでぇ」
「お前の話だバカ野郎! 威勢が良すぎておかしくなっちまったかと思ったんだぞ!」
「でけぇ声を出さな…… あぁ、大家さん起きちまった」
「あ…… あれ、寝ちゃってたかい?」
「えぇ。気持ちよさそうに寝てたんで起こすのもどうかと思いましてね」
「それで、おぶってくれたのかい。恥ずかしいねぇ、どうも。千吉つぁんありがとう、もう自分の足で歩くからいいよ」
「そうですか。そいじゃ……」
「はいどうも。それでお頭さん、何の話をしていたんです?」
「いやぁ、妖怪を助ける千吉は物好きだって話ですよ」
「確かにそうですねぇ。まぁでも、千吉つぁんらしいといえばらしいですよ」
「言われてみりゃそうかもしれませんねぇ。にしても千吉よ、どうして助けてやったんだ?」
「どうしてもなにも、相変わらずのあれです。相手がしてきた苦労が手に取るよう分かるってやつですよ。あいつら、口じゃ住処を追い出されたなんて簡単に言ってますが、酷い目に遭わされてるんですよ。大家さん、垢ナメの体を見て気付きませんでしたか?」
「垢ナメちゃんの体ねぇ、魚の鱗のような感じだったと思うけど……」
「確かに鱗のように見えましたが、あらぁ古傷ですよ」
「古傷?」
「殴られたり、石を投げられたり、刃物で切りつけられたにちげぇねぇ。相手が妖怪とはいえ、ひでぇ事する奴もいたもんですよ。あいつらだって妖怪になりたくて生まれてきたわけじゃねぇ。けど妖怪として生きていくしかねぇ。あいつらなりに真っ直ぐ生きていただけで、酷い目に遭わされて、逃げる生活をしなきゃならねぇなんてのは、こらぁおかしな話ですよ」
「そうだねぇ、運が悪かったじゃ片付けられない話だ……」
「ただあいつらは、そこで腐らなかった。有名な化け狸に教えを請おうってんで、あの松屋敷に来たんですよ。散々酷い目に遭わせてきた人間たちの事も考えて、森に住めれば一番良いとまで考えていたんですよ」
「健気な妖怪だねぇ。まぁ、さっきの宴会でもそれは伝わってきたけど。ねぇお頭さん」
「そうですねぇ。一緒にいるってぇと、こっちが自然と笑っちまうような、愛嬌のあるやつらでしたねぇ」
「頭に大家さん。あっしはねぇ、あの妖怪たちに教えられた気がするんですよ。結局、あっしも真面目だ男だ言って、どうしようもねぇバカどもを張り倒してきましたが、それはあの妖怪たちを酷い目に遭わせた奴らと変わりゃしねぇんです。てめぇの正義だけ貫いていたって、なにも変わりゃしねぇ。相手のことを思って引っ叩くのと、てめぇが苛ついたから引っ叩くのじゃあ意味がまるで違う。だからあっしは町に戻ったら働いて働いて、妖怪の為に使っちまった全財産をためなおして、あの屋敷を直して、あっしが張り倒してきたどうしようもねぇ奴らだとか、不幸にあってその日暮らしがやっとの人間を便利屋で雇おうと思うんですよ。問題ってのは根っこ引っこ抜かなきゃ解決しませんからねぇ」
「はぁ、やっぱり千吉つぁんは大した人だよ! あたしにもねぇ、何か出来ることがあったら遠慮しないで言っておくれ!」
「ありがとうございます大家さん」
「千吉、俺も大家さんと同じ考えでぇ」
「頭……」
「ただよ千吉」
「なんです?」
「お前、全財産使ったのか?」
「へへへっ、いくらか残ると思ったんですがねぇ、スッカラカンですよ。当分、松屋敷の庭のシソとノビルでしのがにゃいけねぇんですよ。ったく、妖怪助けも楽じゃねぇや」
それから町に戻った千吉は、自分の言った通りに働き、金を貯め、便利屋で人を雇っていった。人通りのまるで無かった禍々通りも、繁盛した便利屋のおかげで、少しずつ人で賑わい、新しい長屋と商店が並ぶほどにまでなった。鬼の千吉などと呼ばれていた千吉も、今となっては『松屋敷の千吉生き仏』と呼ばれるまでになった。
そして長らく独りだった千吉、遂に嫁をもらう事となった。相手はたまたま町ですれ違った娘さんで名前をお文といった。千吉同様、幼い時分に苦労を重ねた人で、相手の苦労が手に取るように分かる娘だった。そんなお文と千吉がばったりと出会ったものだから正に青天の霹靂。「なんでぇ雷か?」と町行く人が空を見上げたほど。
「いやぁ、あの千吉つぁんが遂にお嫁さんをもらうとはねぇ。お頭さんも考えていなかったんじゃないですか?」
「そりゃ大家さん、あの千吉ですよ? 考えもしねぇですよそらぁ」
「でも嬉しいねぇ。千吉つぁんのような真面目な人が、ようやく、こう、なんと言いますかねぇ、幸せのなれるというのは」
「確かにそうなんですがね、その幸せになる千吉の野郎はどこに行ったんです?」
「また煎餅を縁側に置きに行ったんですよ」
「まだやってんですか? あれから一度たりとも顔を見せない妖怪たちの為にですか?」
そう、妖怪屋敷から帰ってきてからというもの、妖怪たちは一度も千吉の屋敷には訪れなかった。何かあったんじゃないかと、千吉は何度か森へ足を運んだが、どれだけいっても森の入口に戻ってきてしまい、妖怪たちの安否は確認することができなかった。それでも千吉は、いつか雨降り小僧が煎餅を取りに来るんじゃないかと用意していたのだった。
「はぁ、なんでぇ、雨ちゃん今日も来ねぇのか。今日は俺のめでたい日だから来てくれると思ったんだけどなぁ。……まぁ、頼りがねぇのは元気な証拠って言うからなぁ」
「おーい! 千吉つぁん! 早くしないよ!」
「へい、なんです?」
「なんですじゃあないよ。花嫁行列がそろそろ来る頃だよ!」
「えっ、もうですか! そいじゃ………… ふぅ、頭、まだ行列は来てませんか?」
「おっ千吉、今な、通りの入口に行列の先頭が見えてらぁ」
「ふぅ、丁度いいくらいだな。それにしても、こんなに派手にやりやがって……」
「そりゃ盛大に祝ってやりたいんだろうよ。みろ、禍々通りに溢れてんのは、みんなお前に世話になった奴らだぞ? 禍々通りが賑々通りになってんだぞ?」
「そりゃ気持ちは嬉しいですけどねぇ、小っ恥ずかしいんですよ。あっしとお文で考えてたのは、もっとこう、静かで厳かな……」
「いいじゃやねぇか、一度っきりの嫁入り。一度っきりの花嫁行列なんだからよぉ。てめぇなにか? 何度もやるつもりか?」
「んな訳ねぇでしょ、このあっしが!」
「だったらいいじゃねぇか、えぇ。ほら、近づいてきたぞ、きれいな花嫁さんがぁ! よっ、待ってましたぁ! ほら大家さん、来ましたぜ」
「いやぁ、千吉つぁんには勿体無いと言いたいとこだけどねぇ、お似合いの二人になるねぇこれは。待ってましたよぉ! お姫様!」
「いい歳したジジイどもが大声だしやがってもう……」
「照れてねぇで、道の真ん中に堂々と立ってろい!」
「立ってるでしょうが! まったく、歳を取ってくと…… 口やか…… ましく……」
千吉は雲一つ無い、どこまでも澄んだ青い空を不思議そうに見上げた。すると、どこからともなく降ってきたきれいな雨粒が、一つ二つと千吉の頬に当たり始めた。
「…………雨? 天気雨? 雲一つねぇってのに? もしかして…… 雨ちゃんか?」
千吉のところへだけ降る優しい雨は、千吉の頬を十分に濡らすと、やがて静かに止んだ。
「おい、千吉! なに空見てやがんだ!」
「千吉つぁん! お文さん目の前だよ!」
「えっ! あぁ、お文ちゃん……」
「あら、千吉さん、泣いてるの?」
「こ、こりゃ別の涙なんでぇ…… ただ、今お文ちゃんのこと見たら、これまた別の嬉し涙が、あの、涙が………………ハァーン!」
「千吉の野郎、泣いてやがんの!」
「無理もないよ、お頭さん」
お文に涙を拭ってもらう千吉を見て、笑う一匹と、涙ぐむ一匹の姿が屋敷の屋根にあった。
「なぁ垢ナメどん、千ちゃん、お姫さんばもらっただか?」
「そ、そうだよ。千吉さんは、あのお姫様と幸せに生きていく、いくんだよ」
「はぁ、それにしでも可愛らしいお姫さんだなぁ。妖怪屋敷のみんなに言っだら、びっくらこくでよ」
「ダメだよ雨ちゃん。そんなこと言ったら、会いに来るのを我慢してる皆が、我慢できなくなっちゃうでしょ? 千吉さんに頼りっぱなしじゃいけない、心配を掛けてもいけない。千吉さんへの恩返しは、私たちが妖怪として生き続けることなんだから」
「そうだったなぁ。だがら千ちゃん来た時も道に迷わしただもな。だけんども垢ナメどん、今日はみんなの代わりで来たんだで、屋敷にけぇったら、どげんやったって聞いてくるじゃろ? なんて言えばいいだに?」
「なんて言えばいいかって? そうだねぇ…… うーん…… そしたら雨ちゃん、その和傘を深くかぶってこう言うんだよ」
「なんて言うだ?」
「夜目遠目笠の内ってね」